和菓子街道 伊勢街道 島貫

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雲出川の渡しで栄えた雲出の宿

 藤方を過ぎて少し行くと、桜茶屋という地名の集落に入る。気づけば、いつの間にか高台を歩いていたようだ。この辺りが昔、茶店などで賑わっており、数軒の茶店が昭和20年頃までは残っていたというが、今はその面影も消えてしまった。続く高茶屋の集落は、津から雲出に向かう行程の中ほどに位置する。かつては立場として賑わっていたそうで、茶屋では「ねり酒」「貝やき」などが供されていたそう。地名が示す通り、今でも高台であることには変わりないが、1、2軒の食品店があるのみの静かな集落で、往時を偲ぶよすがとなるものはあまり残されていない。

 旧道を分断するJR紀勢本線を越えると、両面には田畑が広がる道を行くと、しばらくして次なる島貫の宿に辿り着く。明和3年(1766)に記された『伊勢参宮細見大全』にいよると、この雲出島貫町は「雲津、本名は島貫なり」とのこと。雲出川に近いことから、雲出と呼ばれるようになったとか。『東海道中膝栗毛』では、この宿場町に泊まった弥次さん喜多さんが、作者の十返舎一九と間違えられたり、こんにゃく料理の焼け石を食べそうになるという愉快な場面が描かれている。今の静けさからは、当時のそんな賑わいは想像もつかない。

 元禄頃には既にあったといわれる雲出の宿には、江戸時代には旅籠や茶店が多くあったという。しかし、『宗国史』「伊勢志」の中の「一志郡」には、115戸435人、馬5頭、牛2頭と記録されており、大河に面していながら問屋場もなかったというから、比較的小さな宿だったのだろう。集落は伊勢街道の両側に広がっており、昭和初期までは津屋、京屋(商人宿)、大阪屋(木賃宿)といった宿屋が残っていた。また、明治期まであった柏屋(柏屋徳兵衛)は本陣と目されており、明治天皇の御小さ休所として利用された。今も柏屋の古井戸が残されているというが、確認できなかった。円福寺に続く細い道の角に立つ「神明道」の道標は、雲出長常村(現・津市雲出長常町)にある神明社への道を示すものだが、昔はこの辺りが高札場だったようだ。

 かつては雲出川の堤防の土手下沿いにも10軒ほどの民家があったようだが、昭和30年の堤防拡幅工事によって、立ち退きを余儀なくされたようだ。堤防下、伊勢湾台風後に枯れてしまったという島貫の松のあった付近には、無数の石仏が置かれているが、古いものではなさそうだ。

 北勢と南勢地方の境を流れる雲出川は、昔は正式な橋が架けられた記録がなく、江戸初期の慶長19年(1614)頃までは人馬で渡し、それ以降は舟で渡るのが常で、時には仮橋がかけられたこともあったという。江戸後期の文久3年(1863)頃の舟の渡し賃は「十弐文」。現代になると、少し前までは、軽自動車までしか通れない細い旧雲出橋を通って川を渡っていたが、今はその橋は撤去されており、新しく大きな雲出橋を渡る。

 橋の両詰には、大きな常夜灯がそれぞれ1基。北詰の「島貫の常夜灯」は、かつては集落から堤防へかけての曲がり角、川の渡し口に建てられていたが、上記拡幅工事の際に土手上に移され、更に近年、新しく造られた雲出橋の橋詰移された。宮立型、天保5年(1835)建、火袋は東南海地震で損壊したため、コンクリートで作りなおされたものという。

 橋を渡った西小野江にも、寛政12年(1800)建の宮立型の巨大な常夜灯がある。これも、旧道沿いから新しい橋の袂に移動されたもので、かつてはこの常夜灯のあった辺りにも、渡海屋、柿屋、樽屋、松阪屋といった旅籠や民家が多く建ち並んでいたという。旧道沿いの集落中ほどには、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の生家が現存している。

 道なりに進む。肥留地区の文政7年(1824)に江戸の乾物問屋仲間によって建立された常夜灯の付近にはかつては高札場があり、「素麺」や「白玉あめ」を売る店もあったというが、残念ながら今は店も何もなく寂しい限りだ。文政4年(1821)建立の「旅神社/右からすミち」道標を見ながら、人ひとり歩いていないのどかな道を行くと、奈良街道との分岐点に当たる月本追分に至る。追分は当時、役人が常駐する立場で、月本茶屋と呼ばれる茶屋や煮物屋などが建ち並んで旅人の休憩所になっていたという。辻の角には、天保3年(1842)の道標、変形宮立型燈籠兼道標、明治5年建立の宮立型常夜灯がある。

 奈良街道もそそられるが、伊勢街道を行く。少し先の香良洲道との再度の合流地点には、「こわめし」「でんがく」「さざえのつぼ焼き」などを食べさせる曽原茶屋があったという。現在は津からこちら、食べ物にありつける場所がほとんどないが、昔はさぞおいしい匂いがあちこちでする街道だったことだろう。

 ひもじい思いをしながら、時折姿を現す常夜灯や道標に慰められながら先を行く。今はひっそりとした住宅街だが、昔は街道沿いに機関(からくり)的、射的、文楽などの娯楽施設があり、土産物も売られていたという。昔聞えていたはずの賑やかな音の数々は、今は聞えない。

 小津一里塚、鉄道が敷かれてからもわざわざ六軒駅で降りて旅人が見に訪れたという美しい姿の小津常夜灯、三渡橋詰に立つ初瀬街道との追分の立派な「いが越え」道標と行き過ぎ、旧屋号を掲げた古い家々が多く残る市場庄地区へ。大正時代に建てられた宇野家別宅「いちょにや」は、予約をすれば内部見学も可能だ。

 久米の集落に入ると、お地蔵さんが迎えてくれる。嘉永5年(1852)の常夜灯、松阪市岩内への近道を示す「いおちかんのん」道標、「左さんぐう道」道標が郡をなして立っているところを道なりにカーブしていくと、街道左手に長い黒壁が見えてくる。舟木家の屋敷だ。黒壁の終ったところを左に回り込むと、なまこ壁と長屋門のある屋敷正面に出る。立派な長屋門は、文政年間に建てられたものだそう。舟木家は南北朝時代から続く名家で、津藩主藤堂家の城代家老や御典医を勤めてきた家柄だ。舟木家より少し先に松ヶ崎駅。次の松阪宿まであと少しだ。

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