和菓子街道 東海道 府中 馬場製菓

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老舗飴屋七代目のチャレンジ

 静岡の繁華街の中心にあって、人々の憩いの場となっている常盤公園。かつては駿府城下の寺町3丁目と呼ばれたこの辺りには、菓子屋が17軒ほども建ち並んでいたという。そのほとんどがなくなってしまった中、「馬場製菓」は今も健在だ。

 実は、社長の馬場昌子さんとは、間接的に面識があった。しかし、直接お会いしたことはなく、ご本人もそんなことは覚えていらっしゃらないだろうと思い、自分から彼女にそのつながりをお話するつもりもなく、ただの記者として取材を申請してあった。

 ところが、実際にお会いすると、社長はすぐに私との間接的なつながり(というのか?)にお気付きになった。人の名前やバックグラウンドなど、全て覚えているようで、本当に驚いた。さすが、と感心したものだ。

 しかし、鋭いとはいえ、馬場社長はいかにも「女社長」というイメージでもなく、明るく優しく、温かいお母さんといった感じ。話を始める前から打ち解け、その前向きな姿勢とほがらかな様子を見ていると、この人は誰からも愛される人なのだなとつくづく思った次第だ。

 そんな彼女が率いる馬場製菓の創業は、今から170年ほど前、幕末の天保年間(1830~1843)と言われている。初代の仁兵衛から数えて、現社長の昌子さんで七代目。馬場製菓と言えば元祖「茶飴」として知られた老舗で、昔の旅人は、「馬場の鉄砲玉(飴玉)を持って東海道を旅する」と言ったものだとか。

 茶飴で有名な馬場製菓だが、当初は飴ばかりでなく、ありとあらゆる菓子を作っていたようだ。しかし、町のお菓子屋さんという位置づけではなく、店で菓子を売っていたというものでもない。いわゆる製造元で、馬場製菓で作られる菓子を問屋が買いつけ、小売店に流すという仕組みになっていたらしい。

 府中内の問屋はもちろん、少し離れた清水などからも問屋が買い付けに来たため、馬場製菓の前で問屋の大八車が列を成して待つ光景が連日のように見られたという。先に書いた「馬場の鉄砲玉」も、旅人は馬場製菓に立ち寄って買うというより、街道筋の土産屋などで買ったようだ。また、昔の馬場製菓の商標は(ヤマニ)で、馬場製菓製の菓子にはこの商標がつけられていたそう。

 「今はなくなってしまったけれど、例えば以前は静岡で一番の老舗だったと言われる扇子屋さん。ケイキさん(徳川慶喜)が扇子屋さんのカステラを食べたと言われているけど、それだってうち(馬場製菓)で作ったものを卸してたんだから」(昌子社長)

 そんな馬場製菓の中興の祖とも言うべき人物は、明治から大正にかけて活躍した四代目だ。娘しかいなかった三代目金蔵は、跡を継ぐ婿を探していたが、有名な馬場製菓の後継者になりたいと願い出る若者は少なくなかった。

 大勢の候補者の中から、三代目がこれはと目をつけたのが次郎吉という男だった。馬場製菓の婿養子となった次郎吉は、金蔵の名を襲名(ちなみに二代目は初代同様仁兵衛を襲名)。

 三代目のお眼鏡にかなっただけあり、四代目金蔵は確かに凄腕で、馬場製菓を大きな合名会社へと育て挙げた。静岡市菓子組合を設立し、初代会長を務めたのもこの人だ。四代目が明治45年(1912)に記した会訓には「親切、熱心、倹約」の文字。現在もこの会訓は馬場製菓の店内に掲げられておっり、その心も受け継がれている。

 また、馬場製菓には、菓子の古いレシピや木型、四代目が綴った「職工・徒弟 雇入細記」などの資料が数多く残されている。静岡は昭和15年の静岡大火と昭和20年の大空襲によって壊滅的に焼き尽くされ、馬場製菓もやはり建物を消失していた。しかし、かねてから四代目が用意してあった頑丈な金庫に保管されてあったため、代替わりした後もこれらの資料は火の手を免れることができたのだという。

 ちなみに、前出の「雇入細記」には明治の頃に馬場製菓で働いていた社員80人、職工11人あまりの名前や出身地がつぶさに記されている。静岡はもとより、掛川、清水といった近場の町や、名古屋、高崎、北海道などといった遠方の地からも職工が集まったようだ。数年前、昌子社長の夫であった六代目が急逝した時には、この名簿にも名が記入されている元職工さんのひとりが弔問してくれたという。

 その元職工さんは、馬場製菓で修行した後、独立して近くに菓子屋を開いた。その時は馬場製菓が土地を買い与え、店まで建てて門出を準備したそう。その菓子屋は一代限りで終わってしまったが、馬場製菓への恩は生涯忘れることがなかったようだ。明治生まれのこの元職工さんも、馬場製菓六代目が他界した数年後にはこの世を去っている。

