和菓子街道 東海道 岡崎

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家康公のお膝元・岡崎宿は味噌蔵の街

 東海道38番目の宿場町、岡崎。その歴史は古く、蘇我氏との対立の末敗れた物部守屋の次男・真福が、推古天皇2年(594) に聖徳太子の許しを得て建立したと伝わる三河最古の寺・真福寺もこの岡崎にある。

 しかし、それ以上にこの地を有名にしているのが、天下の徳川初代将軍・家康公の存在である。家康出生の城として、また、家康の居城として知られる岡崎城は、現在は天守閣が復元され、資料館となっている。

 この家康お膝元の岡崎は、家康が浜松に拠点を移した後に、秀吉の家臣である田中吉政によって城下町として整備された。その後、城下町に二十七曲りの道筋を敷いて防衛を計った上で東海道を通したことにより、結果として岡崎は府中や宮宿と並ぶ賑やかな宿場町へと発展していった。最盛期には本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒を数えた巨大宿である。

 岡崎宿の中心は伝馬町に置かれ、現在でもこの辺りには、薬屋「大黒屋」や紙屋「糸惣」、菓子屋「備前屋」など、江戸時代から続く老舗が多く残っている。

 岡崎城を遠巻きにぐるりと囲むように旧東海道を行くと、千本格子や中二階のある仕舞屋風の家がところどころに残っており、華やいでいた頃を残り香を感じることができる。

 愛知環状鉄道中岡崎駅の脇を通過すると、宿場町以前の岡崎の中心であった八帖町に出る。八帖町の名産と言えば、今や全国区の知名度を誇る八丁味噌だ。

 蒸した丸大豆を一塊に丸めて味噌玉を作り、発酵させて豆麹にし、塩水で仕込むこと3年。樽の中で天然熟成させることで、色、香り、味ともに濃厚な辛口の赤味噌ができあがる。この独特な豆味噌は、家康をはじめとする三河武士が兵糧として持ち歩いたことでも知られている。

 八帖町に差し掛かると、味噌の香ばしい香りが漂ってくる。江戸時代から続く老舗味噌屋の蔵が建ち並ぶ、趣のある通りである。工場や資料館の見学も可能で、売店では味噌はもちろん、八丁味噌アイスクリームなども購入することができる。

 カクキュー…八帖町字往環通69、電話:0564-21-1355
 まるや…八帖町往還通52、電話:0564-22-0222

 八帖町の先には、矢作橋(矢矧之橋)。広重の浮世絵にも描かれた橋で、日吉丸(後の豊臣秀吉)がこの橋の下に茣蓙を敷いて寝ていたところに蜂須賀小六が通りかかり、運命的な出逢いを果たしたという逸話が残されている。

 橋の袂にはふたりの銅像も建てられているが、ふたりが出逢った頃には、実際には矢作川に橋はかかっていなかった。最初に矢作橋が土橋としてかけられたのは、秀吉の死後3年経ってからの慶長6年(1601)である。

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 ・備前屋「あわ雪」他

     岡崎宿名物「あわ雪」は豆腐か菓子か? → click!

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その他のおいしい立ち寄り情報

旭軒元直
  菓子: 大樹寺松風 (1棹525円)、阿わ雪 (1棹525円)
       八丁みそまんじゅう (1個84円~)、みそだる最中 (5個入り525円~)他
  住所: 愛知県岡崎市康生通東1-2
  電話: 0564-22-0414
  営業時間: 9:00~19:30 (火曜日のみ~18:00)
  定休日: なし
  URL: http://www.asahiken.co.jp/

 岡崎宿の二十七曲がりのうち、9番目の曲がり角から10番目の曲がり角までの道筋を連尺通という。その連尺通より2、3筋南に下った通りが康生通だ。徳川家康がこの岡崎で生を受けたことからその名がつけられたことを物語る康生町(岡崎城付近)へと通じる通りで、活気のある商店街になっている。この康生通に店を構えるのが、明治36年(1903)創業の菓子屋、旭軒元直だ。

