和菓子街道 姫街道

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浜名湖北岸をゆく鄙の道

 引佐細江、乎那の峯と、万葉歌の歌枕にもなっている地を通る鄙の道、姫街道。見附宿または浜松宿から東海道と分岐して、浜名湖北岸を廻って御油宿で再び東海道と合流する姫街道は、東海道のいわゆる脇往還として知られている。

 浜松から御油までは、11里20町55間(約46キロ)あった東海道に対して、姫街道での距離は13里30町(約55キロ)で、より長い道のりだった。しかし、古代から中世にかけては特に交通量も多く、官道としての東海道に指定されていた(つまり姫街道を東海道と呼んだ)時期もあったほどだ。

   霰降り 遠江の 吾跡川楊
            刈れども またも生ふとふ 吾跡川楊

   遠江 引佐細江の みをつくし
            我れを頼めて あさましものを

   花散らふ この向こつ峰の 乎那の峰の
            ひじに浸くまで 君が代もがも

 こういった万葉歌も多く姫街道沿いに残されており、その時代の史跡はむしろ、浜松南岸を走る東海道よりも多く見られる。

 江戸時代の明和元年(1764)からは姫街道は幕府の道中奉行の管轄下に置かれるようになった。幕府では姫街道を「本坂通」と呼んでいた。静岡と愛知の県境にまたがる本坂峠を越える道であることから、古くからこの名があったようだ。

 近世頃から使われ始めた「姫街道」という呼び名は、正式名称の「本坂道」に対する俗称のようなものであった。姫街道という名の由来には諸説がある。一般的には、次の3説が有力とされている。

1)女性に対する過酷な取調べで知られた東海道の新居の関所を避けた。
2)東海道舞阪―新居間の危険な航海を避けた。
3)明応元年(1492)と永正7年(1510)の大津波によって浜名湖口が決壊し、海と繋がったことから舞阪―新居間の海路を今切渡しと呼ぶようになり、縁切れ(離婚)にも通じる今切という言葉を嫌ったため。

 こういった理由から、女性が東海道ではなく本坂通を好んで通ったため、本坂通も「姫街道」と呼ばれるようになったといわれている。

 しかし、江戸時代の主要街道として東海道が整備されたのに対して、徐々に廃れていった本坂通が、「ひねの道」と呼ばれるようになり、それが転じて18世紀頃から「姫街道」と呼ばれるようになったという説がより有力視されている。「ひね」というのは、「ひね生姜」といった言葉などからもわかるように、「古い」という意味だ。

 また、主街道である東海道を男と見立て、それに対する脇街道の本坂通を女に見立てたことからも、「姫街道」という呼び名がしっくりきたのだろう。

 こういった理由からいつしか「姫街道」の呼び名が普及したと思われるが、実際に、京都から公家の姫が東下する際には姫街道が多く使われたし、姫街道を舞台にした女性の物語もいくつか伝えられている。能の演目「熊野」の主人公熊野御前や、親孝行で知られた橘逸勢の娘などである。

 道中奉行によって定められた姫街道(本坂通)の道筋は、浜松宿から気賀へ至る道で、現在も地元の人々は、浜松市内を縦断するこの道を姫街道と呼んでいる。
 これ以外にも、浜松の東の外れの安間を起点とするルートや、天竜川の向こうの見附宿から出発するルートもある。公道ではなかったものの、後者のいずれも庶民が使っていた道であり、途中の三方ヶ原から全て合流して、気賀へと通じている。

 どのルートをとるか迷うところだが、どうせ歩くのなら、最も長いルートを辿ってみたい。その分、発見も多そうだ。最長となると、見附宿からということになる。見附から天竜川の池田の渡しまでの姫街道は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、東海道を馬で行った喜多さんと別れて、弥次さんがひとり歩いている。

 春の陽気に誘われて、古の先達も歩いた姫街道を、歩いてみることにした。春の姫街道はまさに鄙の道、姫の道。沿道には可憐な花々が咲き誇り、旅人を優しく迎えてくれた。

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                                                 『遠湖図』(個人蔵)


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姫街道の宿場町と紹介する和菓子屋