和菓子街道 東海道 府中1

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徳川家に縁深い府中は、今も活気溢れる大都市

 江尻から草薙を経て府中へ行く道は、ほぼ真っ直ぐ。駿河の都として発展した府中には、今川時代、武田時代を経て、天正10年(1582)に徳川家康が駿府城を築城。以後、城下町としての機能を果たすようになる。駿府城址は今では広い公園になっており、お堀や復元された櫓などが徳川時代の栄華を密やかに伝えている。

 もちろん、府中は宿場町でもあった。城下町として形成された町の中を、東海道は綴れ折のように幾度も方位を変えながら進んでいく。宿場の中心部は繁華街になっており、石畳が敷き詰められて小綺麗に整備された通り沿いには新旧様々な店が建ち並んでいる。

 石畳といっても、江戸時代の街道の石畳というよりヨーロッパのそれ。旧東海道の一部がシネマ通りと呼ばれているなど、パリかローマでも意識したような街造りになっている。街をそぞろ歩く若い人の姿が多いのも、最近の地方都市としては珍しいくらいの活気を感じさせる。服装こそ違えども、江戸の昔もきっとこんな風に賑やかだったのだろうと思わせる。

 賑やかな通りを抜けると、「新通り」に入る。ここより少し南の駒形辺りは、かつては遊郭が建ち並んでいた。家康が駿府入りしたばかりの頃、民にはまだ戦国名残の荒々しい気性が残っており、市中の喧嘩が絶えなかった。そのため家康は、人心を和らげる目的で遊郭を作らせたのだとか。また、安倍川上流の金山で働く坑夫たちにとっても、この歓楽街が慰安の場になっていたという。

 今の政治家がそんなものを作ったら、「地方の箱もの」どころの騒ぎではなくなること必須。何より、御婦人連が黙っちゃいないだろう。そんな府中の歓楽街も、昭和30年代まではかろうじて一部が残っていたが、今は跡形もなく、静かな裏通りの様相を呈している。

 道幅こそそこそこ広く、裏道を抜けようとする車もたびたび往来する新通りだが、静かな空気の流れている。それでも、どこか生活感はあり、商店も途切れることなく続いているあたり、やはりここは天下の大道・東海道なのだと感じさせる。

 やがて道は、安倍川手前で交通量の多い通りと合流。旧東海道の北側を走るこの広い通りは「本通り」と呼ばれ、その名の通り、いわゆる旧東海道(新通り)より以前に東海道として利用されていた道だ。このふたつの道は、府中宿の真ん中の札の辻で分岐して、宿場外れで再び出逢うのだ。

 名物の安倍川餅を売る茶店を冷やかしながら行くと、安倍川橋に差し掛かる。橋の手前には「安倍川の義夫の顕彰碑」がある。時は元分3年(1738)の夏。安倍川の渡し場で旅人の落とした大金の入った財布を拾った人夫がいた。川原町川越の彦衛門の息子で、喜兵衛という男だ。

 財布がなくては難儀をするだろうと、喜兵衛は落とし主を探し、宇津の谷峠辺りでようやく追いつくと、旅人に財布を渡した。紀州に帰る途中だった旅人は、財布がなくて困っていたため、大いに喜んで礼金を渡そうとした。ところが、喜兵衛は「落とし主に返すのは当たり前」と、それを受け取らない。そこで旅人が駿府町奉行所にことの経緯を話したところ、町奉行は喜兵衛の清廉潔白に感心して褒美をとらせたという。

 いい話を聞いてほっとしたところで、駿州の都ともお別れ。現在は渡船ではなく安倍川橋を渡って向こう岸へ。上流にダムがあるため水はほとんどなく、橋を渡らずとも川の中を歩いて行けそうにも見えるが、良い子はそんなことはしない。この先は一路、鞠子宿目指して進む。

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fuchu-in-old-book.jpg天明年(1786)頃に作成された高力猿猴庵編『東街便覧図略』の内、「府中」。 (名古屋市博物館蔵)(絵図はクリックすると大きくなります)

 ・石部屋 「安倍川餅」

    家康が食べた安倍川餅は甘くなかった? → click!

 ・増田屋 「柚子香」他

    和菓子の美学を教えてくれた手作り最中 → click!

 ・馬場製菓 「茶飴」他

    老舗飴屋七代目のチャレンジ → click!

