昔むかしのある日の夕方、臨月を迎えた女性が小夜の中山峠にある久延寺の観音様に安産のお祈りをして帰る途中のこと。道の中央に両腕で抱え込むほどの大きさの丸い石が転がっていたので、その石にもたれて休んでいたところ、突然、刀を持った山賊が現れて女性に斬りかかり、懐にあった金を奪って消え去った。
刀の先が石にあたったため、女性は息絶えたものの、お腹は斬り通さなかったたため、赤ちゃんは無事に切り口から生まれ出た。すると女性の魂はこの丸い石にのり移り、救いを求めて泣き始めた。その泣き声に気づいた久延寺の住職が、声を頼りに丸石のある所まで下っていくと、石の傍らで無残に斬り殺された女性と赤ちゃんを見つけた。
赤ちゃんは虫の息で、とてもその泣き声が寺まで聞こえるはずもない。そう思った住職は、泣いたのはこの石にのり移った女性の魂だと判断し、女性の亡骸を葬ってから赤ちゃんを寺に連れ帰った。飲ませるお乳がなかったため、住職が自ら水飴を作って赤ちゃんに与えて育てたのだった。
住職によって救われた子供は音八と名づけられ、立派に成長した。常日頃から住職に自身の生い立ちについて聞いていた音八は、大人になったら母の魂を鎮めたいと考えていた。そんな折、音八は刃物の研師になるようにとのお告げを夢に見た。観音様のお告げに違いないと悟った音八は、15歳になると大和の国の恩知村に行き、研屋源五郎宅に身を寄せて研師の修行に励んだ。
音八が一人前の研師になってからしばらくすると、一人の侍が刀を研いで欲しいと言って音八を訪れた。見ると、刀先に大きな刃こぼれがある。理由を尋ねると侍は、昔、遠州の山の中で石に当てた時の刃こぼれであることを語った。これを聞いた音八は、自分の出生について告白し、長年胸にあった思いを互いに語り合って亡き母の魂を鎮めたという。
これが金谷宿と日坂宿の間にある峠、小夜の中山に伝わる夜泣き石の物語だ。不幸な生い立ちの音八ながら、寺で育てられて観音様のご加護を受けていたためか、あだ討ち話ではなく親の仇を許すという逸話になっている。
小夜の中山を舞台としたこの伝説の中で、久延寺の住職が赤子に与えて育てたという飴は、「子育飴」と呼ばれ、後にこの地の名物として親しまれるようになった。そして、江戸時代を通して小夜の中山の茶店で売られていたのがこの飴を使った「飴の餅」だ。
天明6年(1786)頃に刊行された『東海道便覧図略』から、当時茶店で出されていた飴の餅は、五文取(安倍川餅)のように小さくちぎった餅に茶褐色の練り飴をかけ、竹皮に盛られて出されていたことが分かる。当時は「大三十二文、小二十四文」と、大小(あるいは量の違いか)で売られていたようだ。小夜の中山で作られる飴は、ほど良い甘さで、歯につくこともなく、他の水飴とは大違いと評判だったという。
飴の餅はその由来の悲話と共に旅人たちの間で人気を博し、享和4年(1809)には峠の久延寺門前の15軒の飴屋と、近隣の下菊川村などで商いをしていた19軒の飴屋との間で営業権を巡る訴訟問題まで起こったことがあったという。
そんな飴屋もめっきりと姿を消し、現在まで残っているのはたった2軒のみである。数年前まで久延寺横で営業していた扇屋は、名物おばあさんが他界してから掛川市が店を買い取り、近隣住民の協力で日曜祭日のみ開店している(平日に店を訪れてしまった私は、たまたま戸を閉めた店内で趣味の蕎麦打ちをされていた管理人の鈴木さんからお手製の蕎麦を振舞って頂きました。ご馳走様でした)。
家柄として途絶えてしまった扇屋に対し、江戸時代から変わらず一系で営業を続けているのが、宝暦元年(1751)創業の小泉屋だ。久延寺手前の脇道から始まるトレッキングルートで400~500メートルほど山を下ると、バイパス(国道一号線)の小夜の中山トンネル前に出る。小泉屋はトンネルの東側にある。
