和菓子街道 伊勢街道 追分

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伊勢と都の分かれ道なる追分に立つ

 「神かぜや 伊勢と都のわかれ道なる追分の~」

 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中で、弥次さん喜多さんが伊勢街道に足を踏み入れるくだりである。伊勢街道の出発点は、日永の追分。東海道は、この追分を右に入るが、伊勢街道の旅では、左の道をとる。

 公園のように整備されている三角州に伊勢神宮の鳥居が建ち、嘉永2年(1849)に建立された「左いせ参宮道」の道標や、清水の湧く井戸がある。清水は飲用水になっており、お水取りにやって来る人もいるようだ。

 昔は鳥居は道の上に建っており、人々はこれを潜って伊勢へと旅立っていったのだが、今は鳥居を右手に見ながら、交通量の多い県道103号線の歩道を行く。当面は、旧道然とした情緒ある道は望めない。

 追分から600メートルほど行くと、伊勢街道歩き最初の史跡に出会う。蟹築山密蔵院への道を示す道標4基と、朽ちかけたお地蔵さんだ。薬師如来を祀る蟹築山密蔵院はここから住宅街へ200メートルほど入ったところにある。

 この先、しばらく何の史跡もないままひたすら県道沿いを南下していく。東の空を仰ぐと、四日市らしく、工場から白い煙がたなびくのが見える。歩を進める103号線も排気ガスで充満しており、伊勢街道の「今」はこれかと痛感する。

 やがて、道は内部川を渡る河原田橋にさしかかる。『東海道中膝栗毛』の中で、弥次さん喜多さんがひとり2文ずつ払って渡った仮橋は、今はもちろんない。代わりに、今では当たり前のように無銭で渡れる橋を渡る。ただし、橋は昔の位置とは違うところにかかっているため、少々の迂回を余儀なくされる。

 河原田橋の先は、ようやく鄙びた旧道となる。旧道沿いに、明治時代に建てられた距離標(津市の県庁前の原標からの距離)を見ながら進む。

 河原田神社近くの土手には、庚申塔が8基。うち、自然石のものが6基ある。ここからしばらく行くと、先ほどの県道103号線を斜に渡る。ここからは、鈴鹿市だ。

 両脇に田圃の広がる旧道を進み、JR関西本線の線路を越え、しばし線路沿いを行く。道路の高架を潜ると、寛政11年(1799)の大きな常夜灯が目にとまる。

 鈴鹿川(旧高岡川)を高岡橋で渡り、高岡町に入る。今でこそ狭くて小さな川という印象だが、昔はすぐに増水する厄介な川だったらしい。嘉永6年(1853)にようやく無銭渡しの木橋が設けられ、川を渡るのも随分楽になったようだ。この辺りには松が生い茂っていたというが、今は名残の松が1、2本残っているだけだ。

 鈴鹿川の先の静かな旧道の入口付近には、文化4年(1807)の常夜灯。この先、古代条里制の名残りという真っ直ぐな道を進む。十宮村三軒屋の入口に建つ文化14年(1817)建立、大正9年(1920)再建の常夜灯を見て、幾度か緩やかにカーブを描く道を行くと、神戸宿の入口示す見附跡の石垣が見えてくる。

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その他のおいしい立ち寄り情報

岩嶋屋
  菓子: 追分まんじゅう(1個105円)、道中最中(1個158円)他
  住所: 三重県四日市市追分3丁目4-5
  電話: 059-345-0407
  営業時間: 8:00~19:00
  定休日: なし

 伊勢街道の旅の出発点、日永の追分。東海道との追分とあって、旅人で賑わったこの辺りは、昔から団扇が特産で、特に夏には日永団扇を土産物として買い求める旅人が多かったという。数軒の茶屋が立ち並び、鈴鹿を目指す者も、伊勢に向かう者も、ここで休憩して身支度を調えたり腹ごしらえをしたようだ。

 追分の茶屋の名物は、「まんじゅう」だった。安藤広重も、『東海道五十三次 四日市』の中で、伊勢神宮の鳥居の両脇に「名物 まんじゅう」の看板を掲げた茶屋を描いている。連なる茶屋の中でも、鍵屋は特に名高かった。鍵屋を有名にしたのは、例によって『東海道中膝栗毛』のふたり組、弥次さん喜多さんだ。

