和菓子街道 東海道 川崎

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六郷渡れば川崎、昔も今も変わらぬ繁華な街

 多摩川にかかる六郷橋を渡ると、そこは川崎の街。慶長5年(1600)に多摩川(当時は六郷川)に橋を架けられたが、度重なる洪水で破損し、遂には流されてしまったため、以降は渡船になった。武士などの公用旅行者は無賃だったが、一般庶民は渡船料を払って川を渡ったので、渡船権を得た川崎は次第に潤っていった。加えて、文化10年(1813)に厄年を迎えた11代将軍家斉が、川崎大師に参詣してからは、庶民の間で厄除け大師詣でが流行し、川崎は一層の賑わいを見せた。

 かつて、塩を煮る釜屋の煙がたなびいていた川崎の浜辺は、工業地帯となった今では、一時ほどではないが工場からの煙がたなびく景色に変わった。宿場周辺を取り囲んでいた田畑も、今は見る影もない。

六郷橋を渡ってすぐ、土手近くにはかつては万年屋、新田屋、会津屋、藤屋といった茶店が多く建ち並び、賑わっていた。中でも、新田屋のハゼ料理と万年屋の奈良茶飯が特に有名だった。

 元々、奈良の興福寺や東大寺で、煎じ茶で飯を炊いたのが始まりという奈良茶飯だが、江戸の頃には川崎のみならず各地に広く伝わっていたと考えられている。浅草観音門前の茶屋で供した奈良茶(茶飯、豆腐汁、小皿料理の一膳飯)も、明暦年間(1655~1658)に大流行したと言われている。当初は茶で炊いただけだった茶飯も、後には小豆や黒豆、搗栗(殻付のまま干した栗)などを加えるようになった。茶で炊くというのは基本だが、更にお茶をかけて食べるかどうかは、店や食べる人の好みによって違ったようだ。万年屋に立ち寄ったとされる『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんは「さらさらと」食べているので、万年屋では茶漬けで出したのだろう。

 その万年屋は、明和年間(1764~1772)には十三丈均一の一膳飯屋だったが、川崎大師参詣者の増加や川崎宿の発展と共に名を広め、宿場一の茶屋にまで成長した。現在は万年屋の跡地にマンションが建っているが、奈良茶飯は近年、イベントなどで折に触れて再現されるようになった。(ちなみに、川崎グランドホテル内の和食処では4名からの要予約で「奈良茶飯」を提供しているが、これはあくまで名前のみ。箱入り弁当風のお食事だ)

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mannenchaya-in-drawing.jpg万年屋が描かれた天保5~7年刊『江戸名所図会 巻二』(豊橋市二川宿本陣資料館提供)(絵をクリックすると大きくなります)

narachameshi.jpg奈良茶飯復元模型(川崎市市民ミュージアム提供)(写真をクリックすると大きくなります)

 ・寄り道コラム

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その他のおいしい立ち寄り情報

御菓子司 清月
  菓子: よねまんじゅう(漉し餡、白餡、梅餡、各1個80円)
  住所: 神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央4-28-18
  電話: 045-501-2877
  営業時間: 9:00~19:00
  定休日: 日曜日、祝日
  URL: http://homepage2.nifty.com/seigetu/

 万年屋の奈良茶飯と共に川崎名物とされていたのが、鶴見の米饅頭(よねまんじゅう)だ。「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう」と歌にも歌われている米饅頭は、鶴見橋(現・鶴見川橋)の両岸にあった市場村と鶴見村の名物だった。

 享和3年(1803)の市場村明細帳には、当時は米饅頭屋が40軒あったことが記されている。また、文化5年(1808)に大田南畝が「饅頭屋は末吉屋・ゑびすや・津山・大黒や・かめや・鶴屋・布袋屋があって、ひとつ三文、籠代二文で売っていた」との記述を残している。ちなみに籠代というのは、米饅頭を入れたお土産用の竹籠のこと。

