和菓子街道 東海道 江尻 追分羊かん

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副業が転じて現代の街道名物に

 江尻宿を出て、次なる府中宿に向かう途中で通りかかる追分の地。今ではめっきり少なくなってしまったが、かつてはこの辺りの街道の両側に風雅な千筋格子の家々が連なっていたことから、「格子戸のある追分」と呼ばれていたという。その追分で、一際目を引く真っ赤な日よけ暖簾を張った店に出逢う。ご存知、「追分羊かん」だ。

 風情ある千筋格子の店舗は、戦災で家屋が焼けた後に旧来通りに再現したもので、かつての追分の様子を見事に伝えている。ただ、近隣の家々の格子戸と、追分羊かんの格子戸はどうやら少し違っていたようだ。追分羊かんでは、一般的な江戸格子と、一寸と五分の板が交互にはめられた「京格子」の格子戸の両方を使っており、江戸と京の間にあって、東西文化の接点を感じさせる。素封家でなければなかなかできない贅沢だ。

 おそらく、街道歩きをする現代の旅人の十中八九が、この古色蒼然とした店構えに惹かれて立ち寄り、日によってかけかえられる床の間の徳川慶喜や勝海舟、山岡鉄舟といった歴史上の人々の書画を眺め、皿乗せられて出される「追分羊かん」を頬張り、駿河のお茶でほっと一息つくのではないだろうか。そして、「江戸時代の旅人もこんな風に腰掛けて、追分ようかんを食べたんだろうな」と感慨をもらす…。

 しかし、水を差すようで悪いが、江戸時代にそんな光景があったと思うのは全くの絵空事。いや、絵にも登場しない情景だ。広重も北斎も追分羊かん屋を描いていないし、名所図会などにも登場しない。なぜか。それは、「追分羊かん」と呼ばれる店は当時、まだ存在しなかったからだ。

 誤解してもらっては困るが、追分羊かんを製する府川家も江戸時代を通してこの辺りの大庄屋であり、今も昔と変わらぬ製法で蒸し羊羹を製している。ただ、羊羹専門の菓子屋として暖簾を上げていたわけでも、旅人に茶や甘味を振舞う茶店でもなかったというだけのことだ。

 創業を元禄8年(1695)とする追分羊かん(店)の名物・追分羊かん(菓子)の始まりについては、羊羹の袋や栞などに書かれている。それによると、徳川三代将軍家光の頃(在職1623~1651)、府川家の当主・新助が江戸からの帰る途中、箱根の山中で病に苦しんでいた旅の僧侶と出会たっため手厚く介抱したところ、そのお礼に小豆の羹(あつもの)の作り方を伝授された、という。

 旅の僧は明(中国)の人で、羹というのは簡単に言ってしまえば熱い吸い物のこと。そもそも、羊の羹と書く羊羹のルーツを辿ると、古代中国で大変珍重された羊の肉入り汁物に行き着く。この吸い物が冷めて、羊肉のゼラチン質が凝固したものを食したところ美味だったことから、羊羹は羊肉の吸い物以上に、その煮こごりを指すようになった。羊羹が遣唐使によって平安時代の日本にも伝えられるが、獣の肉を食することを嫌った仏教国日本には羊の肉を食する習慣はなく、豆や小麦などを使った肉もどきを汁に入れて代用した。

 つまり、日本における当初の羊羹は、小豆などを入れた汁物の煮こごりで、甘くないものだった。それが、鎌倉から室町時代にかけて、小豆餡を蒸したり固めたりして作る点心となり、茶の湯の点心として用いられるようになっていった。これが現在の羊羹の原型である。

 では、箱根の山中で府川新助が伝授された「小豆の羹」とは、一体どちらだったのだろうか。中国的に考えるとそれは煮こごりであったはずだし、時代的に考えると甘い羊羹だったはず。府川家では、同家が受け継いだのは現代とほぼ同じ砂糖入りの羊羹であるとしているが、果たして?

