和菓子街道 東海道 四日市1

yokkaichi-main-pic.jpg

伊勢参宮道との追分のある宿場町、四日市

 桑名方面から朝日、富田を経て歩を進める。途中、町屋川、朝明川、米洗川、海蔵川を渡るが、川原町を過ぎて5つめの三滝川を渡った辺りからが、四日市の宿内となる。

 いわずと知れた日本有数の工業都市、四日市。この街の名を聞くと、コンビナートの煙突から立ち上る白い煙を連想してしまうが、ここもかつては東海道の宿場のひとつだった。旧道は、四日市宿内を北南に切るように走っている。

 江戸時代、宮宿からは桑名宿だけでなく、この四日市宿にも渡船が出ており、港町としても賑わいを見せた。宮から四日市へは海上10里(約40キロ)で、宮-桑名間の「七里の渡し」に対し、宮-四日市間は「十里の渡し」と呼ばれていた。船賃は乗り合いでひとり47文(500円弱)だったという。また、この先の日永には伊勢参宮道への追分もあったことから、四日市は京へ上る旅人はもとより、お伊勢参りの旅人も多く集った。そのため、宿場としての規模も比較的大きかった。

 三滝橋からは、しばらく裏通りのような道をゆく。広い国道164号線を横断した先は少し分かりづらいが、文化7年(1810)建立の道標が道先案内をしてくれる。四日市宿内はこの少し先の諏訪神社辺りまでだ。

 諏訪神社から先の旧道は、「ライオン通り」呼ばれるアーケード街だ。アーケードを抜けると、四日市駅前通りにぶつかる。この通りを西にゆけば、現在の四日市の繁華街である近鉄四日市駅前に出る。この先は近鉄内部線に沿って進む。マッチ箱のような可愛らしい内部線の車両が時折姿を見せると、なぜか遠足気分になって足取りも軽くなる。

 道はやがて、日永の追分に至る。伊勢神宮の大きな鳥居や石碑、常夜灯などがあり、数ある東海道中の追分の中でも、最も大きな目印になっている。鳥居は安永3年(1774)の建立以降、遷宮ごとに建て替えられているものだ。道路に囲まれた三角州状の追分史跡内には、鈴鹿山脈から流れ落ちる伏流水が湧き出る水屋があり、京都の菓子屋もわざわざお水取りにやってくるほどの名水なのだとか。この追分の左が伊勢参宮道、右が東海道だ。

 この辺りはかつて、追分村と呼ばれ、饅頭が名物だったという。かの『東海道中膝栗毛』の中でも、弥次さん喜多さんが追分の鍵屋という茶屋で饅頭を食べている。茶屋の女が「めいぶつまんぢうのぬくといのをあがりまアせ」と勧めていることから、ここでは蒸したての「ぬくとい」(温かい)饅頭で客をもてなしていたことが分かる。この饅頭がたいそう旨かったらしく、喜多さんは自分の分を平らげてしまうと、「もっとやろうふか。いくらでもはいるよふだ」と欲を出して、弥次さんにたしなめられてしまう。ちなみに、物語はその後、居合わせた他の客との饅頭の大食い競争に発展する。

 今はというと、近鉄内部線の追分駅のすぐ近くの岩嶋屋で、「追分饅頭」を買うことができる。ただし、この店は菰野や四日市の岩嶋屋からの分家で、創業50年ほどである(詳しくは下の岩嶋屋のコラムをご覧下さい)。追分の岩嶋屋については、いずれ伊勢街道のページで紹介したいと思う。

hiroshige-yokkaichi.jpg

on-yokkaichi-bridge.JPG

yokkaichi-arcade.jpg

 ・笹井屋 「永餅」

    藤堂高虎の武運を招いた日永名物 → click!