元々は久延寺と扇屋の間で茶店を営んでいたが、明治13年の中山新道開通を機に現在地に店を移転させたという(かつて店があった場所は今も空き地になっている)。峠に店があった頃には、明治天皇も小泉屋で休憩をしたというから、当時建ち並んでいた飴屋の中でも格上だったのだろう。
『東海紀行』にも「小泉茶屋ヨシ、女子多ク出テ旅客ヲ呼ブ」と記されており、峠を越える旅人を呼び込んでいた頃の様子を窺い知ることができる。
「当家は元々違う名字を持っていたようですが、小泉屋という屋号がいつの間にか名字になったようです」とは、10代目の小泉佳樹さんの談。
小泉屋の子育飴は現在でも昔とまったく同じ製法で、2日半かけて手作りされている。夜、ふかしたもち米と発芽した大麦を交互に幾重も重ね、湯を注いで蓋をしておく。釜ひとつ分の飴を作るのに要するもち米は1俵だ。翌朝、発酵して糖分を含んだ汁を絞る。1日寝かせた後、絞り汁を煮詰めること7時間。ようやく伝統の子育飴が完成する。
「夏場は気温が高くて飴が固まりにくいので、もっと長く煮るんですよ」と小泉さん。昔ながらの素朴な麦芽糖を煮詰めた水飴だが、実に手間隙かけて作られている。
「おそらく水飴の作り方そのものは、奈良時代、遣唐使の頃に日本に伝えられたのではないでしょうか」と小泉さんは考察する。もちろん、添加物の類は一切使っていない。その名の通り、赤ちゃんにあげても心配のない天然素材の飴なのだ。伝説もあながち作り話とは言えないかもしれない。
店頭に置かれた茶色の甕の中でツヤツヤと輝いている琥珀色の飴は、割り箸に絡めとってそのまま口に運ぶ。ゆるく固まっており、口に含むと、とろりととろけてくる。箸の向きをくるくると変えないと、たらっと落ちてくるのでご注意を。持ち帰り用も販売している。
「お料理の照り出しに使われるという方もいらっしゃいますし、冬場には、薄い輪切りにした大根を飴の上に乗せてしばらく置き、出てきた汁を絞って飲むと風邪に効くと言って買われて行かれる方もいらっしゃるんですよ」と教えてくれたのは、美人の娘さん。
子育飴の他にも、飴を練りこんだソフトクリームや最近話題の静岡おでん(各種1本80円)なども販売しており、昔の茶店さながらに店内の椅子に腰掛けて頂くことができる。
お土産に買って帰った子育飴で、現代版の飴の餅を作ってみた(写真参照。不恰好なのは悪しからず…)。小泉屋がイベント時などに作るというもので、角餅をこんがり焼いて、子育飴を上面にたらしてからふたつに重ね折る。焼餅が熱々のうちに飴を挟むため、飴はとろとろにとけて滑らかになる。ほんのりと温まった飴は一層風味を増して、餅の焦げ目の香ばしさによく合っている。思った以上においしく、癖になる味だ。
ところで、例の夜鳴き石だが、かつては街道の真ん中にでんと座っていたのだが、今では小泉屋の店のすぐ裏に安置されている。夜泣き石は、明治元年(1869)、天皇の東幸の折に、道の真ん中にあっては畏れ多いとして近隣の沓掛の茶屋に移された。その後、明治14年(1881)に東京浅草で開催された「勧業博覧会」に出品されることになり、東京に運ばれていった。
しかし、その復路、焼津港まで船で運ばれたものの、その先の費用が底をつき、しばらく雨ざらしにされていたという。後になんとか中山新道まで石を運んだが、急な坂道を上って峠まで至ることができず、小泉屋の裏にそのまま置かれることになったのだとか。
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店舗情報
小泉屋
菓子: 子育飴(店頭にて1本100円)、土産用(450g630円~)
子育飴キャンディ(1袋315円~)、子育飴ソフトクリーム(250円)他
住所: 静岡県掛川市小夜鹿57-8
電話: 0537-27-1010
営業時間: 8:00~18:00
定休日: 木曜日
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