 また、箱根という場所も少し気になる。箱根を東に下ると小田原があり、そこにはかの有名な「ういろう」がある。外郎(ういろう)家も元は明代に中国から日本に渡ってきた家柄である。小豆餡を蒸して作るういろうと蒸し羊羹、似てはいないか?

 ただ、明の国が存在したのは1368年から1644年まで。日本では家光の在職の間に、かの国では明が滅んで清にとって代えられている。もしかしたら中国出身の外郎家の誰かが府川家に「羹」作りを伝えたのかもしれないとも考えたが、外郎家が日本にやってきたのは明の初め頃であるから、関係はないのかもしれない。

 しかし、それよりも更に不思議なのは、追分羊かんの創業年だ。初代の新助が「家光の頃」で、かつ「明」の人に教わった羊羹であれば、それは1623年から1644年までの間の出来事であるはず。ここまで厳密でなくとも、その前後でなければいけない。ところが、追分羊かんの創業年は元禄8年で、五代将軍綱吉の時代なのだ。

 考えられるのは、この創業年が初代新助の没年であり、過去帳などに記されている最古の年号であること。「家光の頃」、上記のような出来事があり、羊羹作りが府川家に伝えられたのだと、新助以来代々、口伝によって伝えられてきたのだろうか。いずれにしても、当時を知る手がかりとなる文献などが一切存在しないため、何を語るにも憶測の粋を出ることはない。

 ちなみに、乞食に身をやつした職人が、食事などをねだり、お礼に何かしらの御礼返しを残していったという話は、古来よく聞く話である。現に、乞食が教えた薬が家伝薬として静岡各地に今も残っており、販売されてもいる。追分羊かんも元はそういった乞食によって伝えられたものだったと考えられなくはないか。

 しかし、追分羊かんの由来は他にもある。前述のように、ここまでは追分羊かんの包装袋や栞などに書かれている由来を元にした考察だが、その由来記は実は清水出身の“詩人”長田恒雄という人が記したもの。ここにもうひとつ挙げる別の由来は、これよりもう少し現実的だ。

 その由来というのは、府川家が代々この地での製糖業の元締を行っていたことに関係する。駿河地方での甘蔗の栽培や製糖の歴史については、府中宿ページで紹介している石部屋のコラムに詳しいので、そちらを参照されたい。そこにも記してあるが、この地方でサトウキビ栽培が盛んに行われるようになったのは寛政(1789~1800)の頃。寛政6年(1794)には、代官所から製糖希望者の出願通達が出されている。おそらく府川家もその頃、甘蔗栽培と製糖を始めたと考えられる。

 3年ほど前に91歳の長寿を全うした府川家の先代(十四代)松太郎翁の著書『追分今昔記』(昭和60年刊)には、当時の府川家と駿河の製糖について次のように記されている。

 江戸時代の製糖は、甘蔗を栽培する農家の一貫作業によるもので、主に白砂糖、蜜、白下糖が作られていた。特に白砂糖の製造は当初は秘伝とされており、伝授者に伝授起請文を差し出すことが義務付けられていた。起請文と引き換えに製糖技術が伝授され、製糖家を株として登録制を採用することによって、製糖家が増えることを制限していた時代もあったという。

 この起請文の一例として、三保村の利八という人が、元追分村の直右衛門(府川家先祖)から製糖技術を伝授された時の契約書が同書に紹介されている。

 「日本国中大小之神祇、別しては、箱根大権現、伊豆大権現、三島大明神、草薙大明神、この大神様に誓って、製法は如何なることがあろうとも、親類、兄弟といえども絶対に伝授しない」

 現代仮名遣いに書き換えたものではあるが、秘伝の技術の伝授がいかに重要なものであったかを伺い知ることができる。

 また、郷土誌『三保村誌』には、寛政の頃に三保村の庄屋・長沢利兵衛が甘蔗の苗を入江町元追分から取り寄せて栽培し始めたことが記されている。この他、同様にして製糖技術を伝授された者が現在の三保、駒越、元追分近在などにおり、その元締めをしていたのが府川家だったのだ。

