和菓子街道 東海道 平塚

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歴史舞台に散った女性達が眠る平塚宿

 藤沢宿から先、松並木の中を進むことしばし。かつては間の宿として賑わった茅ヶ崎を過ぎると、千川という川にさしかかる。川にかけられた鳥居戸橋の名の由来となっている鶴峯神社参道入り口の赤い鳥居は、橋を渡った先の右手にある。

 その向かい側、橋の左方には「南湖左富士の碑」が。東海道を西進すると、大抵は正面か右側に富士山が見えるものだが、方角の関係上、ここでは富士山が左に現れる。静岡は吉原の左富士と共に、貴重な景観が眺められる場所だ。

 馬入川とも呼ばれる相模川を渡ると平塚の街に入るが、平塚宿の入り口は、平塚駅より少し西に下った辺りにある江戸見附跡からとなる。復元された見附の石垣から上方見附跡までの約1.1キロが宿場町だった区間だ。

 江戸見附跡手前、平塚駅から西に伸びるアーケード街を歩いていると、ところどころに「落花生」を売る店を見かける。明治時代に中国から落花生が輸入されると、近郊の農家がいち早くその栽培をはじめ、平塚は全国的な落花生の産地になった。落花生に砂糖や味噌などで味付けした味付け落花生は、やはり明治期に始まった「たたみいわし」と共に平塚の特産品として知られるようになったのだ。

 ところで、平塚という地名は、ひとりの女性に由来すると言われている。平安時代、桓武天皇の曾孫で、坂東平氏の始祖である平真砂子が東国へ向かう途中、この地で没したため、一族が彼女の亡骸を葬り、塚を築いたことから平塚の地名が生まれたと言われている。当初は「たいらつか」と呼ばれていたのだが、いつの頃からか「ひらつか」との呼び名に変わったという。塚は今でも街道の西組問屋場跡から少し北に行ったところにある。

 女性にちなんだ地名を持つ平塚には、他にも歴史を通じて何人かの女性がその舞台に姿を現している。例えば、平塚の近くには、歌舞伎の演目『鏡山旧錦絵』に登場するあだ討ちのお初(たつ女)の墓がある。

 また、怪談『番町皿屋敷』の主人公であるお菊もこの地の出身。奉公先で家宝の皿を割ってしまったことで手打ちにされてしまったお菊の遺体は親元に戻され、故郷の平塚の地に葬られたと言われている。その墓は、JR平塚駅近くの小さな公園に今もひっそりと佇んでいる。

 更に、平塚と大磯の間にある化粧坂には、あだ討ち兄弟の曽我十郎と恋仲にあった遊女・虎御前が化粧をした井戸が残っている。

 花水川という美しい名の川の手前で平塚は終わり、大磯町へと入っていく。この辺りからは、広重の絵にも描かれた高麗山の美しい姿を望むことができる。前述の化粧坂を越えると、次の大磯宿は目の前だ。

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kiku's-grave.jpgお菊の墓

hira-tsuka.jpg平真砂子の塚跡(塚緑地)

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その他のおいしい立ち寄り情報

弘栄堂菓子舗
  菓子: 馬入力餅(15個入682円)
      ちょんまげ最中(粒餡・白餡各1個140円)他
  住所: 神奈川県平塚市榎木町9-45
  電話: 0463-21-2222
  営業時間: 8:30~19:00
  定休日: 水曜日(祝日・お盆・彼岸は除く)

 相模川を渡り切ってすぐ、昔は馬入村といったこの辺りで、旧東海道は橋から続く大通りから離れて左へ入る。その分岐点の反対側、つまり大通りの右手に弘栄堂という店がある。創業明治40年(1907)、現在は三代目と四代目が共に菓子作りをしているという、平塚の中でも最も古い和菓子屋の1軒だ。弘栄堂は創業当時は旧東海道沿いに面して建っていたが、現在では大通りに面して店舗を構えている。

