和菓子街道 東海道 三条大橋

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492.1kmの旅の終着点、京都・三条大橋

 「みきハ京ミち ひたりハふしミみち」

 山科の追分に置かれた標石(複製)に刻まれた文字である。これに従って、伏見を経て大阪に向かう者は左の道を、京へ向かう者は右の道をとる。今回はもちろん、右の下り坂へ進んで、三条大橋を目指す。

 また、この標石には「柳緑花紅」という言葉も刻まれている。宋代の詩人・蘇東坡の詩文・禅問答などを収録した『東坡禪喜集』に「柳緑花紅真面目」、元代に成立した禅宗の集大成『禪林類聚』に「花紅柳綠」、清代に編纂された『全唐詩』「生査子」に「花紅柳綠間晴空」など、古くから中国で好んで使われてきた禅語だ。

 日本でも、一休禅師の道歌「見るほどにみなそのままの姿かな 柳は緑 花は紅」、沢庵禅師の「色即是空 空即是色 柳は緑 花は紅 水の面に 夜な夜な月は 通へども 心もとどめず 影も残さず」などがある。「柳は緑、花は紅、ただそれだけのこと」と、あるがままの姿を受け入れることを表している。この追分の標石にこの禅語が刻まれたのはなぜか。そして自分はどうか…ここでしばし、己を振り返る。

 逢坂からこの辺りまでの道の脇には、至る所に車石を見かける。かつて実際に牛車を導いていた車石は道路改修の際に取り外されたため、近隣住民がもらって帰って軒先の飾りとして使っているようだ。

 坂を下りきると国道一号線に出る。ここで渡る横断歩道の上から京側に目をやると、少し先の信号機に「京都府」の文字。いよいよ都の外れまで来たわけだ。国道の反対側に伸びる旧道をしばらく行くと、小関越追分に「三井寺観音道」の道標がある。大津で寄り道をした三井寺にはここからも行けるようだ。

 この追分からしばらく行ったところで、京都府に足を下ろす。四ノ宮の徳林庵にある六角堂の角に「伏見六ぢざう」と書かれた標柱を確認し、山科の商店街へと入っていく。商店街には「三条街道」と書かれた横断幕がそこかしこに掲げられている。今更言うまでもないが、やはりこの道は、三条大橋へと通じているのだ。

 山科駅前のRACTOを右に見て更に進む。途中、「右ハ三条通」と書かれた道標を見つける。宝永亥(4)年(1707)に建てられたものらしい。通りがかりの女性が「子供の頃からずっとこれを見て育ったの。懐かしいわ」と、自身の思いで話と共にしみじみ語ってくれた。「三条街道」を過ぎると、今度は「三条通り」と呼ばれる国道に出る。しばらくして、日ノ岡の集落へと続く静かな旧道に入る。この辺りは、かつての街道の道幅がそのまま残っている。

 道はやがて上り坂になる。京へ辿り着く前の最後の難所・日ノ岡峠だ。これがなかなか急で、しかも長い。いつまで続くのだと、少し弱気になってきた頃、水の音が聞こえてくる。「亀水」だ。木食上人がこの峠を越える旅人のために坂を整備し、ここに庵を結んで旅人の休憩所とした。亀の口からはとうとうと水が流れ出ており、背後のほの暗い岩穴の中には、蝋燭の光に照らされたお不動様が浮かび上がっている。

 延々と続くかと思われた上り坂も、大乗寺参道の入口辺りで下りに変わる。しばらく行くと、静かな旧道は三条通りに合流して掻き消えてしまう。長かった東海道中、ここが最後の鄙の道になるのだろうか。そんな感慨が胸をよぎる。なぜだか何度も、今きた道を振り返る。ここから先は、交通量の多い道をひたすら三条大橋に向かって進むばかりだ。

 刑場跡、浄水場を過ぎ、蛇行する道をぐんぐん下ってゆく。蹴上駅前を通り過ぎるが、あまりにも聞き慣れた地名で、変に動揺してしまう。「ひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち」の道標を従えた白川橋を渡ってほどなくすると、黄昏の中に、見慣れた光景が見えてくる。高山彦九郎は、今日も御所に向かって額づいている。

 三条大橋は、天正18(1590)に秀吉の命を受けた増田長盛が大改修し、欄干の擬宝珠の銘に63本の石柱を使った立派な橋に仕上げた。その後幾度となく改修を重ねるも、欄干は今も木のまま。高札場跡に建つチェーンのコーヒーショップにコンビニ。いつも通りの雑踏。橋の下の鴨川は豊かな水を湛え、緩やかに流れている。

さて、あともうひと歩きして、橋を渡ってみようか。そこには先に着いた弥次さんと喜多さんが、待っているはず。

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その他のおいしい立ち寄り情報

奴茶屋
  料理: 弁当「手提げ」(3990円)、コース料理「鴨川」(5040円)他
  住所: 京都府京都市山科区安朱桟敷町23 RACTO・A館2F
  電話: 075-581-1181
  営業時間: 11:30~14:30、17:00~21:30
  定休日: 火曜日(祝日の場合は翌日)

