和菓子街道 中山道 大津

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大混乱の大津宿

「宮様御機嫌よく御め覺とらの刻御化粧濟候~」(庭田嗣子『靜寛院宮御側日記』より)

 大津宿に到着した和宮一行は、ここで2泊した。準備万端で出発したはずの降嫁行列だったが、継ぎ立てに思いのほか時間を要した。

 忘れ物も多く、手違いで和宮の実母・観行院の夜具が届いていなかったという椿事もあった。和宮が泊まった大塚嘉右衛門の大坂屋はもちろんのこと、宿場全体の揺れるような混乱が目に浮かぶようだ。

 2日間も滞在したとはいえ、大津では祝いの口上を述べに次から次へと訪れる客との対面に追われ、和宮自身、ゆっくりとする時間はなかったようだ。

 お付きの庭田嗣子の日記によると、和宮は親王様などからお菓子などの餞別をもらったというが、それがどこの菓子だったのかは不明。

 大津から先は、宿泊する全ての本陣で、三膳の豪華な祝いの料理が夕餉に饗された。どの本陣でも、夜のお膳には必ず、目の下一尺(約30センチ)の大きな鯛の尾頭付きがついていたという。旅先での生活は規則正しく、毎朝寅刻(午前4時頃)には起床した。

 和宮一行を迎える側の準備も大事だった。大津宿の大坂屋をはじめ、和宮が宿泊する本陣は大々的に改装をしている。上段の間や床の間の柱などは塗り替えられ、襖なども全て張り替えられた。もちろん畳も新しいものを入れ直し、万が一床下から襲撃された場合に供えて、畳表の下に刀が通りにくい真綿を二貫匁入れて備えた。湯殿や便所(“御用所場”)の寸法なども細かな指示通り建て替えらた。

 さて、合流組が増えて益々ふくらんだ行列が大津を出発したのは、10月22日の卯半刻(午前7時頃)。牛車は京に返し、和宮は大津からは輿に乗った。輿を担ぐのは、室町時代から伝統的に天皇の輿丁の任を担ってきた八瀬の童子だ。

 一行はするすると進み、瀬田の唐橋手前の鳥居川(京阪唐橋前駅付近)の旅籠松屋で小休止をとった。松屋跡には現在も冠木門が残っており、「明治天皇鳥居川御小休所碑」が建っている。明治天皇も和宮がここで休んだ17年後の明治11年に、東海・北陸御巡幸の折に小休みしている。

 瀬田川を渡り、琵琶湖を後にした和宮一行は、そのまま草津に向かった。大津から草津までは三里二十四丁(約14.3キロ)。草津にはお昼頃到着しているので、鳥居川の休憩も考慮に入れると、恐らく時速3.5キロほどで進んだと思われる。大所帯にしてはなかなかのペースだ。

 現代の旅はというと、大津―草津間も東海道と被るため、詳しくは触れない。琵琶湖畔のマンションが新しく建ったこと、東海道を歩いた時にはあった飴屋や和菓子屋が閉店していたことなどを個人的に確認しつつ歩いた。写真を多めに掲載するので、そちらで旅の雰囲気を感じて頂ければと思う。

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その他のおいしい立ち寄り情報

山形屋重右衛門
  料理: 山重流まむし
      (特上3200円、上2100円、ミニ1800円、料理長の小鉢つき)
      石釜焼きまむし(料理長の小鉢つき2300円、限定10食)
      セイロ蒸しまむし(料理長の小鉢つき2800円、限定10食)ほか他
  住所: 滋賀県大津市瀬田1丁目16-15
  電話: 077-545-4128  フリーダイヤル 0120-13-8103
  営業時間: 昼 11:00~14:00  夜 17:00~22:00(LO 21:00)
  定休日: 木曜日
  URL: http://www.yamaju.me/

 瀬田の唐橋の東詰を過ぎたあたりに、東海道を歩いた時にはなかったはずの店があることに気付いた。白壁に大きな屋根。店の角には何やら由緒のありそうな古い石塔が建っている。こんな立派な店をなぜ見逃したのかと、いぶかしく思いながらも店に飛込んだ。

 店の名は、山形屋重右衛門。朱塗り格子戸に山に「重」の紋を染め抜いた暖簾。いかにも風情ある老舗料理屋だが、聞けば、この場所に今の形で店を開いたのは2009年7月とのこと。私が東海道を歩いた時にはまだなかったわけだ。しかし、この店には実はもっと長い歴史があるのだという。現当主の井上信幸さんに話を伺った。

 山形屋に伝わる最古の文献は、約360年前の史料で、その頃には既に店を鬻いでいたようだ。おそらく元は街道沿いの茶屋で、開業は400年ほど前まで遡ることができるのではないか、と井上さん。

 江戸の昔、店は瀬田の唐橋の袂にあったという。「唐橋の山重」の名で親しまれ、京や大坂からも山重の鰻を食べに訪れる人があるほどで、店自体が界隈の名所にもなっていたようだ。

 江戸時代初期に刊行された『本朝食鑑』の中にも、江州勢多橋辺りで産する勢多鰻(瀬田鰻)は最高の鰻として紹介されている。脂ののりがよく肉は柔らかく、すこぶる美味い、と。

 山重では屋形船を出して、船の上から琵琶湖に網を打ち、獲れた魚をその場でさばいて客の前で天ぷらにするといった粋な趣向で客をもてなしていたそう。また、建部大社や膳所藩に仕出しの御用も勤めたというから、その格式の高さが窺える。

