和菓子街道 伊勢街道

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伊勢に行きたい伊勢路が見たい~
          歩いて詣でるお伊勢さん

 江戸時代、東海道を旅した人々の目的地は、どこだったのだろうか。商用で京へ向かう人、故郷へ帰る人、物見遊山の旅を続ける人など、目的も辿り着く先も様々だったに違いない。

 そんな中、特に多かったと思われるのが、伊勢神宮への参詣を目的としたお伊勢参りの旅だったのではないだろうか。お伊勢参りが主たる目的でないにしても、せっかくここまで来たのだから、せめてお伊勢さんに詣でてていこうと、寄り道をした人も少なくなかったろう。

 いわゆる「お伊勢参り」は、江戸中期の宝永2年(1705)に本格的になったといわれている。遊山を兼ねて観光参拝ともいえる形式で伊勢詣を行ったり、農村などで講を作って資金を集め、代表者が伊勢参り(代参)をした伊勢講も盛んに行われた。

 こういった伊勢詣では「お陰参り」とも呼び習わされており、2カ月の間に350万人もの人が伊勢神宮に参詣したといわれている。お陰参りは全国的に広まった伊勢詣での大ブームともいえる社会現象で、60年に一度の周期で江戸時代を通して3回、特に大きな参詣運動が起こったといわれている。

 「伊勢に行きたい伊勢路がみたい。たとえ一生に一度でも」「伊勢に七度、熊野に三度、お多賀様には月参り」など、伊勢音頭や俗謡も歌われ、庶民はみな伊勢神宮に参拝することを夢に見たのだった。

 働き先の店や家を抜け出してまで伊勢詣でをした奉公人や子供も少なくなく、こういった場合は「抜け参り」と称されていた。中には旅支度もせず、仕事を放り出して着の身着のままやってくる参詣者も少なからずいた。最盛期には宿が足りず、道端にごろ寝して旅をする人までいたという。

 そんなお伊勢参りの旅人が必ずといっていいほど手に携えていたのが、柄杓である。柄杓は、食物や布施を授かり、道中の幸運をもたらすお守りと考えられ、「杓子神」と呼ばれた。行きに持ってきた柄杓は、帰りに熱田神宮で捨てていくことが、明和8年(1771)に流行したお陰参り以来のお約束となったようだ。

 このように、熱に浮かれたように伊勢へと向かった旅人たちが通った参詣道を、「伊勢街道」「伊勢参宮街道」「伊勢路」などと呼ぶ。東海道関宿と伊勢とを結ぶ「伊勢別街道」もよく知られた伊勢参詣道のひとつだ。

 中でも最も利用者が多く、規模も大きかったのが東海道・四日市宿の先の「日永の追分」で分岐する道だった。この道を、慣習に従って当サイト『和菓子街道』も「伊勢街道」と呼ぶことにする。

 日永から先、伊勢街道は神戸・白子・津・島貫・松阪・上野・小俣といった宿場町を経て、執着手縁である伊勢神宮のお膝元、宇治山田へと到達する。

 この道は、かの『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんも通っている。つまり、このふたり組は四日市から先の東海道を歩かず、伊勢経由で京に向かったのだ。伊勢神宮外宮と内宮の間には、今も弥次さん喜多さんのふたりが投宿したといわれる旅籠も残っている(あくまで物語の中での話しだが)。

 『和菓子街道』でも、弥次・喜多の足跡を追いかけて、東海道を歩いた時に見送った伊勢街道に足を踏み入れることにしよう。

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伊勢街道の宿場町と紹介する和菓子屋