和菓子街道 東海道 袋井 五太夫きくや

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東海道どまん中宿の老舗菓子屋

 JR袋井駅前、ロータリーを挟んで駅の正面に店を構える和菓子屋『五太夫きくや』は、天正12年(1584)創業という老舗中の老舗だ。天正12年というと、織田信長が本能寺の変で倒れてからわずか2年後、戦国乱世もいよいよ佳境といった時代だ。

 もっとも、きくやがその頃から菓子屋だったかどうかは定かではない。同家の過去帳に記された最も古い記録が天正12年を示しており、そこに「五太夫元祖」の屋号が記されていることから、何らかの商いをしていたことには間違いないようだ。しかし、何の元祖だったのかも、どんなお客を相手にしていたのかも不明である。

「今は駅前に店がありますが、元々は森町で商いをしていたようです。江戸時代に東海道が整備されるまで、この地方の中心は城下町の森町でしたから。その後、現在の袋井インター辺りに店を移し、更に江戸時代になって東海道沿いに越してきたようです。袋井宿が成立したのは、他の宿場町より15年遅い元和2年(1616)ですから、それ以降のことでしょう」

 そう語るのは、十四代目当主の鈴木利夫さんだ。江戸時代に描かれた袋井周辺(遠州山名郡高部村)の絵図の中、東海道沿いに「長五ろう」と記された家が見える。場所は丁度、江戸から61番目の木原一里塚の西側だ。上記の過去帳と照らし合わせると、「長五郎」という名の人物が当時のきくやの当主だったことが分かる。過去帳も絵図も、同家の旦那寺である長命寺に残されているものだ。

 その後、東海道沿いから現在地に店を移転させたのは、明治22年(1889)のこと。東京・新橋~神戸間の鉄道が全線開通となったのがこの年の7月1日だが、袋井駅の開業はそれに先立つ同年4月16日である。

 かつては森町を中心に発展したこの地方の中枢は、江戸初期に東海道が整備されると袋井へと移り、明治の東海道線敷設に伴って更に南に下ってきた。五太夫きくやも町の中心の転移に併せて南へ、南へと下ってきたことがわかる。

 それにしても、気になるのは屋号だ。きくやはまだしも、五太夫というのはどこからきたものなのか。官位を与えられた武家の家柄だったのだろうか。

「五太夫という屋号のことも、実はよく分からないのです。気になって色々調べてみたのですがね。隣の磐田に、六太夫だとか七太夫という屋号の家があることが分かったので、おそらく屋号として「なになに太夫」というのは比較的多かったのかもしれません。静岡市の安倍川にも五太夫という屋号の家があるのですが、そこには一度電話をしてみたことがあります。うちよりも古い家柄で、先祖は武田軍の関係だったということです」

 また、菓子専門店になったのがいつの頃からかも、はっきりはしていないという。鈴木さんの曽祖父が写っている写真が店内に飾られている。いつ撮影された写真なのかは不明だが、おそらく明治から大正にかけて撮られたものだろう。写真の中では、「親切週間」と書かれた看板を掲げた店先に自動車が置かれ、それを取り囲むように5人の男性が立っている。よく見ると、店正面の屋根の下には「乗合(屋号)貸切」の看板も見える。鈴木家の親戚が開業したタクシー会社で、自動車はつまりタクシーということだ。

 一方、建物の向かって左側には、「オミヤゲ物」の看板があるのが分かる。その上に「子」の字だけが鮮明な看板もあるが、これは「菓子」のことだろう。こちらが五太夫きくやで、菓子の他にも土産物や小間物などを扱っていたようだ。当時売られていた菓子がどんなものだったかも分からないが、鈴木さんいわく、ごく一般的な餅菓子や、この地方でよく見かける餡入りの求肥を紫蘇の葉で包んだ菓子を販売していたのではないかという。この菓子は小田原の甘露梅や掛川の梅衣と同類のもので、五太夫きくやでも「梅花餅」として今も売られている。

 さて、この五太夫きくやには、袋井市内にある6番目久津部一里塚にちなんだ饅頭「六十里」や、江戸時代の旅人が担いだ振り分け荷物に似せた「ふりわけ みそ かすてら」など街道にちなんだ菓子がいくつかあるが、代表銘菓はなんといっても「北の丸」という焼き菓子である。南蛮菓子のボウロを薄くして更にしっかりと焼いたクッキーのような菓子で、カステラ煎餅よりもサクッと軽い口当たりだ。

