和菓子街道 東海道 府中 石部屋

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家康が食べた安倍川餅は甘くなかった?

江戸の日本橋から京の三條大橋までの東海道中で旅人が出逢う各地の名物は数知れず。その中でも、草津のうばが餅が西の横綱なら、東の横綱はやはり安倍川餅だろう。府中の外れの安倍川の渡し場で、乗船の順番を待つ旅人たちが茶店で食べた名物餅だ。

 今では安倍川沿いで売られていなくても、全国的にきな粉餅を安倍川餅と呼ぶ。そもそも、安倍川餅とはどういったものだったか。安倍川餅成立の経緯を追ってみた。

 安倍川餅誕生の一般的な由来話には、お約束のようにかの徳川家康が登場する。江戸時代(慶長8年/1603~)のはじめ頃、安倍川源流の山奥の井川の笹山金山や梅ヶ島の日影沢金山(いずれも現静岡市)では、江戸幕府の御用金山として盛んに金の採掘が行われていた。

 これらの金山の検分に訪れた家康に、「亀屋」という餅屋の五郎右衛門がきな粉をまぶした餅を献上したところ、家康が例によって「なんという餅か」と尋ねた。そこで五郎右衛門は、きな粉を安倍川上流の砂金に見立てて作った「金粉餅(きんこもち)です」と答えた。この答えに大いに喜んだ家康が、「安倍川餅とせよ」と、改めて名をつけた。これが、安倍川餅の由来だ。

 この話に登場する五郎右衛門という男について少し話をしよう。天正十年(1582)に駿府に生まれ、役所勤めを経た後に唐や天竺、阿蘭陀まで渡り歩いたという渡邊幸庵という人が記した『渡邊幸庵対話記』には、東新田という所で産する米を使って旨い餅を作る鞠子の五郎右衛門の話が紹介されている。

 鞠子という田舎とは思えないほど旨い餅として名高く、参勤交代の大名なども鞠子を通る際には必ずこれを賞味したと言われている。大手安倍川餅メーカー「やまだいち」のホームページには、後に尾張二代藩主徳川光友の内室となったとある姫様はこの餅が大好きで、姫の生涯を通じて毎日のようにこのもちを江戸に運ばせた、とある。

 江戸住まいで後に光友のもとへ嫁いだのであれば、二代将軍家光の娘の千代姫のことだろうか。鞠子から毎日餅が運べたのか、餅は固くなっらなかったのか、風味は落ちなかったのか。後に光友の室となったのであれば、生涯江戸にいたのではなく、尾張に行ったのではないのか。かなり疑問の残る記述だが、ともかく、それくらいおいしい餅だったということは伝わってくる。

 「やまだいち」によると、この鞠子の五郎右衛門こそ安倍川の亀屋の五郎右衛門で、五郎右衛門の餅こそ安倍川餅と考えられる、という。府中の次の宿場である鞠子と、府中外れの弥勒。遠い昔のことだから、ごっちゃにされてもおかしくはない。色々調べてみたものの真相はよく分からない。

 静岡県の『史話』には、「寛永の頃(1624~43)、丸子に餅屋五郎右衛門という者がいて餅を作ることが上手で味も佳なりと東西の旅人が賞味する者多くついに丸子の名物となった。またこれより先元和7年(1621)辛酉紀行に宇津の谷の里に来ると白き餅あられの如くなるを器に入れてこれをめせとゆう、問えば十団子とてこの里の名物なりという。安倍川の茶店で初めて源右衛門が売つたと伝えられる餅もこれらの影響を受けたものであらう」(原文ママ)と記されている。

 これを見る限り、安倍川餅は鞠子の五郎右衛門の餅の影響こそ受けているが、違うもので、安倍川餅の元祖の名も源右衛門となっている。源右衛門の店が何という名だったのかは不明だ。

 安倍川手前の弥勒には確かに亀屋という茶店があり、亀屋の宮崎家では代々五郎右衛門の名を襲名していた。明治7年(1874)には亀屋当主が私財を投じて安倍川に木橋の安水橋をかけたという記録も残されている。

 もしかしたら、鞠子の五郎右衛門が後に弥勒に出てきて安倍川餅を作ったのかもしれない。しかし、そうなると江戸時代に入ってからも評判だったという鞠子の五郎右衛門の餅は一体何だったのかということになってしまう。やはり、鞠子の五郎右衛門と亀屋の五郎右衛門は別の人物だったのではないか。いずれにしても、安倍川餅についてはまだまだ分からないことが多いようだ。

