和菓子街道 中山道 草津

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大混乱の大津宿

「草津にて御晝御小休御膳上らせられ候」(庭田嗣子『靜寛院宮御側日記』より)

 東海道と中山道の分岐点にあたる要衝の地・草津の宿場町は、10町52間半(約1.3キロ)。今も政所や問屋場の取締役を務めた太田家が営む造り酒屋や、農具や日用品を商っていた八百久などの古めかしい建物が並び、宿場時代の面影をそこかしこに残している。200軒以上あった旅籠は残っていないが、2軒あった脇本陣のうち、仙台屋茂八宅跡は今は草津市観光物産館になっており、館内でうどんや蕎麦なども食べられるようになっている。

 本陣も田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の2軒があったが、降嫁の旅路で和宮が立ち寄った本陣田中七左衛門邸は、中山道に唯一残る本陣遺構として一部が大切に保存されている。享保3年(1718)年の火災後には膳所藩の瓦ヶ浜御殿を移築して主要部分となしたというから、その格式の高さが覗える。

 嘉永6年(1853)の屋敷絵図より、和宮当時の敷地の広さは1305坪、建物の総面積は468坪、部屋数39室という広大な屋敷だったことがわかっている。副業に材木商を営んでいたため、木屋本陣とも呼ばれていた。

 市の管理により見学可能になっている現在でも、本陣遺構は田中家の私的所有物で、現在も家族が裏手に居住している。平成24年に訪問した際にはかつての「男衆部屋」を修築していたが、公開予定は当面ないそう。

 文久元年(1861)年10月22日、和宮はこの田中七左衛門本陣で昼食をとっている。御賄三番組の西村藤八が残した和宮の道中での食事の詳細書留「和宮御方様御下向御道中御次献立表」によると、草津宿本陣での昼食の献立は以下の通り。

膾・わん(煎酒酢)  蓮根□切・紅葉ふ・白髪大こん・山吹湯波・洗生姜
汁          合ミそ・つまミ□・浅草海苔
平          人参・相良ふ・しゐ茸・長いも・銀南
皿          盛三井寺豆腐・焼栗・干ひやう(み淋煎)
香の物        なすびなら漬・たくあん大こん
御飯

 なお、この日は嫁ぎ先の精進日(歴代将軍の命日、東照宮や増上寺などへの参拝前や家臣による代参中)であったため、魚などは使われていない。

 和宮が草津に滞在したのは昼食時の短い時間だったが、降嫁の行列自体が草津宿を通過するのに実に4日を要している。先発隊が草津を通ったのが10月20日で、行列の最後尾が通ったのが23日であった。

 この時から8年後の明治2年、和宮は京都に里帰りし、明治7年に再び江戸に戻っているが、その際にも七左衛門本陣で小休みととっている。七左衛門本陣にとっては、この時の和宮が最後の客であった。その後、七左衛門本陣は栗太郡役所や中央公民館として利用された。

 ちなみに、和宮の将軍家での義母にあたる篤姫は、第十三代将軍徳川家定への輿入れの際、もう一方の本陣である田中九蔵宅に泊まっている。九蔵本陣は、先述した脇本陣跡の草津市観光物産館の南隣にあった。

 七左衛門本陣遺構を出て北に数10メートルほど行くと、草津の追分にあたる。右に折れるのが東海道で、中山道はまっすぐ。これを考えると、中山道の方がむしろ東へのメインルートのような気もしてくる。東海道新幹線も、名古屋手前までは実質的に中山道新幹線というべきものだ。

 追分には文化13年(1816)に建てられた「右東海道いせみち 左中仙道美のぢ」の道標が立っている。中山道や東海道を上下した飛脚屋たちによって建立されたものだ。

 享保元年(1716)に「東山道の中ほどを通る道だから“中山道”と書くのが正しい」と新井白石が進言したことから、幕府としては「中山道」表記を採用していたが、庶民の間ではそれまでの「中仙道」表記がすっかり定着していたようで、この道標のように文化年間になってもなお「仙」の字が使われることがままあった。 

 さあ、いよいよここからが本格的な中山道の旅となる。まずは、地元の人が「まんぽ」と呼ぶ隧道を潜る。まんぽは明治19年に、民家の屋根より高い位置に流れる天井川の草津川の下に造られたアーチ状のトンネルだから、和宮の頃にはまだなかった。

 それまでは、水の少ない草津川は橋銭三文を払って草津川を渡った(実際には橋はかけられていなかったのに)。水かさが増して川越人足の手を借りると、八文から多い時には三十二文の川越賃を払ったという。

 まんぽを抜けると旧大路井村で、今はアーケードの商店街になっている。JR草津駅前の交差点には大路井の一里塚跡。中山道の江戸日本橋~草津間には129カ所に一里塚が置かれたが、京から来た場合、ここが最初の一里塚となる。