 ・岩嶋屋 「うすかわ饅頭」他

    血を越えて受け継がれてきた酒素の味 → click!

nishitomita-tokaido.jpg

tomita-milestone.jpg
chikaraishi.jpg

shirasuka-nagorimatsu.jpg
shirasuka-lamp.jpg

hadu-signpost.jpg
to-yokkaichi.JPG

yokkaichi-bridge.jpg
yokkaichi-river.jpg

utsube-line.jpg
minamimachi-signpost.jpg

yokkaichi-arcade-mozaic.jpg

その他のおいしい立ち寄り情報

紅屋
  菓子: 汐見 (10個入840円~、18個木箱入1995円)
       羊羹 (各種1棹1260円)、黄肌餅 (20枚入1155円)他
  住所: 三重県四日市市中部11-5
  電話: 059-352-3774
  営業時間: 8:30~19:00
  定休日: 火曜日

 三滝橋を渡ると、四日市の宿場町に入る。有名な永餅の笹井屋の前を通ってさらに進むと、やがて道は交通量の多い国道164号線にぶつかる。街道は164号を横断するが、ここで道を渡らず左折してすぐのところに、「紅屋」という和菓子屋がある。現在の建物は10年ほど前に建てられた新しいものだが、実はこの店、四日市市内でも屈指の老舗である。

 紅屋の創業は今からおよそ250年ほど前の宝暦年間(1752~1765)、45歳の多気克典さんは八代目の主である。店頭で接客をしている御母堂の連れ合いであった先代が平成17年に他界し、それまで大阪の菓子屋で修行をしていた克典さんが跡を継がれた。

 御母堂によると、紅屋の名は、江戸時代には化粧の紅も扱っていたことからつけられたのだという。ただ、紅を売る店から菓子屋に転身したのか、菓子屋と共に紅も売っていたのか、はっきりとしないようだ。御母堂はおそらく後者だろうとおっしゃるが、そういった商売の仕方が一般的だったのかどうかも定かではない。もしかしたら、菓子や紅以外にも雑多なものを売っており、中でも紅の評判が良かったのかもしれない。

 明るい店内に入ると、壁に掛けられた一枚の日本画が目に留まった。江戸時代の紅屋の様子を描いたらしい絵で、侍が店に入ってくるのを見て、店の者が地面に手をついて頭を下げている。店の前の通りは、町人や旅人で賑わっているようだ。

 「これは、先代の曽祖父に当たる人が描いたものです。明治頃の絵なのでしょうね」
と、御母堂。なるほど、絵の左端に「江戸時代当時の面影」とあるから、江戸時代当時の絵でないことは確かのようだ。しかし、この絵の中で、店先の看板にも書かれている「汐見」は、練羊羹と並んで紅屋が江戸時代の頃から実際に作っていた代表銘菓だ。

 紅屋の汐見が生まれたのは文化文政年間(1804~1830)の頃だという。今でこそ工業都市として知られる四日市だが、その頃はまだ、白砂に青松が影をさす風光明媚な湊町で、海岸には潮の満干を告げる白い波頭が見えていたという。その波頭に散る水玉を題材にして紅屋の三代目が考案したのが、汐見というわけだ。

 汐見は、中に餡を入れた寒梅粉と砂糖の真っ白な打ち物(落雁に似た干菓子)で、名前こそ若干違うものの日本各地で同類の物が見られる。例えば、『和菓子街道』の「大津宿」のページでも紹介している藤屋内匠の「汐美饅頭」がそれ。また、紅屋と同じ三重県内でも、桑名の花乃舎の「大内饅頭」も別名「汐見」と称しており、紅屋や藤屋内匠同様、餡を入れた半円形の打ち物になっている。

 また、もっと全国的に有名なところを挙げれば、赤穂名物の「塩味饅頭」がある。ただし、こちらは打ち物には変わりないが、赤穂の塩をふんだんに使った名前通り塩味の菓子である。ちなみに、赤穂塩味饅頭の元祖を名乗る明和年間(1764~1772)創業の播磨屋は、嘉永6年(1853)にこの菓子を考案した当初は「汐見まん志う」と記していたようだ。

 このように、全国的に同類が多数見られる汐見だが、名前が似ていても、考案のヒントとなった題材は店によって異なる。こういった諸々を考慮しても、菓子について、どこが一番最初に製したというようなことを特定するのはかなり難しいように思われる。ただ、四日市の紅屋が考案したのが文化文政の頃というのであれば、それは全国的にも比較的早い時期だったと言えるのではないだろうか。

