和菓子街道 伊勢街道 伊勢内宮

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夢の旅の終着点、尊き大御神の大前へ

 外宮前から道幅の狭い通りをしばらく行くと、勢田川にかかる小田橋に出る。かつて、ここを通って神様への御供物・御贄を運んだことから、勢田川もこの辺りに限って「御贄川」と呼ばれていた時期もあったという。橋は今はコンクリート製だが、擬宝珠は徳川三代将軍家光の乳母・春日局が寄進したものを再現している。

 橋を渡ると、上り坂にさしかかる。坂の途中には、「お杉お玉」の興行跡。三味線を弾いて参詣客から金をもらっていた女性たちの総称で、弥次さん喜多さんが、銭の代わりに小石を投げたら撥で跳ね返された、という話が『東海道中膝栗毛』の中でもおもしろおかしく描かれている。

 坂を上ると、日本三代遊里のひとつに数えられる古市だ。歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』の題材ともなった妓楼油屋での殺傷事件「油屋騒動」の起きた寛政8年(1796)頃には、遊郭78戸に娼妓が1000人ほどという一大遊郭街で、朝も10時を回ると三味線の音が聞え始め、昼も夜も分からぬような賑やかさだったという。男の旅人はここで遊ぶのが伊勢詣での楽しみのひとつでもあった。「伊勢まいり 神宮さまにもちょっとだけ」という川柳が残るほどだ。

 かつての賑わいは今はなく、ただ1軒、嘉永4年(1851)創業の麻吉旅館のみが昔のままの姿で営業を続けている。生姜糖や羊羹で有名だった山形屋をはじめ、大きな菓子屋も5軒ほどあり、昔は毎晩、遊郭に届ける綺麗な塗りの菓子箱が各店の店先に置かれていたというが、今はそんな菓子屋も残ってはいない。

 古市を過ぎ、牛谷坂を下って行くと、その途中には大正3年に建立された巨大な常夜灯が2基、行儀よく並んでいる。下りきったところにある猿田彦神社は、御師・宇治土公氏の先祖神であった猿田彦大神を祀る私的な邸内社だった神社だ。

 交通量の多い国道を横切ると、かつてはおはらい町と呼ばれた内宮の門前町。今では「おかげ横丁」と呼ばれる通りで、復元された伊勢の町並みには菓子屋や食事処、土産物屋が軒を連ね、大勢の観光客で賑わっている。

 賑やかなおかげ横丁を通り抜けると、大きな鳥居が見えてくる。鳥居の先には、五十鈴川にかかる宇治橋。天照大御神の御鎮座地を探し求めて伊勢に辿りついた倭姫命が、長旅で汚れた御裳の裾を濯いだという伝説から、御裳濯川とも呼ばれる五十鈴川は、上流の内宮の森から湧き出る清水を湛えた清らかな流れだ。かつては、旅人はこの川で禊をして、神宮に参拝したといわれる。

 これまで、伊勢街道や伊勢本街道を歩いて伊勢に参詣したことがあるが、ここに辿り着くといつも自然と口をついて出る歌がある。

〈なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさに涙 こぼるる〉(西行法師)

 西行の生きた鎌倉時代には、神宮に僧侶が参拝することは許されていなかった。僧侶は五十鈴川の対岸から、天照大御神の坐す森を遥拝する習わしがあったが、遥拝所に立った西行が、日本の宗廟たる神宮の尊さを前に、自ずと感謝の念が溢れて涙となって出てきた、と詠ったものだ。

 知識としてこの歌のことは知っていたが、実際に自分で歩いて参宮することで、その感慨は初めて実感を伴って自分の中に確認された。神宮とは、そういうところなのだ。

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・赤福 「赤福餅」

    江戸初期から変わらぬ参宮名物餅 → click !