 「北の丸」とは、袋井市郊外にある「葛城ゴルフ倶楽部」内の宿泊施設「葛城北の丸」からとった名で、この宿泊施設の迎え菓子として用いられているという。ちなみに、葛城は、かつてこの地に葛が生い茂っていたこと、古墳時代に砦があったことからゴルフコースの名としてつけられたもの。宿泊施設の「北の丸」はコース最北の小高い位置に建設されたためにその名がつけられたようである。豪壮な建物は、北陸の旧家の古材を使って造られたものだ。

 上記のように、昔の五太夫きくやがいつから菓子を作るようになったのか、またどんな菓子を売っていたのかも判然としないのだが、この焼き菓子に関しては「代々伝わってきた」のだという。

 おそらく昔は卵、小麦粉、砂糖のみで作られていたと思われるが、現在はバターも練りこまれている。昭和49年(1974)から2年間、菓子作りの修行でフランスに滞在していた鈴木さんが、現代風にアレンジしたのだという。もちろん全て手作り、1枚1枚丁寧に焼かれている。ところどころぷつぷつと黒く見えるのは、砂糖のこげた部分だ。

「私の好みでは、この菓子は焦げる寸前まで焼いた方が香ばしくておいしいと思うのですが、調子に乗って焼きすぎると、焦げているんじゃないかとお客様からお言葉を頂戴することもあります(笑)」

 生家の和菓子屋を継ぐことになっていた鈴木さんが渡仏したのは、子供の頃からのヨーロッパに対する憧憬からだという。

「子供の頃は、ヨーロッパ、特にドイツに憧れました。ドイツは工業立国で、機械や自動車に興味があったものですから、大人になったらドイツに行こうと思っていたのです。それが、こういう古い家に生まれ育ったためか、いつの間にか家業第一と考えるようになって、どうせヨーロッパに行くのならフランスで菓子修行をしよう、と。丁度その頃、神戸のHIROTAがパリ店をオープンさせたので、現地採用を狙ってみようかと思って行ってみたのです。25歳の時でした」

 帰国後、家業を継いで和菓子作りに専念したが、フランスでの修行で、直接的にも間接的にも菓子作りに必要な感性を身につけることができたと、鈴木さんはいう。その一方で、近頃は伝統の大切さもしみじみと感じているという。

「静岡はお茶の産地ですが、考えてみれば、お茶とお菓子は切り離せないものです。今は、お茶と共にあるお菓子というものを常に念頭において考えています」

 「北の丸」に次ぐ五太夫きくやの代表的な菓子として「村一つ」が挙げられるが、これもお茶と共に頂くことによってその風味を一層増す菓子である。菓名の由来は、俳人・正岡子規の句〈冬枯の中に家居や村一つ〉だ。明治22年、当時まだ第一高等中学校本科の学生だった22歳の子規は、前年から発症した喀血に苦しみ、夏の間、郷里の四国松山に一時帰省した。その際、東海道線を利用し、その途中の袋井駅で詠んだのがこの句である。

 当時の時刻表を調べてみると、袋井駅を汽車が発車した時刻は午後6時7分。既に辺りはうっすらと暗くなり始める頃だ。当時はまだ鉄道が開通したばかりで、袋井の中心ももう少し北の東海道沿いにあった。駅の周辺には荒野が広がっており、遠くに家の明かりがぽつりぽつりと見える程度の寂しい場所だったという。病身の子規が詠んだこの句は、暮色の中の寒村を見事に描いた名句といえよう。

 この句は松山にある子規記念博物館所蔵の子規直筆稿本『寒山落木』の第一巻に記されているが、この稿本をつぶさに見ていくと、興味深い事実が浮かび上がってくる。掲載されている句の中のいくつかに丸印がつけられているのだが、この「村一つ」の句に関しては、丸がふたつもつけられているのである。ひとつはおそらく子規自身が、もうひとつは誰か別の選者がつけたものだと考えられているが、丸がふたつついた句は他にほとんど例がなく、この句がいかに優れたものであったか、いかに子規が思いを入れていたかが伝わってくる。

 折りしも子規が夏目漱石と本格的に交流を始めたのはこの年であり、また、「子規」という雅号を使い始めたのもこの年である(本名は正岡常規)。若い才能が開花し始めた頃に残した、瑞々しくも鋭い感性を感じさせる一句が、この袋井で詠まれた事実に、鈴木さんは深く感銘を受けているという。

 そんな名句から名をとった菓子「村一つ」はというと、きな粉と和三盆糖を使ったおはじきほどの大きさの小さな菓子である。黒ごま、干しぶどう、浜納豆(味噌の一種)の3通りの味がある。小さな粒をつまんで口に運ぶ時、これは何味かな、とわくわくする。いずれの味もほのかで、きな粉の香ばしい風味の中にひっそりと隠れている。鈴木さんご自身は、塩分を含む独特の味と香りを持つ浜納豆が一番お好みだそう。

