和菓子街道 東海道 品川 餅甚

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土用のあべ川餅は餅甚で

 安倍川餅と言えば、東海道は駿河の国、府中の宿の安倍川辺りの名物と決まっている。搗きたての餅に砂糖を混ぜた黄な粉をまぶした安倍川餅は、昔も今も変わらず人気のある餅菓子だ。東海道の旅を続けていれば、現在の静岡市内でその安倍川餅に行き当たる。ところが、まさか歩き始めたその日の内、品川宿の出外れで「あべ川餅」に出合うとは、思ってもみなかった。

 ところは、京急平和島駅にほど近い美原通り。あべ川餅を名物とする餅甚なる店が、当時の東海道の道幅を保っているというこの界隈きっての老舗として残っている。

 店に入ると、まず目につくのが天井近くに掲げられた「餅甚」の大きな看板だ。炭化させた船底の板を利用した看板で、かなり古いものだという(店名については後述するが、「餅甚」となっているため、大正以降のものだろう)。少し前まではこの看板を表に掲げていたが、老朽化を懸念し、風雨を避けるために店内に入れて大切に保管しているのだという。その他にも、明治18年(1885)に日本国で始めて発行された「菓子製造営業免許鑑札」(複製。本物は銀行で保管)といった歴史的資料が展示されている。

 創業は享保元年(1716)。戦災や火災でほとんどのものが焼けてしまったが、甕に入れて保管してあった過去帳の最も古い記録では、初代とされている甚三郎が他界したのが享保10年となっているため、それ以前には既に店を開いていたのではないかと推測される。そこで、店の前の徳浄寺のご住職の助言もあり、創業年を享保元年に定めたのだという。はっきりしたことは分からないが、初代甚三郎が静岡(駿河)の出身だったのであろう。当初は「駿河屋」という名の茶店で、旅行く人に茶や菓子を振舞っていた。

 中でも、夏の土用の20日間に駿河屋(後に餅甚)が出していた土用餅は、頗る評判が良かった。土用と言えば丑の日の鰻が有名だが、それは平賀源内が言い出したこと。他にも、うどんなど、「う」のつく食べ物なら何でも良かったとも言われている。酷暑を乗り切るために精のつく餅を食べる風習もあり、餡で餅を包んだ土用餅は、今でも季節になると菓子屋やスーパーなどで売られている。

 しかし、駿河屋の土用餅は、餡ではなく黄な粉と黒蜜を添えた餅で、店ではこれを「あべ川餅」と称して出していた。そう、駿河屋のあべ川餅は、いわゆる安倍川餅とはちょっと違う。砂糖を混ぜた黄な粉をつけて、更に特製の黒蜜をたっぷりかけて頂くのだ。どうして静岡流の安倍川餅にならなかったのかは不明。とにもかくにも、これが受けて、この辺りであべ川餅と言えば、駿河屋に決まっているというほどの評判になった。(ちなみに、福井県や東北地方の一部地域でも、あべ川餅と言うと餅甚と同じように黄な粉と黒蜜というのが主流である)

 駿河屋が茶店から菓子屋に転身したのは明治の頃。店名を変えたのは大正の初めだ。当時の当主、八代目甚三郎が主に餅を作っていたことから、餅甚という名に改めたという。

 さて、駿河屋/餅甚で土用餅として出されていたというあべ川餅だが、評判が良かったこともあり、土用の間のみならず、年に何度か作られるようになっていったという。「あれが食べたい」という客の要望が強く、30年ほど前には通年販売するようになった。何がそんなに人々を魅了するかというと、やはり餅そのものの美味さは言うべくもない。指で触れるとふにふにと柔らかいが、食べてみるとしっかりと弾力がある。黄な粉や黒蜜をつけなくても、餅本来の甘みだけで充分美味しいのだ。

 餅の美味さの秘密は、どうやら店の庭にあるらしい。餅甚には、300年前から使っている井戸がある。今でこそ木桶をからからと下ろして引き上げなくてもポンプで汲み上げることができるが、その水は絶えることなく湧いて出てくるという。一昔前まではこの辺りでも井戸を持つ家や店は沢山あったが、第一京浜国道が整備されると、地盤の変化でほとんどの井戸から水が湧かなくなってしまった。しかし、他の井戸に比べてもかなり深く掘ってあったという餅甚の井戸だけは、枯渇しなかった。

