和菓子街道 東海道 大津1

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東海道五十三次目は琵琶湖を望む大津宿

 古くから軍事・交通の要衝であり、京の宇治橋と山崎橋と共に日本三古橋と呼ばれる瀬田の唐橋を渡ると、旧東海道は石山の町並みに入ってゆく。瀬田川沿いを南に行けば、紫式部が『源氏物語』を創案したと伝えられる石山寺にたどり着く。

 東海道は、唐橋を渡ったら石山寺とは反対の琵琶湖方面に進む。やがて、道は本多氏の城下町、膳所に至る。東海道から少し離れて、膳所城址を訪れてみるのもよい。かつては湖面に映る姿の美しさを称えられた膳所城は今は跡形もないが、城址は湖畔の公園として整備されており、市民の憩いの場となっている。

 街道に戻って更に進むと、右手に義仲寺が現る。源平の戦いで平氏を破りながらも、源義経らに討たれた木曽義仲と、義仲を偲び、死後は義仲の塚の隣に葬って欲しいとの遺言を残した俳聖松雄芭蕉の墓があることで知られる寺だ。

 義仲寺を過ぎれば、大津宿の中心はもうすぐ。古くから琵琶湖に面した港町として賑わった大津には、今でも格子のはまった古い商家が多く残る。江戸時代から営業を続けている店も少なくない。

 明治24年(1891)にロシア皇太子ニコライが警備の巡査に斬りつけられて負傷した「大津事件」の碑を見て、ほどなくすると、東海道は北国街道と合流する札の辻に出る。ここから先、道は逢坂山へ向けて南へ折れる。

 大津から京への最大の難所と言われた逢坂を上り詰めると、古関跡を示す石碑群が待っている。平安時代の歌人で琵琶の名手でもあった蝉丸法師が詠んだ歌「これやこの ゆくもかえるもわかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」(百人一首)の舞台となった場所だ。

 逢坂峠付近は「関西の箱根・軽井沢」とも言われ、夏も涼しい避暑地だ。今でこそ歩いてここを通る人もめっきり少なくなったが、その昔、逢坂辺りには上質の菓子屋も多かったという。享保19年(1734)に膳所藩士寒川辰清が編纂した『近江輿地志略』の土産の項には、「饅頭 追分町より逢坂の辺りまで多くの是あり、風味京師に劣らず、外郎餅・羊羹等也」と記されている。

 また、寛政9年(1797)刊の『東海道名所図会』には、「後の山水ここに走り下って沸き出づること瀝々として寒暑に増減なく甘味なり」と走井の名水について触れている。今でも街道沿いの月心寺の境内には、こんこんと清水が湧き出る井筒が残っている。(ちなみに、月心寺の庵主・村瀬明道尼が手ずから作る精進料理はあまりにも有名)

 この名水を用いて、明和年間(1764~72)に走井市郎右衛門が初めて作ったとされるのが「走井餅」だ。『東海道名所図会』では、木箱に丸餅をと並べて、ふたりの女性が売っている様子が描かれている。しかし、実際に当時の走井餅がどんなものだったのか、具体的なことは分かっていない。甘かったのか、辛かったのかどうかも不明だ。

 現代版の走井餅は、求肥で漉し餡を包んだ細面の餅菓子だ。三條小鍛冶(さんじょうこかじ)が走井の名水で名刀を鍛えたことにちなんで、刀のようにほっそりと長い形にしたものとも言われている。現代版は、大津市内の田中太湖堂や走り井餅本家(井筒八ツ橋本舗)などが作っている。

 逢坂には水と餅以外にも名物があった。大津絵だ。江戸時代に発展した民画で、「鬼の念仏」「藤娘」「槍持ち奴」などのキャラクターが、大らかなタッチでユーモラスに描かれているのが特徴。大津の追分辺りで土産物として旅人に売られていたという。

 市内の菓子屋・大忠堂(大津市観音寺8-17、077-522-3204)の「大津絵煎餅」は、現代の大津絵師・高橋松山が描いた10種類の大津絵の印を押した手焼きのカステラ煎餅。民芸品としての大津絵は今でも販売しているが、煎餅版を土産にするのもよかろう。

 逢坂峠を越えたら、後はひたすら下り坂。下りきったところで再び短い坂を上ると、山科の追分だ。左が伏見へと続く道で、こちらをゆけば「東海道57次」の残り4宿を経て大阪高麗橋に通じる。「東海道53次」のルートは右手の道。四ノ宮、山科を過ぎれば、日本橋からの長い旅もいよいよ終盤だ。

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hashirimizu-in-book.jpg享保4年(1804)刊の葛飾北斎『東海道中五十三駅狂画 大津』に描かれた走井。(豊橋市二川宿本陣資料館蔵)(クリックすると大きくなります)
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otsue-sembei.jpg(浮世絵とお菓子の写真はクリックすると大きくなります)

 ・藤屋内匠 「近江八景糖」「大津画落雁」他

    膳所藩御用菓子司と落雁の秘密 → click!