 三年仕込みの八丁味噌を使用した味噌樽型の「みそだる最中」や八丁みそまんじゅうなど、岡崎名産の八丁味噌を使った菓子が人気の旭軒だが、中でも「大樹寺松風」は評判が高い。松風とは、芥子の実を表面に散らした味噌風味の和風カステラで、その元祖は京都・西本願寺前の亀屋陸奥であるとされている菓子だ。

 天下統一を目指す織田信長は、元亀元年(1570)から11年の長きに渡って、目の上の瘤であった石山本願寺との攻防を繰り返した。その際、1421年(応永28)創業の亀屋陸奥の三代目当主の大塚治右衛門春近が、兵糧として石山本願寺に献上したのが松風と言われている。

 京都の松風には白味噌が使われているが、岡崎の松風に使われているのはもちろん八丁味噌。そして、岡崎の松風の物語にも、またしても信長が登場するのである。

 物語の舞台は岡崎にある大樹寺。家康の祖父である松平清康が天文4年(1535)に再興し、松平家(徳川家の祖)の菩提寺とされた名刹だ。

 桶狭間合戦で今川義元が倒れたことを知り身の危険を感じた家康(当時は松平元康)は、大高城(現名古屋市緑区)から大樹寺へ逃れ、先祖の墓前で自害しようとする。しかし、住職の登誉上人に「厭離穢土 欣求浄土」(戦国乱世を住みよい浄土にするのが汝の役目である)と訓し、家康は思いとどまることになる。この八文字をもって家康は、生涯の座右の銘としたという。

 この時、家康を追う織田方の雑兵が大樹寺を囲んだが、70人力の怪力を持つ寺僧の祖洞和尚が門の閂(かんぬき)を振り回して敵を追い払った。後に家康は、命を救ってくれたこの閂を「貫木神」として祀り、570石を与えている(祖洞和尚の処遇は??)。この閂は今でも大樹寺に安置さている。

 この一連の出来事を大樹寺陣というが、家康が大樹寺に逃げ帰った折に寺で出されたのが、小麦粉に甘味をつけて焼いた菓子だった。焼け目のついた表面はごつごつと粗く、裏を返すと焼き型から剥がれた生地肌が美しく平らなことから、家康はこの菓子を「松風」と名付けたという。

 旭軒元直では、初代の頃からこの逸話に因んで松風を製している(「大樹寺松風」の名は近年になってつけられた)。自害を決意していた当時19歳の家康が菓子を口にし、風雅な名前をつけたというのが実話かどうかは定かではないが、歴史の街・岡崎ならではの銘菓誕生物語である。それにしても、京都でも岡崎でも、松風誕生の裏に信長との攻防が語られているところが興味深い。

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asahiken-awayuki.JPG「阿わ雪」も人気
asahiken-higashi.JPG旭軒元直の干菓子いろいろ

近江屋本舗
  菓子: おひろい (白餡、小豆餡 各1個100円)、薄皮饅頭(1個90円)
       チーズ利休(1個110円)、夢大福(各1個125円)、かぼちゃ君(1個90円)他
  住所: 愛知県岡崎市矢作町加護畑107
  電話: 0564-31-3350
  営業時間: 9:00~22:00
  定休日: 火曜日
  URL: http://www.jcsi.co.jp/jcs/oomiya/

 矢作橋を西へ渡り、旧道に入ってすぐのところにある近江屋。岡崎産の石を贅沢に使った重厚な造りの店構えは比較的新しく感じられるが、明治44年(1911)の創業当時から変わらず、旧東海道沿いのこの場所で商いを続けている老舗和菓子屋だ。当初は利休饅頭や薄皮饅頭などの一般的な菓子を製する菓子屋だったが、三代目に当たる現当主の黒田絋右さんの代になって、店頭に並ぶ菓子も随分変わったようだ。