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その他のおいしい立ち寄り情報

松柏堂本店
  菓子: あべ川もち・ミニ(漉し餡/粒餡1個ときな粉2個入1パック130円~)
       あべ川もち・大(漉し餡/粒餡/抹茶餡2個ときな粉4個入1パック210円~)
       慶応最中(1個100円)、上生菓子(各1個210円)他
  住所: 静岡県静岡市鷹匠2-3-7
  電話: 054-252-0095
  営業時間: 9:00~19:00
  定休日: 月曜日

 府中宿内、五差路になっている江川町の交差点で、東海道なら呉服町のある南方面に曲がるが、それとは反対の北に向かって曲がると、駿府城東の鷹匠に出る。商店街になっている広い通りをしばらくゆくと、右手に「あべ川もち」と書かれた赤い大きな看板を掲げた店が現れる。

 松柏堂本店の創業は江戸末期も末期の慶応3年(1867)。以来140年余り、駿府城東のこの地で菓子屋を営み続けている。

「慶応3年ですから、ほとんど明治ですよね。おそらく、新しい時代の風が吹き始めて、お城周辺のこの辺りの事情も色々と様変わりした頃にこの場所を得て店を開いたんじゃないでしょうか」

 そうしみじみと話すのは、店番をしていた女性。店の五代目当主である杉山孝俊さんの義妹に当たる方だ。

「40年ほど前に私がこのうちにお嫁に来た時には、周りの人から“豆大福の有名なお店に嫁がれたんですね”と言われたものですよ」

 昔の松柏堂は大福餅やらお団子やらを売る下町の和菓子屋さん、といった感じだったそう。今でも季節によって豆大福を作るが、広々とした店内には贈答菓子や土産菓子が豊富に取り揃えてあり、下町の、というよりもうワンランク上の菓子屋である。この本店以外にも数店舗支店を有するというから、数十年の間に市内でも有数の大きな菓子屋へと成長したようだ(ただし、「松柏堂本店」までが店名のため、支店も「本店」となっている)。

 看板菓子は、店頭に看板のある「あべ川もち」や葵の御紋を模った「慶応最中」、駿府城址にある紅葉山公園のお茶席にも出している栗入り上用饅頭「紅葉山饅頭」など。

 松柏堂であべ川もちを始めたのは店番の女性が嫁いできてからというから、40年より最近のことらしい。安倍川のほとりの安倍川餅の老舗・石部屋などでは、餅にきな粉をかけ、その上に更に砂糖がかけられているが、松柏堂のあべ川もちは全く逆。餅に蜜を搗き込んであるため餅そのものが甘い。それを直系2センチほどの小口に切り分け、砂糖の入っていないきな粉がまぶしてある。好みできな粉に砂糖を加えるように、個別包装したきな粉と砂糖が別途、箱に入れてある。

 また、あんこ餅の方はというと、同じく甘い餅だが、きな粉餅の倍ほどの大きさで、面長に丸めてある。餡は小豆の漉し餡、粒餡(潰し餡、というべきか)、抹茶餡の3種類。抹茶が変り種だが、甘い中にもほんのりと茶の渋みがあり、風味豊かだ。いずれも餅そのものに甘みがつけてあるため、そのうえに更に餡が重なって非常に甘いあんこ餅になっており、濃いお茶によく合う。餅に蜜を入れて搗いているため、日持ちもよく10日ほどは柔らかいままだから、お土産にもしやすい。

 あべ川もちと慶応最中を包んでもらっている間に、広い店内をふらふらと歩いて他の商品を見ていたら、小さなケースに入った上生菓子が目に留まった。季節感のある菓子たちはどれも可愛らしく、それらも包んでもらうようお願いした。作っているのは、松柏堂で50年以上菓子作りをしているというベテラン職人さん。

「職人さんもそろそろリタイヤを考えていらっしゃるようですが、ここの店の跡取りが帰ってこないことには、ね」

 その跡取りさん、つまり未来の六代目は現在、神饌菓子「清浄歓喜団」で有名な京都の亀屋清永で修行中(2007年現在)。製菓学校を卒業後、しばらく東京の菓子屋で修行したが、それでも足りないと自身で感じ、京都の名店に入門したのだとか。京都の有名どころとなるとなかなか入れてもらえないものだが、松柏堂の息子と名乗らずとも入れたのは、一重に腕を見込まれてのことだったそう。