 代々続いた店は、「山重」の名で親しまれていたが、井上さんの祖父の代に、道を挟んで反対側に業態を替えて「旅亭臨湖庵」という料理旅館を開いた。売りは料亭時代と同様、湖国伝統の川魚を使った会席料理や鰻料理。江戸時代からの格式の高さもあって、財界人も多く利用する旅館だった。

 しかし、臨湖庵の開業から55年ほど経つと、建物の老朽化が目立ってきた。建て替えるかどうかという時に、井上さんの父が旅館を畳むことを決意したという。それから1年余り、井上家は旅館や料理屋といった生業からしばし遠ざかっていた。

 ところが、山重に再び転機が訪れた。ある日、井上さんが蔵の中を整理していると、古い袢纏が出てきた。襟には「山形屋重右衛門」の文字。

「祖父や父からは、昔は山重という名で料理屋をしていたことは聞かされていました。でもそれは略称で、正式名称は山形屋重右衛門だということを初めて知りました」

 と、感動を口にする井上さん。史料などから、二十代目くらいにあたるらしいことが分かった。残っていた明治時代の色彩豊かな錦絵のチラシには鮒ずしの土産と洋酒の案内も載っており、高級な洋酒も販売していたようだ。井上さんが思っていた以上に、山重は歴史のある、立派な店だったのだ。

 そこで、井上さんは先祖代々の店を復活させることを決意した。江戸時代の山形屋重右衛門を偲ばせる鰻と会席料理の店を再び出すことにしたのだ。江戸時代に店のあった場所より3軒ほど唐橋から離れた飴屋の跡地に新装開店した当時、井上さんは25歳。板前さんたちをはじめ、かつて臨湖庵に勤めていた人々に声をかけると、みんな若旦那「井上重衛門」のもとにすぐに集まってくれた。料理の味はそのままに、かつての敷居の高さを少しだけ低くして、親しみ安い店として生まれ変わった。

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(料理の写真はクリックすると大きくなります)

 二十代目がしきる山形屋重右衛門の名物は鰻。臨湖庵を畳んだ後も大切に保管していたという鰻のタレは、代々追い足してきたものだ。厨房の床下に造られた生簀から取り出し、さっとしめてさばいて炭火でじっくりと焼いた鰻に、伝統の味がからむ。

「鰻一匹御膳」や、膳所藩主気分で味わう「上様御膳」にもそそられたが、山形屋重右衛門の看板料理にもなっている鰻丼「山重流まむし」を頂くことにした。「まむし」は鰻のタレを混ぜた御飯の上にかば焼きをのせ、さらにその上からタレ御飯をのせたもの。御飯に挟まれたかば焼きを蒸らすので「まむし(間蒸し)」というのだとか。

 昔は琵琶湖でもたくさん獲れたという鰻だが、残念ながら天ヶ瀬ダムができて以来、鰻の稚魚が大阪湾から瀬田川を登れなくなってしまった。現在でも琵琶湖で鰻は獲れるが、これは稚魚を放流して育てたものだそう。山重では安定した質の高い鰻を他から仕入れている。

 炭火で時間をかけて鰻を焼くため、料理が出るまでに時間がかかる。その間、期待も増すというものだが、出てきた「まむし」は、期待以上のものだった。

 鰻のうまみが溶け込んだタレが、粒立った御飯にまぶされていて、これだけで鰻重を食べている気分になるが、肝心の鰻はもっと旨い。こんがり焼けた鰻が、飯の間で蒸され、ふっくら、しっとり。

 鰻は関西風の直焼きなのでこってりしているため、濃い目のタレがちょうどいい。鰻の脂をほどよく吸ったタレ御飯と一緒に頬張ると、今まで知っていた鰻丼とはまた違った料理であることを改めて思い知る。

 ただ、量がなかなか多い。注文時に多いと聞いていたので、ミニをお願いしたが、それでも一般的な鰻丼の1.5倍の量なのだとか。それだけの量で、しかも御飯にまんべんなくタレがついているうえ、味噌汁も赤出汁なので、白い御飯が欲しくなってしまうという罠。しかしそれでは食べ過ぎになってしまう。セットについてきた小鉢のゴマ豆腐で紛らした。余力のある方は白い御飯を追加してもいいかもしれない。

 ちなみに、臨湖庵時代は御飯の上に蒲焼を乗せた普通の鰻重を出していたそう。

 私が頼んだのは「ミニまむしと料理長の小鉢」というセットメニューだが、この他にも鰻とごぼうを卵とじにした「鰻の柳川丼」や、ビビンバ風でタレ御飯のおこげがおいしい「石釜焼きまむし」、錦糸の上に蒲焼を乗せて蒸籠で蒸した「セイロ蒸しまむし」などの鰻料理がある。「セイロ蒸しまむし」は、以前、長野県の上諏訪でも似たようなものを食べたことがあるが、一般的なのだろうか。

 店を出た後、石塔のことを思い出して引き返した。石塔は、臨湖庵を建てた際に地鎮祭で使ったものだそう。現在から換算すると築約60年というこになるので比較的新しいものではあるが、山形屋重右衛門同様、ずっとこの地で街道を見つめてきたかのような風格がある。きっといずれ、そういう存在になっていくのだろう。