その他のおいしい立ち寄り情報
中川屋
料理: うなぎとろろ茶漬け(2500円)、浜名湖丼(2000円)、天龍丼(1650円)他
住所: 静岡県浜松市東区中野町861-2
電話: 053-421-0007
営業時間: 11:00~14:00、17:00~19:30
定休日: 毎月7・17・18・27日 (土・日・祝日の場合は営業。不定休あり)
天竜川を渡るとすぐに迎えてくれる古い町並み。無事に川を渡り終えた旅人が、ほっとして体を休めたのがこの中野町だ。陸の大道東海道と水の大道天竜川が交差する交通の要衝だったこの町は、かつて、天竜川の池田の渡し西岸の船着場として、また天竜川上流で産する木材の荷揚げ場として賑わいを見せていた。
そんな中野町に、明治10年(1895)の創業以来、変わらぬ味を保ち続けている店がある。趣のある黒板塀に囲まれた料亭風の日本家屋のその店は「中川屋」、浜松に残る最も古い鰻料理屋だ。
明治10年と書いたが、実はこれは鰻料理屋としての創業年であり、中川屋にはそれ以前にも料亭としての前身があった。元々、中川屋の村越家は江戸時代初期の寛永年間(1624~1643)に蒲郡(現愛知県)から天竜川西岸のこの地に移住。その間、何を生業としていたのかはつまびらかではないが、寛政年間(1789~1801)、移住以来十一代目となる政次郎の頃に料亭「中川屋」を開いた。
前述のように、当時の中野町は活気に溢れており、旅人や船頭、木材商たちが集まっては散在する一大歓楽街のような様相を呈していた。そんな中野町で一番の料亭として大繁盛したのが中川屋だった。政次郎自身も相当遊んだようだと、十三代目の正平も回顧談として後に語っている。
当時、中川屋で特に評判だったのが、鰻料理だった。敷地内の井戸からくみ上げる天竜川の伏流水に鰻を放ち、3、4日さらして臭みを抜き、身をしめる。この鰻が絶品で、中川屋の名を更に高めたため、明治10年、鰻料理専門店として改めて一歩を踏み出すことにしたのだ。しかし、残念ながら天然ものの鰻は四季を通してとれるわけではなく、1年のうち半年ばかりは客に我慢してもらうよりなく、その間には通常の料理を出していた。
ところが、大正時代にもなると中川屋に更なる順風が吹いた。鰻の養殖が可能になり、それまで鰻を出せなかった半年間にも鰻を確保できるようになったのだ。十一代目とは打って変わって、堅物で真面目な人だったという十二代目晴策に代替わりしてからのことだ。また、やはり十二代目の代の大正12年(1923)には店を大改築。客をもてなす料亭部分には、天竜木材をふんだんにつかって豪華に仕上げた。これが今も残る建物である(調理場部分は昭和48年に築造)。
昭和に入り、戦況が勃発してからも中川屋は営業を続けた。食材が乏しかった当時、中川屋を支えたのは木材商だった。中川屋と材木商とは、江戸時代から代々続く持ちつ持たれつの関係だったようだ。木材商は米はもちろん、自然薯なども持ち込んで、中川屋に料理させた。木材商の要望に応じて、中川屋も鰻丼を茶漬けにしたものや自然薯のとろろをかけたものを出した。こういったレシピは中川屋に残ったが、これこそ、老舗ならではの“財産”ではないだろうか。
十三代目の正平を経て、現在は十四代目(鰻料理屋としては四代目)の武さんが先頭に立って中川屋を引っ張っている。息子で十五代目となる信彦さんと共に板場で腕を振るう毎日だ(親子三代で鰻を焼いた時期もあった)。老舗中川屋に新風をもたらしたのは、この武さんである。
