和菓子街道 東海道 宮

miya-main-pic.jpg

宿場町、門前町、
   そして城下町・名古屋への表口として顔を持つ宮宿

 中部地方の一大都市、名古屋。その中心地は今は栄辺りだが、昔はむしろ、お城に近い栄以上に、東海道は宮宿のあった熱田の方が賑わいを見せていたと言われている。桑名へと渡る七里(約27km)の渡し付近には旅籠が250軒も軒を連ね、遊廓や水茶屋、料理屋、芝居小屋、寄席なども多く、昼間から三味線や長唄が聞こえてくるような宮宿は、東海道随一の賑わいを誇った宿場町だった。渡し場の跡の「宮の渡し公園」には常夜燈や時の鐘が再建されている。

宮宿の宮とは、この地に鎮座する熱田神宮のこと。三種の神器のひとつ「草薙の剣」を御神体とする、伊勢神宮に次ぐ格式のある社だ。門前には茶店や土産物屋、料理屋などがひしめいていたという。その内の一軒に、「きよめ茶屋」という店がかつては神宮の境内にあった。天明5年頃に設けられたという茶屋で、神前に向かう前に人々はここで見繕いをし、姿を清めたという。

 明治以降に衰退したが、戦後に地元有志によって復興されたというきよめ茶屋も、今では跡形もなくなってしまった。このきよめ茶屋に因んで作られたのが、きよめ餅総本家(熱田区神宮3-7-21、電話:052-681-6161)の「きよめ餅」(5個入り525円~)である。もち米と白玉粉で作った柔らかな皮で漉し餡を包んだ餅で、現在の名古屋銘菓のひとつだ。

 少々話は逸れるが、きよめ餅総本家では、古来、熱田神宮に伝わる神饌菓子の「藤団子」(5房り1050円~)も再現して販売している。五穀豊穣や厄除けを願った藤団子は紫、白、紅、黄、緑に染め分けた寒梅粉をそれぞれ輪にし、麻紐で結んだ菓子だ。柚子の香がほのかに口中に広がる雅な干菓子で、お茶席などでも好んで利用されている。

 名前の由来はその独特な形状が藤の花房に似ているからとも、平安時代に熱田神宮の大宮司を勤めた藤原氏に因んだとも言われているが、かつては「十団子」と書いたとの説もあり、確かなことは分かっていない。十団子といえば鞠子の先の宇津之谷峠の十団子を思い浮かべる向きも多いかと思うが、熱田神宮によると、それとは全く関係ないものだという。きよめ餅総本家ではこの十団子を毎月15日のみ予約で店頭販売している(注文量が多ければそれ以外の日でも可能)。

 ちなみに藤団子は、旧東海道沿いの亀屋芳広(昭和24年創業)など、他の菓子屋で販売している。ただし、店によって製法も味も異なっている。いずれも幻だった熱田神宮の神饌菓子を各店風に再現したものである。(右のお菓子の写真はクリックすると大きくなります)

 さて、宮の次はいよいよ三重県の桑名だ。今でも人数が揃えば観光用の貸切船で桑名まで海路をゆくこともできるが、陸路で進むには佐屋路を経て国道1号線か23号線を歩くことになる(電車という画期的な方法も、もちろんある)。

hiroshige-miya.jpg

kiyomemochi-shop.jpgきよめ餅総本家
kiyomemochi.jpg「きよめ餅」
toudango.JPG「藤団子」

kasadera-milestone.jpg

kasadera-kannon.jpg
tokaido-kamakurado.jpg

tokaido-establishment-memorial.jpg
yamazaki-hill.jpg

saidan-bridge.jpg
tenmacho.jpg

3streets-junction.jpg
houroku-jizo.jpg

miya-hour-bell.jpg
atsutajingu-torii.jpg

atsutajingu.jpg

その他のおいしい立ち寄り情報

あつた蓬莱軒
  料理: ひつまぶし(2730円~)他
  住所: 愛知県名古屋市熱田区神戸町503
  電話: 052-671-8686
  営業時間: 11:30~14:00、16:30~20:30
  定休日: 月曜日
  URL: http://www.houraiken.com

 てんむすに味噌カツ、きしめん、味噌煮込みうどん、あんかけパスタならまだしも、更に最近では餡入り赤飯おにぎりなど、他ではちょっと見かけない変わったB級グルメがなぜか多い名古屋。東京や大阪に比べ、人の出入りが少なく、独特の文化が形成された影響が食にも出ていると言われている。賛否両論の名古屋グルメだが、どの地方の人が食べてもまず間違いなく「おいしい!」と言うのが「ひつまぶし」だ。

 一膳目にはご飯に刻んだ鰻の蒲焼をのせたものをそのまま頂き、二膳目にはそこに薬味をのせて、三膳目にはお出汁をかけて茶漬け風に、と一食で三通りの味が楽しめるというもので、今ではすっかり全国的にも有名になっている。そのひつまぶしを最初に考案したのが、熱田神宮にほど近い「蓬莱軒」だ。

 元々は吉田(豊橋)の出自という鈴木家が、熱田の神戸町に越して来て、遊廓だったという一軒家を買い取って料亭を始めたのが明治6年(1873)。古くから栄えていた熱田は、海に近く風光明媚でもあったことから、蓬莱島とか蓬莱という別名で呼ばれることもあり、それに因んで「蓬莱軒」の店名をつけた。当初は鰻専門ではなく、割烹料亭だったという蓬莱軒でひつまぶしが考案されたのは明治末期、二代目甚三郎の頃のことだ。