 山科駅前の繁華な通りに面して建つRACTOは、山科の再開発の拠点として平成10年に開業した複合施設だ。ラクトに沿って街道をゆくと、ビルの下のささやかな植え込みに、さりげなく「明治天皇御遺跡」と書かれた碑が建てられていることに気付く。

 これは、明治元年(1868)の御東幸とその御還幸、また明治11年(1878)の御還幸の際の三度にわたって、明治天皇がこの地の本陣「奴茶屋」に御駐輦されたことを伝えるものだ。現在RACTOが建っている辺りは、再開発前にはその奴茶屋の大きな屋敷が残っていたのである。

 時代の流れで立ち退きを余儀なくされ、歴史ある建物は取り壊されてしまった料理旅館の奴茶屋だが、幸いにも今はRACTO2階で料理屋として営業を続けている。

 明治天皇の以前にも、参勤交代途中や上洛中の諸大名、皇女和宮、親王小松宮などが利用した由緒ある奴茶屋の創業は、文安元年(1447)。室町時代から550年近くもこの地を行く旅人を受け入れ、送り出してきた店なのだ。

 店頭に置かれたしおりを見ると、奴茶屋の開祖は南朝の忠臣・楠正成の曾孫若丸、とある。正成の次男である正儀の子、正意と正次は、南朝再興を願って紀州湯浅の砦で兵を挙げたが、北朝方に攻められて落城。

 兄弟はその折に命を落としたが、正次の一子若丸は忠臣の片岡丑兵衛に守られて洛東の山科へと落ち延び、この地の名刹毘沙門堂門跡の御領地内の山中に身を隠して再挙の時を待った。しかし、結局は足利方の重臣山名宗全に見つかってしまう。

 しかし、若丸がまだ年端も行かぬ幼子だったことと、丑兵衛の忠誠心に免じて、山名宗全はふたりの死を免じ、更には捨扶持まで与えることとなった。命を救われた若丸と丑兵衛は武士を捨てて町人となり、山科の地で小さな茶屋を営んで生計を立てた。当時の山科は野党や山賊が出没しては旅人を襲うような奥深い山の中。そこで丑兵衛は、そういった輩から旅人を守るために弓矢を携えて旅人を送迎した。長弓を持つ丑兵衛の姿が奴(槍持ち)に似ていたことから、誰ということなく若丸と丑兵衛の茶屋を「奴茶屋」と呼ぶようになった。

 以上が、奴茶屋創始のあらましである。つまりは、奴茶屋の経営者は楠正成の末裔ということになるのだろうか。現在の当主である白子(はくし)さんにお伺いしてみた。

 「いえいえ、そうではありません。正確には、奴茶屋は若丸をお守りした片岡丑兵衛が始めた店です。その後の若丸や丑兵衛がどうなったのか、子孫はどうしているのか、私どもには分かりません」

 奴茶屋は江戸時代になると佃家に、更に江戸末期には白子家に経営権が移っており、現在のご主人は白子家奴茶屋の五代目に当たるのだという。安永9年(1780)刊の『都名所図会』にも見開きで紹介されている奴茶屋は、佃家の頃の様子を描いたもので、色彩豊かな原画は今でも奴茶屋の入口に飾られている。

 店先に腰を下ろして一服する者や、馬に乗った侍、その侍の槍持ち奴が店先に長槍を忘れて慌てて店に戻る姿が生き生きと描かれており、当時の様子をよく伝えている。店内には「万徳油 佃家製」と書かれた立看板が置かれている。「昔はこの辺りは山の中だったため、油やその他の小間物など、何でも揃えてあったのではないでしょうか」と白子さんは言う。また、この絵の中で奴茶屋店頭に見える細長い角柱は、「毘沙門堂御門跡御領」と刻まれた石碑で、現在はRACTO1階の奴茶屋に続く階段下に置かれている。

 ところで、店名の由来ともなった丑兵衛の弓矢だが、資料には「準国宝級の逸品として現存」するという。国宝でもなく、重要文化財でもなく、準国宝級とはどういうことか。

 「実は、戦後に東京で開催された博覧会に貸し出した後、行方不明になってしまったのです。当時はそういうこともよくあったそうですが…」

 そう言って、白子さんは悲しそうな顔を見せた。実に残念な話である。弓矢は白子さんが子供の頃には、古い店の玄関に飾られてあったという。2メートルほどもある大きな弓矢だったそう。それが、博覧会への出品ということで快く貸し出したものの、何者かによってこっそりと奪い去されてしまったのだという。現在も愛好家が隠匿しているのかもしれないが、その行方はようとして知れない。

 白子さんが生まれ育った料理旅館はもう跡形もないが、奴茶屋は今では一般客でも予約なしで気軽に利用できる料理屋へと生まれ変わった。昼膳のお弁当なら2100円から頂くこともできるという手ごろさから、地元の人も多く利用しているようだ。10月~3月のみの期間限定で出される「ぜんざい」(788円)は、私が訪れた季節には残念ながらまだメニューに上っていなかったが、次回はぜひこれも、食後に頂いてみたいと思っている。栗と生麩入りというから、さぞおいしいに違いない。

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yakkochaya-in-pic.JPG『都名所図会 奴茶屋』 奴茶屋蔵 (許可を得て撮影しています)
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yakkochaya-lunch.JPG(絵と料理の写真はクリックすると大きくなります)