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その他のおいしい立ち寄り情報

太閤餅
  菓子: 太閤出世餅(ほうじ茶付き2個200円、抹茶付き2個500円、お土産用は3個入り250円~)
  住所: 三重県伊勢市宇治今在家町63
  電話: 0596-22-2767
  定休日: 無休
  営業時間: 平日8:30~16:00、日祭日8:30~16:30
  URL: http://www16.ocn.ne.jp/~itaikou/top.html

 今でこそひっそりとした坂の上の集落だが、古市かつては近在一の大遊郭街だった。遊郭のほかにも、料理屋や浄瑠璃小屋、射的などの娯楽場など、ありとあらゆる店が建ち並んでいた。そしてもちろん、甘いものを出す茶店も。中でも、桜木町南端にあった長嶺茶屋は、古市がまだ長峰と呼ばれていた頃から日参茶屋を営んでいた古参の店だった。

 江戸時代以前の古市(長峰)は、丘の上という地理的条件から水利に恵まれず、住む人も少なかった。しかし、外宮と内宮とを結ぶ道沿いにあることから、人の往来はままあったようだ。長嶺茶屋は、通り行き交う参宮の人々がちょっと休んでいけるような茶屋だった。言い伝えによると、創業は永禄8年(1565)。織田信長が今川義元を討った桶狭間の戦いよりわずか5年後のことで、世はまさに戦国の動乱期にあった。

 気軽な日参茶屋とはいっても、長嶺茶屋は由緒ある店だったようだ。というのも、当時、伊勢国を支配していた国司大名・北畠氏の奨励で造られた茶屋といわれているためだ。そんな長嶺茶屋に立ち寄ったとされる歴史上の著名人がいる。木下藤吉郎、そう、後の豊臣秀吉だ。

 秀吉は、木下姓時代にたびたび伊勢を訪れている。例えば、永禄6年(1563)、外宮の遷宮が129年ぶりに再開された時には、式年遷宮再興に尽力した織田信長の代参として、藤吉郎が神宮に参拝している。その後、信長の代官として宇治橋造営の橋奉行も務めるなどして伊勢にしばらく逗留した時期もあったといわれている。天正14年(1586)に関白になってからは、自身が伊勢に赴くことはなかったものの、銭1万貫、米1千石を神宮に寄進。また、太閤検地の際にも唯一、神宮近辺の神領地は免除している。

 このように伊勢に縁のあった秀吉が、伊勢滞在中に長嶺茶屋の餅菓子を賞味したとの言い伝えがある。江戸中・後期の寛政8年(1796)に神宮の神官・大内人秦定賢によって書かれた『神都長嶺記』にも、「秀吉公御光臨の時献ぜしに、珎美味也と御称美なし故太閤餅と号けし」と記されている。

 ただ、この書が記されたのは秀吉の時代より200年近くも後のことであり、地元の伝承を伝えたという点では評価されるが、伝承そのものが真実を伝えているとは限らない。伊勢を庇護した秀吉に対する人々の思いが生んだいい伝えのひとつとも考えられるのではないだろうか。

 ともあれ、『神都長嶺記』に名が見えるように、長嶺茶屋が古くから長峰にあったことは確かなようだ。その長嶺茶屋では、“三日月形の焼餅”を名物として売っていたと伝えられている。円形に薄くのした餅に餡をはさみ、半分に折って半月状にして焼いた餅だったとの説があるが、果して半月を三日月と呼ぶか疑問が残るところではある。いずれにしても、“三日月形の焼餅”を出していたということが伝わっている。

 江戸初期の寛文年間(1661~1672)、長嶺茶屋は何らかの理由で同じ古市内の別の場所に移転。この頃には寛永15年(1638)の おかげ参りもあり、一般の参宮客も徐々に増えつつある時期だった。長嶺茶屋で足を休め、焼餅を頬張った参宮客も多かったことだろう。もっとも、長嶺茶屋が“三日月形の焼餅”を出していたのは初期のことで、いつの頃からか円形の焼餅に変わっていたようだ。人々はいつしか、秀吉が食べたと伝えられる長嶺茶屋の焼餅(形は違うはずだが)を、秀吉の出世譚にあやかって「太閤餅」「出世餅」「太閤出世餅」などと呼ぶようになった。

 長嶺茶屋は、江戸時代以降も餅屋として商いを続けていたらしい。ところが、古市で火災が起こり(大正9念の民家火災か)、長嶺茶屋も類焼。一旦は再建したものの、やがて昭和14年に第二次世界大戦が勃発。再び休業をよぎなくされた。そして戦後、復活のための余力が残っていた他の店は次々と業務を再開していったが、長嶺茶屋が再び暖簾をあげることはなかった。娘ばかりの家で、店を継ぐ者がいなかったためといわれる。

