鶴見を出た後、旧東海道が一旦は斜めに横切った国道15号線と合流するのは、京急生麦駅の少し先だ。丁度この辺りに、歴史の教科書でもお馴染みの「生麦事件」の碑がある。
幕末の文久2年(1863)に、薩摩藩主島津久光の行列の前をうっかり横切ってしまった英国人らを藩士が殺傷した事件だ。武士にとっては当然だった「斬り捨て御免」が発端で薩摩藩と英国との戦争にまで発展してしまうが、これが開国への道を開くきっかけとなった歴史的重要事件である。
この先、国道15号線に沿ってまっすぐ進むと、道はやがて神奈川の宿へと入ってゆく。今の地名を言えば、神奈川通から台町辺りまでと続く長い宿場町だった神奈川。安政6年(1859)に横浜が開港する以前は、諸外国との外交の舞台となったのがこの町だ。横浜という地名も、元は「神奈川の横の浜」だったことからつけられた経緯がある。
海に面して台場が設けられ、宿場内の寺の多くは諸外国の公館として利用された。街道沿いにある良泉寺は、外国の公館として寺を貸すよう幕府に命じられたが、わざわざ本堂の屋根をはがして「現在修理中」とし、やんわりとこれを断った寺だ。
そのため、代わりに長延寺という寺がオランダ領事館にあてがわれたのだが、現在は長延寺は残っておらず、一方の良泉寺は今も健在である。なんとも因果な話ではないか。神奈川宿は丁度、昔は長延寺のあった辺り(現神奈川通東公園)から始まっていた。
車通りの多いこの辺りは、古い寺院以外は昔を伝えるものはほとんど何も残されていない。ただ、京急仲木戸駅とJR東神奈川駅前を通り過ぎた辺りに再現された松並木や高札場が、かつての雰囲気を演出してくれている。
その昔、神奈川宿は海を目の前に擁した港町だった。広重も海辺の宿場町としての神奈川を描いているが、開港以降の埋め立てにより、今では海は遥かに遠のいている。
ところで、浦島伝説は日本各地に残っているが、海辺の町だった神奈川にも、同様の伝説が伝わっている。宿場内にある慶運寺の別名は「浦島寺」。かつてもう少し東にあった本来の「浦島寺」観福寿寺を合併したことにより、慶運寺には今も、浦島太郎が竜宮から持ちかえったとされる浦島観世音などの遺物が多く伝えられているためだ。
この他、神奈川周辺には「浦島ヶ丘」という地名や、「浦島小学校」まである。車止めも亀の甲羅を模ったものだ。
江戸時代の神奈川宿には、この浦島伝説に因んだ名物菓子があった。かつて、洲崎神社門前にあった若菜屋という菓子屋が享保2年(1717)に売り出した「亀甲せんべい」がそれだ。亀の甲羅の形に焼いた甘い小麦粉煎餅で、庶民の旅人はもちろん、大名が国許への土産として好んで買い求めたという。神奈川宿本陣に宿泊する大名にもお茶請けに出されていたようだ。
残念ながら若菜屋は平成元年(1989)に閉店。その後、洲崎神社前の浦志満という菓子屋が亀甲せんべいを継承したが、平成17年には浦志満も閉店し、亀甲煎餅は遂に途絶えてしまった。
大幅に脱線することを承知で付け加えると、横浜の関内にある「わかな」は、前述の若菜屋の長男が明治5年(1872)に開いた鰻料理屋だ。初代の橋本吉蔵は根っからの遊び好きで、「煎餅屋など継げるか」と言って家業を継がず、縁あって知り合った鰻職人を雇って「わかな」を始めたということだ。当代で五代目を数える「わかな」は、今では横浜一の鰻料理屋と称されている。
話を街道に戻そう。かつては亀甲せんべいを焼く甘い匂いが漂っていたであろう洲崎神社門前の宮前商店街を抜け、京急やJRの線路をまたぐと、「神奈川の台」と呼ばれた急な上り坂が始まる。
この辺り、台町は、高台から袖ヶ浦を見下ろす風光明媚の地で、坂の両側に茶屋や料理屋が軒を連ねていた。茶屋の縁からは、眼下には入り江が、少し遠くには横浜の砂州などが見え、街道屈指の景勝地と言われたほどだった。
かの『東海道中膝栗毛』でも、弥次さん喜多さんが台町の茶屋で一杯やらかして、この地の景色の良いことを褒めている。しかし今では、江戸時代から続く料理屋は田中家1軒になり、かつて白波が寄せていた浦は、横浜駅西口のビル群へと姿を変えている。
台町を上り詰め、下っていくと、軽井沢を経て浅間町に出る。町名の由来である浅間神社の境内には、「富士の人穴」と呼ばれる穴があり、富士山まで通じていると言われていた。信じた人にはあいにくだが、戦後の発掘調査により、この穴が横穴古墳であることが判明している。この先、保土ヶ谷までは住宅地を通って行くことになる。
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その他のおいしい立ち寄り情報
田中家
料理: 昼席6300円~、夜席10500円~
※+席料1人1050円(税込)+サービス料15%
弁当: 御弁当(3150円~、予約制、店頭受け渡し)
土産: 葉山牛たたき(250g5250円)他
