和菓子街道 東海道 草津

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ふたつの街道が出会う大宿場、草津

 東海道と中山道というふたつの大きな街道の分岐点として賑わった草津宿は、江戸から52番目の宿場町だ。現存する本陣としては最大級と言われる草津宿本陣は7年もの大改修の末、近年になって一般公開され、宿場散策の拠点となっている。『忠臣蔵』の浅野内匠守や吉良上野介、徳川慶喜、土方歳三といった時代劇でもお馴染みの面々の名が記された大福帳(宿帳)などが残されており、歴史を肌で感じることができる。

 商店街を抜けると、草津宿氏神の立木神社が見えてくる。近くには、江戸時代から旅籠を営んできた野村屋旅館(草津市草津3-12-30、電話:077-562-0138)が昔のままの佇まいで残っている。江戸時代には旅籠屋利兵衛の屋号だったこの旅館も今では一般客の予約はほとんどとっておらず、常連客のみ宿泊できるようである。

 草津宿をあとにし、野路の一里塚を経て更に進むと、ところどころに松並木の残る住宅街に出る。大津市内に入ってしばらくゆくと出会うのが、瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」だ。「急がば回れ」の語源として知られる室町時代の連歌師・宗長の歌「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」は、波風の強い琵琶湖を航路で渡るより、陸路で瀬田の橋を渡った方が早く京に馳せることができる、と詠ったものである。

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その他のおいしい立ち寄り情報

うばがもちや(南洋軒)
  菓子: うばがもち(18個入661円~)他
  住所: 滋賀県草津市大路2-13-19 (国道一号線店)
  電話: 077-566-2580
  営業時間: 平日 9:00~19:00
          土日祝8:00~20:00
  定休日: なし
  URL: http://www.nanyouken.co.jp/

 東海道の名物として府中安倍川の「安倍川餅」と双璧を成すのが、草津宿の「姥が餅」だ。草津名物として天下にその名を知られた姥が餅だが、享保19年(1734)の『近江輿地志略』の「巻之九十八・土産第二、栗太郡」には、「矢倉村の製造なり、然れ共人皆草津の姥が餅といふ」とあるように、姥が餅屋は元々、草津と町家続きになっていた矢倉の立場の内にあった。

 矢倉には東海道と矢橋の舟渡へ行く矢橋道との分岐点があり、今でもその追分に寛政10年(1798)に建立された追分道標が残されている。この角を西に曲がれば、近江八景の「矢橋の帰帆」として知られた琵琶湖東岸の矢橋湊に至る。この追分には現在は瓢箪専門の瓢泉堂が店を構えているが、江戸時代にはここに、姥が餅屋があった。この地の古い俗謡に「勢田(瀬田)へ回ろか矢橋へ下ろか ここが思案の乳母ヶ餅」(原文ママ)と唄うものがあるが、街道の分岐点にあった姥が餅屋は、その立地の良さも手伝って大変な繁盛振りだったようだ。広重の浮世絵にも、道標と姥が餅屋が描きこまれている。

 古今東西を問わず、名物の故事来歴には諸説がついて回るものである。もちろん、姥が餅も例外ではない。

1)江戸時代に姥が餅屋を営んでいた金沢家の記録『金沢よし子家文書』によると、初代の福井久右衛門重好は、近江源氏の正統・佐々木家の旗下であった旧勢田庄奉行・矢倉越前守藤原国重の後胤であったが、妻の「との」は重好の早世後、餅屋を始めた。とのが作った餅は、後に姥が餅と称されるようになった。(家柄について要約すると、初代は佐々木家に仕えた藤原家の出の福井氏、餅を売ったのはその妻)

2)近江源氏正統・佐々木左京太夫義賢の後胤は寛永の頃(1624~1644)まで代官を勤めていたが、わけあって誅滅された。残された三歳の曾孫を、乳母が預かり、郷里の草津に戻って密かに養った。乳母はその糧として餅を作っては街道に出て、大名高家の乗物などにすがって「懐きたる子はよしある子なり。其養ぐさえ」と言っては泣いて餅を買ってくれるよう訴えたため、情け深い人々が乳母の餅を買っていった。

 後には乳母は小さな店を開けるようにまでになり、乳母が作る餅も「乳母ヶ餅」と呼ばれるようになった。これは『近江名所絵図』(文化11年/1814年刊)に記された由来である(「乳母ヶ餅」は原文ママ)。