 静岡県史には『府川文書』という一項があり、これらのことはその中で裏付けられている。おそらく府川家は、幕府がサトウキビ栽培を奨励すると、いち早くそこに目をつけ、栽培・製糖に乗り出したのだろう。寛政6年に代官所に製糖を願い出た者のひとりだったのかもしれない。

 ちなみに、製糖を願い出ると言っても、それは決して気軽な心持でできることではなかった。まだ製糖技術が発展途上の段階にあった当時、製糖は非常に金のかかる事業だった。庄屋以上の者でなければなかなか手が出せない。なにせ、製糖は幕府認可のいる仕事だったのだ。

 〈砂糖造るならこもから造れ、砂糖しもうたらこもかぶれ〉という当時の小唄の意味するところは、「砂糖を造るならまず薦(こも)を造っておけ、そして砂糖造りに失敗したらその薦をかぶれ」だ。薦は粗末な莚(むしろ)のことで、雨雪をしのぐために薦をかぶる乞食のことを「こもかぶり」と呼んだ。つまり、砂糖作りは金がかかり、失敗すると大変なことになるから、最初から乞食になる覚悟でやれ、というわけだ。

 ともあれ、そんな大事業を始めることができた大庄屋の府川家は、明治後期まで製糖業を続けていた。現在の店舗の裏手には庭があり、そこにロクロを据えてサトウキビを入れ、駿河地方に育つ安倍牛にロクロを引かせて砂糖汁を絞った。

 こうして搾り取った砂糖汁を火にかけて煮詰め、砂糖を造った。裏庭には絞りかすの甘蔗殻がうず高く積み上げられていて、毎晩キツネがやってきてはこの甘蔗殻を食べていたらしい。当時の家長・直右衛門は、キツネが悪さをするでもないし、せっかく遊びに来るのだからと、そのまま自由に出入りさせていたという。それで、村人はこのキツネを「羊羹屋のキツネ」と呼んだのだとか。

 そう、羊羹屋、である。実は羊羹作りは、本業の製糖の傍らで、家人が蒸し羊羹を製して売った副業だったのだ。以前どこかで読んだ記述には「最初は初代の名からとって“新助羊かん”と呼んでいた」とあったが、実際にそうであったのかどうかは分からない。それならむしろ、製糖を始めた直右衛門から名をとって「直右衛門羊かん」とする方がが適している気もするが…。いずれにしても、追分で売られている羊羹だから、いつしか「追分羊かん」と呼ばれるようになった、そう松太郎翁は記している。

 菓子屋でも茶店でもなかった府川家の屋敷前では、時折、この羊羹が売られていたのかもしれない。主に近在の人々が買ったのだろうか。あるいは、江戸時代の文献などにこの羊羹がこの地の名物として登場することはないが、運良く羊羹が並べられている日に府川家の前を通りかかった東海道の旅人は、これを買い求めていったかもしれない。いずれにしても、羊羹を売る府川家は、本業は製糖業であるにも拘わらず、「羊羹屋」と呼び親しまれていたようだ。

 鎖国が解除され、世が明治になると、海外貿易が盛んになった。また、日清戦争(明治27~28年/1894~95)で日本が台湾の支配権を獲得すると、企業が現地で砂糖を製造することが可能になり、府川家の製糖業も自然に廃業。そして、副業であった羊羹作りを本業とするようになった。

 それまで羊羹屋と呼ばれていた府川家は遂に本当の羊羹屋となり、売っていた羊羹の名がいつしかそのまま店名になったというわけだ。蒸し羊羹の「追分羊かん」が本格的に東海道の名物になったのもこの頃からである。

 これが、現実的な方の由来話である。箱根の山中で明の僧侶を助け、そのお礼に羊羹作りを教えてもらったという先のドラマティックな由来話は、時代背景などが符合しないことから、どうしても“詩”なのだろうと思わざるを得ない。やはり、府川家が実際に製糖業を始めてから秘伝の羊羹も改めて作って売るようになった、というのが実際に最も近い形なのだろう。