 三代目の女将さんに、昭和27年(1952)に平塚が市制20周年記念行事を行った時の写真を見せて頂いた。「祝賀平塚市制二十周年」の看板を屋根に掲げ、いくつもの風船やリボンで飾った弘栄堂の前に、初代店主や親戚が整列して立っている写真だ。店は木造二階家で、なかなか大きな店だったようだ。この頃にはまだ、今のような広い道路はなく、店の前を行き交う人々もみな、歩きや自転車の人ばかりだったという。

 「今でこそ車の往来が激しいですが、昔はみんな歩いたり自転車に乗ったりして店の前を通っていました。そういう人たちが、ちょっと休憩がてら、うちに立ち寄って一服していかれたんですよ」
と、三代目のご主人。

 当時、弘栄堂に立ち寄る人々が楽しみにしていたのが「馬入力餅」だ。搗きたての餅に黒蜜をかけ、きな粉をまぶして食べるもので、初代の頃からの弘栄堂名物である。馬入力餅という名は、ご近所の蓮光寺境内にある「持ち上げ地蔵」に由来する。

 明治12年(1879)、妙運という僧が8万4000体の地蔵建立を発願し、建立開眼した地蔵は「うかがい地蔵」という名で各地に安置された。蓮光寺の地蔵もそのうちの一体で、心の中で願いを念じながら持ち上げて、軽く感じたら願いが叶い、重く感じたら叶わないという占い地蔵であることから、いつしか持ち上げ地蔵と呼ばれるようになった。

 餅を食べて力をつけてお地蔵さんを持ち上げれば軽く感じ、願いも叶う、という思いを込めて作られたのが、馬入力餅というわけだ。今でも毎朝搗いているという餅は程よい柔らかさで、絹のように滑らか。もち米のほのかな甘みがあり、そのままでも充分おいしい。もちろん、添加物の類は一切使用していないので、賞味期限はその日の内だ。

 「昔は近所の人たちが、皿やら丼やらを持って馬入力餅を買いにきたものですよ」
店の人がふたりがかりで、餅を丸めては黒蜜を絡め、きな粉をまぶしてお客さんの皿に入れていたという。それでは大変というわけで、今では持ち帰り用の折(黒蜜・きな粉入り)が用意されている。

 また、この馬入力餅と共に弘栄堂の名物菓子として親しまれているのが「ちょんまげ最中だ」だ。その昔、相模国府祭の夕方、相模一之宮の寒川神社の神輿をかつぐ若者たちと、平塚新宿八幡宮の神輿をかつぐ若者たちが、東海道を通って帰途につく途中、些細なことから諍いを起こした。口論はやがて大乱闘へと発展し、神輿は川に落ち流されてしまった。どちらの側にも怪我人がたくさん出たが一之宮の神輿に狼藉を働いたことはけしからぬとして、代官の江川太郎左衛門は馬入村の若者たち16人に死罪を言い渡した。

 ところが、処刑当日、代官が斬り落としを命じたのは16人の首ではなく、そのちょんまげだった。罪を憎んで人を憎まず。悔い改めている若者を殺してはならじと、髷を切ることによって斬首に代えたのだ。代官のこの情け深い処置に、死罪を免れた若者たちはもちろん、村人たちもみな、涙にかきくれたという。

 これは、文化2年(1805)か、あるいは天保2年(1831)の頃に実際に起こったできごとと言われており、前出の蓮光寺には今でも若者16人のちょんまげを埋めた丁髷塚が残されている。この故事に因んで三代目のご主人が考案したのが、ちょんまげ最中である。

 「以前はどこにでもある普通の最中を作っていたのですが、地元に関連したものを作ろうと考えていたところ、この故事を思い出したのです」

 刻み栗入りの粒餡と、白餡の2種類があり、角型の最中皮には「ちょんまげ」と「弘栄堂」の文字。当地に伝わるこの故事から学ぶことができる教訓を伝えてくれるこのお菓子には、地元を大切にする弘栄堂のご主人の気持ちも込められている。

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chonmage-monaka.JPG(お菓子の写真はクリックすると大きくなります)