和菓子街道 東海道 藤川

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紫の麦穂が揺れる藤川の宿

 赤坂宿を出て約9キロ、国道一号線と別れて左の細い道へ入るとすぐに、藤川宿の東棒鼻が姿を現す。棒鼻とは宿場の出入り口のことで、藤川の棒鼻は広重が描いたことで知られている。近年になって再現された棒鼻を見るとなぜか緊張して、ここから宿場に入るのだなと思わず襟を正した。

 東海道華やかなりし頃の面影をそこかしこに残す藤川の家並みを通り抜けて進む。町の中心辺りには、本陣跡、脇本陣跡をそれぞれ利用した資料館が設けられている。本陣跡は民家のようでも、集会場のようでもある平屋の建物で、中には宿場にちなんだ絵などが数点飾られている。本陣だったという名残は、建物裏の石垣にわずかながら見受けられる程度だ。

 一方、脇本陣はというと、立派な屋根のついた門が残されており、在りし日の風格を漂わせている。この門は享保4年(1719)の大火の跡に再建されたもので、歴史的にも重要な建造物である。館内には昔の藤川宿の様子がジオラマで再現されている。

 さて、藤川の名物と言えば、紫麦。その名の通り穂がむらさき色をした麦で、かつては藤川宿の名産だった。食用や染色用として使われ、芭蕉の句にも「ここも三河 むらさき麦のかきつばた」と詠まれている。

 いつの頃からか廃れてしまっていたが、平成6年(1994)にかつての名物として復活させたものが、東の棒鼻前と藤川小学校前で栽培されている。ちなみに、お味はそれほど良いとは言えないらしく、現在はもっぱら栽培用なのだとか。

 この紫麦が藤川の名の由来かと思いきや、そうではなかった。かつては宇治川という地名だったこの地は、藤の花が見事だったことから藤川と名が改められたと言われている。

 西の棒鼻を出て藤川の宿をあとにしてからは、大平で「大岡裁き」で有名な江戸町奉行・大岡越前守忠相が建てた大岡越前守陣屋跡(ただし忠相自身が住んだことはない)や、今も残る一里塚を見物して、岡崎を目指す。

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法蔵団子考


 赤坂宿を出てからは、旧道と国道一号線を縫い合わせるように進む。やがて、車通りの激しい国道沿いの歩道に復元された黒い冠木門が見えてくるが、この辺りが赤坂と次なる宿場の藤川の間の「間の宿(あいのしゅく)」、本宿だ。

 この地方の中心だった本宿には陣屋が置かれ、旅人にとっても足を休めて一息つける休憩場だった。特に法蔵寺の門前はちょっとした門前町として賑わいを見せていたようだ。法蔵寺は、かの家康公が幼少のころ頃を過ごした寺、また幕末の雄・近藤勇の首塚がある寺として知られている。

 かつての法蔵寺門前では、名産の藁で作った草履を法蔵寺で祈祷してもらったものが「法蔵寺草履」と称して売られており、旅の安全を願う旅人には評判が良かったという。ここで草履を履き替えて、気持ちも新たに旅を続けたのだろう。

 藁と共に本宿で有名だったのが麻で、麻袋を売る店が多かった。『東海道中膝栗毛』の中で弥次喜多も、「誓いとかけて 法蔵寺南無阿彌(なむあみ)袋は ここの名物」と戯歌を詠っている。

 そして何より、当サイトで放っておけないのが、やはり法蔵寺門前で売られていたという「法蔵寺団子」である。享和2年(1802)の『本宿村方明細書上帳』や嘉永2年(1949)の『三河聡視録本宿村記』などに、本宿辺りの名物として記されている法蔵寺団子だが、その由来ははっきりとしていない。

 地元の郷土史家である倉橋克典さんらによると、その昔、本宿のある人が駿河に出かけた折に、手土産として作っていった団子がたいそう喜ばれ、法蔵寺のある本宿から持って来てくれた団子ということで法蔵寺団子と名付けたのだという。

 味も香りも絶品と旅人の間で大層評判が良かった法蔵寺団子は近隣の茶店で売られていたが、法蔵寺の大祭日である4月9日~11日の3日間ともなると、近隣の家々でも作って売ったようだ。大祭前日の夜に米を石臼でひいて作った米粉を大きめの団子にし、太めの竹串に5つ刺して指で押して扁平にへこませ、火で炙ってたまり醤油を塗って味をつけたもので、炙り餅とも言われていた。

 昔は飛ぶように売れたという法蔵寺団子だが、街道が廃れるにしたがって下火になっていった。寺へ渡る橋の西側に、昭和初期まで法蔵寺団子を作っていたという店があったが、それも今はなくなってしまった。今では実際に食べた覚えがあるという人も少ないこの団子のことを考えていて、ふと亡くなった祖父のことを思い出した。

 生前の祖父はよく、甘辛いみたらし団子ではなく、醤油で焼いただけの団子を食べたがっていた。餅に醤油をつけて海苔で包んだ磯辺餅ならどこにでもあるし家庭でも簡単に作れるが、団子を醤油で焼いただけというものは案外見かけないものだ。滋賀県の草津郊外にある吉田玉栄堂の穴村くし団子は小指の先ほどの小粒団子扇状に束ねた細い串にさして焼き、醤油をつけたもので、これを買い求めた際に祖父に持って行ったことがあったが、祖父の反応は期待ほどではなかった。

 祖父が生まれ育ったのは御油で、赤坂、長沢、さらにその先の本宿の入り口辺りまでは子供の頃から徒歩でよくでかけたらしい。ひょっとしたら祖父が懐かしがっていたのは、法蔵寺団子ではなかったか。最近になって、こう思うようになった。法蔵寺団子は寺よりもう少し東辺り(より赤坂に近い方)で多く作られていたという。

 今では祖父に「法蔵寺団子って知ってる?」と訊くこともできないが、きっとそうに違いないと勝手に決めている。先日、既になくなってしまった法蔵寺団子と祖父を偲んで、法蔵寺団子の復元を試みてみた。

 前出の倉橋さんにお送り頂いた資料を参考にしたが、なにせ実物を見たことも味わったこともない。本当にこんなものだったのだろうか。きっとたまりは三河産の生だまり(きだまり)を使ったんだろうな。生きていたら祖父はどんな顔をしてこれを食べるのかな。そんな風に不安半分、期待半分で、醤油辛い団子を頬張った。



hozoji.JPG法蔵寺
kondoisami.jpg近藤勇の首塚
ieyasu-pine.JPG家康お手植えの御草紙掛松。04年夏には青々としていたが、翌夏にはこのように枯れていた。
hozojidango.JPG法蔵寺団子(我流復元)(お菓子の写真をクリックすると大きくなります)