 ともあれ、今はこちらが本業となった追分羊かんだが、これは確かに、味といい素朴さといい、街道の名物と呼ぶに相応しい蒸し羊羹だ。誕生の時代がもう少し早ければ、間違いなく十返舎一九も『東海道中膝栗毛』の中で弥次さん喜多さんに食べさせていたはずである。

 製法は基本的に今も昔のまま。柔らかく炊いた小豆に澱粉を混ぜて竹の皮に流し込み、皮を横に三つ折りした後、更に縦に三つ折りして、蒸し上げる。竹皮に入れることによって殺菌効果を得るのと同時に、竹のほのかな香りが羊羹に移るため、羊羹を口にするとなんともいえない典雅な香りがする。さっぱりとした甘さで、澱粉由来のむっちり、もっちりとした食感が美味さを倍増させる。

 今では駅の売店や土産物屋などでも売られており、安倍川餅と並ぶ定番の静岡土産となっている追分羊かんだが、これは全て手作りされているものだという。餡を炊いて、1枚1枚丁寧に洗う竹の皮で包んで蒸す作業は手間がかかり、10人の職人で作れる数は1日わずか500個程度だと、十五代当主府川充宏さんの奥様は言う。

「ベルトコンベアで流れてくると思われがちですが、ひとつひとつ、手作りしているんですよ。それに、本物の竹皮を用いているから、どうしても繊維が羊羹に張り付いて一緒にはがれてしまうこともあります。竹皮の繊維を白髪と間違えられるお客様もいらっしゃいますが、これは自然なことなのでどうにもできません。そこが手作りの良さです、とご理解頂くようにしています」

 と奥様。手作りゆえの苦労もなかなか多いようだ。弥次・喜多はこの美味を楽しむことができなかったが、追分羊かんを愛した著名人は少なくない。とりわけ有名なのは、元十五代将軍徳川慶喜だ。

 明治維新後に静岡に隠棲していた慶喜は、清水辺りに頻度高く出向いていたらしく、港で投げ網漁をして遊んだりしたと言われている。また、鷹を使った狩や鉄砲を使った狩も好きで、近在の山々に繰り出しては狩猟を楽しんだようで、追分近くの有度山にもよく出かけて行ったようだ。そんな時には必ず府川家に立ち寄って奥の間で羊羹と共に茶で一服し、当時の家長・佐太郎(十一代当主)と連れ立って有度山に入ったという。慶喜がしたためたという直筆の掛け軸が、今も同家に大切に残されている。

 もうひとり、有名どころを挙げるとすれば、やはり「清水の次郎長」か。講談で一躍有名になった任侠界の親分だが、意外や意外、実は酒が大の苦手。駆け出しの頃、酔っ払って歩いていたら袋叩きに遭い、それに懲りて酒を飲まなくなったとも言われているが、いずれにしても酒より甘味というお茶目な親分だったようだ。

 追分羊かんも次郎長の馴染みの店だったという。実は追分の地は、次郎長にとって実に因縁深い土地でもあった。時代は前後するが、文久元年(1861)、世に言う「青木屋事件」は、追分の羊羹屋にもほど近い旅籠で起こった事件だった。かわいがっていた子分の森の石松を殺した都田の吉兵衛、通称「都鳥」を、次郎長があだ討ちしたのだった。

 講談では「駕籠屋の逆襲」として事実と架空の出来事をない交ぜにして語られているこの事件だが、実は講談とは違う真相がある。そもそも、石松を殺したのは都鳥でも子分でもなく、「布橋の兼吉」という男で、都鳥はその男に頼まれて、次郎長に侘びを入れに都田(浜松)からはるばる街道を上って清水まで行く途中だったというのだ。

 次郎長の方ではそうとは知らず、憎い都鳥が自分から首を洗って持ってきたと思い、都鳥が休憩していた青木屋に討ち入ったのだった。遠州では名だたる侠客だった都鳥だが、悲しいかなこの追分の地で果ててしまう。次郎長も人情の厚い親分として知られているが、それは都鳥とてそれは同じだ。「大変立派な人だった」と言われている。