 黒田さんのお得意は、変りだねのお菓子。洋菓子店での修行経験を生かして、洋風の素材を取り入れた和洋折衷菓子を多く考案するのだ。普通の利休饅頭もあるが、その横にはチーズ入りの「チーズ利休」があるし、更にその隣には真っ黒な「竹墨饅頭」もある。とにかく、普通じゃイヤ!といった探究心が、ひしひしと伝わってくる菓子ばかりなのだ。

 そして、これまでに考案してきた数々の折衷菓子の中でも、若い女性の間で特に人気が高いのが、「夢大福」シリーズだ。イチゴや抹茶、ティラミス味などのふわふわムースを、柔らかい求肥で包んだ小粒の生菓子で、中のムースも外の求肥も、口に含むとしゅわっと溶けてしまうほど柔らか。

 全ては口溶けのため。「とにかく柔らかく、しっとりと」をモットーに作っているそう。あっという間に溶けてしまうので、まるで一瞬の夢のよう。その夢は甘く、また見たいと思って、もうひとつ、とついつい手が伸びてしまうのだ。バリエーションは豊富で、季節によってネタも変わるし、ムースの代わりに生チョコレートを求肥で包んだ「チョコ夢」も評判がいい。(「チョコ夢」は夏は販売しない)。

 また、皮にも餡にもかぼちゃを使ったオレンジ色の蒸し饅頭も子供に大人気。子供の頃からこれを食べて育って、大人になって進学や仕事で岡崎を離れてからも「かぼちゃ君」を忘れられず、わざわざ取り寄せているという熱烈なファンもいるのだとか。「かぼちゃ君」、かなりモテるらしい。

 旅先なので生菓子を持ち帰るのは大変、という人には、「おひろい」がお薦め。小麦粉を使った薄く柔らかな生地に、白餡または小豆の粒餡を挟んだ合わせ菓子で、小豆の方は生地にシナモンをきかせてある。「おひろい」は御所言葉で「歩く」という意味。つまり、「味の散歩」をイメージした菓子なのだそう。街道散歩にはぴったりのお菓子だ。

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oumiya-usukawa.jpg「薄皮饅頭」 oumiya-cheese.jpg「チーズ利休」
oumiya-takesumi.jpg「竹墨饅頭」 oumiya-ohiroi.jpg「おひろい」
oumiya-kabochakun.jpg「かぼちゃ君」 oumiya-yumedaifuku.jpg「夢大福」(手前から苺、抹茶、ホワイトチョコ、ティラミス)

八千代本店
  料理: なめし田楽定食(1300円)他
  住所: 愛知県岡崎市康生町561-1 (岡崎公園内)
  電話: 0564-22-0267
  営業時間: 12:00~20:00 (LO18:30)
  定休日: 火曜日 (祝日の場合は営業)

 岡崎名物と言えば、何をおいても八丁味噌。その八丁味噌を活かした料理を食べられる店が、岡崎城址の岡崎公園内にある。岡崎城と空堀を挟んで北西側、二の丸能楽堂のすぐ近くにある「八千代本店」だ。

 明治時代の創業という八千代の看板料理は、八丁味噌を使った菜めし田楽。水切りをしない柔らかな木綿豆腐は、注文が入ってから味噌を塗って炭火でじっくりと焼き上げる。

 味噌はもちろん、豆に麹を直につけて3年間熟成させて作る本物の八丁味噌。独特な風味を持つ味の濃い味噌を、独自の調味料を加えて時間をかけて丁寧に練り上げ、ツヤのある滑らかな味噌ダレに仕上げてある。コクのある味噌は香ばしく焼け、あっさりとした瑞々しい豆腐によく合う。これに、木の芽があしらわれている。

 八千代の田楽には、菜っ葉を乾燥させてたふりかけ状のものをご飯に散らした菜めしと、吸い物が添えられる。大根や蕪の葉を茹でて細かく刻み、炊いた米と混ぜる菜めしが一般的だが、ふりかけ状の菜めしというのがちょっと珍しい。

 もっとも、市販の「菜めしふりかけ」愛用家には問題なくおいしく頂ける(八千代のふりかけはもちろん市販品ではなく、自家製フレークです)。この他、八丁味噌をふんだんに使った懐石料理(7000円~、要予約)などもある。