大阪で修行した後に中川屋を継いだ武さんの信条は、「伝統の味を守りつつ、夢を大きく持って全身していく」というもの。実は、代々受け継がれてきた中川屋の家訓は「欲を出すな。儲けはほどほどに」であったが、武さんはそこに「夢」を付け加えた。初代から注ぎ足し注ぎ足し使ってきたタレは中川屋の命。その味を次につないでいくためには、守りばかりでなく攻めの姿勢も必要で、それには夢を持つことが大事、というのが武さんの持論である。
そんな武さんが古いレシピを参考に平成7年に考案したのが、現在の中川屋の看板料理である「鰻とろろ茶漬け」だ。鰻屋が多い浜松にあって、あえて中川屋で食べたいと言われるように、インパクトのあるメニューを考えたす得にたどり着いた料理だという。
浜名湖産の鰻を、深さ80メートルの井戸からくみ上げる天竜川の伏流水でしめ、家伝のタレを絡めて焼く。下火でじっくり焼いていくのがいいそう。身から溢れ出る脂が炭の上に落ち、煙がわっと立ち上がる。この煙で鰻をいぶすと、一層香り高く、ふっくらとした焼き上がりになる。
この蒲焼を細かく刻んで、櫃に入れたご飯の上にまんべんなく乗せる。ご飯にはタレが沁み込む。これだけで充分、満足のいく料理なのだが、膳には海苔や葱といった薬味に出汁、更には摩り下ろしたとろろが添えられる。いわゆる「ひつまぶし」のように、薬味や出汁をかけて食べる鰻丼は他の店にもあるが、とろろをつけたのは中川屋が初めて。かつて、出入りの材木商たちが楽しんだとろろ鰻丼のアレンジだ。
まずは鰻丼、次いで薬味と出汁を加えた茶漬け、最後に出汁で好きな加減に伸ばしたとろろをかけて頂けば、3種類の味が楽しめる。試みに少しず食してみて、最後は自分が一番好きな食べ方で締めくくる。これには古くからの常連も大満足だったようだ。
チャレンジ精神旺盛な武さんは、他にも葱と海苔を散らした鰻丼の上にとろろと鶉の卵黄を乗せた「天龍丼」や、浜名湖丼は鰻と肝が乗ったうなきも丼と、鰻茶漬けの欲張りなセット「浜名湖丼」などを考案。何度足を運んでも、食べ飽きることのないバラエティで固めたメニューを用意している。
近年、浜松市街地に姉妹店「うなぎの村こし」(東田町10-1-1、電話:053-456-5454)も開店。こちらでは鰻の白焼きにキャビアをトッピングした創作料理などもあり、留まるところを知らない武さんの意欲を感じる。老舗の暖簾を守るには攻めも必要。武さんの奮闘は、今日も続いている。
柳川亭
料理: 柳川鍋(1900円~)、どぜう蒲焼(2630円)他
住所: 静岡県浜松市中区伝馬町310-6
電話: 053-452-4778
営業時間: 11:30~21:00
定休日: 水曜日
URL: http://yujiro.web.infoseek.co.jp/sab6.htm
かつて、「遠州黒どじょう」漁が盛んだった浜松。残念ながら、川や沼には田畑で使う農薬が流入し、今では近郊でどじょうが獲れなくなってしまい、漁をする人もいなくなってしまった。しかし今でも、この浜松で唯一、本格的な“どぜう料理”が食べられる店がある。戦前には“うまいもの小路”と呼ばれた江間殿小路にある「柳川亭」だ。
店に入ると、骨董屋かと思わせるような塗りの器や陶磁器などが所狭しと並べられている。店内にはテーブル席の他に小上がりもありどことなく江戸情緒が漂う。聞けば、初代は江戸時代生まれ。なるほど、伝統の味と共に、情緒も初代から三代に渡って引き継がれてきたのだろう。
どじょうを食べる機会は、そうそうあるものではない。浅草辺りに観光にでかけて、ものめずらしさに惹かれて食べてみる、というくらいだろうか。あまり馴染みのない食材ではあるが、実は鰻の3倍の栄養価があるのだとか。そのため、昔は夏のスタミナ源として食べられていたという。