 ・餅兵 「クルミ大福」他

    大津の町のおまん屋さん → click!

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その他のおいしい立ち寄り情報

御菓子司 膳所 亀屋廣房
  菓子: 兼平餅 (2個160円~、夏場は予約のみ)他
  住所: 滋賀県大津市本丸町3-7
  電話: 077-522-3927 (フリーダイヤル 0120-02-3927)
  営業時間: 9:00~18:00
  定休日: 日曜(祝日は不定休)
  URL: http://www.e510.jp/kame1623/

 琵琶湖の水面に映る姿が格別美しいと称えられた膳所城。そのご城下の町は、東海道53次の草津宿と大津宿の中間に位置する。「亀屋廣房」は、この膳所の中、近江八景の一景「粟津の晴嵐」にもほど近い静かな旧道沿いに風情ある店を構えている。京都にある本家の「亀末廣」から暖簾分けし、昭和16年(1941)にこの地で創業した和菓子屋だ。お茶席に上る菓子などで地元の茶人の間でも厚く信頼されている店だが、それとは別に、ここでは「兼平餅」を紹介したい。

 『平家物語』に登場する今井四郎兼平は、清和源氏の流れをくむ木曽義仲の乳兄弟であり、義仲四天王のひとりに数えられた武勇の誉れ高い男だった。しかし、義仲に限りない忠誠を尽くした兼平は、源頼朝の命を受けた義経・範頼軍との合戦で壮絶に戦うも、義仲の死を聞き粟津の松原で自刃して果ててしまう。寿永3年(1184)のことである。塚は松原近くの盛越川に沿って西に300メートルほど行った辺りに造られ、兼平はそこに葬られた。

 そしてその死後、数百年経った後も、兼平は東海道を上り下りする武人の鑑として慕われ続けた。今でも毎年1月21日の命日には、郷里の信州をはじめ各地から兼平の末裔が墓を訪れ、法要を行なっている。平氏を滅ぼして京に入り、朝日将軍と呼ばれた木曽義仲はあまりにも有名で、義仲寺で行なわれる義仲の供養には毎年多くの歴史ファンが訪れる。しかし、義仲の右腕であった兼平の法要は、身内の人々によって静かに行なわれているようだ。

 その昔、付近に民家もない寂しい粟津の松原は、あだ討ちの舞台となったり、追剥がたびたび出没するような物騒な所だった。そのため、旅人の安全を守るために膳所藩主によって設けられることになったのが三軒茶屋である。1300メートルほど続いていたという松並木のほぼ中ほど、盛越川を南へ渡った左手に、伊賀屋(稲枡家)、小田原屋(駒村家)、近江屋(青山家)の3軒が南から順に並んで建てられたのだ。ちなみに、この小田原屋の駒村家の出身は旧大石村小田原(大津市内瀬田川上流)で、神奈川の小田原とは関係がない。

 この3軒の茶店のうち、伊賀屋は酒と肴を、近江屋は小芋やくわいを添えた湖魚料理を食べさせる店だったが、小田原屋が売っていたのが「兼平餅」だった。付近でとれる蓬を搗きこんだ餅を黒砂糖の煮汁につけて(一説には黒砂糖入りの餡を包んで)きな粉をまぶした菓子で、当時は一皿3個8文だったという。

 東海道を行き交う旅人も「兼平の武勇や忠義にあやかりたい」と小田原屋で休んでこれを食べ、この地で勇ましく戦って散っていった兼平に思いを馳せたのだろう。その旅人の中には、俳聖・松尾芭蕉や忠臣蔵の大石良雄(内蔵助)、勝海舟らの名前も挙げられている。

 粟津の松原で、文化3年(1806)に父の仇で450石取りの服部弥三ヱ門を討ち取った前田半次郎や、安政年間(1854~59)に父の仇の旧同藩士長沢左内をあだ討ちした静岡田中藩士青柳出雲のふたりの娘も、兼平餅を食して兼平の剛勇にあやかって本懐を遂げたと言われている。(三軒茶屋が建てられたのは安政年間という説も。その説が正しければ、1600年代に生きた芭蕉や大石内蔵助、1800年代はじめの前田半次郎は兼平餅を食べていなことになる)

 このように、かつては大変な賑わいを見せていたと思われる小田原屋をはじめとする3軒の茶屋も、時代が変わって明治になると、鉄道の開通に伴って客足が途絶え、遂には廃業してしまった。しかしその100年後、兼平没後800年を記念した兼平祭の際、亀屋廣房の先代の手によって、半ば忘れられかけていた「兼平餅」が復興された。