 しかし、森の石松をだまし討ちにしたという汚名を着せられ、「ずるい野郎は都鳥」とまで言われるほどの悪人の代名詞にされてしまった都鳥は、長らく大した供養塔さえ建ててもらうことがなかった(青木屋の敷地には卒塔婆が立てられたが)。後年、それを憐れんだ府川家の松太郎翁が、昭和38年に都鳥のための供養塔を建立した。この供養塔は追分羊かんから数十メートル先に行った辺りの街道左手にあり、今も献花が絶えない。無念の死後、100年以上を経てようやく都鳥の魂は鎮められたのだった。

 ところで、追分という地名からも分かるように、この地は東海道と「清水道」の分岐点に当たる。追分羊かんの左の道がまさにその清水道で、この道を行けば45分あまりで清水港に通じる。昔はこの辺りは田畑ばかりで、清水港もここから見えたという。そして、ここが清水道との追分ですよと教えてくれるのが、追分羊かんの角に建てられている御影石の道標だ。

 道標の正面には題目「南無妙法蓮華経」、脇面には「是より志ミづ道」、もう一面には「七面大明神守護」、そして裏には建立者「実相院法入日中」「法春日陽寿位」の名がそれぞれ彫られている。元禄10年(1697)から11年(1698)頃の建立と伝えられる道標だが、実はこれひとつではない。

 この道標を建立した京出身の谷口法春は、東海道の道筋にある刑場に供養塔を建てることを発願し、妻や息子の法悦を伴って旅に出た。元禄8(1695)の春のことである。道すがら、建立すべき道標を石工に造ってもらっては建て、供養して次へと進んだのだろう。通常のたびならば20日もかからず着くはずの江戸に、法春一家が辿り着いたのは、京を出発して実に3年後の元禄11年2月であった。

 江戸に着いた法春一家だが、その後は更に北に向かい、供養行脚を続けた。現存する法春の供養塔は、東海道筋の三雲、関、川合(亀山付近)、江尻、鈴が森(品川)と、日光街道の千住宿にある6つであると一般に言われている。

 そして、現存する江尻の供養塔こそ、追分羊かん横の「志ミづ道」の道標である。つまり、江尻宿から出外れたこの追分にも、刑場があったということだ。亀山手前の川合の供養塔についてはガイドブックや各位ホームページで触れられているが、これと清水道の追分道標が同じ発願によるものであることはあまり知られていないようだ。

 ちなみに、前述したようにこれらは元禄8年から11年にかけて建てられたものだが、それ以前にも法春・法悦親子は各地で題目塔を建てていた。由比の讃徳寺にある元禄4年(1691)の題目塔もそのひとつだ。日蓮宗の熱心な信者であった法春一家は、日蓮宗総本山のある身延山と共に、その裏鬼門を抑えて守る七面山(七面明神)への信仰も篤かった。身延山や七面山へ向かう途中にも、同じような題目塔を多く建てたようだ。

 そして、全くの偶然ではあるが、追分羊かんの府川家も七面山を篤く信仰している。歴代当主は毎年七面山に登り、祈願やお礼参りをしているという。

「こういう古くから続く店をやってますと、口にこそ出しませんが主人にもそれなりの苦労はあるようです。何か思うことがあると、七面山に登るのです。そして下山すると、心が背負っていた重い荷物を全て山頂に置いてきたかのように、身軽な心持になっているようですよ」(十五代目夫人)

 題目や「七面大明神守護」と書かれた道標が家の側に建っていたための信仰ではないというが、やはり何かしらの縁あってのことなのだろう。

 さて、話は飛ぶが、この道標(供養塔と言うべきか)には不思議な言い伝えが残されている。それは、たった一夜のうちに建てられていたということだ。重さ150貫(約560kg)もある道標は、近隣の人が寝静まった頃に建てられ、誰にも気付かれないまま朝を迎えたのだという。当時は、誰がどうやって運んだのか、どこの石工が造ったのかも分からず、里人は大いに驚いたと伝えられている。