 さて、四代目の活躍の後の馬場製菓だが、五代目を経て六代目の頃からは飴一本に絞るようになり、それまで受注で作っていたその他の菓子の製造は行わなくなった。会社として既に安定しており、時代と共に流通が広がっていくにつれ、他の菓子まで手が回らなくなってしまったためだ。

 昌子社長の夫であった六代目の利郎さんは、大学の工学部で学び、某有名大学の講師としての席も用意されていた人物だった。しかし、悩んだ末に家業を継ぐことを決意し、馬場製菓に入ったのだという。

「未来の大学教授の妻になるつもりだったのに、どういうわけか飴屋さんになっちゃったわね(笑)」(昌子社長)

 大学を去り、江戸時代から続く飴作りに追われる日々を送っていた利郎さんだったが、平成7年のある日突然、急性心不全で倒れた。あれよあれよという間に夫は、昌子さんとふたりの娘を残して逝ってしまった。それまでは義母の介護やふたりの娘の養育に専念する普通の主婦だった昌子さんにとって、夫の死はあまりにも突然で、会社の今後のことや、老舗を守るといった考えなど及びもしなかった。ただただ呆然とするばかりだったという。

 そんな彼女を支えたのが、社員や職人の「馬場製菓を続けて欲しい」という言葉だったという。以来、会訓を励みに、会社を建て直し、ひたすら仕事人として没頭する日々が始まった。最初は飴作りの「あ」の字も分からなかった昌子社長だが、おそらく彼女の中には、天性の才能のようなものが備わっていたのだろう。彼女こそ、江戸時代から続く馬場製菓の軌道を大きく変えた人物なのだ。そのヒラメキと行動力は、中興の祖であった四代目以上のものがある。

 働き盛りだった夫を突然失ったことが、ある意味、社長としての彼女の大きな原動力となった。健康に生きることのいかに大切なことか。いかに難しいことか。

「夫のように突然の病に倒れる人を、少しでも減らしたい」

 医者でもなく、薬剤師でもなく、研究者でもない自分にできることは何か、そんな風に日々思っていた昌子社長だったが、ある日、漢方薬の先生である友人から紹介されて呼んでいた本に、「カテキン」の文字を見つけた。カテキンが今ほど知られていなかった頃のことだ。茶に含まれるカテキンの効能を知った彼女は、家族ぐるみの友人であった静岡大学農学部の教授に「カテキン入りの飴を作ってみたいんだけど、どう思われます?」と相談してみた。

 すると教授は大賛成。自分以上に的確なアドバイスをくれる人が他にいると言って、別の教授を紹介してくれたという。また、馬場製菓の社員や職人にもカテキン入りの飴を作りたいと申し出たところ、みんな昌子社長の希望をよく理解し、全面的に協力してくれた。昌子社長自身も茶学術研究会やお茶料理研究会に参加して日々勉強した。

 結果として生まれたのが、馬場製菓の健康飴第一号「緑茶カテキン飴」だ。興津川上流の清水両河地で八十八夜(5月2日)前後に収穫される無農薬「やぶきた」一番茶を使い、自社で研究・開発した高純度カテキンを含む緑茶抽出物を練り込んだ飴で、なめることによって抗菌効果を狙った商品だ。

 抽出作業は、職人はもとより、昌子社長も自ら行っている。茶葉を石臼で丹念にひいて粉にし、熱水に入れ、ろ過して、エヴァポレーター(濃縮器)でろ液の水分を蒸発させる。残った結晶がカテキンを多く含む抽出物となる。

 馬場製菓の緑茶抽出物のカテキン含有量は72.8%。これを飴に練りこむわけだが、通常の飴よりも糖分を4分の1に抑えてあるため甘くなく、濃いお茶の味がしっかりとして、渋さがすっきりとした味わいとなっている。もちろん、緑茶カテキン飴作りにも江戸時代から続く茶飴の伝統的製法が生かされている。

 この緑茶カテキン飴は平成10年には第23回全国菓子大博覧会で名誉総裁賞を受賞。その後、馬場製菓では「緑茶カテキンごま茶飴」、砂糖未使用の「シュガーレス緑茶カテキン飴」といった姉妹品を次々と製造・販売している。それどころか、カテキンに限らず、健康に良いと話題になる食材は全て飴に変えてしまう。竹酢、アガリクス、ウコン、カリンハチミツ、プロポリス、コラーゲン、ビタミン、ゴーヤ、ギムネマ・ガルシニアアロエダイエットキャンディ、竹炭、のり、山葵などなど。

 最近では、気分を落ち着けたり、血圧を低下させる作用のあることが明らかになったテアニンを入れたのど飴「テアニン飴」も手がけており、こちらも平成14年度の全国菓子大博覧会で名誉総裁賞を受賞している。これらを含め、昌子社長の代になってから、既に100種類以上ものアイテムを製造・販売してきたというから驚きだ。