 しかし、歴史はともあれ、味の方はというと、紅屋の汐見はすこぶるよろしい。手に取るとしっかりとした打ち物も、口に含むとふんわりとした食感で、すっと舌の上で溶ける。中の漉し餡は干菓子とは思えないほどのしっとり感を保っており、甘さも上品だ。一般的に、外の打ち物も中の餡も甘すぎる感のある汐見の類だが、紅屋のものはすっきりとしていて、後味が良い。美しい姿もあいまって、茶の席にはぴったりの逸品と言えよう。もちろん、贈答用にも喜ばれることは請け合いだ。

 汐見は江戸時代からの紅屋の代名詞とも言える菓子だが、この他、やはり江戸時代から作っているという家伝の羊羹(写真は屋号にちなんだ「紅羊羹」)や、先代が数年前に考案したという「黄肌餅」も人気が高い。黄肌餅は、米粉で作った半透明の餅状生地にきな粉をまぶした菓子で、若干甘めだが、瑞々しく、ぷるぷるっとした食感が楽しい。

 三重県の中でも桑名から四日市にかけて、黄色は特に男子の祝い事に用いられる縁起の良い色とされている。黄肌餅という名も、そこからつけられたのかと推測したが、御母堂はよく分からないという。もはや先代にお伺いすることもできないが、紅屋の長い歴史の中では比較的新しいこの菓子も、末永く伝えられる代表銘菓となることだろう。


(絵とお菓子の写真はクリックすると大きくなります)

beniya.JPG

beniya-inside.JPG

beniya-painting.JPG

beniya-shiomi.JPG

beniya-yokan.JPG

beniya-kihadamochi.JPG

三瀧屋 文藏
  菓子: 文藏餅 (各種1個100円)他
  住所: 三重県四日市市川原町2-12
  電話: 059-331-5785
  営業時間: 不定 (8:00頃~18:00頃)
  定休日: 水曜不定休

 四日市市街に入る手前に、今では三滝川と呼ばれている川が流れている。安藤広重が『東海道五十三次』の四日市の場面で描いた「三重川」である。

 広重の絵の中では、横風に笠をさらわれてそれを追う男と、道中合羽をしっかりと着込んで用心深く板橋を渡って行く男の姿が描かれている。この板橋は今では「三滝橋」という広く立派な橋になっており、「これを渡れば四日市だ」という気分を盛り立ててくれる。

 この三滝橋のたもと近く、街道に面して店を構えるのが「三瀧屋 文藏」だ。創業は元禄年間(1688~1703)、現当主で十二代目という実に古い店で、昔からこの地で餅や餅菓子を専門に商いしてきた。看板商品は「文藏餅」で、地元では三瀧屋というよりもむしろ、「文藏餅」と呼び親しまれている。店の看板にも、「文藏餅」の文字がでかでかと書かれており、その下に申し訳程度に「三瀧屋」と記されている。

 私が訪れたのは、朝もまだ9時を回る前の早い時間帯だった。店に入る、というより、開け放たれた引き戸の桟の上に立たなければならないほどぎりぎりまでせり出したガラスケースの前に立つと、ピンポーンという音が薄暗い店の奥に響いた。すると、ご主人が奥から走るようにして出てきた。と、同時に、私の背後に車を止めた事務服姿の女性がすかさず声をあげて、「今、何がある!?」とご主人に訊ねた。

 「赤と緑」とご主人が返すと、「じゃ、それ全部」と女性。ご主人が急いで経木で色のついた大福らしい「赤と緑」を包んでいる間に、その女性は私に向かって、「悪いわね」と一言。その後、折を手渡されて勘定を済ませると、女性は自分の車にとって帰し、さっと走り去った。

 あっけにとられてしまった。この一連のできごとの、なんと素早く過ぎ去っていったことか。しばし呆然としていると、ご主人がこちらを見ているのに気付いた。そうか、女性は「全部」買っていってしまったのだ。ただでさえがらんとしていたガラスケースには、今はもう、空になった木箱が並ぶのみだ。

 ないとは知りつつ、念には念を押して、「あの、もう売り切れなんですか?」と訊ねてみた。

「売り切れというより、今はまだ作っている最中でして」と、申し訳なさそうに眉をひそめるご主人。

 「できたてが頂けるのであれば、むしろその方が嬉しいです」そう伝えて、取り置きしておいてもらうことにした。 一旦、四日市市街を散策した後、再び三滝橋を渡って三瀧屋に戻ったのは2時間後のことだった。

