創業は天明2年(1782)。伝馬町の備前屋は、岡崎を代表する老舗和菓子屋である。現当主である中野敏雄さんに初めてお会いした時には、正直、ギクっとした。
直売所やデパート、駅、空港などへの出店もあり、ご当地の愛知県内はもちろん、全国的にもそこそこ知名度のある備前屋である。その当主は一体どんな方かと勝手な想像を巡らしながら、通された本店内の書斎の古い革張りソファにかけて待っていると、目の前に現れたのは、大きな植木バサミを片手にしたアウトドア姿の初老の男性だった。
額の汗を片手でぬぐいながら、息を切らして「お待たせしてすみませんねぇ」と早口にのたまう。こんな大店のご主人が血相を変えて大きなはさみを振り回しているというのはいったいどういうことかといぶかしがりながらも、とりあえず、名刺を差し出した。ご返礼に頂いた名刺には、「代表社員」とある。そうか、きっと今はご隠居で、趣味の園芸でもされていたのか。そう早合点したが、違った。
「息子にもだいぶ仕事は任せていますが、私も現役ですよ。合名会社だから代表社員と名乗っているんです。むしろ、旦那と呼んでもらいたいですね。社員にも旦那と呼んでもらっています。父の代には父が旦那で、私が若旦那でしたしね」
ご要望通り、「旦那」と呼ばせて頂くことにした。旦那の名刺には、前述の「代表社員」の他にも、「藤右衛門」と記されている。聞くと、備前屋では初代から三代までが藤右衛門を名乗り、その後六代までが勝次郎、以降、現当主に至るまで通常の名前を名乗っているという。
「名刺には一応、藤右衛門と書いてありますが、本名は中野敏雄です。正式に変える意味での襲名は、亡くなって1カ月以内に申請して初めて法的に改名できるものです。勝手には変えられませんよ(笑)」
そうニコニコと話す旦那だが、その手の中にある大きな植木バサミが気になって仕方がない。それを察したのか、旦那はおもむろに「モダン通り」の話を始めた。実は先ほどまで、備前屋の角で旧東海道と交わるモダン通りの柳を剪定していたのだという。
「モダン通りというのは、歴史のある名前を持つ通りなのです」
そう切り出した旦那は、モダン通りの由来を聞かせてくれた。モダンはご存知の通り、大不況前の大正爛熟期に流行した言葉である。丁度その頃、伝馬の大通りから一歩内側に入った通りにあったカフェーから出火し、辺り一帯が焼けてしまいました。それを機に、それまで狭かったこの通りを整備し、完成したのが昭和2年で、銀座の並木通りを真似て柳を植え、モダン通りと名づけたという。
「ところが、行政が今になって邪魔だとか言って柳を勝手に切り始めたのです。モダン通りという名前の通りに柳がなくてどうします?そんなのは許せないと、怒鳴り込んでやりましたよ(笑)」
備前屋の旦那に怒鳴り込まれて行政も恐れをなしたのか、モダン通りの柳は一部伐採されたものの、備前屋の脇に植わっていたものだけは残されることになった。その代わり、その柳は備前屋がきっちり面倒を見ることになったというわけだ。
話を聞いていると、周囲に忘れ去られてしまいそうな町の片隅の歴史のかけらを、必死で拾い集めている、そんな印象を受けた。それもそのはず、彼は老舗菓子屋の旦那という顔以外にも、郷土史家としての顔も持ち合わせているのだ。
岡崎の歴史を語らせれば右に出る者はいないというほどの存在で、博物館などで開催される歴史関連の展示会を手がけたり、執筆活動を行ったりと、活動の幅も多岐に渡っている。現在取り組んでいるのは、葵の御紋に関する研究と、武将の花押の研究であるという。
「元々、菓子や自分の店の歴史についていろいろ調べたり、公演で話したりしているうちに、歴史全般に興味を持つようになったのです。今では弥生時代から昭和史まで、なんでも興味がありますよ(笑)」
そんな中野の旦那には、聞きたいことが山ほどある。まずは月並みだが、備前屋という屋号の由来から。
「備前屋というからには、先祖が備前の国(岡山)出身だったと思われそうですが、いくら探ってみても当家と備前とのつながりは見えてきません。不思議に思っていろいろ調べているうちに行き当たったのが、かつて岡崎城にあった備前郭(くるわ、曲輪)でした」