 餅甚では、今もその井戸水で餅米をといだり、小豆や赤飯用のささげ豆を洗ったりしている。「井戸水を使うと、赤飯も本当に綺麗な色に仕上がるんです。水道水だと、この色は出ません」そう言いながら女将さんが見せてくれた赤飯は、艶やかな臙脂色だ。着色料を使って無理に赤くしたものや、発色が悪く茶色っぽくなっている赤飯ではない。これが、本来の赤飯色なのだ。

 あべ川餅の餅を丸めるのは、女将さんの仕事だ。しかし、実は女将さん、庭の井戸の中を覗いてみたことは一度もないという。「神域に女性が入ることを嫌うとかいったことがありますが、穢れるという意味で、うちでは女性は井戸水を覗くことが禁じられていますので」と女将さん。

 昔から日本には、生理中の女性を穢れとし、鳥居を潜ることを禁じるという風習がある。これは何も、女性蔑視の意味ではない。女性特有の生理現象が死と間接的に結びついているという古代人の思想から生まれた因習だ。出産はその昔、死と隣り合わせだった。死は神社信仰の中で最たる穢れとされていたため、出産、生理といった女性の特性も死につながるものとして考えられていた。同じように、忌中の人も神社の鳥居を潜ってはいけないとされている。今話題になっている皇室典範の問題も、根底には同じ思想が横たわっている。

 仏教よりも古い日本古来の神に対する信仰とそれに伴う伝統や文化が、女性の生理現象を忌とし、その延長線上として「男の職場」では女性の存在までもが忌とされた、ということだろう。女性は生を司る存在でもあるので、生と死はいつでも背中合わせだ。この件に関して異論は多いだろうし、不快に思う人も少なくないかもしれない。しかし、女将さんは嫁いできた家の伝統を重んじて、決して井戸の中は見ないのだという。

 さて、美味いからといって餅だけを食べている場合ではない。流儀にのっとって、群馬県産の香ばしい黄な粉をまぶし、自家製の蜜をかけて頂く。そして、この黒蜜こそ秘伝中の秘伝なのだ。歴代当主にしかその製法は伝えられない。店の職人さんや女将さんさえも詳しくは知らないのだ。

 そこまでして守っているこの蜜、確かに独特である。黒糖・白糖・水飴を家伝の配合で合わせて煮詰めており、黒糖を煮溶かして作る一般的な黒蜜とは風味が違う。黒蜜と呼ぶには固定概念が邪魔をするので、いっそのこと、別の呼び名をつけた方がいいかもしれない。コクがあって、どちらかというとべっ甲飴のような味に近い気がする。つまり、水飴(あるいは麦芽糖)が多いのか…と、そこまで考えたが、やはり秘伝というだけあって、たやすくその秘密が分かるものでもないと諦めた。

 現在、店を切り盛りするのは十代目当主の福本義一さんだ。八代目の頃までは歴代当主は甚三郎を襲名していたが、先代は甚の1字を入れた名を授かり、義一さんの代になるとその古い習慣もなくなった。「ただ、場合によって名刺を使い分けてるんですよ」そう言いながら、福本さんが差し出してくれた名刺には「十代目 福本甚三郎(福本義一)」と書かれていた。時代が変わって襲名は一般的ではなくなったが、気持ちの上では代々受け継がれてきた伝統を守っているとうのが分かる。

 その伝統は今、十一代目(予定)のご子息に受け継がれつつある。製菓学校で学び、外で修行をして戻ってきた息子さんは、今は主に上生菓子を担当している。季節の花や風物を表現した美しい菓子は、餅甚の新たな顔になっている。江戸から続くこの店に新しい息吹を吹き込んだ息子さんだが、もちろん、「伝統」の方も怠ってはいない。例の秘伝の黒蜜も、既に息子さんの担当になっているという。古い看板のこと、あべ川餅のこと、井戸のこと、黒蜜のこと、当主の名前のこと、そして息子さんが作る上生菓子のこと…古さと新しさがひとつになって溶け合い、また新たな伝統となっていくのだなと、福本さん親子3人を見ていて思ったのだった。

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mochijin-souvenir.jpg土産用は黒蜜&黄な粉付、18枚入り~。

mochijin-namakashi.jpg上生菓子も秀逸。

mihara-musume.jpg地域の名(美原)から名をとった「みはら娘」は、砂糖をまずしたクッキー生地で白餡を包んだ和洋折衷菓子。 (お菓子、赤飯の写真をクリックすると大きくなります)

店舗情報

餅甚
  菓子: あべ川餅(18枚入650円~)、上生菓子(各1個190円~)、みはら娘(1個140円)他
  住所: 東京都大田区大森東1-4-3
  電話: 03-3761-6196
  営業時間: 8:30~19:00
  定休日: 火曜日