 今でこそ「馬場製菓」の名で売られている数々の商品だが、実は先代までは馬場製菓は製造のみを行う会社だった。そのため、商品のラベルには販売元の名がつけられていた。しかし、馬場製菓の名を全面に出すために、昌子社長の代になってからは直接、馬場製菓の名で販売し、常盤公園前の店舗でも小売するようになった。さらには、韓国やアメリカ、スイス、イギリスなど、海外にも馬場製菓の飴は輸出されている。

「お菓子は昔から、地域密着のものだったと思います。でも、それではどうしても限界があります。社員をたくさん抱える会社として、できる限りのことをして馬場製菓の商品を広めていかなければ。社員にお給料を払わなくちゃいけないからね(笑)」

 夫を失った後、ひたすら前を見て、がむしゃらに走り続けてきた昌子社長だが、馬場製菓が今あるのは、彼女自身がこうやって頑張っていられるのは、「社員のお陰」だという。「社員の皆さんの理解と支えがあったこと、土台を固めていてくれたことが本当に助かりました。だから、私も社長として安心していいものをアピールできるのです」

 毎日、仕事の始まる前に朝礼を行い、社員の意見を聞き、また自分の意見も述べているという昌子社長。彼女が社員を信頼しているように、社員もまた、人柄の良い彼女と、170年間信頼されてきた馬場製菓についていこうと思うのだろう。そんな彼女と二人三脚で頑張っているのが愛娘の智子さんだ。亡き父の血を受け継いだのか、智子さんは大学卒業後、技術者として某大手企業の宇宙開発プロジェクトに参加。人工衛星の部品設計開発を担当していた。

 夜中の1時2時までの残業は当たり前。最後にいつ休日をとったかも忘れるような激務が続いたという。傍から見れば人もうらやむエリートだが、ご本人は少し違った目で自分自身を見ていたようだ。プロジェクトはチーム単位の作業で行われ、自分もその「部品」の一部でしかない、そう感じていたという。

 やがてプロジェクトの区切りがつくと、同僚達は退職して海外留学したり、新会社を設立するために巣立っていった。そんな同僚たちの姿を見ていた智子さんも、自身の将来について深く考えていた。ところがそんな矢先、父の急死の知らせが入ったのだ。智子さんは、「部品」から卒業して、老舗である家業を継ぐというこれまで辿ってきたのとは全く違う道を進むことを決意した。

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babaseika-old-days.JPG静岡大火後に再建された頃の馬場製菓。
babaseika-cha-ame.JPG昔ながらの茶飴、香ばしいほうじ茶、典雅な甘みの玉露、ほろ苦い抹茶の飴をひとつの袋に入れた「いろいろ茶飴」もある。
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making-of-candies6.JPG茶飴は熟練の職人がひとつひとつ手造りで仕上げていく。ザラメ(砂糖)と水あめを145℃で15分ほど煮詰め、飴色になりかけたところで火から下ろして冷却鉄板に流し、120℃前後まで冷ましてから抹茶を混ぜて練りこむ。熱いままでまぜたのでは、せっかくの茶の香りが飛んでしまう。あとはスピードとの勝負。手早くまとめて濃い翡翠色の飴の塊を作る。これに、別途用意しておいた白い飴を組み込んで、「茶」の文字を形作っていく。この時点では直径30センチほどの飴をこれを手早く引き伸ばし、1センチ四方になると「茶」の文字がくっきり現れ、真ん中に白い「茶」の文字をあしらった茶飴が完成する。この時点での飴の温度は約100℃だ。
evapolater.JPGエヴァポレーター
catechin.JPG結晶化させた緑茶抽出物

catechin-powder.JPG純度70%の緑茶カテキンを含む粉末状の「オールカテキン」はそのままお湯に溶かしてお茶として飲むことができる。

 宇宙開発事業から老舗の飴屋へと、従業員から経営者側へと、急に方向転換した智子さんには、家業とはいえ困惑することも多かった。父親ほどの年齢の職人は誇りも高く、飴作りに関しては自分よりもはるかに多くのことを知っていた。しかし、母である昌子社長と共に仕事をするうちに、徐々に自分のペースを掴んでいった。

 現在では、商品開発、営業、経理と、一人何役もこなしている智子さん。それこそ、本当に休みなく働いている。しかしそれは、今の彼女にとっては充実の証。八代目となるべく、自分の進むべき道を歩んでいる。

(お菓子とカテキンの写真はクリックすると大きくなります)

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店舗情報

馬場製菓
  菓子: 茶飴(315円/180g)、緑茶カテキン飴(367円/100g)
       テアニン飴(525/80g)、オールカテキン(2100円/30g)他
  住所: 静岡県静岡市駿河町7-1
  電話: 054-252-1552
  営業時間: 8:00~17:00
  定休日: 日曜日、祝日
  URL: http://www.babaseika.com/