城の周りに巡らした曲輪にはそれぞれ名がつけられているが、問題の備前郭は古い絵図を見ると岡崎城の東端に位置しており、明治6年(1873)の城取り壊し令に伴って壊れている。現在の地図に照らし合わせると、岡崎公園の外、ビルが建ち並んでいる辺りにあったようだ。
この曲輪の名は、伊奈備前守忠次に因んでいるのではないか、と中野の旦那は語る。家康の関東八カ国への移封後、豊臣秀吉の意を奉じた岡崎城主の田中吉政は、岡崎における家康の足跡を消し去るべく、厳しい施策を展開した。家康ゆかりの神社仏閣の移転や取り壊し、所領安堵の破壊といった具合で、領民にとっては過酷な時代だったという。
その施策を改めるために家康によって慶長5年(1600)に派遣されて来たのが、代官の伊奈備前守だった。伊奈備前守は田中吉政によって取り上げられた旧領の安堵をはかるなどして、旧状の回復に努めた。
「おそらく領民にとっては、伊奈備前守は地獄に仏といった存在だったのではないでしょうか。それで、曲輪のひとつにその名がつけられたのでしょうね」
備前屋の屋号もおそらく、伊奈備前守か、あるいは備前郭に因んでつけられたのではないかというのが、旦那の推測だ。そもそも、天明2年という備前屋の創業年は、残されている町家並図などから推定したものであり、実際にはもっと古くからあった店とも考えられる。
実際は領民が伊奈備前守の恩恵をよく覚えていた頃の創業だったというのであれば、その名を拝借したとも考えられる。あるいは、元々は備前郭の近くに店があったのではないか、という想像もできる。実際のところは分からないが、少なくとも、郷土史家の中野の旦那の調査から浮かび上がったキーワードは、伊奈備前守と備前郭のみである。
次に気になるのが、当時の備前屋がどんな菓子屋だったかということ。しかし、これも確かなことは分かっていないという。
「創業当時、どんな菓子を売っていたか分かっていませんし、町人相手だったのか、旅人相手だったのか、はたまたお城に献上していたのかといったことはよく分からないのです」
旦那はそう言いながら、文政9年(1826)の岡崎宿の町家並図(複製)を広げて話を続けた。
「この図からも分かるように、江戸時代には備前屋は鍵屋の隣に建っていました。備前屋は昭和20年7月20日に戦火で店が焼けるまで、江戸時代と変わらない場所で菓子屋を続けていました。私も、そこで生まれ育ったのですよ。戦災で店を消失したため、先代が今の場所に店を移しました」
旦那が子供の頃には、当時お隣だった旧脇本陣・鍵屋の大きな屋敷が残っており、時折遊びに行ったことを今でもよく覚えているという。鍵屋は天保14年(1843)から脇本陣に指定された大旅籠だ。
また、向かいにあった吉野という料亭からは始終、三味線の音が聞こえてきたそうで、昭和の始め頃まで、岡崎宿の中心地であったこの辺りには華やかなりし頃の風情が残っていたことが、旦那の話から伝わってくる。
中野の苗字がいつからついているのかも、目下不明だという。
「名字帯刀を許されていたのかどうかは分かりませんが、江戸時代からある当家の墓石には既に中野と刻まれています。ただ、ある程度、商売が繁盛していた商人の多くは苗字や身分をお金で買ったのではないでしょうか。うちもその口かもしれませんね(笑)」
八代までひとつの商売で家柄をつなぐことは容易ではない。220年もの時を重ねる中で、憂き目を見ることもしばしばあったという。五代目の頃には家運が傾き、東隣の漢方薬局・大黒屋に頼んで敷地の一部を買い取ってもらったため、それまでは間口五間はあった大店が、三間にまで縮まったのだという。更に戦時中には菓子の原料を調達することもままならず、また、軍需生産のために鉄釜が没収され、廃業状態に追いやられた時代もあった。