どじょうなんて、本当においしいの?そんな先入観は捨ててしまってよい。浅草辺りで食べる“どじょう鍋”と、柳川亭で出す“柳川鍋”との徹底的な違いは、どじょうの下処理にある。一般的などじょう鍋は、丸のままのどじょうを(店によっては生きたまま)そのまま土鍋に入れるため、ひどく苦かったり、泥臭さが残っていたり、また見た目の不気味さが正当な味の評価を下す邪魔をしたりする。
そこへいくと、丁寧な下処理をした柳川鍋は、実に美味である。頭をとって開いたどじょうは骨を1本1本抜き、細かく糸状にひっかいたごぼう(糸がき、という)と共に割り下と出汁で作った秘伝のタレで煮込み、卵でふわっととじる。
手間をかけているだけあって、淡白な身はふんわりと柔らかく、ほどよい甘さのタレが沁みこんでいる。程よく残った苦味が奥深い味わいだ。ごぼうの香りがまた良い。透けるほど薄く削ってあるため、ごぼうが全体の食感を邪魔することもない。
現在では地元産のどじょうは手に入らないため、四国や栃木などから仕入れているそうだが、下処理の仕方やタレの味は、明治15年(1882)の創業以来、一切変えることなく受け継いできている。
「当時はどじょうやうなぎ料理はとても高価なもので、地元の名士が芸者をあげて座敷で食べたものでした」
現当主で三代目の小池裕二郎さんはこう語る。柳川亭も戦争で焼けるまでは、今よりはるかに大きな料亭で、風流な庭などもあったのだという。歴史を紐解くと、初代の小池小三郎は、江戸末期の文久3年(1863)、その頃日本橋で名を馳せていた高級料亭「近参」で修行をしていた。明治の世になって独立する際、良質な食材を求めて遠州の黒どじょうの産地である浜松まではるばるやってきたのだそう。
江戸で腕を磨いた小三郎の柳川鍋は浜松でたちまち評判となり、食通や粋人、名士が出入りする名店となった。自身もかなりの粋人だった小三郎は、江戸風の粋を浜松にも根付かせるべく、地元料理業界と花柳界の発展に大きく貢献。芸妓置屋の取次ぎ・取締りを担う「浜松中央検番」を創設し、最盛期には700人もの芸妓を抱え、また芸事の指導をするなどして活躍した。
かくして小三郎が築き上げた浜松花柳界と、その中心にあった高級料亭・柳川亭だが、昭和9年、時代の流れに歩調を合わせるように二代目の礼三がより親しみやすい店に改装する。しかし、初代の血はやはり礼三にも流れていた。芸事に優れていた礼三は、15歳という若さで東京芸術大学(当時は東京音楽学校)に入学。ピアノ、三味線、長唄なんでもござれで、後には演劇評論家としても鳴らした人物だ。その傍ら、柳川亭の暖簾は頑なに守り通した。
そして、学問に長け、劇作家兼大学教授になった長男の章太郎氏に代わって、柳川亭の暖簾を受け継いだのが、次男の裕二郎さんだ。
「伝統を守るのは息苦しい時もありますが、どこにも負けない味だと自信を持っているので、この味は絶対変えません」
そう語る裕二郎さんだが、息抜きをする方法はちゃんと心得ている。どじょうをさばく傍らで、裕二郎さんが手にするのは横笛だ。実は裕二郎さん、日本に数人しかいない篠笛作りの名手なのだ。難しいどじょうさばきをこなす器用さが、繊細な篠笛作りに役立っているのだろうと思ったら、実は逆だった。裕二郎さんが笛を手にとるようになったのは、どじょうを扱うよりもずっと前のことだったのだ。
裕二郎さんが6歳の頃、父から突然2本の篠笛を渡され、「ついて来い」と言われた。長唄を嗜む父は、三味線の伴奏として裕二郎さんに笛を吹かせたのだ。楽譜も何もなく、ただ「音について来い」と言う。それが小池親子の練習法だった。少しでも間違えれば三味線の撥で手をびしっと叩かれた。まさにスパルタ。しかし、そのお陰で裕二郎さんには確かな音感が備わり、今でもジャンルに関係なくはじめの音を聴けばすぐにそれに続く旋律が分かるのだという。