 作り手に関する細かい経緯はともかく、安倍川餅そのものはどうだったのか。現在、静岡の安倍川餅に関しては、あんこ餅ときな粉餅をセットで安倍川餅と称しているようでもある。しかし、最初の頃の安倍川餅は、いわゆる“安倍川餅”、つまりきな粉餅だけだったようだ。

 改めて振り返ってみると、街道沿いの茶店と餅はつき物。腹持ちがよく、米を使って作る餅は上等のおやつで、歩きつかれた旅人には最高のおもてなしだったと言える。餅を置けば確実に売れるため、茶店ではこぞって餅を名物にしたのだろう。安倍川餅も最初は普通の白い餅に始まり、やがてきな粉をまぶすようになり(前出の家康への献上以来か)、更にずっと後になって砂糖も用いられるようになったと考えられている。つまり、家康が食べた安倍川餅は甘くはなかったはずなのだ。

 もっとも、当時の砂糖は現在我々が一般に考えるような白い砂糖ではなかった。そのため、最初の頃の安倍川餅も、未精製砂糖の黒蜜に餅を浸してきな粉をまぶしたものだったと言われている。そういえば、越前地方で食べた安倍川餅も、黒蜜に餅を絡めてきな粉をまぶしたものだった。あちらの方がむしろ、原型に近いのかもしれない。

 日本において製糖技術が発展するのは、江戸時代も半ば過ぎのことである。江戸時代以前、砂糖輸入に頼っており、重さ辺りの値段は銀塊のそれと同等という高価なもので、主に薬として用いられていた。国産の砂糖が作られるようになったのは慶長(1596~1614)の頃。製糖技術が薩摩藩に導入され、正徳3年(1713)には天下の台所・大阪にも大量出荷されるようになった。しかし、製糖技術は薩摩藩の方針により門外不出となっていた。

 製糖技術が一般に広まるようになったのは、享保の改革(1716~1745)を断行して幕政を立て直した八大将軍徳川吉宗の時代だ。吉宗の倹約政策は徹底しており、庶民の食生活にも及んでいた。

 当時流行していた高値の初鰹の取締りを行い、菓子も新商品の発売を一部禁止したほど。そんな吉宗が砂糖の原料であるサトウキビの栽培したというのだから、矛盾のようでもなるが、決してそうではない。

 当時高価だった白砂糖を国産化することによって価格を抑えようというのが吉宗の考えだったようだ。飢饉に苦しむ人々を救うため、サツマイモや朝鮮人参の栽培も奨励した吉宗だから、農業の活性化も念頭にあったのだろう。

 吉宗が諸藩にサトウキビの苗を配るよう命じて以降、薩摩藩以外の土地でも製糖が行われるようになった。駿河・遠州地方では、池上太郎左衛門が幕府の農場から苗を譲り受けて、サトウキビ栽培を始めたのが最初と言われている。

 しかし、薩摩藩の製糖法はこの時点でもあくまで秘伝。その他の地では、技術の未熟さから砂糖を量産することもできず、また、白砂糖といえども色はあまり白くなく、質も悪かったようだ。寛政年間(1789~1800)には紀州で多く製糖が行われたが、やはり薩摩ほどの技術はなかったと言われている。

 駿・遠二州でサトウキビ栽培が盛んに行われるようになったのは寛政2、3年(1791~92)頃のこと。駿府代官によって登呂遺跡の東南にある宮竹村に、サトウキビの栽培が命じてからだ。寛政6年(1794)には、製糖を希望する者は届出よとの通達が代官所より出された。ある程度の量産が可能になったものの、やはり製法はまだまだ完成されておらず、砂糖は赤味を帯び、黒糖のような味だったようだ。薩摩藩は相変わらず、他藩には何も教えてはくれなかった…。

 安倍川餅に砂糖が用いられるようになったのもおそらくこの頃、少なくとも享和元年(1801)以降であろうと言われている。砂糖は諸藩で作られるようになったものの、そのほとんどが幕府への献上品であって、一般に出回る量は限られていた。しかし、弥勒の茶店がいち早く砂糖を用いることができるようになったのは、おそらく安倍川の渡し場の町であったためだろう。