 相変わらずガラスケースはがらんとしていたが、今度は木箱に行儀よく、おはぎが並んでいた。ガラスケースの脇には昔の臼の上に厚い板を置いて、簡易の物置台にしてある。その上に、どうやら私の分らしい包みが置いてある。

 インターフォンの音を聞きつけて、作業中だったご主人が急いで店先まで出てきて、臼の台に置いてあった包みを手渡してくれた。お願いしておいたのは、看板商品の文蔵餅だ。ご主人に聞いたところ、実は、最前の女性が買占めた「赤と緑」こそ、文蔵餅だったのだ。

 「文蔵餅と呼んでいますが、言ってみれば普通の大福餅のことなんです」

 そう言うご主人の説明によると、三瀧屋の初代(その頃の屋号は不明)の名が文蔵だったため、文蔵さんが売った大福餅だから、文藏餅と呼ばれるようになった、とのことである。

 本来は白と赤、蓬入りの緑の3色あるが、私が訪れた日はたまたま色付を作ってしまったため、追加で白は作らなかっただけなのだという。昔から3色餅だったのかどうか訊ねてみた。

 「昔の人も綺麗な色は好きだったはずだし、着色という技術は昔からあったので、たぶん文藏餅も昔からこの3色なのだと思います」
そう言って、ご主人はさらに話を続けた。

 「だいたい、四日市の人は何かっていうと餅を使うんです。祝い事でも、法事でも餅を使う。出産前の帯餅や、幼児の背負い餅なんて風習は昔はどこにでもありましたが、今では形式的で、餅以外のもので代用する地域が増えているそうです。でも、四日市では未だに昔と変わらず餅を使うんです。何かにつけ餅を使うから、餅にもバリエーションをつけたんじゃないでしょうか。だから、文藏餅も昔から色付があったと思うのですよ」

 確かに、四日市の町には餅菓子屋が多く、そういった店にはたいてい「背負い餅」のポスターが貼られている。しかし、地元民のご贔屓の店はそれぞれ異なる。三瀧屋はその中でも、特に地元の人々に愛されている店の一軒のようだ。

 餅専門店だけあり、三瀧屋の餅菓子は確かにおいしい。柔らかすぎる傾向にある最近の大福と違って、歯ごたえのしっかりとした餅と、ほどよい甘さの餡のバランスが実にいい。もち米の甘みがしっかりと生きている。取り立てて特筆すべきところもない、ごくありふれた餅菓子かもしれない。けれど、「食べたかった大福の味」がするから不思議だ。最前の女性の様子からも分かるように、午前中の早い時間に売り切れてしまうのも、よくわかる。

 「うちは家内業で細々とやっているので、これ以上たくさん作ることはできません。社寺からの注文や、法事、祝い事の時の注文に応じるのが主で、店先に出せる分はほんの少しなんです。今日みたいに注文しておいてもらえれば、お取り置きしておけるんですけどね」

 ご主人が言うように、三瀧屋の文藏餅やその他の餅菓子を手に入れたいのであれば、予約しておくのが良いようだ。昔ながらの町の餅屋さんの餅は、餅好きならば面倒でも予約するだけの価値は充分あると思いマス。

mitakiya.JPG

mitakiya-signboard.JPG

mitakiya-usu.JPG

mitakiya-bunzomochi.JPG(お菓子の写真をクリックすると大きくなります)

嶋小餅店
  菓子: 嶋小の団子 (1本80円)、蓬大福 (1個100円)他
  住所: 三重県四日市市22-2
  電話: 0593-31-5769
  営業時間: 9:00~17:00
  定休日: 火曜日

 四日市の宿場町まで後少しという川原町辺りの街道を歩いていると、醤油がこげる香ばしい匂いがどこからともなく漂ってきた。鼻をピクピクさせながら歩を進めると、一軒の小さな店の前に行き当たった。旨そうなその匂いの元はどうやら、「嶋小餅店」というこの店らしい。

 菓子を入れる小さなガラスケースの向こうに、これまた小さなおばあさんがいて、先客が注文する団子を経木に並べて包んでいる。ふたり目の客である私が入ると、店の中はもういっぱいだ。