 江戸時代の兼平餅とほぼ同様の現代版「兼平餅」は、もち粉にヨモギと黒砂糖を入れた求肥で大納言小豆の粒餡を包み、きな粉をたっぷりかけたもの。きな粉は、一般的な関東風の薄煎りきな粉よりも煎りの強い京風の黒須きな粉を使用している。800年以上の時を経てもなお語り継がれる武将・今井兼平。かの地を通りかかったら、その語り部となる「兼平餅」を是非、賞味して頂きたい。

kanehira-tomb.jpg今井兼平の墓
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kameya-fuyaki.JPG「ふやき煎餅近江八景」も人気

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鶴屋益光
  菓子: お鉄餅、比叡のお猿さん(各1個137円)他
  住所: 滋賀県大津市坂本4-11-43
  電話: 077-578-0055
  営業時間: 9:00~19:00
  定休日: 水曜日
  URL: http://www.turuya.jp/

 東海道の宿場町の菓子屋を紹介する『和菓子街道』だが、今回は街道からも大津の宿場町からもぐんと離れた比叡山の麓、坂本の門前町にある鶴屋益光を紹介しておきたい。

 鶴屋益光の創業は今からおよそ100年ほど前の明治末期のこと。京都の老舗・鶴屋吉信の一番弟子だった初代が暖簾分けを許されて、坂本に開業したのが始まりだ。筆頭で暖簾分けをしたことにより、四代目となった現在でも鶴屋益光では鶴屋吉信と同様の鶴の意匠を使っている。

 今では坂本を代表する和菓子屋となり、延暦寺や住吉大社などの御用も務めるまでになった。「そば饅頭」(1個158円)や「蕎麦羊羹」(1本1155円)など、坂本名産の蕎麦粉を使った菓子や、比叡の山に棲む猿を模った愛らしい形の最中「比叡のお猿さん」(1個137円)が特に人気が高い。

 さて、この坂本の鶴屋益光を『和菓子街道』でとりあげるのには、それなりのわけがある。鶴屋益光が、かつての膳所名物「お鉄餅」を復活させた菓子屋だからである。

 「お鉄餅」は、粟津にもほど近い膳所中庄の旧伊勢屋町の四つ辻にあった「俵屋長角軒」という茶屋で振舞われていた名物菓子だった。この辺りは大津と膳所を結ぶ「船場街道」と呼ばれる脇道が通っていたところで、浜大津を拠点としていた船大工たちで長角軒はいつも賑わっていたという。長角軒という店の名は芭蕉の高弟である榎本(宝井)其角がつけたとの逸話が残されていることから、江戸時代の早い時期からあった店のようだ。

 そして「お鉄餅」は、この茶屋で働くお鉄という女性が作ったことからその名がつけられたという。お鉄は美人と評判の茶屋の看板娘。膳所城とお鉄餅を唄った歌の中で、「お城仰がぬ人はなく、此の餅ほめぬ者もなく、景色をほめぬ人もない、お鉄にほれぬ者もない」とまで称されるほどの人気ぶりだったようだ。

 お鉄もさることながら、餅も評判が高かった。赤穂浪士の大石良雄(内蔵助)や赤埴源蔵(重賢)らも、身寄りがこの近くに居住していたことから長角軒に立ち寄って「お鉄餅」を賞味したという記録が文献に残されている。

 しかし、明治維新後に膳所城が解体され、鉄道の開通によって街道をゆく旅人が減ると、長角軒も「お鉄餅」も膳所から姿を消してしまった。ただ、「お鉄餅」だけは語り継がれ、名物がなくなることを惜しんだ鶴屋益光の先々代が、古い資料を元に再現することになった。それが、80年ほど前のことである。現在のお鉄餅は、和三盆糖を用いた餡を、近江産の上質なもち米に黒砂糖を混ぜて搗いた餅で包み、大麦を炒って挽いたはったい粉(麦焦がし)をまぶした餅菓子だ。繭玉くらいの大きさで、黒砂糖が入っているため、餅の色はうっすらと茶色い。

 「昔はきな粉よりもはったい粉の方が手軽に使えたのでしょう」と、四代目の女将さん。お鉄さんが作っていた頃の「お鉄餅」はきっとこんなにも滑らかで甘くはなかったのだろう。それでも、素朴なはったい粉の香りが懐かしさを誘い、長角軒の店先で餅を旅人に出すお鉄さんの姿が、おのずと目に浮かぶようである。

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tsuruya-osarusan.JPG(お菓子の写真はクリックすると大きくなります)

