和菓子街道 中山道

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中山道六十九次――皇女和宮の足跡を辿って

 もう何年も前になるが、幕末に撮影されたある1枚の女性の写真をはじめて見た時、はかなげながらも凛としたその美しい姿に強く惹かれたことを今でもよく覚えている。

 十二単をまとい、髪をおすべらかしにしたこの線の細い女性は、第120代仁孝天皇の皇女であり、第121代孝明天皇の皇妹でもある和宮親子内親王。彼女が背負ったものは、あまりに大きかった。徳川十四代将軍家茂の正室となるべく幕末の動乱期に江戸に下向。家茂の死後、幕府が崩壊していく中、朝廷に婚家徳川家の存続を誓願する手紙を送るなどして、江戸城無血開城につながる大きな役割を果たした女性だ。

 弘化3年(1846)閏5月10日(7月3日)、和宮は実母・橋本経子の生家である橋本邸内で産声を上げた。橋本邸は御所の東南(京都御苑の敷地内)に建っていた公家屋敷のひとつで、和宮は幼少期の大半を橋本邸で過ごした(一時、青蓮院や宝鏡寺にも滞在)。今では細い松の林になっている跡地に、ひっそりと和宮生誕地の碑が立てられている。

 和宮の将軍家茂への降嫁の話が最初に持ち上がったのは、安政5年(1858)9月。和宮が13歳の頃だ。この年の4月に大老に就任した井伊直弼の側近であった長野主膳による献策だった。

 攘夷運動や尊皇思想の高まり、海外貿易の影響からくる物価の高騰などによる社会不安…幕府への不信が最高潮に高まっていたこの時期、失墜した権威の回復を図る幕府は、朝廷との関係を改善することで尊皇を誇示して世情の安定を図ることを画策。いわゆる「公武一和」だ。その政策の目玉として将軍家茂に皇女を迎えることとなり、和宮に白羽の矢があてられたのだ。

 孝明天皇はこの提案に難色を示した。和宮自身も再三に渡って幕府の要請を拒否した。途中、井伊直弼が桜田門外の変で討たれ、降嫁の話も頓挫したり延期になったりと紆余曲折を経るが、最終的には攘夷という条件付きで孝明天皇が和宮の降嫁を容認した。かくして和宮は、「公武一和」を目指す幕府に折れる形で降嫁を承諾することになるのだった。万延元年(1860)の8月15日のことだ。

 当時、既に有栖川宮熾仁親王への入輿が内定しており、これを取り消して将軍家降嫁が決められたという背景から、和宮はしばしば悲劇の皇女と呼ばれきた。しかし、現代的な恋愛感覚を当時の皇族や公家に当てはめることができるのかは疑問だ。

 ただ、内定取り消しは縁起の悪いことではあったろうし、まして無骨(と思われる)坂東武士のもとへ嫁ぐとか、見たこともない外国人が闊歩するらしい江戸に行くとかいったことは、屋敷の外にほとんど出たことのない少女には想像を絶する恐怖だったに違いない。

 〈惜しまじな 君と民とのためならば
                身は武蔵野の露と消ゆとも〉

 降嫁に際して和宮が詠んだとされる歌である。小さな肩に国の行く末を背負わされた16歳の皇女の決意が表れている。

 和宮が江戸に向けて京を発ったのは、文久元年(1861)10月20日。25日間をかけた中山道の旅の始まりだ。

 和宮一行が東海道ではなく中山道を選んだ理由は複数あった。川が少なく、増水時にも行列の停滞を防ぐことができること。東海道では浜名湖の今切れの渡しを通らねばならず、縁起が悪いこと。

 そしてもっとも重要だったと思われるのが、幕末動乱期の当時、東海道を上下する早馬や諸藩の使者などを避けることであった。和宮の行列が通行している間は、何人も遠慮せねばならず、交通に差し障りがでる恐れがあったのではないだろうか。外国人の多い横浜を通過することも避けたかっただろう。

 かねてから、中山道の旅はこの和宮の足跡を辿る旅にしようと決めていた。京都から江戸に向けて出発。去る年、和宮が江戸に向けて旅立ったのと同じ旧暦10月20日、150年遅れで中山道六十九次の旅に出た。

kazunomiya.jpg和宮肖像写真(徳川記念財団蔵)
iemochi.jpg徳川家茂像(徳川記念財団蔵)
hashimoto.jpg和宮が生まれた橋本邸跡
gekouzu.jpg 和宮江戸下向絵巻(江戸東京博物館蔵)

中山道の宿場町と紹介する和菓子屋

※菓子屋は順次追加予定