 割烹として、近隣のお茶屋などへの仕出しも行っていた蓬莱軒では、料理を届けた翌日に店の者が器を下げに行っていた。ところが、店に戻ってくる頃には空いた茶碗は岡持の中でぶつかって壊れてしまう。なんとかならないものかと甚三郎が苦慮していると、仲居頭のお梅という女性が「割れない器にしてはどうか」と提言した。その言葉から思いついたのが、木でできた「櫃(ひつ)」だった。これがひつまぶしの「ひつ」である。

 さて、地元で水揚げされる海鮮中心の料理を出していた蓬莱軒だが、不漁が続くとその魚が入手できなくなるため、鳥や鰻などの料理もおしながきに加えてあった。その中でも、近隣でとれる天然鰻の長焼きが評判で、店内はもちろん、仕出しでの注文も多かった。蓬莱軒では、関東の蒲焼のようにさばいた鰻を適当な長さに切って焼くのではなく、さばいただけで長いままの鰻を4尾ずつ、5本の金串を打って焼く。それをその長さのままで、大きな櫃に入れた5、6人分のご飯の上にのせて、特大のうな丼のようにして出し、給仕係が客の前で人数分の茶碗に取り分けていた。

 ところが、その方法だと最後の人の茶碗に入る鰻が少なくなるとの苦情が頻繁に出るようになってしまった。そこで再び、お梅さんが「鰻を切って入れてはどうか」と思いつく。長い上等の鰻を細切れにしてしまってはもったいないと、当初は大反対だった甚三郎だが、客のためということもあり、お梅さんの提案を受け入れて刻んだ鰻をお櫃のご飯の上に入れることになった。

 刻んだ鰻をご飯に盛ることで満遍なく鰻が行き届くため、この方が旨いと客の間で評判になった。名古屋人は茶漬け好きが多いらしく、最初は普通に食べ、二度目は薬味、三度目には茶漬けにするという食べ方も人気を呼んだ。これが明治末期のことで、今のひつまぶしの始まりである。

 しかし、ひつまぶしが蓬莱軒の看板料理になるまでには、まだもう少し時間がかかった。昭和の戦争が始まる頃には、派手な飲み食いや宴会騒ぎなどを禁止する命令が政府から出され、熱田の料理屋もほとんど休業や廃業の憂き目を見ることになった。そんな中でも、唯一営業を許されていたのが、蓬莱軒である。熱田の浜から出航する軍船も多く、位の高い将校などが利用できるような料理屋がせめて1軒だけでも必要ということで、蓬莱軒が残されたのだ。

 しかしそれもつかの間。昭和20年3月12日、名古屋に空襲があり、熱田の杜も焼け野原になった時のこと。蓬莱軒も例外ではなく、建物もろとお、ひつまぶしの櫃も全て焼失してしまった。しかし、幸いにも鰻の蒲焼の命とも言える「テリ」(タレ)や釜などは疎開させてあったため、翌昭和21年12月には再び店を開業することができたという。

 蓬莱軒の辛い時代はここでは終わらない。戦後数年経っても庶民の暮らしは一向に良くならず、そんな時代に派手に飲み、ご馳走を食べることなどはまかり通らぬとして、政府は割烹料亭の営業を停止せよとの命を下す。仕方なく店を畳んだ蓬莱軒は、地元企業に店舗を貸して、その一方で熱田神宮の境内にあった市営住宅の一軒を借りて、新たに食堂風の店を設けることにした。この店は後に神宮に土地を返すことになった際に閉店し、その後、今もある南門前に新たに店を設けることになるのだが。

 時代が変わって時勢も安定してきた頃、企業に貸してあった元の店を再開させたのは昭和35年。「蓬莱陣屋」としての再出発だ。戦国時代、織田信長が熱田に陣を張って桶狭間の戦いに挑んだというこの地の歴史に因んで、「陣屋」と称している。本店であるこの蓬莱陣屋は四代目女将の鈴木せき子さん(平成16年現在85歳)、支店の熱田神宮南門店は五代目女将の詔子さんが中心になってきり盛りしている。

 数々の苦難を乗り越えて130年の暖簾を守り続けてきた蓬莱軒だが、ひつまぶしが今のように全国的に知られるようになったのは、昭和50年から60年にかけてのグルメブームの頃。雑誌やテレビで盛んにとりあげられて、遠方から足を運ぶ客も一気に増えた。他にもメニューのある蓬莱軒だが、今では客の大半が注文するのがひつまぶしだ。

 今でこそ名古屋のみならず各地に「ひつまぶし」を名物とする店が増えているが、実はひつまぶしは蓬莱軒の商標登録商品。しかし、そんな法的問題に関係なく、全国のファンに支えられているのが蓬莱軒の強みである。なにせここには、戦火の中、疎開させてまで守ったテリがある。醤油と特別な砂糖を丁寧に煮詰めて、明治の頃から継ぎ足してきたテリには、鰻の脂はもとより、歴史という他では真似できないエッセンスが入っているのだ。

 焼き方も昔と変わることなく、蒸しを入れずに炭火で長いままの鰻に串を打って焼き上げる。四国産の堅くて手触りの良いトチノキをくり抜いた小ぶりのお櫃に、一人前一合二勺のご飯を盛り、鰻一尾半分の刻んだ蒲焼を敷きつめる。蓬莱軒では当初、海苔を薬味としていたが、試行錯誤の上、今では海苔に加えてあさつきと山葵も添えるようになった。今では各地で食べられるようになり、レトルト食品にまでなっているというひつまぶしだが、宮宿に着いたら是非、明治以降の熱田の歴史の味がする本物をご賞味頂きたい。


名古屋栄の鰻専門店「いば昇」が明治末期に考案したとの説もある。

houraiken.jpg

houraiken-hitsumabushi.jpg(料理の写真をクリックすると大きくなります)