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大正庵釜春本店
  料理: 釜揚げうどん(730円)、特上天婦羅釜揚げうどん(1930円)他
  住所: 愛知県岡崎市中岡崎町6-9
  電話: 0564-21-0517
  営業時間: 11:00~22:00
  定休日: 水曜不定休

 うどんと言えば讃岐に稲庭、五島、はたまた水沢か。いずれも名だたる麺聖地と言えるが、実はここ岡崎にも、「釜揚げうどん」の元祖を名乗る店がある。

 うどんそのものは奈良時代に中国から伝わり、現在のような形になったのは室町の頃と言われている。また、日本におけるうどん発祥の地は博多であるとか、弘法大師が中国から持ち帰り、讃岐に広めたとの説もある。

 江戸時代にはうどんの屋台も登場し、早くから庶民の食べ物として親しまれていたうどんだが、その種類も様々だ。名古屋のきしめんのように幅広のものもあれば稲庭のように細く平らなものもあるし、讃岐のようにしこしこつるつるのものがあれば、伊勢のように至極柔らかなものもあり、ご当地うどんは日本各地に見られる。

 種類の多いうどんだが、ぶっかけ、煮かけ、釜玉と、食べ方も多様だ。その中でも、釜揚げうどんとは、蕎麦のように水で締めることをせず、茹で湯にそのまま入れて出すうどんのことで、温かいつゆにつけて食べるのが一般だ。水で締めることによってうどんの食感は引き締まって良くなるものの、表面のぬめり気と共に味も落ちてしまう。うどん本来の味を楽しむことができるのが釜揚げ、というわけだ。

 そんな釜揚げうどんを最初に考案したのが、岡崎の八丁味噌蔵通りにもほど近い愛知環状線中岡崎駅/名鉄本線岡崎公園前駅の前にある「大正庵釜春本店」の二代目だと言われている。

 現在は五代目という大正庵の創業は明治時代。当初は太田屋の屋号で出発したという。当時どのような料理を出していたかは定かではないが、その頃はまだ、うどん専門店ではなかったようだ。それでもなかなか商売は繁盛していたようで、二代目当主は忙しさのあまり食事をする時間もなく、厨房で仕事をしながら傍らでうどんを茹でてそのまま釜からとってつゆにつけて食べていたという。その様子を見て、店の者もみな真似するようになった。これが、釜揚げうどんの誕生である。

 当時は、茹であがったうどんを一度水にさらして締め、温め直して食べるというのがうどんの「正しい食べ方」とされていた。ところが、ともするとお行儀の悪い(失礼!)二代目当主の食べ方が「正しい食べ方」よりもむしろおいしかった。そこで、「これなら客に出せる」と思い立ち、茹で加減や提供の仕方を考え抜いて現在の釜揚げうどんに辿り着いたのだという。釜揚げという言葉は、釜からうどんを箸でとって、そのまま直接つゆにつける様子が、油で揚げた天ぷらを天つゆにつけて食べる様子に似ていることからつけられたのだとか。

 元祖の名の通り、最初は全てが手探りだったという釜揚げうどん黎明期。麺やつゆに使う素材も、仕入れ業者共々、試行錯誤を繰り返した。うどんを入れて出す器にもこだわった。日本橋の漆器屋に特注した漆塗りの重厚な桶は、うどんの器としては桁外れなほど高価なものだった。

 そんなわけで誕生した釜揚げうどんだが、当初はあまり積極的に売り出してはいなかったという。釜揚げうどんはいかなる時でも生麺から茹でたものでなければその味が出ないという信念があったが、その一方でまだうどん専門店ではなかった太田屋(大正時代に大正庵と改名)で常に最高の状態の釜揚げうどんを提供するには、時間も費用もかかりすぎてしまったのだ。更に、昭和に入ってからは一番人気の料理が「ラーメン」だったこともあり、なかなかうどんを前面に打ち出すことができなかったようだ。