 五代目はもちろん、叔母である店番の女性やベテラン職人さんも、みんなこの未来の六代目の帰りを首を長くして待っている様子だ。京菓子が松柏堂の新しい顔になる日も、そう遠くはなさそうだ。

(お菓子の写真をクリックすると大きくなります)

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葵煎餅本家
  菓子: 葵煎餅、瓦せんべい(各1枚263円~)他
  住所: 静岡県静岡市馬場町20
  電話: 054-252-6260
  営業時間: 9:00~20:00(水曜日は~17:30)
  定休日: なし
  URL: http://www.aoisenbei.com/

 駿府城址の西辺り、大通りから北西に向かって斜めに入る浅間通りは、その先にある浅間神社へと続く門前町として古くから発展した町だ。大きな朱塗りの鳥居を過ぎると、下町情緒漂う商店街になっている。この商店街の一角に店を構える葵煎餅本家は、創業明治2年(1869)の老舗煎餅屋だ。

 明治維新直後のこの時期に「葵」という名がつけられたのかと思いきや、そうではなかった。伊勢桑名の出身で、江戸時代には将軍家から貿易を許された御朱印船仲間のひとりだった初代の兼吉は、現在地よりもっと西の葵町で「桑名屋」という屋号の煎餅屋を開いた。兼吉の焼く煎餅は、さとうきびを煮込んで作る赤砂糖(“しろした”)や卵などを混ぜた生地を、鉄の型に入れて炭火で焼くというもので、この作り方の基本は、130余年経った今もほぼ同様だ。

 その後、二代目・竹次郎を経て、大正末期から昭和初期の頃、桑名屋に大きな転機が訪れる。長男はそのまま桑名屋の屋号を引き継ぎ、次男だった貞一が現在地である浅間通りに「駿府屋」という店を新たに出した。

 桑名屋の方は現在も静岡駅南口の「カクゼン桑名屋」(駿河区森下町1-39、電話:054-285-7668)として残っており、こちらの名物は「8の字」。卵・砂糖・小麦粉・膨張材で作る軽い口当たりの和風クッキー(京都・総本家河道屋の蕎麦ほうるのような感じ)で、知る人ぞ知る静岡名物だ。元は眼鏡を模ったらしいが(つまり00)、数字の8と勘違いされることが多く、いつの間にか8の字の名で呼ばれるようになったのだとか。

 一方、貞一は、駿府屋の名物となる菓子を作るべく日夜研究した。そして辿り着いたのが、駿府縁の徳川家の葵の御紋だった。実は貞一には、徳川家に対する特別な思い入れがあった。貞一の妻の父が、家康を祀る久能山東照宮の神官であったため、貞一も久能山会の一員として徳川家のお歴々が静岡を訪れるごとに駅まで出向いて挨拶をしていたのだ。

 そんなわけで、徳川家に因んだ煎餅をと、葵の御紋を模った煎餅を考案したというわけ。ほんのり味噌味をきかせた葵煎餅は、色もつややかで香ばしく、上々のできばえ。せっかく良い煎餅ができたからと、貞一は早速お礼の意味も込めて久能山に葵煎餅を奉納した。

 ところが久能山側はこれを見て、無許可で勝手に作ったと、一言を呈してきた。慌てた貞一は「家康をはじめとする徳川家をPRしたい」との趣旨を伝えて懇願。義父のとりなしもあって、ようやく久能山からの承認を得ることができたという。

 以来、葵煎餅は駿府屋の代名詞となり、後には店名も葵煎餅本家に変えるまでとなった。しかし、貞一はこれだけでは飽き足りなかったのか、天皇家の菊の御紋を模った煎餅まで作ってしまった。残念ながら、昭和初期という時代に、これはあまりにも畏れ多いということで特高警察から目をつけられ、警察にしょっ引かれる騒ぎにまでなってしまったとか。無事に解放されたのは良かったものの、その後、菊の御紋の煎餅の復活はなかったそうな。

 戦時中は一時休業していたものの、戦後に店を再開。景気の上昇と共に店も軌道に乗り、店内の煎餅焼き場ではまかないきれなくなったため、工場を設けて一部機械化を導入した。四代目の讃司の頃だ。もっとも、機械化といっても主要な部分は昔と同じ。葵煎餅のような大判の煎餅は、焼きあげてすぐのまだ熱いうちに木型にとって丸みをつけている。これも、手作業でなければできない仕事である。