 「村一つ」は素朴ながら手間のかかる菓子で、決して量産できるものではないという。その分、遠方からこれを求めて来る人があると、ひときわ嬉しいのだとか。

「頂き物でこの菓子を食べておいしかったから、自分で袋井まで足を伸ばして買いに来て下さったというお客様がいらっしゃると、やはり嬉しいですね。今の人は舌が肥えていて贅沢です。それでも、こんな素朴な菓子をいいといって下さるお客様もいるわけです。人工的な甘みの多い今の世の中ですが、うちではできる限り自然の味をいかして、よそ様ではできないことをやっていきたいと思っています」

 そう意気込む鈴木さんのもうひとつの自信作が、「葛布氷」(かっぷごおり)だ。葛といえば掛川が有名だが、袋井や森町も古くから葛の産地として知られていた。森町にはかつて、葛にちなんで名のつけられた「葛布の滝」と呼ばれる美しい滝があり、その滝壺裏の洞穴でとれる天然の氷は「葛布氷」と呼ばれ、袋井でも売られていたという。残念ながらその洞穴は明治末期に土砂崩れで埋もれてしまい、葛布氷も伝説になってしまった。

 その美しく美味だったという氷を惜しんで、鈴木さんが考案したのが葛湯「葛布氷」なのだ。葛と砂糖を固めた打ち物で、表面には葛の葉の意匠が浮き上がっている。実に美しい姿だ。半生状態のため思いのほか柔らかく、手に取るとほろっと崩れる。熱湯に溶いて葛湯にするのが本来の頂き方だが、そのままお茶請けとして頂いてもいい。白と緑の二色があり、緑の方は地元袋井産の香り高いお茶を用いている。

「袋井もお茶の産地ですからね。地元のものは極力使っていきたいと思っているのです」

 というのも、実は鈴木さん、老舗和菓子屋の十四代目以外に、「袋井市観光協会 研修・創造部会長」「ふじのくにまちづくりコーディネーター」「遠州特産品開発プロジェクター」といった顔をも併せ持っている人なのだ。特に袋井産のクラウンメロンには力を入れており、「クラウンメロンハムサンドウィッチ」なるオリジナル商品まで開発してしまった。

 マスクメロンとは表面に網目のような模様の入ったメロンのことでメロンの品種ではないが、クラウンメロンはマスクメロンとなるメロンの一品種のこと。袋井産のものは特に糖度が高く、人気がある。その袋井産クラウンメロンをスライスし、森町産のハムと共に袋井市南部の浅羽町産の小麦粉を使ったパンでサンドしたものが、鈴木さん特製のサンドウィッチだ。

 開発前はメロンの水分でパンがふやけてしまうのではとか、ハムと合わせて本当においしいのかといった悲観的な意見もあったというが、実際に完成してみると、これが実においしく、町の人も驚いたという。フルーツパーラーで食べるようなクリーム入りの甘いサンドウィッチではなく、マヨネーズを使ったサラダ感覚のサンドウィッチだが、特に女性の間で評判がいいそう。

 町おこしの一環で作っているこのサンドウィッチには、最も食べごろのメロンを使うため、1週間前までの予約が必要という(メロンは通年ハウスで収穫されているが、食べごろのものを手にいれるための時間が必要とのこと)。1人前450円也。老舗発の斬新な地元産サンドウィッチ、袋井に来たらば試してみる価値はありそうだ。

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fukuroi-old-map.jpg長命寺に伝わる江戸時代末期の絵図(部分)(絵図をクリックすると大きくなります。写り込みがあり、見づらく申し訳ありません)
map-closed-up.JPG円で囲んだ部分が、五太夫「長五ろう」の家(上図右下部の各大図。クリックすると大きくなります)
kihara-milestone.jpg復元された木原一里塚。江戸時代にはこの西側に五太夫きくやがあった。
kikuya-old-shop.JPG五大夫きくやの古い写真
furiwake-kasutera.JPGふりわけ みそ かすてら
kitanomaru.JPG北の丸
shiki-kuhi.jpg袋井駅前の正岡子規句碑
murahitotsu.JPG村一つ
kappugori.JPG葛布氷
mr.suzukis.JPG現役で活躍中の十三代目(右)と 十四代目鈴木利夫さん親子。

(お菓子の写真はクリックすると大きくなります)

店舗情報

五大夫きくや
  菓子: 北の丸(1袋5枚入85円)、村一つ(1包3粒入85円)、六十里(1個100円)
       葛布氷(白、緑茶各1個120円)、ふりわけみそかすてら(1個80円)他
  住所: 静岡県袋井市高尾町25-7
  電話: 0538-43-4178
  営業時間: 9:00~19:00
  定休日: 木曜日