和菓子街道 東海道 御油

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270本の松並木に往時の御油を偲ぶ

 現存する江戸時代の文献には「五井」「五位」「ごい」といった名前でも登場する東海道35番目の宿場町、御油。当初は次の赤坂宿と2宿で1宿のような扱いだった御油は、戸数や人口も極めて少ない小さな宿場だったようだ。

 しかし、少ない戸数の大半が旅籠だったこと、本陣が最も多い時には4軒もあったことなどから、庶民の旅人はもとより、大名諸侯も多く利用した重要な宿場だったことが窺える。吉田、岡崎というふたつの城下町が近隣にあるため、城下町に旅泊することを大名達が遠慮したのかもしれない。

 庶民にとっては、城下町よりも飯盛女が多かった御油・赤坂の方が泊まり易かったのだろう。ことに御油は、広重の保永堂(竹之内)版『東海道五拾三次之内 御油』に描かれているような「留女」による強引な客引きで有名だったようだ。それだけ、旅籠間でしのぎが削られていたいうことだろう。

 江戸時代には大変な賑わいを見せた御油も、明治期の国鉄誘致に猛反対をした末、衰退の憂き目を見ることになってしまう。かといって、現在、古い建造物などが多く残されているのかと問えばそうでもなく、現存する江戸時代の建物は2軒のみである。

 江戸時代から現在まで続いているという店もほとんど残っていないが、別格は安永元年(1772年)創業の「大津屋」、またの名を「イチビキ」という老舗醸造屋だ。今では名古屋に本拠を置く全国的にも名の通った味噌・醤油メーカーだが、発祥地である御油には今も大きな醸造蔵があり、支店として営業している。

 御油宿入り口(御油橋)の少し手前、東海道と姫街道(本坂道)の追分辺りでは甘酒ないしは白酒が名物だったというが、今では売る家は残っていない。時折、曲がってみせる狭い道路だけが、なんとなく在りし日を感じさせてくれるだけだ。

 そんな御油で今も昔と変わらぬ姿を保っているのが、宿場町の西の外れから赤坂宿の入り口までの600メートルの間に続く松並木だ。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中で、弥次さん喜多さんが狐に化かされたの化かされないので大騒ぎをした名舞台である。

 御油宿の成立から遅れること3年、慶長9年(1604)から同11年(1606)の間に推定650本ほどの三河黒松が植えられた。これがこの有名な「御油の松並木」の始まりだ。以来、松並木は手入れと補植が繰り返され、宿駅制度が廃止となってからも地元の人々によって大切に守られてきた。第二次世界大戦末期においても、町民の働きかけによって文部省(当時)から国の天然記念物の指定を受け、松根油の採集を免れている。

 現在は271本(平成15年現在)にまで減少したものの、背の高い古木が街道を覆い、心地よい木陰を作ってくれている。ただし、歩道がないので実際に歩く際にはご注意を。狐こそ出ないが、国道一号線の裏通りとしてなかなか交通量の多い危険な道なのだ。

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お詫び

これまで、このページ内に『3つの「山田屋」を巡って…』 という文章を掲載しておりましたが、事実誤認であるため、削除させて頂きました。
詳細は、山田屋さまのホームページをご参照下さい。

http://www.goyu.net/messge.html

『和菓子街道』の記事により、山田屋さまやご関係者の方に多大なるご迷惑をおかけしましたことを、心より深くお詫び申し上げます。