 現在、この伝統と共に初代以来の味を受け継いでいるのは、五代目の海野和弘さんだ。葵煎餅はほどよい甘さと香ばしさで、卵煎餅ならではのコクもある。何より、府中土産にはぴったりのモチーフではないか。

 なお、葵煎餅本家では、葵の御紋の代わりに自分の好きな図案の焼印を押したオリジナル瓦煎餅も作ってくれる。自分の家の家紋でもよいし、似顔絵でも、自作のイラストでもなんでもあり。1カ月半前までの予約で、費用は通常の瓦煎餅代+2万円前後(一度焼印を作ってしまえばその後は煎餅の値段だけで何度でも注文できる)。東海道踏破記念に何か残したいという人には、この手もありなのでは?

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kuwanaya-machinoji.JPG桑名屋の「8の字」

aoi-sembei.JPG(お菓子の写真はクリックすると大きくなります)

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松木屋
  菓子: 兎もち(105円)他
  住所: 静岡県静岡市鷹匠3-1-7
  電話: 054-252-1704
  営業時間: 9:00~18:30
  定休日: 水曜日

 静岡鉄道の線路と着かず離れず歩みを進め、草薙、県立美術館前、県総合運動場前と各駅を過ぎ、後久川を渡ってしばらくゆくと、古庄という地域に差し掛かる。その先右手には静鉄の古庄駅があるが、この辺りは昔、古庄村と呼ばれたところで、「うさぎ餅」なる餅菓子が名物として売られていたという。

 うさぎ餅とはなんとも可愛らしい響きの名だ。薄皮の餅に小豆餡を包んで満月の焼印をついたもので、この餅菓子を売っていた茶屋の店先で飼っていた兎が菓名の由来になったという。このうさぎ餅を一躍有名にしたのが、文化文政の頃に活躍した狂歌師・大田蜀山人(南畝)が詠んだ〈耳長ふ聞き伝えきし 兎餅 月もよいから あがれ名物〉の歌だった。

 月が昇り始めたよ、餅の搗き具合もよいからさあ召し上がれ、といった意味で、「聞き伝えきし」というくらいだから、蜀山人が出逢った頃にはうさぎ餅は既にそこそこ有名だったのかもしれない。蜀山人といえば日本で一番最初にコーヒーを飲んだと伝えられる粋人。そんな蜀山人が歌に詠んで宣伝してくれたお陰で、うさぎ餅は東海道は古庄名物として更に広く知られるようになったのだという。

 古庄には昭和45年頃までうさぎ餅の店があったというが、経営者の前島家が店を畳むと、うさぎ餅の製法は知人の吉田家に伝えられる。更にその後、今川時代(~永禄11年/1568)からの菓子屋だった扇子屋に伝授されるも、扇子屋も遂に閉店。しばらくの間、うさぎ餅は世から姿を消すことになってしまう。

 しかし、うさぎ餅は密かに眠っていた。伊勢丹の懐で。扇子屋の廃業と同時にうさぎ餅の販売権を得たのが、市内の百貨店・伊勢丹だったのだ。近年になって伊勢丹が明治43年(1910)創業の松木屋にうさぎ餅を託し、これによってうさぎ餅は見事復活を果たしたのだった。作り手は変わってきたが、東海道の名物を絶やさぬようにというひとつの思いが、うさぎ餅を今日まで生かしてきたというわけだ。松木屋でも現在、三代目から四代目へとうさぎ餅作りが継承されているところである。

 松木屋のうさぎ餅は、満月様の丸の中に兎という図案の焼印を押したもの。兎は「うさちゃん」と呼びたくなるような可愛らしい姿だ。松木屋に伝わる以前に使われていた昔の焼印は、左の写真のように満月の中で餅搗きをする兎の図案だったようだ。しかし、複雑な型であるため、現在は簡易バージョンとでも言うべきシンプルな型を使っている。大きさは今は掌に丁度収まるくらいだが、昔はもっとずっと大きかったのでは、と松木屋三代目のご主人がおっしゃっていた。