 奥の厨房からは目に見えて白い煙がもくもくと出ており、一瞬、火事かと心配してしまったが、小さいおばあさんも、厨房で一心に餅を丸めているおじいさんも、近所の人らしい先客も、まるで頓着しない様子だ。どうやらこの煙がはるか遠くまでたなびいて、私をこの店に誘ったものらしい。

 作業の手を休めて奥から出てきてくれたおじいさんに、お話をお伺いすることができた。おじいさん、もとい、嶋小餅店の四代目当主である栗田実さんによると、初代である小四郎が桑名郡から四日市に出てきたのは、今からおよそ170年以上前の文政(1818~1829)の頃だという。

 小四郎が東海道沿いのこの地に来て最初に始めた商いは、島紬の反物売りだった。しかし、商売は思うほどうまくいかなかった。思い切りのよい性格だったのか、ダメと分かったらすぐ、他の商売をしようと考えた。ここは東海道。旅の人に団子でも振舞ったらさぞ売れるだろう…本人が実際にそう考えたかどうかは分からないが、ともかく小四郎は一旦店を畳んで、はるばる江戸まで団子作りの修行に赴いたのだ。

 小四郎が修行した江戸の団子屋がなんという店だったのかは、分かっていない。しかし、腕利きの職人が集まる江戸の町で納得がゆくまで修行を積んで、再び四日市に戻ってきた小四郎は、早速、街道沿いに団子屋を開いたのだった。店の屋号は、最初に始めた島紬の「島(嶋)」と、自身の名の「小」を合わせて「嶋小」とした。

 団子屋を始めてほどなくすると、上質な米粉を使って作る江戸仕込みの洗練された嶋小の団子が川原町をゆく旅人の人気を集めた。醤油の辛みがキリッときいたタレをつけて二度焼きした嶋小の団子は、すぐに旨いと評判を呼ぶようになった。小四郎の目の付け所が当たっていたというわけだ。

 その後、小四郎の子や孫が店を継いで、100年ほど経った大正末期、嶋小に大きな変革の時が訪れた。ひょんなことから知り合った豊(とよ)という男が、嶋小の団子を四日市周辺で売り歩くという行商を始めてくれたのだ。団子の味もさることながら、「団子豊」の愛称で知られたこの男の口上がまたうまく、「団子豊が売る嶋小の団子は旨い」との評判はたちまちにして四日市中に広まっていった。いつしか、街道沿いの名物だった「嶋小の団子」は、四日市名物にまでなったのだ。

 そして四代目の栗田さんの代になっても、製法は昔とほとんど変わっていない。米粉も、昔ながらのやり方を貫き通して、石臼でひいている。機械に比べて石臼は回転が遅いため、米粉の風味が落ちないからだ。醤油味のタレの配合も、昔のまま。1本1本手焼きした団子をタレにくぐらせ、一度焼き、仕上げに再びタレをつける。

 「味が変わったと言われないように、家伝の味を守っていきたいと思っています」
と栗田さん。しかし、実は、平成16年現在、80歳を目前に控えた栗田さんの跡継ぎはまだ決まっていない。文政年間から数えて四代目とは随分代数が少ないと思ったが、本来なら六代目くらいはいっていてもいい店である。

 「息子はいますが、都会でサラリーマンをしていますからね。中学生の孫が跡を継ぐと言ってくれていますが、先のことだから分かりません」

 今は栗田さん老夫婦が日々、団子を焼き続けているが、それも一重に、「嶋小の団子」を愛して止まない人々のためだという。実際、後日知ったことだが、四日市出身の人の多くが「懐かしい味」と口を揃えるのが、「嶋小の団子」なのだ。栗田さんは腰こそ曲がっているものの、元気なご様子。お孫さんが店に入るまで、もうしばらく郷土の味を作り続けては頂けないものだろうか。

(お菓子の写真をクリックすると大きくなります)

shimako.JPG

mr.kurita.JPG

shimako-noren.JPG

shimako-dango.JPG

shimako-yomogimochi.JPG蓬大福もお薦め。しっかりとした餅感のある三瀧屋の文蔵餅よりは柔らかめだ。