旦那が店を引き継いだ頃には20名ほどだった社員も、現在は200名ほど。備前屋をここまで大きくしたのは、他ならぬこの中野の旦那である。もちろん、旦那は単なる経営者ではなく、れっきとした菓子職人だ。高校卒業後に名古屋の大店で修行を積んだ旦那は、次男ではあったが長兄に代わって備前屋を引き継いだ。今の備前屋の商品のほとんどが旦那の考案によるものだという。
しかし、現在販売されている備前屋の菓子の中で最も古いものは、寛政12年(1800)に最初に発売されたとされている「きさらぎ」である。
きさらぎは、古くから三河地方の家々で作られていた冬場のおやつ「おへぎ」(おへげ、とも)を原型とした菓子である。今でもおへぎを売っている菓子屋はあるだろうと旦那は言うが、三河出身である私は恥ずかしながら知らなかったし、両親に聞いても分からないという。
三河といっても、おへぎがあるのは岡崎を中心とした一部の地域なのかもしれないと思い調べてみた。おへぎ、おへげ、またはへぎ餅は日本各地にあるようだ。ただ、他の地方のおへぎと中野の旦那の言うおへぎが同じものかどうかは分からない。
一般的に、薄く削ったり小さく切ったりした餅を乾燥させ、火で焙ったり油で揚げて食べるもので、いわゆるおかきやあられのようなものをおへぎと言うようだが、旦那が説明してくれたおへぎは少々違っているようだ。搗きたての餅に里芋をすり入れ、柔らかいままのして、少し固まってきたところで適当な大きさに切って、膨らんでかりっとするまで焼いたものだという。
おへぎの語源もよく分からない。「へぎ」とは杉材をへいで(剥ぐこと)作った板や折敷のことで、へぎ蕎麦はそのへぎ板で作った器に入っていることからそう呼ばれるようになった。おへぎも、柔らかい餅をへぎ板で作った入れ物に流してのしたことからその名がついたのか、と勝手に想像している。
備前屋で現在販売している「きさらぎ」は幾度か改良を加えたもので、小枝のような格好をした茶褐色の堅めのお菓子だ。こりっとした食感で、香ばしく、ほのかに甘い。素朴な味わいで、やみつきになる。
ここに、明治後期の備前屋の写真をお借りして掲載したが、店の屋根下に掲げられた真ん中の看板に「発明元祖 きさらぎ」の文字が見える。その右隣の看板には、「是の字饅頭」の文字。きさらぎほどではないものの、是の字饅頭も古くからある備前屋の代表銘菓だったようだ。
この饅頭の「是(ぜ)」は、家康ファンにはピンとくるものがあるだろう。家康の祖父・松平清康が「是」の字を夢の中で見たことを伝えると、清康の菩提寺・龍海院の開祖である模外大和尚は、「是とはつまり日の下の人、即ち天下人である」として、子孫に家康が生まれることを予言したという。岡崎に残る逸話だ。龍海院は別名「是の字寺」とも呼ばれている。
この話を題材にしたのが是の字饅頭で、酒元の蒸し饅頭に是の字の焼印を押したものだったが、残念ながら現在はこの名での菓子は作っていないという。旦那曰く、「職人さんに作ってもらうものじゃない」という。
つまり、麹の仕込みやら何やらであまりに手間隙がかかる代物で、他の菓子と一緒に作ってもらっていては、いくら給料を払っても申し訳ないというのである。「それだけを作っている専門の店なら別ですがね」と中野の旦那。現在では、「酒元饅頭」の名で類似のものを販売している(1個94円)。
そんなわけで是の字饅頭は今は絶えてしまったが、写真に写っている看板のうち、きさらぎの左隣に見える「阿王雪」(あわ雪)は、備前屋の代名詞とも言える菓子として現在も不動の人気を誇っている。
あわ雪は、現在では数軒の菓子屋で製造販売されて、岡崎銘菓として定着している菓子だ。しかし元々は、備前屋の三代目が明治初年に創作したのが始まりである。
この菓子が創作されるきっかけとなった「あわ雪豆腐」は、岡崎宿の東の外れの投町にあった「あわ雪茶屋」で振舞われていたもので、菓子ではなく、一種のおかずだったようだ。
あわ雪茶屋については、柳原大納言資廉(1644~1712、公卿)の記した道中記や、土御門泰邦(1709~1784、公卿)が従三位だった頃に著した『東行話』の中でも語られている。あわ雪豆腐は全国に聞こえていたこの茶屋の名物だったのである。