 羽二重餅で漉し餡を包んだうさぎ餅。食べてしまうのがかわいそうなくらい愛郷たっぷりの表情だが、ぱくりといくと、餅は柔らかくよく伸び、焼印の焦げ目がちょっぴり香ばしい。さっぱりとした甘みの餡が厚めの餅皮と丁度良いバランスを保っている。元々、松木屋は大福餅が評判の店で、その他にも豆餅や豆大福など、餅菓子にすこぶる強い。だから、うさぎ餅が松木屋の元へとやってきたのも、必然だったのかもしれない。松木屋は街道からちょっと外れた駿府城址の東にあるが(松柏堂の少し先)、かつての街道名物を求めて店を訪れて頂きたいものである(駅ビルでも買えるけれど…)。

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matsukiya-usagimochi.JPG(お菓子の写真はクリックすると大きくなります)

usagimochi-old-stamp.JPG昔使われていた兎もちの焼印

橋本屋
  菓子: 安倍川餅(きな粉4個・餡4個で一皿400円)
       土産用(きな粉8個・餡8個で一箱800円~)他
  住所: 静岡市葵区弥勒2-4-10
  電話: 054-254-0856
  営業時間: 6:00~17:30頃(売切れ次第閉店)
  定休日: 不定休

 府中宿の出外れ、安倍川。この辺りの名物は昔から、言わずと知れた安倍川餅だ。現在では橋に向かって道路の左側に3軒、安倍川餅の店が並んでいるが、その中でも最も橋に近いのが、創業は明治36年(1903)という橋本屋だ。

 名前の通り、昔は橋の袂にあったため、この店名がついたという。最近まで橋に最も近い店としてあったコンビニは現在なくなり、テナント募集中になっているが、元はこの元コンビニの土地も橋本屋の敷地だったようだ。

 こじんまりとした店の中には、ビニールのテーブルクロスがかけられた小さなテーブルがひとつと、それを囲んで椅子が4脚。壁一面に、広重の『東海道五十三次』の絵が飾られている。注文するのはもちろん、安倍川餅だ。

 「ちょっと待っててね」そう言っておばちゃんは一旦、台所というべきか作業場というべきか判然としない小さな部屋に入り、またすぐに出てきた。「安倍川餅を作る間に、これ食べてて」と、先ほどまで作っていたらしい「鹿の子」をひとつ、私の前に置いてくれた。大きな鹿の子はとびっきり甘くて、これひとつで充分、というほど。なんとも気前のいいおばちゃんだ。

 橋本屋は、このおばちゃんで三代目。二代目にあたる旦那さんは早くに亡くなり、以来、おばちゃんひとりで日々、安倍川餅作りをしている。「私ひとりでやってるから、お休みの日も気まぐれ。朝起きて雨がふってたら、店を開けないこともあるしね(笑)」とおばちゃん。初めて会ったとは思えないほど、打ち解けた人だ。

 橋本屋はとにかく朝が早い。6時から既に店を開いている。4時には起きだして、餡を炊いたり餅を搗いたりといった作業を始める。たくさん注文がある日や、始発で静岡を発ちたいから朝早くに店に寄って安倍川餅を取りに来たいという人がいる日には、まだ夜中とも言うべき2時に起きるのだそう。「大変って言えば大変だけど、家で商売ができるっていうのはありがたいことだね。まさか安倍川餅屋の嫁になるとは思ってなかったけど、亡くなったおじいさんおばあさん(旦那さんのご両親、初代)には感謝してるよ」

 安倍川餅の店というより、橋本屋はどちらかというと朝生の店、というべきかもしれない。安倍川餅がもちろん主力ではあるが、そのほかにも、先ほどの鹿の子や柏餅、鶯餅なども毎朝作っている。「作っても作っても、すく足りなくなっちゃうの」とおばちゃん。

 そんな話をするうちに、頼んだ安倍川餅ができあがった。鹿の子にも驚いたけれど、安倍川餅にもまた驚いた。なんというか、でかい。きな粉と砂糖をかけた餅(正式にはきな粉餅=安倍川餅)が4つと、赤ちゃんのゲンコツみたいなあんこ玉が4つ、皿に乗っている。ごろんとしたあんこ玉の方は、あと一歩でおはぎ、といったところだ。

 自家製の小豆餡は粒がまだらに残る潰し餡。割ってみると、餅より餡の方が多いようだ。しかも、この餡がまた甘い。この餡が好きという人が多いらしく、それで安倍川餅以外にもこの餡を使った朝生が「すぐなくなっちゃう」ほど売れるのだろう。