 物資や人が行き交う渡し場では、いつも新しい情報で溢れていた。渡し場近くの茶店も、そういった情報にはアンテナを張っていたはずだ。弥勒の茶店では砂糖が出るといち早く利用したが、高級品の砂糖だけに安倍川餅の値段も高くなった。一般的に餅が1個二、三文ほどで売られていたこの時代、安倍川餅の値段は五文ほど。茶店側としては、砂糖の珍しさと旨さにかけて勝負に出たというわけだ。

 しかし、この高値がかえって評判を呼び、安倍川餅は大ヒットとなった。安倍川餅は一皿五文も取るということで、「五文取」の別称まで生まれた。ちなみに、当初は5個で五文だったが、後に1個五文にまで値上がりしたようだ。「五文取」という言葉を記したもので、おそらく最も古いだろうといわれているのが安永年間(1772~80)に書かれたと言われる『駿府風土記』で、「五文取ト云餅名題ナリ」とある。

 ただし、この文献自体は残っておらず、後の天保7年(1836)になって林某という人物が写したものが伝わっているのみ。そのため、元の本が安永年間というのは疑問視されている。安永の頃であれば、まだ駿河でサトウキビ栽培が行われていないためだ。他藩のものか、輸入品を使っていたことも考えられるが、府中外れの小さな茶店数軒でそんな高級なものをわざわざ取り寄せただろうか。

 ともあれ、これ以外にも江戸時代に出版された多くの書物に安倍川餅や五文取についての記述が多く見られる。陰陽師・安倍晴明の子孫で、江戸中期に陰陽頭として天文や暦にまつわる職務を担っていた土御門泰邦が残した『東行話説』(宝暦10年/1760)には、京から江戸へ向かって旅した際に食した菓子が数多く紹介されている。道中出逢う菓子のまずさに、一口で捨ててしまったり気分が悪くなって薬を飲むといったことまであった。そこはお公家さん、庶民の味は口に合わなかったのだろう。

 しかし、泰邦にとっても安倍川餅はすこぶるおいしかったらしい。いっきに食べて大満足したようだ。この旨い安倍川餅が先祖(安倍家)の名前と同じであることも、このお公家さんをたいそう喜ばせた。「我為にいしくも名乗あべ川や豆の粉の餅まめの子の旅」と、自身が安倍家の後裔であることを歌に詠み込んでいる。しかし、この時点での安倍川餅は、まだきな粉だけの餅だったようだ。

 享和元年に大田南畝が記した『改元紀行』には、「安倍川のこなたの家に臼つく音して、たすきかけたる若き女の餅をねるさま面白く、しばらく輿をとどむ、新たなる木具に盛りて来るはかの安倍川餅なるべし味またよろし」とあり、安倍川餅作りの様子をよく伝えている。

 もちろん、かの『東海道中膝栗毛』にも安倍川餅は登場する。弥次・喜多が料金二朱(五百文)の遊女屋に泊まり、お茶請けに出された重箱入りの安倍川餅を食べるのだが、渡し場の茶店で食べればたった五文だったのにと後で悔しがる様子が描かれている。辺りでは「めいぶつ餅をあがりやアし、五文どりをあがりやアし」と旅人を誘う声が飛びかっていて、「ここはなにあうあべ餅の名物にて、両側の茶店はいずれも綺麗に華やかなり」と、賑やかな様子が伝わってくる。南畝も十返舎一九(『東海道中膝栗毛』)も、砂糖を使った安倍川餅を食べたはずだ。

 文化14年(1817)の『駿国雑誌』には「安倍川の渡頭、弥勒町にてこれをうる。その形櫃形にして、潔白なり味もまた佳し、上に氷おろしをかく、其の一つを銭五文にうれり故に五文採餅の名あり」の記述。氷おろしとはすなわち砂糖のことで、安倍川餅の形は箱のように四角かったことが分かる。

 安倍川餅に使う砂糖は、時代に合わせて当初の黒蜜から白砂糖に変わっていった。文政(1818~1829)の頃にもなると駿・遠両州の製糖技術は飛躍的に進歩し、江戸にも大量出荷されるまでになった。質も良くなり、色の白い白砂糖を作ることができるようになったのもこの時期だ。特に、久能辺り(東海道的に言うと草薙の南方)の薬園では力を入れてサトウキビを栽培していたようだ。