 あまたあった米饅頭屋の中でも、『江戸名所図会』によると慶長の頃(1596~1614)から既にこの地で米饅頭を売っていたというのが鶴屋だ。『新編武蔵風土記』には、慶長の頃に恵比寿屋某という人物がこの地で米饅頭を作り始めたとも記されている。かめや(亀屋)が明治末期に店を畳んだのを最後に、鶴見から米饅頭を作る店は姿を消してしまった。

 ところで、鶴見名物とされていた米饅頭だが、実はその起源は、浅草の浅草寺門前で売られていたものだという。浅草の鶴屋の娘・およねが作り始めたからとも、米の粉で作るからとも、女郎饅頭の意味とも言われている。

 それにしても、奈良茶飯も米饅頭も浅草寺門前から川崎に伝わったものと言われているのは、不思議な符合である。誰か同じ人物が浅草寺門前から持ち込んだのだろうか。想像は膨らむばかりだが、確かなことは分からない。いずれにしても、浅草の米饅頭は元禄(1688~1704)から享保(1716~1736)の頃まで大流行したが、18世紀に入った頃から、米饅頭と言えば鶴見というように、東海道名物、大山詣名物として認知されるようになった。

 さて、肝心の米饅頭は、どんな菓子であったのか。鶴見の米饅頭はうずら焼の小ぶりなもの、という記録が残されている。うずら焼とは、塩味の餡の大福餅を焼いた菓子で、鶉のようにふっくらと丸いことからこの名がついた。米饅頭も、うずら焼のように餡に塩を混ぜた大福様の菓子であったと言われているが、焼いていたかどうかは定かではない。

 炊いた小豆を粗く潰した餡は塩入りだった。形もうずら餅のように楕円形、俵型、または米粒を大きくしたような形だ。餅皮は分厚く、一口齧っても餡に辿り着かなかったほどだとか。腹持ちがよく、旅人や籠かきの強い見方の力餅、といったところだったではないか。

 残念ながら、江戸時代の米饅頭屋は既に残っていないが、現在、米饅頭を再現して販売している店がある。明治年間創業の清月だ。「よねまんじゅう」は、昭和57年(1982)に三代目の田村広次さんが菓子組合でほかの菓子屋と共に復活させたもので、当時は鶴見周辺の菓子屋の多くが販売していた。しかし、今では通年よねまんじゅうを製造販売しているのは清月のみ。

 現代版「よねまんじゅう」は、江戸時代のものとは異なり餅皮が極薄。一口頬張ると、すぐに餡が口の中を満たす。江戸の頃とは違い、餡は滑らかな漉し餡だ。餡に塩を加えると甘さが際立つと言うが、20年前に定められた現代版の製法に、塩は含まれていない。

 餡がぎっしりで、ほとんど、餡を食べているようなものだが、薄皮があるため、くどくなり過ぎることもない。羽二重餅を限りなく薄く延ばしているので、中の餡が透けて見える。最初に見た時は、餅に色がついているのかと思ったが、そうではなかった。

 透けて見える餡は漉し餡、白餡、梅餡の3種類で、それぞれ黒、白、ピンクの餅に見える。そう、皮も見た目も餅。よねまんじゅうとは言うものの、江戸時代も今も、餅菓子なのだ。なぜ饅頭の名がついたのかは不明だが、菓子のことを大雑把に何でも饅頭と言ったのかもしれない。

tsurumibashi-in-drawing.jpg天保5~7年刊『江戸名所図会』に描かれた鶴見橋。詞書に「橋より此方に米饅頭を売家多く…」とある。(豊橋市二川宿本陣資料館提供)(絵をクリックすると大きくなります)

tsurumigawa-bridge.jpg現在の鶴見川橋

yonemanju.JPG(お菓子の写真をクリックすると大きくなります)

seigetsu.JPG御菓子司 清月