三井寺力餅本家
  菓子: 三井寺力餅(土産用6本600円~)
  茶房: 力餅3本+お茶(420円、+抹茶は630円)
  住所: 滋賀県大津市浜大津2-1-30
  電話: 077-524-2689
  営業時間: 7:00~19:30
  定休日: なし

 湖国大津に広大な伽藍を営む園城寺。天台寺門宗の総本山であるこの寺は、天智・天武・持統の三帝誕生の際に産湯として用いられた霊泉があることから「御井の寺」「三井寺」と呼び慣わされている。天智6年(667)に大津に都が遷された際、都の南を守護する目的で寺院が建てられたのがその始まりと言われている。

 この三井寺において、国宝に指定されている慶長4年(1599)建立の金堂と共に名高いのが、日本三名鐘のひとつに数えられる「三井の晩鐘」だが、これとは別にもうひとつ、ここには不思議な梵鐘が伝わっている。

 「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれるのそれは、その名の通り、『平家物語』でお馴染みの弁慶に由来する鐘である。その昔、延暦寺と三井寺は犬猿の仲で、何度となく激しい戦いを繰り返していた。怪力で聞こえた比叡山の荒法師・弁慶を筆頭に、延暦寺の僧たちは大挙して三井寺に攻め込んだのも、そんな折だった。

 三井寺の堂塔伽藍を焼き尽くした弁慶は、戦利品として三井寺の梵鐘を奪い、比叡山まで引きずり上げて持ち帰ってしまった。ところが、比叡山の釣鐘堂にこの鐘を吊るして撞いたところ、鐘は美しい音色を響かせる代わりに「イノー、イノー」と泣き叫ぶような音を出した。「イノー」とは「帰りたい」という意味。これを聞いて怒った弁慶は「そんなに帰りたいか」と言って、谷に鐘を放り投げたという。これが今も三井寺に残る「引き摺り鐘」である。

 弁慶の怪力譚はともかく、この鐘には無数の傷や欠損があることや、三井寺に伝わる『寺門伝記補録』には文永年間(1264~1275)にこの鐘が叡山に持ち去られていたとの記録があるため、実際にこの鐘が山寺両門の抗争に巻き込まれたことには間違いないようだ。

 その後、数百年経った慶安(1648~1652)の頃、この鐘にまつわる弁慶の怪力に因んだ「力餅」を売る者が現れた。門前の茶店で売られていた評判の餅に、弁慶の怪力をひっかけたのではなかろうか。これが「三井寺力餅」の始まりと言われている。創案者の店と同じ店かどうかは不明だが、現在でも三井寺境内には本家力軒という文化年間(1804~1817)から続いているという茶店がある。

 その境内の本家力軒とは別に、三井寺から少し離れた浜大津にも、昔から変わらず力餅を売る店がある。三井寺力餅本家だ。創業は明治2年(1869)というが、それは正式に営業登録を行なった年で、実際にはそれ以前から力餅で商売をしていたようだ。京阪電鉄石坂線の浜大津駅は、今でこそ湖畔に近い辺りにあるが、かつては三井寺力餅本舗の目の前に駅舎があったという。当時の写真が店内に展示されているが、汽車で大津を訪れる旅人や三井寺の参拝客は、浜大津駅で下りて、そのまま吸い込まれるように三井寺力餅本舗に入っていったのだとか。

 今は駅も数十メートル離れてしまったが、三井寺力餅の人気は相変わらず。平成8年には滋賀県内のお土産No.1にも輝いた実績を持っている。土産用の折を持ち帰ることもできるが、時間があるのであれば、ぜひ、店内の茶房で頂きたいところだ。

 毎朝、搗かれる餅に、砂糖水で作った特性の蜜を絡ませ、たっぷりのきな粉をまぶす。土産用でも店内で頂くものでも、この作業は全て注文が入ってから行なわれる。きな粉は青大豆粉にほんの少々の抹茶と砂糖を混ぜたもので、抹茶のほんのりとした渋みで砂糖の甘さを引き立つ。1串に3つついている小ぶりの餅は柔らかく、口の中でふわっととろけるよう。

 ちょっとした庭が設えてあって風情のある奥の茶房も良いが、大津絵の大家・高橋松山の作品を展示した2階のギャラリー・スペースで頂くこともできる。ユーモア溢れる絵柄の大津絵を眺めながら力餅と抹茶やコーヒーを、という人は、店の人に「2階で」とお願いしてみて。

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onjoji-chikaraken.JPG三井寺境内の本家力軒

onjoji-chikaraken-chikaramochi.JPG力軒の力餅

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(お菓子の写真はクリックすると大きくなります)

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miidera-chikaramochi-miyage.jpg三井寺力餅本家のお土産用の折