和菓子街道 中山道 三条大橋

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旅のはじまり~桂宮邸

「御するする辰刻過御出門遊はし~」(庭田嗣子『靜寛院宮御側日記』より)

  中山道の起点(江戸からの旅では終点)は通常、大津宿もしくは京都三条大橋として旅をする向きが多いようだが、今回の旅ではあえて和宮に倣って京都御所を出発点に定めた。

 家茂との婚姻が決まると、和宮は降嫁の準備のため桂宮邸(桂御所)に移転。和宮が2年間暮らした桂宮邸の屋敷は禁裏の北にあったが、明治26年に二条城に移築され、現在では二条城本丸御殿となっている。

 10月20日辰刻(午前8時頃)に和宮を乗せた牛車が出立した桂宮邸の門は、今も当時のままだ(門の内側は京都御苑官舎)。すぐ近くには禁裏の猿ヶ辻があるが、兄の孝明天皇は猿ヶ辻築地の穴門からそっと和宮を見送ったといわれている。

 桂宮邸のすぐ北には今出川御門があるが、和宮一行がこの門から御所を出たのかどうかは定かではない。あるいは邸から少し南下したところにある御苑北東の石薬師御門から出でたのかもしれないが、憶測の域を出ない。京都市街地の進行ルートも不明だ。

 ただ、一行が三条大橋を渡ったことは確かで、大勢の民衆が三条大橋周辺で和宮を見送ったようだ。なにせ、内親王宣下を受けた皇女が武家に降嫁し、江戸まで下ったのは後にも先にも和宮ただひとり。送り出す京の人々や迎える江戸の人々はもちろん、中山道沿いに住む人々やその隣近藩まで巻き込んだ大イベントになった。

 朝廷の威信をかけた花嫁行列は7856人、馬280疋という大行列。最初の大津宿でさらに合流があり、京方江戸方合わせて総勢2万6000人というかつてないほどの巨大な行列になった。ひとつの宿場を、この行列が4日間かけて通行するというのだから、上を下への大騒ぎであった。

 三条大橋から先、草津までは東海道と重なるため、詳しくは省略。白川、都の東の出入り口に当たる「粟田口」、蹴上、日ノ岡峠、天智天皇陵などを過ぎ、以前通った同じ道をなぞるように逆方向進む(今回は、粟田神社、日向大神宮、諸羽神社などにも参拝)。和宮の降嫁行列に備えて、京から江戸までの道には、厚さ3寸(約9センチ)、幅4尺(約121センチ)に渡って置き砂が敷かれていたという。

 江戸へ向けた旅の初日、和宮は途中の山科で休憩した後、申刻(午後3~5時)頃、都より3里の大津宿に到着。大津には本陣は2カ所あるが、和宮が宿泊したのは大坂屋(大塚嘉右衛門宅)であった。

 大津宿の中心部、旅館街とも呼ばれた八丁通り(旧東海道)に面して建つ大坂屋は、和宮の宿泊に供えて大々的に改装したという。この大塚家本陣跡には後に和宮の甥にあたる明治天皇も宿泊している。3階の楼上から眺める琵琶湖の絶景が自慢の宿だったようだ。

 ちなみに、もうひとつの本陣肥前屋は、同じ八丁通りの少し京寄り、坂を上ったところにあった。現在は美容室が建っている辺りだ。

nijojo.jpg旧桂宮邸(現・二条城本丸御殿)
katsuranomiya.jpg桂宮邸御門
sarugatsuji.jpg京都御所猿ヶ辻
saru.jpg猿ヶ辻の猿。御所の鬼門に当たる東北には比叡山延暦寺と日吉大社があり、猿は日吉の神使であり、「邪鬼が去る」に通じることから御所東北角にこの魔除けの猿の象が置かれている。

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その他のおいしい立ち寄り情報

餅寅
  菓子: 光秀饅頭 (黒糖、抹茶、各130円)他
  住所: 京都市東山区白川筋三条下がる梅宮町475
  電話: 075-561-2806
  営業時間: 8:00~18:00
  定休日: 火曜日
  URL: http://gallery-inoue.net/motitora.html

 三条大橋から出発してほどなくすると、かつては京友禅を晒していたという白川に架かる白川橋を渡る。ここで道を逸れて、川沿いに少し南下すると、餅寅という小さな和菓子屋が左手に現れる。団子や大福、むぎ饅頭などを中心に売る親しみやすいおまん屋さんだ。

 実はこの店、明智光秀ファンの間で名の通った店だ。店の角に「東梅宮 明智光秀墳」と刻まれた石碑があるが、これは幕末の弘化2年(1845)に建立された道標で、店の裏手にある明智光秀の墓の所在を示している。餅寅は、先祖代々、この墓を守ってきた家柄なのである。