住所: 神奈川県横浜市神奈川区台町11-1
電話: 045-311-2621
営業時間: 10:00~23:00(完全予約制)
定休日: 土曜日、日曜日、祝日不定休
URL: http://www.tanakaya1863.co.jp/
横浜駅西口からもほど近い台町は、かつては海を望む高台になっており、軒を連ねる料亭からは三味の音や唄声が聞こえてくる華やかな地だった。今ではマンションが建ち並ぶこの坂の町に、その当時のよすがを偲ぶことはもはやできないが、ただ1軒、田中家のみが江戸時代から続く料亭として残り、過ぎた日を今に伝えている。
田中家が現在建っている場所には、江戸時代のはじめ頃には「さくらや」という店があった。さくらやは広重の『東海道五十三次 神奈川台の景』にも描かれている腰掛茶屋だ。侠客幡随院長兵衛の相手役である平井権八が、さくらやで麦飯にとろろ汁で十杯も食べたという逸話から、別名「権八茶屋」とも呼ばれていたようだ。
その後、さくらやは高島嘉右衛門という人の手に渡り、下田家という店に変わったが、更に文久3年(1863)には晝間(ひるま)弥兵衛が下田家を買取り、旅籠料理屋の田中家を開いた。これが現在も続く田中家である。田中家という屋号の由来は、この地に移ってくる前の晝間家が、田圃に囲まれた一軒家に住んでいたことからつけられたという。
現在では台町はおろか横浜で最も古い老舗となった田中家だが、その長い歴史は様々な興味深い逸話を生んでいる。例えば、文明開化の中心となった横浜で最初に電話をひいたのも田中家だ。更に、あの坂本龍馬の妻おりょう(楢崎龍)もこの店で仲居として働いていた。
田中家の玄関には古文書と一緒に古い時代の写真などが飾られているが、その中の一枚、花見の折の集合写真にはおりょうも写っている。京都伏見の寺田屋にも若い頃の美しいおりょうの写真があるが、田中家の写真の中にも、その美貌衰えぬ彼女の姿がある。
慶応3年(1867)に龍馬が暗殺された後、一時は龍馬の姉の乙女に世話をしてもらっていたおりょうだが、やがて乙女の下を離れて各地を放浪するようになった。おりょうの放浪は筋金入りだ。龍馬と出逢う前にも天誅組残党の賂として各地を放浪していた過去があり、その自由な生き方に龍馬が惚れたと言われている。
そんなおりょうが田中家にやって来たのは、明治6年(1873)頃、37歳くらいの時のことだ。その頃には既に母や弟とも死別して、天涯孤独の身となっていた(医師だった父は井伊直弼の安政の大獄で捕らえられて獄死)。
仲居をしていたのはわずか2年ばかりの間だが、器量が良く、客あしらいも上手なおりょうは、大勢いた仲居の中でも飛びぬけて人気があったそう。勉強家で、英語も話すし、海外事情にも詳しい。もちろん、その経歴から話題も尽きない女性だった。ただし、深酒に溺れることがしばしばあり、女将も手を焼いたという話ももれ伝わってくる。
やがておりょうは、田中家の常連客だった商人の西村松兵衛と意気投合。田中家を辞めて横須賀造船所建設用の資材の回漕業をしていた西村と再婚し、横須賀に越して行ったという。これが、明治8年(1875)のことだ。
入籍の際、おりょうは西村ツルと名を変えている。波乱万丈の過去を捨て、横須賀に骨を埋める決意をしたのかもしれない。おりょうが去った後にも、田中家の贔屓客が「今日はおりょうはどうした?」と他の仲居に訊ねることが長く続き、仲居たちはいつまでもおりょうに嫉妬していたのだとか。
格式高い料亭として、高台から横浜の歴史を見つめてきた田中家も、当代の晝間喜一さんで六代目になる。喜一さんは料亭の息子として生まれ育ったにも関わらず、どちらかというと洋食好み。そこで現在の田中家では、洋食や中華の素材も取り入れた創作和食を出すようになったという。
客に最善のもてなしを、という考えから、田中家では完全予約の制度をとっている。料理は全て会席料理。昼席は6300円~だが、料理の値段は量の差によるものではなく、「食材の差」によるものと明言している。モットーは「不断の進化」。老舗という言葉の上に胡坐をかくのではなく、常に新しいものを、旨いものをと心がけているという。ちなみに、喜一さんの弟さんも板場に立っているそう。
今では田中家が芸者を呼ぶことはなくなったが、夜の宴席では折に触れて五代目女将が三味線を弾くこともある。夜の帳が下りる頃、台町の料亭から聞こえてくる三味の音色。そんな夜には、かつての神奈川の台の風情が音になって蘇る。
なお、田中家では予約をすれば弁当も用意してくれる。季節の炊き込みご飯と料理が二段の箱に収められており、料亭の味を持ち帰って頂くことができる。街道歩きのついでに受け取るのであれば、高台に上って横浜を一望しながら弁当を広げてみてはいかがだろう。
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