 佐々木義賢が織田信長に滅ぼされたのは永禄12年で、『伊勢参宮名所図会』(寛政9年/1797年刊)にも同じ由来が見える。現在姥が餅を製造・販売している南洋軒は、姥が餅の箱などにこの年号を記している。俗に寛永説とよばれるのがこの説だ(説1も登場人物の関係は異なるが同じ頃を舞台としている)。(この場合、初代は佐々木家の血筋で、餅を売ったのは血のつながりのない乳母の女性。この乳母の忠臣譚が通説として最も広まっている)

3)福井家(説1)の二代目利左衛門重孝は瀬川と改姓し(理由は不明)し、八代目の瀬川都義が寛政11年(1799)に皆川淇園(1734~1807)に依頼して書かせた『養老亭記』には、姥が餅の起源は応永年間(1394~1428)であると書かれてある。養老亭とは、すっかり大きな店となった姥が餅屋の広い庭園を伴った「姥ヶ餅屋養老亭」のことで、『近江名所絵図』にもその庭園を眺める旅人の姿が描かれている。養老亭には大名が立ち寄る座敷もあり、鹿児島藩や徳島藩などの大名が参勤交代の途上に食べたという記録も残っている。俗に応永説と呼ばれる由来説だ。

4)『近江国輿地志略』には次のように記されている。姥が餅を最初に作って売ったのは「乙(おと)」という名の老婆で、 徳川家康が「大坂の捷(しょう/戦)」の際にこの地を通ったため、乙姥が餅を献上した。家康はこれをいたく気に入り、乙姥にお目通りし、「甚佳味なり」と誉めた。家康は軍卒にもこの餅を分け与えたため、この餅のことは広く知れ渡るようになり、やがては「姥餅」(原文ママ)と号すようになった。

 乙姥は103歳まで生き、慶安元年(1648)に亡くなった、とまで明記してあるが、当時としてはたいそう長生きをしたようだが、家康という大物が登場するあたり、やや眉唾ものではある。上記の戦いは大坂の陣のこと。家康が関が原の戦いの後に大津城に入ったのは慶長5年(1600)の9月20日であり、姥が餅のこの由来説は俗に慶長説と言われている。

 このように数々の説が挙げられる姥が餅だが、地元の医者であり文筆家でもあった山本栗斎(1843~1909)が『近江栗太郡志』に記したところによると、慶長19年(1614)より前から矢倉村に餅屋が1軒あったのは確かなようである。

 当初は姥が餅を木皿に乗せて出していたが、やがて陶器や素焼の専用餅皿を特注で焼いて、それに餅を乗せて出すようになった。それだけ、経済的に余裕があったということだろう。上記の説3にも登場する八代目当主の瀬川都義は、餅皿に限らず、京都の名陶工に依頼し、「姥餅」の窯印をつけた各種茶器を焼かせていた。後には店の近くに窯を作らせたほどの凝りようだったという(写真参照)。

 さて、由来に諸説があるように、名物にはお家騒動や経営権騒動などもつき物である。姥が餅屋も例外ではない。上記の説3でも述べたように、姥が餅屋は二代目の頃に福井家から瀬川家に姓を変えている。その後、姥が餅は飛ぶように売れ、いつしか街道名物になり、姥が餅屋も大きな店を構えるようにまで成長した。

 この都義の頃(文化年中、1804~1824)、姥が餅屋に一大騒動が起こった。詳細は定かではないが「不得違の義」によって闕所となってしまったのだ。商売が繁盛していると、それだけ役所にも目をつけられやすくなるというのは、今も昔も同じだったようだ。

 いわゆる営業停止処分を受けたわけであるが、文化5年(1808)になると膳所の中庄村専光寺(現大津市中ノ庄の専光寺)の推挙によって長浜在坂田郡新庄東村(旧坂田郡近江町、現米原市) の金沢治兵衛という人物が金六百両と銀二貫五百匁を膳所郡方御役所に上納し、姥が餅屋を再興させた。都義の跡を継いだ九代目の次郎右衛門好忠は、金沢家の次代の次兵衛に持参金をして養子となって姥が餅屋を相続するが、以来、好忠は金沢家の分家となり、瀬川から金沢へと改姓する(福井→瀬川→金沢)。

 これで一件落着かと思いきや、天保14年(1843)になると再び膳所郡方役所から呼び出しがあり、同11年に役所から下付された拝借銀二十貫目を元利ともに早急に返却すべしとの申し渡されてしまう。役所も財政難だったのだろうか。急な申し渡しに姥が餅屋は困り果て、なぜこのような事態になったのか探ろうと奔走したという。しかし、その真意が分からぬまま、数日後には再度の呼び出しがあり、未済を不埒として姥が餅屋の家財を残らず没収すると通達されてしまったのだ。