 そこで、長嶺茶屋が名実共に消えてしまうのを惜しんだ伊勢の観光協会の肝いりで昭和34年に発足したのが、(有)太閤餅である。社長には、当時の観光協会会長の夫人・川口妙さんが就任。その後、昭和46年には内宮の宇治橋のすぐ近くの現在地に移転、現在に至っている。

 太閤餅の「太閤出世餅」は、佐賀特産のもち米から作る餅に、北海道十勝産小豆の粒餡を入れて丸く成形。表面に淡い焦げ色をつける程度に焼いた焼餅だ。甘さは控えめで、餅と小豆の味をそれぞれ生かしたシンプルな味わいだ。

 上記の経緯からも分かる通り、太閤餅の「太閤出世餅」は長嶺茶屋で作られていた焼餅と同じものではない。しかし、旅人を喜ばせたい、旅人の憩いの場を提供したいという精神は受け継いでいる。

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藤屋窓月堂
  菓子: 利休饅頭(6個入り590円~)他
  住所: 三重県伊勢市宇治中之切町46-1
  電話: 0596-22-2418
  定休日: 無休
  営業時間: 8:00~19:00
  URL: http://www.passage-mall.cwj.jp/fujiya/

 内宮門前町のおはらい町の中でも、現在ではいわゆる「おかげ横丁」と呼ばれて賑わっている辺りより少し手前に店を構える藤屋窓月堂。土産物屋の多いこの界隈にあって、明治初年の創業以来、上用の菓子を担う店として信頼を得てきた老舗和菓子屋だ。

 代表銘菓は「利休饅頭」。伊勢では現在でも茶が盛んに行なわれている土地柄だが、創業したばかりの頃、伊勢の茶人が千家の宗匠(表千家十一代碌々斎か)を招いて大神宮茶会を催した際、初代の藤波五左衛門が用意した饅頭を宗匠がお気に召し、家祖の千利休にちなんで「利休饅頭」と名付けたと伝えられている。以来、利休饅頭の藤屋として名を高めたのだった。その後も、昭和26年に昭和天皇が三重を御巡幸された折や、平成2年、御即位に際して神宮を御親拝された今上天皇陛下にも、藤屋の利休饅頭が献上されている。

 そもそも、利休饅頭というのは一般名称に近く、全国的にも作られている定番のお茶受け蒸し饅頭だ。ただ、一般的なものは黒砂糖を用いた茶色い皮で餡を包んだ小饅頭であるのに対し、藤屋のものは、うずら豆の漉し餡入りの白い饅頭、小豆の漉し餡入りの薄紅の饅頭、小豆の漉し餡を抹茶入りの薄緑の皮で包んだ饅頭の3種類がある(抹茶はお盆や法事の際に限定的に作られる)。特定の茶会で特定の人物から名をもらったという命名の由来も、藤屋固有のものだ。

 ふんわりとした皮の内にはぎっしりと漉し餡がつまっており、小ぶりながら重量感がある。利休饅頭に用いられる自家製餡は全て漉し餡で、茶会から生まれた饅頭らしく、丁寧に裏ごしされておりなめらかで、上品な味わいだ。

 ちなみに、よく知られた話ではあるが、藤屋は中曽根康弘元首相の側近中の側近として敏腕をふるった元官房長官の故・藤波孝生氏の実家だ。そんなこともあって、一時は利休饅頭も「○ク△ート饅頭」などと呼ばれた時期もあったが、もちろん、饅頭の味に影響があったわけではない。

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岩戸屋
  菓子: 生姜糖(「日の出」650円、大剣・生姜、ニッキ、抹茶、小豆各450円ほか)
  住所: 三重県伊勢市宇治今在家町58
  電話: 0596-23-3188
  定休日: 無休
  営業時間: 8:45~17:25
  URL: http://www.iwatoya.co.jp/

 今でこそおかげ横丁が大盛況で、参宮土産の類もあまたあるが、平成5年におかげ横丁ができる以前は、伊勢土産といえば岩戸屋の「生姜糖」だった。子供の頃、伊勢に参宮した祖母が、色とりどりの生姜糖を持って帰ってきたのを覚えている。

