和菓子街道 佐屋路

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海路を避ける東海道の脇往還

 東海道五十三次中、旅人が海路をとるルートは主に2箇所あった。ひとつは浜名湖を渡るルートで、舞阪の今切の渡しから新居の関所の敷地内に直接、船がつけられた。もうひとつは尾張の宮宿から七里の渡しと呼ばれる海路を経て、伊勢路の入口である桑名宿に入るルートだ。

 もっとも、海路なら一気に海や川、湖を渡ることができて楽ではあったが、船酔いする人にとっては遠回りしてでも船は避けたかったはずだ。また、取調べの厳しい新居の関所を避けようとした旅人も少なくなかった。

 そこで、これらの海路と平行してそれぞれ陸路も利用された。今切の渡しに対しては浜名湖北岸を行く姫街道が、宮からの七里の渡しに対しては佐屋路があったのだ。今回は、後者の佐屋路の旅を紹介したいと思う。

 前述した通り、佐屋路は宮宿から桑名宿へと抜ける陸路である。宮からの陸路としては、ふたつの大きな脇往還が分岐しており、ひとつは7つの宿場町を通って中山道の垂井宿と合流する美濃路で、もうひとつが4つの宿場町のある佐屋路だ。

 佐屋路の終着は佐屋宿だが、佐屋から先は佐屋川、木曽川、鰻江川の順に3つの川を下って船で桑名へ向かった。つまり、大河の向こうの桑名に行くには結局、船に乗らなければならなかったということだが、船上にいる時間を半分ほどに縮めてくれたのが佐屋路というわけだ。宮から佐屋までは陸路六里、佐屋から桑名までは船路三里であった。

 佐屋路の歴史は古く、佐屋路の途中にある全国的にも有名な津島神社への名古屋方面からの参詣道として使われていた道がその原型と言える。慶長20年(1615)の大阪夏の陣の際には、家康もこの道を利用しており、また、徳川三代将軍家光は寛永3年(1626)の二度目の上洛の折に復路でこの道を使っている。

 しかし、正式な形で佐屋路が開かれたのは寛永11年(1634)、徳川三代将軍家光が三度目の上洛を果たした時のことである。この時、道は大々的に整備され、佐屋宿には御馳走所として佐屋御殿が設けられた。その後、寛文6年(1666)からは佐屋路は幕府の道中奉行の管轄下に置かれている。重要な道として認識されていた証だ。

 整備された当初、佐屋路の宿場町は万場と佐屋の2宿だけだったが、寛永13年(1636)には岩塚が、正保4年(1647)には神守が新しく宿場町として追加された。もっとも、庄内川を挟んだ両岸にあった岩塚・万場は、半月毎の交代制で伝馬役を果たしたため、実質、佐屋路の宿場は常設3宿といっていい。

 いずれの宿場町も東海道のそれと比べると規模は小さく、旅籠の数も少なかった。宮と桑名という巨大な宿場町に挟まれたいたため、佐屋路で宿をとる旅人が少なかったためである。唯一、船路を控えた佐屋宿には本陣2軒、脇本陣1軒があり、宿場町らしい様相を呈していたようだ。

 一里塚は五女子、岩塚、千音寺、神守、津島の五箇所に設けられたが、現在まで昔のままの姿を留めているのは神守一里塚の片側だけである。かつては街道脇に並んで背を伸ばしていた松の木も今はほとんど残っていない。

 歩く人にとってかわって車の交通量ばかりが増えた現在の佐屋路ではあるが、時折見かける石碑や、黒い板塀に囲まれた旧家が、往時を感じさせてくれる。途中で通る七宝や津島といった古い町には江戸時代から続く老舗も残っているので、散策がてら立ち寄ってみたい。

sayaji-ukiyoe.JPG歌川芳盛画『東海道佐屋』(愛西市教育委員会蔵)

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佐屋路の宿場町と紹介する和菓子屋