 そんな折、下笠村(旧栗太郡、現草津市)の中条権左衛門という男が突然現れ、金七百両を上納して姥が餅屋の利権の譲り下げを申し入れ、それが認められることになってしまった。(一両は現代の10万円ほどか)

 姥が餅屋が人手に渡ってしまうことを危惧して救済に乗り出したのは、長浜の本家・金沢次兵衛だった。分家である姥が餅屋の次郎右衛門好忠の拝借金(銀二十貫目)を本家で返済し、他家への譲り下げを食い止めようとしてくれたのだ。ところが、中条権左衛門はその後も折に触れて姥が餅屋の利権を狙い続けた。弘化2年(1845)には15カ年の「姥ヶ餅仕法」が立てられ、中条権左衛門が15年という期限付きで姥が餅屋を経営することになった。この取り決めによって、15年後には店の経営権は金沢分家に戻ってくるはずだった。

 しかし、物事はそう簡単には運ばなかったようである。15年後の安政4年(1857)に分家の金沢次郎右衛門が「御奉行様」に約束の15年が過ぎたので店を返してもらいたいと訴えたのだが、中条家も代替わりをしており、先代の権左衛門からの遺言はないので店の返却については分からないと言う。奉行所も奉行所で関係者同士で問題を解決しろと言う。

 役所に見放されてしまった金沢分家は途方に暮れた。当初、状況がよく分からないと言っていた中条の二代目権左衛門は、天保の頃に立て替えた七百両を返却を要求してきた。実際には、先の「姥ヶ餅仕法」での取り決めで七百両の返却をしない代わりに、15年間の経営権を譲ることになっていたのに。

 文久元年(1861)になると、中条権左衛門は七百両のうち百両は勘弁するので、残りの六百両を返せば経営権も差し戻すと言ってきた。それほどの資金を即座に用意することができなかった次郎右衛門は、以下の妥協案を提示する。手元にある二百両に加え、田畑山林や家財道具を売り払って作った二百両をまずは支払い、残りの二百両は20年の月賦で無利息で返却する、という案である。この15年の間の営業利益だけでも、元金分の利益を上回るだけの収入があったはずであり、無利息でもいいではないか、というのが次郎右衛門の言い分だった。姥が餅屋の元経営者というだけあり、その計算に間違いはなかったのだろう。

 ところが、どうしても経営権を戻したくない権左衛門はこの案を受け入れず、六百両の一括払いを要求した。次郎右衛門が渋々これを受け入れると、権左衛門は今度は売却予定の田畑などの値踏みを再度行えと迫り、その方法など詳細に渡って文句をつけてきた。嫌がらせ以外の何物でもない。次郎右衛門は、百両の勘弁があるため権左衛門が図太く出ているのだと思い、いっそ全額の七百両を返却すると申し出た。

 しかし、権左衛門はそれさえも却下し、その後も両家の争いは延々と続いたのだった。姥が餅屋の経営権を廻る騒動に片がついたのは、元治元年(1864)のことである。その時の済まし證文が今も残っているが、この騒動からも分かるように、姥が餅の経営権はそれほどまでに魅力的だったと言えよう。それにしても、約150年経った現代日本でも似たような話を耳にするのだからおもしろい。

 その後の姥が餅屋であるが、せっかく経営権を取り戻した金沢家に代わって明治になると中野家が経営者となっている。汽船が山田(現草津山田港)に通い始めた明治初期には、草津宿内の六丁目(現草津三丁目)、東海道と山田道との追分辺りに支店が出された。また、草津に鉄道が敷かれ、駅が完成した明治22年(1889)には、草津駅構内でも姥が餅の販売が行われるようになった(中野清蔵の頃)。さらに、中野伝助の代の明治25年(1892)には、店は駅前の中山道沿い(旧大路井村)に移転している。

 現在、「うばがもちや」を経営しているのは、明治22年創業の折詰弁当屋・南洋軒だ。国道一号線沿いや駅前をはじめ、数カ所に店舗を構えている他、各所の土産物売り場でも「うばがもち」を販売している。駅前の店舗などでは腰掛けてその場で食べることができる茶店形式を一部残しおり、うばがもち5個と抹茶のセット510円を頂くことができる。