 前出の『駿国雑誌』と同じ雑誌の別号なのか、天保14年(1843)には『駿国雑志』という書物が出ており、これにも同様に「安倍川府外、弥勒町にあり、名産とす、上に砂糖、或は黄な粉をふる。その一を銭五文にて売る、故に五文採りといへり」とある。

 また、嘉永5年(1852)に成立した三代歌川豊国の『役者見立五十三次』に、伊勢参りの男が五文という値段を聞いて驚いたところ、物知りの江戸っ子が「砂糖が高いのを知らないのか。白砂糖を使う餅が道中のどこにある」と罵ったことが詞書に記されている。白砂糖を使う餅はそれだけ珍しいものだったのだ。

 前後するが、実は、製糖を奨励した将軍吉宗も安倍川餅の大ファンだったそう。南町奉行を勤めた旗本の根岸鎮衛が天明2年(1782)から文化11年(1814)にかけて書き継いだ随筆集の『耳袋』には、吉宗が「阿部川餅やうの餅は通と途になし(安倍川餅は街道一の餅だ)」と絶賛していたことが書かれている。

 吉宗は将軍になる以前からきな粉をかけた安倍川餅の旨いことを知っていたらしい。参勤交代などでこの辺りを何度も往復したためだろう。将軍職に就いてからも、駿河出身の家臣・古郡孫太夫に安倍川餅を作らせて賞味していたという。孫太夫は将軍のためにわざわざ富士川の雪水で育ったおいしいもち米を仕入れて作ったのだとか。

 ここまでは、きな粉餅としての安倍川餅について語ってきたが、あんこ餅とセットで出すようになったのがいつの頃からかは、残念ながらはっきりとしていない。おそらく江戸時代後半と思われるが、あくまで憶測である。また、安倍川餅の店は先に述べた亀屋ばかりでなく、渡し場近くに数軒の茶店があり、いずれも安倍川餅を売っていたという。

 昭和7年刊の『静岡市史餘録』によれば、明治初年には安倍川手前の街道沿い南側には石部屋、清水屋、小枡屋、大枡屋、紀国屋の5軒が、北側には月見屋、はふ屋、亀屋の3軒があったようだ。しかし、明治22年の鉄道開通に伴い、街道をゆく旅人も激減。安倍川餅屋の客もめっきり減ってしまった。上記8軒のうち、現在も残っているのはわずか1軒、石部屋だけである(現在あるその他の店は明治後期以降にできた)。

 初代吉五郎が石部屋を開いたのは、文化元年(1804)。丁度、安倍川餅に砂糖が使われ始めた頃だ。石部屋での安倍川餅作りはその頃とほとんど変わっていないというから、まさに、弥次・喜多が食べた味そのものを、200年後の今でも味わうことができる店なのである。

 店の佇まいはいかにも茶店風。土間には毛氈と紺地の小さな座布団を敷いた床机が置かれ、小上がりにちゃぶ台が置かれている。江戸情緒満点で、弥次・喜多がひょいと暖簾を潜って入ってきそうだが、実はこれは戦後から使用している建物。昔の建物は空襲で焼けてしまったため、雰囲気のある建物を見つけてきて移築したのだという。

 石部屋の屋号は、おそらく初代の出身地である石部からとったものだろと、十五代当主の長田満さんは言う。石部と言うと東海道の宿場町を連想するが、そうではなく、焼津に近い海岸沿いの町のことである。JRの東海道線が、用宗駅の先でトンネルに入る辺りだ(余談だが、新幹線は日本坂トンネルを、東海道本線は石部トンネルを潜る)。商標は山に初代の名の吉を合わせたものを使っている。

 「うちが元祖と名乗っているのは、今ある安倍川餅屋の中で一番古いから。安倍川餅自体はそれ以前からあったみたいだよ。でも、家康に献上したとか、そんなのは後でつけた話じゃないの?」

 安倍川餅を作る手を休めず、長田さんはざっくばらんに話す。石部屋には街道歩きの折に立ち寄ったのも含め、もう何度も訪れている。無愛想な人(失礼!)と思っていたが、話をすればいたって気さくで、質問にも丁寧に答えてくれる人だ。店内に飾られている明治から大正の頃の写真についても、詳しく解説してくれた。

 長田さんによると、明治頃までは石部屋は安倍川に最も近い場所にあったが、後に石部屋と安倍川の橋の間にどんどん店ができ、今では3軒並ぶ安倍川餅屋の中でも一番川から離れたところに店がある状態だという。当時、安倍川餅は1人前10銭。大福餅が1個2銭だった時代であるため、五倍の値段だ。