 元々、伊勢で土産物としての生姜糖が作られるようになったのは、江戸時代の延宝年間(1673~1681)、あるいは寛政年間(1789~1800)といわれている。赤福が旅人がその場で食べる名物だったのに対し、日持ちのする生姜糖は持ちかえる土産として好まれたようだ。神宮のお札「剣先守り」の形(剣菱)に似せた型に入れて固めた伊勢名物の生姜糖は、水飴に生姜の汁を入れて煮詰めて固めたもので、ぴりっとした生姜の風味が甘さを引き立てている。

 江戸時代から続いている生姜糖の店は今は残っていないが、明治43年に牧戸浅吉が開いた岩戸屋が現在の最古参として商いを続けている。店の軒に大きなお多福の面を掲げた、お馴染みの土産物屋だ。

 生姜のみのプレーンから小豆入りなど、生姜糖にも色々あるが、岩戸屋での一番人気はやはり、二見浦の夫婦岩(抹茶、緑)、その間から出た太陽(ニッキ、桃)、千鳥の舞う空(生姜、白)を組み合わせて、剣先守り型の中に夫婦岩の日の出を表したものだ。レトロな雰囲気の剣先型の箱も懐かしさを誘う。

 ちなみに、大正年間創業の二光堂では、まちかど博物館「生姜糖博物館」を設置。昔ながらのブリキや銅の型を見ることができる(無料、年中無休、9時~16時)。

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麻吉旅館
  宿泊: 1泊2食付(1名)1万円~、1泊朝食付6000円~、素泊まり5000円
       チェックイン16:00、チェックアウト10:00
  住所: 三重県伊勢市中之町109
  電話: 0596-22-4101

 随分前のことだが、まだ夜が明けやらぬうちに外宮から内宮に向けて歩いたことがあった。古市にある麻吉旅館の前を通りかかったのは、ちょうど空がうすぼんやりと白んできた頃だった。夜の間は点っていたはずの提灯の灯りは消え、ひっそりと寝静まった古い宿。ただ一点、台所らしきところから灯りが漏れていて、辺りには鯵を焼くような旨そうな匂いが漂っていた。ああ、素敵な宿だな、次に伊勢に旅する時は、ここに泊まろう。それが、麻吉への第一印象だった。

 その後、何年か経って、念願叶って麻吉に泊まる機会を得ることができた。古びた柱の間の漆喰の壁は赤く染められ、軒下には「あさ吉」と書かれた提灯がいくつもかけられている。艶めいた遊女が、良い年を重ねて落ち着きのある上品な老婆になったかのような佇まいの宿だ。表玄関の古い引き戸を、がたぴしと音を立てて空けて中に入ると、そこは時代の流れを止めたような静かな異空間だった。

 麻吉のある古市は、江戸時代にはお伊勢参りの後で人々が「精進落とし」をした花街だった。江戸の吉原や京都の島原と並び称される遊郭で、最盛期には遊女を抱える妓楼や芸妓の置屋、お茶屋(料亭)が70軒以上という規模だった。古市三座と呼ばれた芝居小屋も建ち並び、役者は古市で評判をとらなければ、大坂や京都の舞台を踏むことができなかったといわれている。

 その中でも、多くの芸妓を抱えていたお茶屋の麻吉(当時は花月楼 麻吉)は、最高の格式を誇っていた。36帖の麻吉大広間・聚遠楼の舞台では夜な夜な伊勢音頭が踊られていた。麻吉の舞台に立つことは、芸妓のステータスにもなったという。

 そんな麻吉の創業は、江戸中期頃に遡るといわれる。定かな創業年は不詳ながら、天明年間(1781~1788)の地図に確認されることから、それ以前から同じ場所でお茶屋を鬻いでいたことがわかっている。文化3年(1808)刊の『東海道中膝栗毛』にも、「麻吉へお供しよかいな」などというセリフが出てくるのだから、当時は既に名だたるお茶屋であったことが窺える。

 明治のはじめ頃には芸妓30人ほどを抱えるお茶屋だったが、その後、旅館にとなり、現在に至る。古市自体が高台にあり、斜面に沿って建てられた麻吉は、懸崖造りの木造6階建て。
街道から一段下がったところにある表玄関は、4階部分にあたる。宿は「手振り坂」をまたぐ回廊で2棟が繋がる比翼造りになっている。その独特の景観や歴史から、麻吉は平成16年に国の登録有形文化財に指定された。