戦争の傷跡まだ癒えぬ当時、新しい笛もそうそう手に入らなかった。父も何でもかんでも買い与えるような親ではなかったので、裕二郎さんは必要とあれば自分で笛を作るしかなかった。10歳にも満たない頃だ。以来、篠笛奏者として、作者としての腕を磨いていった。
学業が修了すると、元来手先が器用だった裕二郎さんを父は東京の舞台かつら職人の手にゆだね、そこで修行をさせた。しかし、かつら作り以上に裕二郎さんにとって大きな収穫となったのは歌舞伎の舞台裏で聴いた福原百之助(後に人間国宝)の笛の音色だった。その音にほれ込み、後に福原流に入門。福原百之助の出す音色を追って、笛作りにも一層力が入った。
学問の道に進んだ兄に代わって、家業を継ぐために30歳で郷里の浜松に戻ってからも、笛は捨てなかった。篠笛の講師を務める傍ら、瀬戸内寂聴の『源氏物語』の講演・朗読に笛の演奏を依頼されて作曲・演奏をしたり、CDを出すなどして活躍している。最近では沼津御用邸に招待され、秋篠宮家の長男・悠仁様ご生誕のお祝いの席で篠笛を演奏したのだとか。篠笛の作者としても一流で、長唄界の鳴り物の人間国宝・寶山左衛門氏にも笛を納め演奏に使われている。
大先生と呼んでもよいほどの裕二郎さんだが、本人はいたって気さく。気取りがなく、親しみやすい人柄だ。口も達者で、よくもまあそこまで、次から次へと面白いことが口から出てくるなと思うほど。対談中、何度爆笑したことか。
裕二郎さんの演奏会も、いかにも堅苦しそうな邦楽の演奏会とはちょっと違う。美しい音色に酔いしれていたかと思いきや、笛をはずしたばかりのその口から、落語家も舌を巻くようなおしゃべりが始まる。そうかと思うと、再び背筋を伸ばした凛とした姿で演奏。
「私ももう60歳を越しました。G線上のアリアならぬジジイ線上のアリアでもひとつ…」
そう言って、邦楽の篠笛でバッハを演奏してみせる。お堅いことが嫌いで、ダジャレで客を笑わせてくれるが、それも彼一流の照れ隠しなのかもしれない。洗練された柳川鍋の味に舌鼓を打ち、一流の横笛の音色を味わう。そんな粋な店は、浜松どころか日本のどこを探しても他にないだろう。
八百吉
料理: 会席料理(4200円~+サービス料) ※2名~、要予約
住所: 静岡県浜松中区市伝馬町67
電話: 053-452-4374
営業時間: 10:00~23:00
定休日: なし(予約に応じて営業)
URL: http://www2.newing.ne.jp/yaokichi/
浜松宿の中心辺りを、連尺、伝馬と下って、旅篭町の交差点に差し掛かる少し手前。かつては6軒もの本陣が建ち並んでいたこの通り道に面して店を構える八百吉は、創業明治19年(1886)という、浜松でも指折りの老舗料亭だ。昭和5年(1930)に天皇が静岡県を御巡幸された際には、浜松きっての料亭として、八百吉がお料理をお出ししている。
石を敷いた前庭を抜けて玄関を入ると、女将さんが丁寧に挨拶をして、部屋に通してくれた。ここでは全個室になっており、茶室のある部屋や庭の見える部屋など、それぞれ赴きのある部屋に分かれているが、この日通されたのは、室内に枯山水のような小さな庭のついた部屋。床の間にはお軸がかけられ、外にはちょっとした箱庭も設えてある。
現在の建物は浜松大空襲の後に再建したものだが、それ以前の八百吉は、木造三階建の豪壮な造りで、池のある見事な庭園も自慢のひとつだった。創業以来五代目となる今では規模をだいぶ縮小したものの、数奇屋風の凝った造りが、依然、老舗料亭としての格を保っている。
「空襲で一度は全て焼けてしまいましたが、何とか頑張ってやって参りました」(女将さん)