 「でもさ、安倍川餅は庶民が食べたものでしょ。当時の餅菓子としては高かったかもしれないけど、茶店は茶店だからね。うちはずっと縦長の看板を使ってるけど、これは間口が狭い店のやること。呉服屋なんかはでーんと横看板でしょ。あれは、店の間口が広いから」

 確かに、広重などの絵に描かれている安倍川餅屋は、いずれも縦に長い看板を掲げている。なるほどね、と感心した次第だ。昔のままの姿は、何も店の雰囲気や看板だけではない。肝心要の安倍川餅そのものが、石部屋では今も江戸時代とほぼ同じ様に作られている。

 搗いた餅が固まらないように湯煎してあり、その柔らかな餅を4センチほどの大きさになるようにぎゅっと手で絞ってはきな粉をたっぷり入れた桶の中に落とし、ささっときな粉をまぶす。あんこ餅の方は同じ餅に漉し餡をつけ、指先で丸めていく。一皿にきな粉餅・あんこ餅が5個ずつが乗せて出される。きな粉餅には白砂糖が上からどばっとかけられている。

 至ってシンプルだが、できたてはやはり旨い。餅は柔らかいようでちゃんと歯ごたえもあり、むちむちとしている。もち米100%で、餅の香りもちゃんとする。もちろん、余分な混ぜ物は入っておらず、全て手作り。餅を搗いておく以外は、注文を受けてからの作業だ。

 「忙しい日には1万個くらい作るよ」

 と長田さん。あっと言う間に仕上げてしまうが、1万個ともなるとさすがに大変そうだ。基本的に長田さんがひとりで作っているため、おのずと数に限度もあるため、他に出店もなく、ここだけで食べられるものだ。持ち帰り用もあるにはあるが、そちらは堅くならないように餅に微量の砂糖を加えているため、どうしても店で食べるのとは若干異なる。

 安倍川餅以外には生山葵と醤油で食べさせる「からみ餅」があるが、こちらはだいぶ後になってできたものだという。

 「旅人の中には甘いものは苦手っていう人もいたと思うんだ。だから、酒の肴としてからみ餅も作るようになったんじゃないの」(長田さん)

 こちらは湯銭の餅をそのまま皿にはった湯に落とし、山葵醤油をつけて頂く。湯の中の餅はすぐに伸びてしまうので、おしゃべりなどしていないですぐに口に運んだ方が賢明だ。酒好きの弥次・喜多にも食べさせたかったな…。

 白餅からきな粉餅、砂糖付きな粉餅へと進化し、後にあんこ餅も付、更にはからみ餅という番外編まで作られるようになった安倍川餅。全部が出揃った現代に生まれて良かったと、しみじみ思いながらお茶をすするのだった。

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abekawa-in-book.jpg天明年(1786)頃に作成された高力猿猴庵編『東街便覧図略』の内、「安倍川」の項より。(名古屋市博物館蔵)

kameya-in-book.jpg『東街便覧図略』の内、「阿部川五文取店」(原文ママ)に描かれた亀屋の様子。(名古屋市博物館蔵)

hiroshige-fuchu-abekawa.jpg弘化4年(1847)~嘉永5年(1852)刊、歌川広重画、蔦吉版『東海道五十三次内 府中』(豊橋市美術博物館蔵)

hiroshige-fuchu-abekawamochiya.jpg天保(1830~43)後期刊、歌川広重画、行書『東海道五十三次内 府中』(静岡市蔵)

abekawa-street.jpg日露戦争(明治37~38年/1904~05年)の凱旋パレードが通った際の写真。

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abekawa-bridge-now.JPG大正12年に竣工した安倍川橋(上)が現在(下)も使われている。

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sekibeya-in-meiji.jpg明治時代の弥勒の茶店。一番手前の店に「せきべや」の看板がかかっている。

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(お菓子と絵図、浮世絵の写真はクリックすると大きくなります)

店舗情報

石部屋
  菓子: 安倍川餅、からみ餅(各1皿500円)
       土産用安倍川餅(2人前1箱1000円~)
  住所: 静岡県静岡市葵区弥勒2-5-24
  電話: 054-252-5698
  営業時間: 10:00~17:00
  定休日: 木曜日(祝日の場合は前日)