 3階部分の土蔵は「麻吉歴史館」として公開(要予約)されており、華やかなりし頃に使われていた九谷や伊万里などの大皿、盆、掛け軸、史料などが展示されている。希望すれば、展示品の器などで食事を供してくれるというから、粋な計らいだ。

 古市の歴史をそのまま封じ込めたような佇まいの麻吉だが、おもてなしは家族的で温かく、とにかく心が籠っている。維持するのが大変でしょうと声をかけると、女将さんは「宿泊される方々から色々教えて頂いたり、励ましてもらいながら頑張っています」と最高の笑顔を返してくれた。様変わりしていく街道筋の家並みの中、いつまでも残っていて欲しいお宿だ。

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すし久
  料理: てこね寿し1,050円、麦とろろ(松)1890円、朝粥(毎月朔日4:45~7:30)ほか
        ※朝粥は値段内容ともに月替わり
  住所: 三重県伊勢市宇治中之切町20
  電話: 0596-27-0229
  定休日: 無休
  営業時間:11:00~20:00(LOは19:30。火曜・毎月朔日はLO16:30、毎月晦日のLOは15:30)
  URL: http://www.okageyokocho.co.jp/shop/sushikyu.html

 おかげ横丁として再生した門前町が、まだおはらい町と呼ばれていた頃から、変わらず同じ場所で料理屋をしているすし久。初代森田久造が寿司屋を開業したのが天保年間(1830~1843)というから、現在のおかげ横丁内では赤福に次ぐ老舗だ。明治期には料理旅館となり、天皇の勅使のお宿としても利用された格式の高さを誇った。

 戦後、一時休業していたが、平成元年に料理屋として再び暖簾を上げた。現在の建物は、明治2年の遷宮の際に下賜された宇治橋の古材を使って建てられたものだという。大きな神棚やどっしりとした竈、黒光りする床や壁に、老舗の趣を感じる。

 すし宿の人気料理は伊勢志摩の郷土料理「てこね寿司」。漁師が船上で、釣ったばかりの鰹をさばいて醤油漬けにし、酢飯にのせて手で豪快にかきまぜて食べたことからこの名がある。

 この他、麦とろろやひつまぶし、季節の料理などがあるが、個人的に一番楽しみにしているのが、毎月朔日の朝粥だ。朔日には早朝から神宮に参拝する人が多いため、朝4時45分から店を開いて暖かい粥を出してくれるのだ。元旦の新春朝粥は大晦日の23時から始まり、また、1月7日には午前11時~14時頃まで七草粥が出される。早朝参拝をして清々しい気分になった後、体を暖めてくれるありがたい朝の楽しみなのだ。

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その他の外宮グルメ

ふくすけ「伊勢うどん」
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豚捨「松阪牛コロッケ」
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横丁焼の店「横丁焼」
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栗蔵「もっちり栗パイ」
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勢乃國屋「神代餅」
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伊勢うどんについて

「このうどんを生きているうちに食わなければ、死んで閣魔に叱られる」
伊勢うどんについて、昔から伊勢の人々はこんなことを言うそうだ。『大菩薩峠 間の山の巻』にも伊勢うどんについての記述が見られる。
極太の手打ちうどんで、ふにゃふにゃと柔らかくなるまでゆでてあるのが特徴で、たまり醤油とみりんの濃褐色のたれをかけて食べる。
ネギなどの薬味を添えたり、鰹節や煮干し、昆布を使っただしなど、店によって異なるが、基本的には飾り気のないごくシンプルなうどんだ。
もとは、江戸時代以前からこの地方の農民が手軽に作って食べていたもので、江戸時代中後期になって参宮者にも伊勢うどんを出すうどん屋ができたという。
伊勢うどんがふにゃふにゃな理由には諸説がある。代表的な説は、伊勢までの飲まず食わずの長旅でくたくたに疲れ切った旅人の胃をびっくりさせないようにと、柔らかくなるまで長時間煮たため、というもの。この他、客にすぐに出せるように常に湯に入れておいたため、という説などがある。
伊勢うどん屋の中でも特に評判がよかったのは、古市の大安旅館の隣にあった豆腐六(どぶろく)という店。明治36年に大安が火災で焼失するまでは、豆腐六も流行っていたが、その後は再興することはなかった。