 後にこれが法春一家によって建てられたことは分かったが、供養行脚を黙々と続けた法春一家にとっては、そこに供養塔を建てることが目的であり、自分が建立したことを里人に知ってもらう必要はなかったのだろう。それにしても、「自分が、自分が」とアピールしたがる人の多い昨今の世の中と比べると、誠に奇特な話である。

 この道標にまつわる不思議な話をもうひとつしておこう。明治の初め頃、どういうわけかこの道標が取り除かれて、府川家の屋敷の裏木戸の近くに植えられていた橙の木の下に放置されていたことがあった。折りしもその頃、コレラが流行し、府川家の人々もみな病に倒れてしまった。

 病床に伏す家族の中でも、最も病の軽かった府川うら(十二代目夫人)が占い師に相談したところ、「お経の字が書いてあるものがお宅の地面に埋まっている。それを取れば治る」と教えられた。そこでうらは、忘れかけていた道標のことを思い出して近所の人々の力を借りてこれを掘り出し、清水口入口の元あった所に立て直した。すると、家族はその日の内にも回復したのだという。

 ところで、断って置かなければならないことがある。この道標の位置と向きについてである。元々この道標は、追分羊かん角の現在の位置にあったのではなく、清水道を挟んで反対側にあった。つまり、清水道の東側に道標が、西側に追分羊かんの府川家があったのだ。

 清水港への往還とはいえ、元々清水道は大八車さえ通れればよい道で、道幅も一間(1.8メートル)程度。戦後に急速に普及した自家用車や三輪トラックがこの道を通るにはかなり難儀をした。しかも、ただでさえ狭い道の出入り口には、あの道標がある。車でぶつけたのか、邪魔扱いして倒したのかは分からないが、横倒しになっている道標がたびたび発見された。

 府川の先代・松太郎翁が近所の人々と共にこれを立て直しても、またすぐに倒されてしまう。そんな繰り返しを経て、いっそ、道標の場所を移してはどうかという話になった。思案した結果、今までの反対側になってしまうが、追分羊かんの道路側の聚楽塗りの塀を少し後ろに下げて、道標を持ってきた。東海道の名残を偲ぶよすがになればとの思いから、道標の傍らには松の木2本が植えられた。

 この時、正面も題目のある面から「志ミづ道」の面に変えたため、今日では供養塔というより道標として一般に知られるようになった。昭和32年頃のことだ。以来、この道標は追分羊かんに守られるように店の角に佇んでいる。

 こうしてみると、追分羊かんはこの辺り一体の歴史の語り部であることがよくわかる。道標、駿河での製糖、清水の次郎長親分にケイキさん(慶喜)。はたまた、村の近くに住んでいたキツネの話まで出てくる。江戸時代の旅人がここを茶店代わりにした事実はなさそうだが、土間の広がる店に足を踏み入れると、やはり歴史の重みを感じる。長い歴史の香りが、竹皮の奥から漂ってくるようだ。

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kaishu-calligraphy.JPG勝海舟の書

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Tokugawa-Yoshinobu.jpg徳川慶喜

jirocho.jpg清水の次郎長

miyakodori.JPG都鳥の供養塔

shimizumichi.JPG清水道

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kuri-yokan.JPG栗入りなどもある。

oiwakeyokan-dish.JPG店内で試食用に使われている皿。

oiwakeyokan-package.jpgラベルの文字は、当代随一と謳われた清水生まれの書道家・高塚竹堂の手によるもの。 (お菓子の写真はクリックすると大きくなります)


店舗情報

追分羊かん
  菓子: 追分羊かん(1本970円~)、きざみ栗入り羊かん(1本1390円~)、つぶ栗入羊かん(1本1390円)他
  住所: 静岡県静岡市清水追分2-13-21
  電話: 0543-66-3257
  営業時間: 8:30~17:00
  定休日: なし
  URL: http://www.oiwakeyokan.com/