 「名物の饅頭のぬくといのをあがりやあせ。お雑煮もござります」と勧める茶店の娘達の中でも、ふたりは美人のいる店を選んで入っていく。饅頭を食べた弥次・喜多は、居合わせた金毘羅参り途中の旅人と、饅頭の食べ比べをすることに。

 金をかけた勝負が始まるが、金毘羅参りの男はめっぽう強く、ふたりは負けてしまう。ところが、店を出て別れた後で、その男が実は食べたふりをして袂に饅頭を隠していたことが分り、ふたりはひどく悔しがるのだった。

 この場面の『東海道中膝栗毛』の挿絵に描かれているのが、鍵屋なのだ。「饅頭のぬくといの」という茶店の女性の言葉から、ここでは蒸したての温かい饅頭が出されていたようだ。残念ながら今は鍵屋をはじめとする茶屋はなくなってしまい、どんな饅頭だったのかも分っていない。

 しかし、現在、追分を東海道方面に進み、近鉄の線路を跨いですぐ左の道に入ったところにある「岩嶋屋」が、「追分まんじゅう」を売っている。こちらの「追分まんじゅう」だが、鍵屋などでかつて売っていた「まんじゅう」と同じものではないが、酒素を使った酒饅頭はなかなかの人気があり、午後にもなると売り切れてしまうこともままある。

 天保8年(1837)創業と書かれた看板が目立つが、この年は厳密には母体となる別の店の創業年のこと。当サイトの東海道・四日市宿のページで紹介している、四日市市内の岩嶋屋のページ内にその経緯は詳しく書かれているが、ここでも簡単に触れておこう。

 三重県菰野にあった川北屋は、天保8年(1837)に創業するも、明治期に廃業する。しかし、川北屋の養女に入った女性が、酒饅頭の酒素を守り続け、後に嫁ぎ先の柴田家で岩嶋屋を開業。これが、現在、菰野や四日市にある岩嶋屋各店舗の大元である。

 追分の岩嶋屋は、菰野の岩嶋屋から50年ほど前に分家した店だ。現当主で二代目となり、四日市の岩嶋屋とは従兄弟関係に当たる。酒素は、菰野の本家から受け継いだものに注ぎ足し、注ぎ足ししながら菌を生かして使っている。つまり、元を辿れば天保8年まで遡ることができるというわけだ。

「毎日、饅頭を作る時に、丼一杯くらいの酒素が残るんです。これを大事に使っています」
 と、二代目のご主人。酒素が死んでしまうため、1日たりとも放置することはできない。そのため、前日の仕込みは欠かせず、結果的に年中無休で営業しているという大変な商売のだ。

 元は同じ酒素ではあるが、追分岩嶋屋の饅頭と、四日市岩嶋屋の饅頭とは随分味が違う。「薄皮饅頭」という名で、餡が透けて見えるほどの薄皮に仕上げてある四日市岩嶋屋の饅頭に対し、追分岩嶋屋のものはむしろ、皮を味わう饅頭だ。

 酒の香りがふんわりとする皮はしっかりとした厚みがあり、やや固めというか、ぎっしりとした感じ。ほどよい水分で、しっとりとしている。甘みはほとんどなく、小麦の甘さがじんわりとしてくる。北海道産小豆のつぶ餡がたっぷりと詰め込まれているが、甘さは控えめなのでさっぱりしている。

 弥次さん喜多さんが食べた追分名物の饅頭とは別物ではあるが、今の追分名物、岩嶋屋の「追分まんじゅう」も是非、現在の旅人に味わって頂きたい逸品だ。胡麻入りの皮に粒よりの餡を挟んだ「道中最中」もお薦め。

oiwake-manju-in-book.jpg享和2年(1802)~文化6年(1806)年刊の十返舎一九著『東海道中膝栗毛』(文政2年/1819再版)の挿絵として描かれた日永追分の鍵屋。弥次・喜多が金毘羅参りの男と饅頭の食べ比べをする。(豊川市二川宿本陣資料館蔵)
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dochu-monaka.JPG(絵とお菓子の写真はクリックすると大きくなります)