そもそも、あわ雪豆腐(淡雪豆腐)は、岡崎で生まれたというわけではないらしい。享保年間(1716~1735)に江戸で作り始められたと言われており、作り方は円筒形の曲げ物に布を敷き、その中に凝固し始めた豆乳を入れるというもの。重石を置かないため、丸く柔らかな豆腐に仕上がったという。その白さや繊細な口当たりから、淡雪の名がつけられたのだろう。
当時のあわ雪豆腐には、豆腐に葛だまりをかけて浅草のりとわさびを添えたものと、鰹だし汁と醤油に山芋のすりおろしを入れて作ったあんを豆腐にかけた物の2種類があったようだが、『東海道駅路真景』の中で「三州岡崎宿」の名物として描かれているものは、後者に近いようである。
『名勝志』には、「岡崎東の駅口に茶店があり、戸々招牌をあげて豆腐を売る、其製潔清風味淡薄にして趣あり、東海道往来の貴族賢輩と雖(いえど)も必輿を止て賞味し給ふ、東海旅糧の一好味と謂ふべし」と記されており、濃い味の料理が多い三河~尾張地方にあって、この淡雪豆腐は薄味で風雅なものだったことが伺える。
また、天保13年(1842)の記録には、「茶飯壱膳、あハ雪豆ふ・香之物付弐拾文、引下ヶ拾八文」とあり、いわゆる「淡雪豆腐セット」が十八文で用意されていたようだ。庶民にとってはありがたいランチセットだったのではなかろうか。
しかし、旅人に評判の良かったあわ雪茶屋も、時代の変化と共に衰退していった。あわ雪茶屋と共に名物のあわ雪豆腐が人々に忘れられていくのを惜しんだ三代目が、せめてその名を留めようと考案したのが、菓子の「あわ雪」である。卵白に砂糖を加えて泡立てて寒天で固めた菓子で、口当たりはふんわりとまろやか、口溶けも上品な逸品だ。
また、旦那が近年になって考案した菓子の「あわ雪豆腐」は、江戸時代のおかず「あわ雪豆腐」に似せた和風プリンだ。餡ソースをかけて頂く「絹ごし」と、黒蜜ソース付の「黒胡麻」の2種類がある。
この他、徳川幕府が各地の伝馬の宿を指定した際に発行した公印・駒牽朱印をイメージした「駒牽朱印」(薄焼き小麦煎餅に小豆餡と羽二重餅を挟んだもの)や、家康の花押を配した「家康花押」(八丁味噌を練り込んだ麩焼きに糖蜜を塗って乾燥させたもの)、三河最古の寺・真福寺に因んだ「真福もち」(あんころ餅)などがある。いずれも、旦那が考案し、こだわりを持って名づけた菓子である。岡崎とその歴史を誇りに思っている旦那らしいではないか。
予定していた時間を大幅に越して、3時間にも及ぶ対談を終えた後、失礼とは思ったが中野の旦那の年齢をお伺いした。
「昭和8年生まれの72歳ですよ」
この日、何度目かの驚きである。外見はもちろん、その語り口や、日本史から国際問題、IT関連の話から光触媒の話など多岐に渡る話題の内容からも、旦那からは「若さ」や「エネルギー」が伝わってくる。
「戦争も乗り越え、公私共にさまざまな経験も積んできました。失敗だって数え切れないほど経験してきました。でも、これからの人生、今からこそがサバイバルだと思っていますよ。友人から香典はもらわないつもりです(笑)」
まだまだ現役、この調子で備前屋と岡崎の歴史保存活動に貢献し続けて頂けることだろう。
店舗情報
備前屋
菓子: あわ雪 (「純白」「茶山」「桃花」各1本525、大納言入「鹿の子」1本735円
ハーフサイズ「チェリーブランデー」、ハーフサイズ「コーヒー」各1本315円)
あわ雪豆腐(絹ごし、黒ごま各1個210円)、駒牽朱印(4枚入336円~)
家康花押(3枚入315円~)、きさらぎ(1箱157円~)、真福もち(210円)他
住所: 愛知県岡崎市伝馬通2-17
電話: 0564-22-0234 (フリーダイヤル:0120-234-232)
営業時間: 8:30~21:00
定休日: なし
URL: http://www.bizenya.co.jp/
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