 しかし、せっかく生み出した釜揚げうどんを日陰においたままではもったいないと、意を決したのが昭和47年。うどん専門店「大正庵釜春本店」として再出発を果たし、現在に至っている。

 大正庵の釜揚げうどんは、考案当初と変わることなく手打ちにこだわっており、店内でうどんを打つ様子を見ることもできる。少々柔らかめではあるが、釜揚げにはこれが一番合う。毎朝、店主自ら鰹節数十種類からその日の分を作っているというつゆは、香りが高く、醤油がきいてはいるものの温かさもあってまろやかだ。これに、ミニチュア桶にたっぷり入れて添えられる青ネギを入れて、あつあつのうどんをつけて頂く。

 それにしてもこの釜揚げうどん、とにかく長い!箸で手繰り寄せ、手繰り寄せして食べようとするも、うどんの重みで箸を持つ手が痛くなるほどだ。途中でしくじって桶にうどんを落とそうものなら、湯がはねて甚だ熱い。

 そして、量も多い!食べても食べても桶の底が見えてこない。熱い、重い、手が痛い!なんでこんなに苦労してうどんを食べるのだ!?…と頭の中がパニック状態になりかけた頃。憔悴ぎみの私を見かねたのか、女将さんがつと寄って来て、教えてくれた。「お客様、実は当店のうどんには食べ方がありまして…」

 なんと!それを早く言って欲しいと思っていると、顔に出たのか、「お客様は随分熱心にメモをとられていらっしゃいましたので、お声をかけるのを控えていたのです」とのこと。うどんの熱さで赤くなっていた顔が、更に赤くなる。

 して、その食べ方というのは。通常、箸で食べ物を切る際には、箸一膳を片手で操って挟むようにして切るものだが、大正庵では桶の厚みのある縁に切りたい部分を当てて、箸で上から押しつぶして切るのだ。そうすることによって、長い長いと文句を言わずとも、好きな長さに自分で調整することができる。

 更に、一般のつけ麺は猪口を左手に持ち、右手に持った箸で麺をとって猪口のつゆにつけて食べるが(左利きの人は左右逆)、桶の真横に猪口をぴったりとくっつけ、桶からずるずるとうどんを引きずり出して猪口に入れ込むのが大正庵流。これなら、箸で手繰って持ち上げる手間はないし、途中でうどんを落として熱い湯が飛び跳ねることもない。

 「あまりお上品ではありませんが、こうして頂くと上手に食べられますよ」と女将さん。確かに合理的ではある。苦労が減って、うどんを口に運ぶペースもぐんと速くなり、そこで初めてうどんの味を楽しむ余裕ができた。恐るべきは元祖釜揚げうどん。初心者はまず、店の人の説明を受けるのが賢明であると思い知らされた。鬼の形相でうどんに取り組んでいた私に声をかけて下さるだけの勇気ある女将さんに感謝である。

 なぜ岡崎が釜揚げうどん発祥の地になったのか。偶然生まれたと言えば偶然ではあるが、考えてみれば愛知という地は蕎麦よりもうどん文化圏である。池鯉鮒の先の芋川(現在の今川。一説には今岡とも)は、東海道一という麺を製する立場だったという。『東海道名所記』や十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にもその評判が記されている。この芋川のうどんは平たいうどんで、これが後に江戸に伝わって「ひもかわうどん」(紐川うどん。通常の角うどんに対し、平打ちの紐のように乾したうどん)となったと考えられている。

 大正庵のうどんは紐川ではないが、磐石なうどん文化が育ったこの地方だからこそ、うどんのおいしい食し方が確立したのではなかろうか。などと言うと、大袈裟かもしれないが。

釜揚げうどんの発祥地は宮崎県との説もある。宮崎は知る人ぞ知るうどん大国で、飲んだ後の締めはラーメンや蕎麦ではなく、うどん(それも釜揚げうどんが多いらしい)というのが宮崎流なのだとか(宮崎出身の友人による)。

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