 明智光秀は、いわずと知れた戦国武将。本能寺(1582)の変で主君の織田信長を討つも、すぐに羽柴秀吉に破られ、変の11日後には落ち延びる途中、伏見の小栗栖で落人狩りに遭って落命したあの光秀だ。しかし、光秀の墓といえば、光秀の菩提寺でもある大津市の西教寺にあるはずだが、どうしてこんなところに?と思うかもしれない。厳密には、これは光秀の首塚なのだ。

 餅寅に伝わる『惟任将軍光秀御墳墓略記』の版木には、光秀の首塚の由来が記されているという。曰く――光秀の最古参の家臣で、落人狩りに遭って瀕死の状態の光秀の介錯をつとめたといわれる溝尾勝兵衛茂朝が、光秀の遺言に従って知恩院に埋葬しようとその首を馬の鞍覆いに包み隠して運んだが、知恩院はこれを拒否。やむなく、近くに首を埋葬して、溝尾も自刀して果てた――。

 光秀の首は西教寺に埋められたとも、領地であった丹波亀山の谷性寺に埋められたなど他にも諸説があるが、いずれにしても光秀の死後3日後に発見され、秀吉による首実検の後に粟田口に曝されたといわれている。その後、粟田口黒谷に埋葬されたと伝えられているが、江戸時代の明和8年(1771)になって、光秀の子孫を名乗る明田理右衛門という人物が、石塔を現在地の少し東に建てて(粟田口にあったものを移したとも)、祠を建てて中に光秀の木像と位牌、骨壺を安置し、菩提を弔ったという。明智をはばかって明田と名乗っていたようだが、屋敷もこの近くにあったようだ(屋敷の庭に建立したとも)。

 その後、どういう経緯でかすぐ近くの商人・丹後屋吉兵衛がこの石塔の供養を引き受け、代々管理するようになった。丹後屋というのが菓子屋になる以前の餅寅の屋号だ。丹後屋吉兵衛は灯明の油売りで、知恩院や南禅寺の御用も勤めていたというが、丹後といえば光秀の所領地と符号する。もしかしたら、そうした縁もあったのかもしれない。

 丹後屋は、石塔と祠の管理を任されるようになってからはそれは熱心に供養に努めたようである。餅寅に残る記録によると、天保6年(1835)6月には十代目の主・寅吉が光秀没後250年忌に比叡山の大僧正による大般若会を修している。前述の「明智光秀墳」の石碑も、十代寅吉が同士数名とともに建立したものだ。

 しかし、明治時代になると京都府令で光秀首塚の廃祀が命ぜられ(明治4年)、祠は取り壊されてしまった。この時、十一代目の忠兵衛は祠の廃材などを換金し、粟田小学校に寄付している。光秀像は自宅に安置して守った。丹後屋が菓子屋に転身し、餅寅と改名したのもこの頃だ。

 その後、明治18年になると十二代目の常吉が現在地に祠を再建し、改めて祀るようになったという。明治44年6月には南禅寺の僧による大般若会も主催している。ちなみに、餅寅の主人は、婿養子だった十二代目常吉の姓から小山を名乗っていたが、十三代目豊次郎からは川嶋姓を名乗っている。現当主は十五代目の川嶋正幸さんだ。

 現在は餅寅の川嶋家を中心に地元の有志による「梅光会」の方々が明智墳を守っている。祠の中には今も、光秀像、位牌、骨壺が安置されているという。

 そんな餅寅の代表銘菓は、光秀に因んだ「光秀饅頭」。黒糖入りの茶色い饅頭(粒あん入り)と、抹茶入りの緑の饅頭(京風みそあん入り)の2種があり、明智家の桔梗紋の焼き印が押されている。しっとりとした生地と、甘すぎず舌触りも滑らかな餡とのバランスは絶妙。素朴ながら味わい深い…というと、なんだか光秀のキャラクターそのもののような気もしないでもない。陽気な女将さんのお話を聞きながら、そんなことを思って頬張った。

 ところで、店内に掲げられた「餅寅」の看板の横にある「一」文字の額。女将さんによると、「昔からうちで大事にしてきたものだから、飾ってある」とのことだったが、気になったので調べてみた。

 どうやらこれは、宝永8年(1711)に粟田に開窯した清水焼きの陶家「暁山」ゆかりのもののようだ。屋号は一文字屋で、文化2年(1805)には青蓮院宮粟田口御所の御用達焼物師を仰せつかり、山号「暁山」を拝領した。暁山本家は明治時代に途絶えたが、親交のあった近江屋が暁山の号を引き継ぎ、現在では五条に店を構えている。おそらく餅寅の「一」文字は、近在にあった縁で暁山窯から譲り受けたものと思われる(推測の域を出ないが)。ネットなどで検索していると、餅寅の江戸時代の屋号が一文字屋だったと書いているブログなどがあるが、餅寅の前身は丹後屋なのでこれは誤りであろう。


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goyoufuda.jpg油売り丹後屋吉兵衛の御用札

ichimonji.jpg一文字の額

mochitora-boad.jpg餅寅の看板。