 しばらく細い住宅街を行くと、街道右手に渋川村の氏神で、渋川大将軍と称された伊砂砂神社が見えてくる。御祭神の石長比売命、寒川比古命、寒川比女命、伊邪那岐神、素戔嗚尊の五柱のうちの最初の三柱の頭文字(石・い、寒・さ、寒・さ)をとって社号がつけられたという。

 視界が両脇に開けてしばらく行くと、舗装された綺麗な歩道になるが、それも終わるところ辺りから、中山道は消滅する。畳屋があり、その角を左に曲がると、JRの高架を潜ることができるが、この高架は平成になってからできたもの。自転車でもそのまま通れて、安全を考えるならこちらの道を行った方がいいようだが、少しでも旧道を辿ろうとすると、歩道がなくなった後も道路を直進することになる。

 手元の地図では、マンションの辺りで少し迂回するような進み方が描いてあるが、うっかりそれを見落とし、ずっと直進してしまった。しかし、直進しても結局同じところに出るので、旧道ということなら、むしろこれで良かったのかも。マンションの敷地には入ってしまったようだが。

 このマンション裏手の細い道を出ると道路にぶつかるが、これを左折すると、天井の低いトンネルを潜ってJRを越すことができる。この先にも車が通れるトンネルがあるが、本などにもこの天井の低いトンネルを潜るルートが記されているし、中山道歩きの先達もみな当然のようにここを潜っているようだ。

 しかし、なぜこのルートなのか。その理由が書かれたものは見たことがない。そこで少し調べてみたところ、このトンネルは明治22年に当時の工部省が作ったもので、この辺りでJRを潜るトンネルの中でも最も古いものであり、旧中山道に最も近い道筋であることが分かった。江戸側の入り口には今も「工」の文字の鉄板がはめ込まれている。

 トンネルを潜ってすぐの辺りには昔は立場があり、東海道の六地蔵の名物薬・和中散が出店を出していたという。しばらくすると、栗東市に入る。一本道をひたすら行くと、綣地区に入る。綣は「へそ」と読むが、体の臍ではなく、紡いだ麻糸を巻いたものの意味だといわれている。

 京を背にした街道左手に、「綣 花園荘」と掘られた石柱があることに気付いた。何のためのものかわからなかったため、後日、栗東市教育委員会に確認したところ、教育委員会でも把握していないものだという。歴史的に、この花園という地名に「荘」をつけることはなかったはずだと説明された。地域の方が設置されたのだろうか。

 この辺りの道路脇には水路がある。小川から地域の各地に行き届くよう水路が分けられており、昔は人々の生活に活用されていたと思われる。

 大宝神社の前に大宝村大字綣元票(大正六年二月十五日建立)。現物は朽ちてきたので、栗東歴史民族博物館にあるそうで、現地に立っているのは近年になって「創意と工夫により再現した」ものらしい。

 大宝神社はなかなか立派だ。四脚門は享保3年(1718)、京都の宝鏡寺22世門跡で第百十一代後西天皇の皇女理豊女王(徳巌法親王)の病気平癒の祈祷を仰せつかり、全快した際にそのお礼として建立、寄進されたものだという。「今宮応天大神宮」と記された額は徳巌法親王の書によるもの(明治以前までは当社は今宮応天大神宮と称されていた)。

 境内には栗太郡内唯一という芭蕉の〈へそむらのまだ麦青し春のくれ〉の句碑がある。「ずっとあちこちと旅して歩いてきたが、ここ綣村あたりの麦はまだ青い。種蒔きが遅れたのか寒かったのだろうか。もう間もなく春も暮れようとしているのに…」といった意で、元禄3年(1690)頃の句。関東・北陸を巡った帰途に綣村の立場で詠んだものという。元禄3年(1690)頃の句である。

 大宝神社を出てしばらくすると、守山市に入る。焔魔堂という地名は、五道山十王寺、通称「焔魔堂」に由来する。寺の前には「焔魔法王小野篁御作」と彫られた石碑。向かいには諏訪明神があり、境内にはここから先が南淀藩の飛び地であることを示す「従是南淀領」の標柱がある。この辺りは諸藩の飛び地が多かったそう。

 更に歩を進めると、今宿一里塚。ふたつ目の一里塚で、榎が植えられた南側の塚のみが残る。先代の榎は昭和中頃に枯れたが、脇芽が成長してここまで大きく成長したのだという。

 この先は、時折くねくねとカーブする旧道だが、守山まではずっと1本道。住宅街の中をひたすら行く。住宅の玄関は道路より少し低くなっているのは、やはり街道整備の度に道路に土を敷いてきたためか。

 少し中山道を外れて、勝部神社に立ち寄った。勝部神社の側には清流が流れており、夏には蛍を見ることができるそうだ。そういえば、守山市に入ってからはマンホールも蛍の模様だ。