料理は全て予約制で、地の物を使った会席料理。遠州棚に望む浜松だけに、中心となるのはやはり魚介類。お刺身も料亭としては多めの盛り付けで嬉しい限り。鯛の潮汁や自家製味噌ダレつきの鶏鍋などの純和風料理の中に、ホタテのクリーム煮やウニのジュレといった洋風の料理が組み込まれており、変化に富んでいる。浜名湖産の大きな牡蠣の揚げ物には、やはりこの地方で栽培されている濃黄色が鮮やかなレモンが添えて出された。
遠州地方の味なのか、全体的に濃い目のしっかりとした味付けではあるが、地の物を生かした料理には郷土愛とそのぬくもりを感じる。“浜松料理”を味わうには絶好の店である。
山口屋寿司店
料理: 寿司盛合せ(並・1365円~)、ちらし丼(並・1365円~)他
住所: 静岡県浜松市中区肴町316-44
電話: 053-452-1768
営業時間: 11:30~14:30、17:00~23:00 (金・土は~24:00)
定休日: 月曜日、第3日曜日
浜松市内、東海道を連尺の交差点で南に折れた辺りは、江戸時代には浜松宿の心臓部だったエリアだ。本陣もこの通りに面して建ち並んでいた。そして、この目抜き通りから一歩西に入ると、そこは石畳を敷き詰めた肴町。町の歴史は古く、慶長五年(1600)に魚商の拠点として整備されたのが始まる。
それより遡ること30年ほど前、家康が元亀元年(1570)に浜松城を建てると、近隣に6人の魚商が集まり、お城の御用も仰せつかるようになった。しかし、やがてその6人だけでは御用をまかないきれなくなったため、6人に特許を与えて近郊の海で取れる魚介類を優先的に買い上げられるように計らったという。
その後、天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条攻に成功して天下を統一した年に、三代目浜松城主(二代目は菅沼定政)として堀尾吉晴が入城。同じ年に堀尾氏は、城より少し離れたところに新たに魚商町を設けさせる。
しかし、その10年後の慶長五年に関が原の合戦で勝利した家康が将軍となると、再び浜松は徳川一門の居城に戻り、魚商町もより城に近い現在の場所に移され、肴町と称されるようになった。つまり、肴町は、浜松城主のお好みで場所をころころと変えられた、ということになる。
以来、この辺り一帯は魚河岸と発展し、「浜松の台所」として賑わった。魚河岸は戦前まであったが、浜松大空襲で焼けてしまう。戦後には魚商も徐々に減ったものの、今でも魚屋や乾物屋、糀屋、料理屋などがひしめき合い、昔の名残を留めている。
この町の一角にある山口屋寿司店も、魚河岸時代からここで商いをしていた寿司屋である。創業は明治初期で、表の看板に「四代目」とあるように、現在のご主人で四代目。未来の五代目となる息子さんも、ご主人と共に板場に立っている。
さて、寿司の旨さは何で決まるか。新鮮で上質なネタ?もちろん。しかし、寿司が寿司たるゆえん、刺身とは違うワケは、ネタとシャリとの融合にある。山口屋では、今でも昔ながらの竈に薪をくべて、厳選した静岡産の米を炊いている。「寿司の味はまずシャリから」と考えるご主人のこだわりである。ふっくらと、かつ適度な噛み応えを残して炊き上がる米に、上等な旬のネタを乗せてきゅっと軽く握る。この握り方が、寿司の味を最大限に引き出す最後のひと手間となる。
ちなみに、山口屋の寿司はちょっと大きめ。ネタも、シャリも。目の前に出された時には「少し大きいな」と不安になったが、一旦口にすると、「この大きさで良かった」と満足がいくのだ。それはおそらく、シャリもネタも旨く、また味に一切の無駄がないからなのだろう。寿司だけでも充分なのだが、ランチタイムならサービスであら汁かアサリ汁がつく。地元で評判が高いのも、納得である。
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