 現在のうばがもちは乳母にかけて乳房に似せたものと言われ、地元の契約農家の有機米から作られる餅を北海道小豆で包み、すりおろした山芋を混ぜた白餡が上部に乗せてある。20年以上前にはこの白餡の部分は砂糖だったそうだが、いつから乳房の形になったのかは不明だ。作り手も姿も時代と共に移り変わってきたうばがもちだが、街道を歩く者にとっては一度は味わってみたい東海道一の名物である。

hidari-yaguramichi.jpg矢橋道への道標
ubagamochi-dish.jpg明和三年(1766)の姥餅皿(素焼菊花文小皿)。直径10cmの素焼きの丸皿で、見込みの中央部に12弁の菊花を陽刻し、ヘラ書きで「姥餅」の行書字が刻み込まれてある。裏側には瓢箪の形が刻まれている。これに姥が餅を乗せて客に振舞ったのだろう。また、松尾芭蕉が詠んだ「千代の春 契るや尉と姥ガ餅」の句を描いた餅皿もある。姥ヶ餅屋の主人が焼かせた「姥餅」の銘が入った焼き物を総じて「姥餅焼」と呼ぶ。(草津宿街道交流館・中神コレクション蔵)
ubagamochi-ukiyoe.jpg歌川貞秀『東海道五十三次正景 草津宿』(万延元年刊/明治2年再版)に描かれた当時の姥が餅。(草津市教育委員会蔵)
ubagamochi-ukiyoe-closeup.jpg鳥瞰図上方には、形の整った腰高の「一盆五十銭 上製」と崩れた形の「同十五銭 下製」の2種類の姥が餅が描かれている。上製は今よりもやや大きめで、姿も異なる。左は、石部で作られていたという麻糸で括った五色団子。宇津之谷峠の十団子くらいの大きさとある。こちらも興味深い。
ubagamochi-model.JPG「姥が餅」の模型(二川本陣資料館)
ubagamochi.JPG現代の「うばがもち」
ubagamochi-signboard.JPGうばがもちやの古い看板

ubagamochi-shop.JPGうばがもちや国道一号線店 (浮世絵とお菓子の写真はクリックすると大きくなります)

魚寅楼
  料理: 本陣ご膳(3150円、4,500円、昼膳のみ)他
  住所: 滋賀県草津市草津2-12-3
  電話: 077-562-2202
  営業時間: 11:30~14:00
          17:00~22:00
 定休日:月曜日 (祝日の場合は翌日)、年末・年始(12月29日~1月5日)
      ※夏期と夜は要予約
 URL: http://www.uotorarou.com

 その料亭の店頭に立って、思わずたじろいだ。ジーンズに長袖のパーカー、襟元にはスカーフ、日焼け防止の手袋と帽子に日傘、足元は登山靴というけったいな格好の自分と、先ほど石部宿手前の造り酒屋での試飲で泥酔してしまった相方を交互に見つめる。本当に、我々風情がこの店の敷居を跨いで良いものか思案していると、中から番頭と思しき男性が威勢よく出てきて、歴とした予約客の私たちを気持ちの良い笑顔で迎えてくれた。

 草津宿本陣前の細い路地を入り、複雑に入り組んだ小路を行った先に店を構える魚寅楼。江戸時代には旅籠を営んでいたという草津きっての老舗だ。数年前までは旅館として営業していたが、現在は料亭としてのみの利用が可能である(要予約)。

 現在の魚寅楼の名物料理は「本陣御膳」だ。宿場町にはこういったネーミングの観光客向け料理が多いものだが、魚寅楼に限って言えば、これははったりでは決してない。なにせこの店、宿場時代には本陣に宿泊する諸大名をもてなすための料理を調整していたほど由緒ある店なのだから。

 とはいえ、現在の魚寅楼で供される料理が、江戸時代の大名達が食した料理そのものというわけではない。幾世もの時代を経る中で、それぞれの時流にあった料理を提供するというのも、老舗が担う役割のひとつかもしれない。本陣御膳には、近江牛の時雨煮や琵琶湖産の海老といった地のものを取り入れられるように心がけているという。私たちが訪れたのは盛夏だったため、刺身は水を打った蓮の葉に盛り付けられていた。涼しげな演出に、すっと暑さが引く。茶道でもこの季節には葉蓋といって葛や蓮などの葉を水差しの蓋替わりにするが、そんな風雅な趣向も嬉しい。

 食事の後は、奥座敷に面した庭を拝見させて頂いた。蓮が咲き誇る池を配した庭は、昔のままだという。炎天下、庭にしばらく出ていたため、店に入ってから引いていた汗が再び体中から噴出した。私の頬を伝う汗を見て、女将さんが「宜しければ、うちでお風呂にお入りになって」と声をかけて下さった。「ちょっと前まで旅館だったのですから、お客様用のお風呂はいつでも使える状態ですよ」と。さすがにそこまでのご好意に甘えるわけにもいかず、辞退させて頂いた。料理や庭もさることながら、女将の温情からも老舗の風格というものが伝わってきた気がした。

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(料理の写真はクリックすると大きくなります)