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和宮様御晝御膳 再現

 和宮の降嫁道中の料理に関しては、献立がしっかりと残されており、江戸に向かうまでの旅空の下、和宮がどんなものを口にしていたか詳細がわかっている。そのため、中山道の旧宿場街では、和宮の食事の再現を試みるところも多い。草津もそんな旧宿場町のひとつで、和宮が草津本陣で食した昼食は、これまでにも草津の観光イベントなどで再現され、草津本陣資料館にも模型が展示されている。この日は嫁ぎ先の徳川家の精進日であったため、和宮にも精進料理が供された。献立は上記本文の通り。わかりやすい料理であるため、さほど苦もなく再現できそうだ。
 というわけで、実際に再現してみた。ただ、再現とはいっても、実際の料理法が記載されているわけではないので、あくまで料理名をヒントに我流で再現してみた。
 ところで、この昼食のメイン料理ともいうべきものは、やはり「三井寺豆腐」だろう。大津の三井寺(園城寺)に伝わる料理が元となっているらしい。天台寺門宗管長・三井寺台百六十二代長吏であった故・福家俊明氏と妻の慶子氏の共著『いのちの食味 三井寺のおそうざい精進料理』(戎光祥出版)に和宮が食した料理として、三井寺豆腐の料理法が記載されているので、これを参考にした。
 三井寺豆腐は、豆腐に数種類の野菜を混ぜ、蒲鉾状に整えて若干の甘みをつけて焼いた擬製豆腐の一種だという。豆腐を肉に見立てた、いわゆる「もどき料理」だ。前出の書籍には、豆腐に混ぜる野菜として人参、キクラゲの他に、とうもりこし、グリーンピースをあげているが、和宮の食した三井寺豆腐にとうもろこしやグリーンピースが入っていたとはあまり思えないため、代わりに大豆といんげんを使った。完成品は、味付けはごくシンプルで、豆腐と野菜の味が引き立っている。つなぎに長いもを使っているため、ふわふわとして食感も良く、なかなか美味だ。
 三井寺豆腐に関しては料理法が判明したので簡単に作ることができたが、どうしても分からなかったのが「山吹湯波」だ。山吹というからには、黄色いのだろう。卵の黄身をそぼろ状にして焼き魚の上に乗せたものを山吹~と呼んだりするので、これも卵の黄身のそぼろだろうか?
 しかし、鱠の椀である。卵の黄身では水分でどろどろになってしまいそうだ。そこで、巻き上げた生湯葉を、クチナシで染めた煮汁で炊いてみた。これが本当に「山吹湯波」と呼べる代物なのか不明だが、少なくとも見た目は「山吹」色に仕上がった。酢の物の盛り合わせであるから、少し酢も加えて、きりっとした味に仕上げた。
 もうひとつ、味噌汁の具として「浅草海苔」があげられているが、これは板海苔なのか、岩のり(生もしくは乾燥)なのか、もみ海苔なのか、判然としない。浅草海苔というのは海苔の品種だ。板海苔は江戸時代後期になって生産されるようになったもので、和宮の降嫁の頃には既に出回っていたはずだ。だが、味噌汁に入れるのだから、板である必要もなさそうなので、今回は焼きもみ海苔を使用した。礒の香りが香ばしい椀になった。
 味噌汁のもうひとつの具は「つま□な」となっていて、文字が判読できないようだが、これはやはり「つまみ菜」だろう。つまみ菜は、今では一野菜のように扱われているが、本来は大根などの葉を間引いたもので、まびき菜ともいう。つまみ菜の季語は秋で、和宮降嫁の季節の食べ物だったことがわかる。今回は、どの野菜のつまみ菜なのか分からなかったため、つまみ菜ではないが青菜として小松菜を使用した。
 香の物は、たくあんと茄子の奈良漬けだが、茄子の奈良漬けが手に入らず、茄子のぬか漬けで代用。奈良漬け専門店で訊ねたところ、茄子の奈良漬けは夏限定なのだといわれた。
 ちなみに、この和宮の草津本陣での昼食の模型などを見ると菓子のようなものや果物が添えてある場合が多い。しかし、献立に水菓子などの記載がないため、今回の再現にはあえて菓子や果物は入れないことにした。
 和宮の降嫁の時期が秋ということもあって、麩も紅葉形であったり、銀杏や栗などが使われている。人参は菊のように飾り切りして、秋の景色を作ってみた。和宮も精進料理ながら季節の味を楽しむことができたのではないだろうか。
IMG_8589.jpg左)上から時計回り:三井寺豆腐・かんぴょうのみりん煎り・焼き栗、鱠(山吹湯波・レンコン・紅葉麩・洗生姜・白髪大根)、煮物平椀(相良麩・椎茸・人参・長いも・銀杏)、右)上から時計回り:香の物・味噌汁・ご飯