 鹿の子と安倍川餅でお腹がぽんぽこりんになってしまったので、そろそろお暇しようかと思ったら、「ねえ、これ持ってく?」と言って、おばちゃんは戸棚をさばくり始めた。店の壁一面に飾ってある広重の浮世絵だ。和紙に摺られたなかなか立派なもので、お店でもお土産として販売しているものだ。

 売り物を譲ってもらうわけにはいかない。固辞したが、「いいの、いいの」とおばちゃん。本当に、気前のいいおばちゃんである。こんなに気前がよくて大丈夫なの?と心配になってしまうくらい。

 でも、おばちゃんにとっては、客とのおしゃべりや交流がエネルギー源になっているようだ。結局、遠慮なく頂くことになった。亡くなったご主人の分まで頑張って、これからも元気で店を続けてね、おばちゃん。

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fuchu-hashimotoya-abekawamochi.JPG(お菓子の写真をクリックすると大きくなります)

高はし屋
  菓子: 花筏(ざらめ砂糖煎餅・1枚525円~)、秋の夜(刺身醤油仕込み・1枚420円~)、花鳥風月(ミックスあられ・368円/100g~)
       みゆき(砂糖衣つき丸煎餅・1枚70円~)、大のり(海苔巻き煎餅・1枚70円~)他
  住所: 静岡県静岡市葵区七間町14-1
  電話: 054-255-0123
  営業時間: 10:00~19:00
  定休日: 火曜日

 札の辻から南に向かって進む東海道は、七間町の交差点で大きな道路(362号)をまたぐことになるが、この交差点の角に一際目立つ煎餅屋がある。ビルの壁面には「創業90余年 高はし屋」の文字。店内にぎっしりと並べられた様々な煎餅に惹かれて暖簾をくぐってみたのだが、その暖簾には「創業100余年」とある。おそらく、節目ごとに暖簾を取り替えているのだろう。

 地元でも評判の高はし屋の創業は明治末期頃で、ご主人の柳澤良樹さんは三代目だという。創業以来、石釜に備長炭をくべて手焼きするという手法にこだわり続けている。高はし屋では、旧宮内庁御用達の千葉県産の多古米(うるち米)を自家製粉したものを煎餅類に使用。成形して乾燥させ、二年仕込みの醤油にくぐらせて炭火でじっくりと焼き上げる。自然に乾燥させた煎餅の表面には細かいひびが入り、そこから醤油がしっかりと沁み込んでいく。昔ながらの堅い煎餅は素朴で、余計な雑味もなく、醤油と米の味と香りを楽しむことができる。

 炭火で手焼きするため、焼きむらが生じ、1枚の煎餅のうちにも醤油の沁み方や焦げ方が異なり、そこがまた味わい深い。また、煎餅とひとくくりに言っても、ものによって醤油を使い分けるなどしている。例えば、人気の煎餅「秋の夜」では刺身醤油を用いているため、味に一層のコクがある。それぞれの煎餅にそれぞれの風味や食感があり、飽きがこない。

 あられ(おかき)は、富士山から流れ出る清らかな伏流水で育てられたもち米を搗いて餅にし、一旦のして丸2日間乾燥させてからあられ状に切って再び乾燥させる。その後、丸綱にあられを入れて窯に入れ、表面がぷっくりと膨れてきたところで一旦取り出して冷ます。再び窯に戻しては出して冷まし、また戻すという作業を6回も繰り返して初めて完成。

 あられが焼きあがるまで窯に放り込んでおいたままというのが一般的な機械による大量生産の方法なのだが、高はし屋独自のこの焼き方だと一粒一粒のあられが空気に触れる機会や面積が多くなり、充分に水分が抜けて芯まで火が通り、きりっと締まった食感になる。米の旨みが引き立ち、小気味良いざくざく感が生まれる。

 機械でざっと焼いてしまえば簡単にできる煎餅やあられ。それでも手間暇をいとわず昔ながらの製法にこだわり続けている高はし屋だからこそ、愛され、いつまでも残して欲しいと思わせる味を作り出すことができるのだろう。表の暖簾が今後も節目ごとに120年、130年とかけ替えられていきますように。

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takahashiya-arare.JPG(お菓子の写真はクリックすると大きくなります)