和菓子街道 伊勢街道 伊勢内宮 赤福

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ええじゃないかの赤福餅は、300年変わらぬ内宮門前の味

 伊勢参りが庶民にも許されるようになると、一生に一度でもお伊勢参りを、と夢見る庶民がこぞって伊勢にやって来た。参宮街道の終着点である内宮の宇治橋を目前に控えたおはらい町の通りには、飲み食い処など様々な店が軒を連ね、たいそうな賑わいを見せていたという。

 赤福も例外ではなかった。今を遡ること300年ほど前、参宮客を迎える内宮門前、五十鈴川の畔で初代・治兵衛が茶店を開いた。残念ながら、具体的な創業年は実は赤福の濱田家には残されていない。宮廷や大名に菓子を献上していたような京の菓子匠と違って、庶民的な茶店であったため、詳細な記録などは店には残されていないのだ。

 しかし、神宮関連の古文書などを管理保存する神宮文庫所蔵の古書の中に、赤福創業のヒントを探ることはできる。初見は、宝永5年(1708)に刊行された『美景薪絵松』。当時の伊勢について記した大衆誌のような書物で、この中に赤福に関する話題が書かれている。書物に登場するほどなので、恐らくそれ以前から店があったのだろうということで、赤福では創業年をその前年の宝永4年(1707)としている。しかし、実際にはもっと遡ることができるかもしれない。宝永2年(1705)におかげ参りが流行し、内宮門前に多くの茶店ができたといわれており、もしかしたら赤福もその頃に暖簾を上げたとも考えられる。

 宝永4年といえば、伊勢の町は大火に見舞われたり、大暴風雨や大地震を経験するなど、人災天災の続いた1年だった。恐らく赤福は、この苦難を乗り越えたのだろう。また、宝永6年(1709)には式年遷宮も行われ、参宮客は右肩上がりに増えていた。この景気に上手く乗ることができたのではないだろうか。

 この他、『もらいわらひ』などの史料にも赤福の名がたびたび登場。外宮の神職・度会(出口)延経(1661~1673)の著書『宇治昔語』にも、医師の吉村松軒が赤福餅屋に「あみがさ餅」を作らせた、などと記されている。「あみがさ餅」とは、蓬を混ぜた円形の団子生地に餡を入れ、二つ折りにして編み笠のように形作った餅菓子のこと。このことからも、赤福が「赤福餅」以外にの餅菓子も手がける餅屋(あるいは菓子屋)で、既に伊勢では名の通った店だったことが伺える。

 赤福の店名および菓銘についても、実はあまり史料が残っていない。赤福の濱田家に伝わる口伝によると、神宮参拝の折に治兵衛の茶店で餡餅を食べた千家の流れを汲む京都の高名な茶の宗匠から「赤心慶福」という禅語を頂戴し、そこから2文字をとって赤福を名乗るようになったといわれている。赤心慶福とは、赤心(真心)を尽くすことによって素直に他のお人の幸せを喜ぶことができる(慶福)、といった意味だ。茶の宗匠は、治兵衛の心尽くしの接客に感銘を受け、旨い餡餅を頬張ったのかもしれない。

 もっとも、赤福広報課長の中頭敏治さん曰く、茶の宗匠が名付け親というのは後世になって加えられた由来譚ではないかとのこと。これとは別に、明治28年(1895)刊の『神都名勝誌』には「新橋の西詰にあん餅を鬻く家あり~(中略)世俗餡入れたる餅を大福といへり、然れば赤き餡つけたる餅故に赤福と稱へたるなるべし」と記されており、中に餡の入った白い大福餅に対し、外に赤い小豆餡をつけた餅菓子であるゆえに「赤福餅」とした、という説もあるようだ。

 いずれにしても、少なくとも書物に初見のある宝永4年までには赤福の名に定まっており、その頃には参宮客にも餅屋赤福として認識されていたと思われる。

 昭和4年に編纂された『宇治山田市史』によると、当初は小さな餅屋だった赤福も、文久3年(1863)に行われた式年遷宮に向けた御木曳や、慶応3年(1867)のおかげ参りによる参宮客の増加に併せて時代の波に乗ることに成功。「赤福餅」は伊勢名物として定着するに到った。

 今更説明すべくもないとは思うが、「赤福餅」は餅に小豆を炊いて製した漉し餡をのせた餅菓子である。餡をのせる時に指でつける三筋の形は、神宮の御神域を流れる五十鈴川の流れを、下の餅は川底の小石を模しているといわれる。お伊勢参りの旅の味として、いかにも相応しい餅菓子だ。

 大福とは逆で、餡で餅を包んであるのは、作業効率がいいためではないか、と中頭さんはいう。

「餡を外にした方がささっと作れたのではないでしょうか。少しでも早く、少しでも多く作れるようにと考え出された、先人の知恵だと思います」(中頭さん)

 文政13年のおかげ参りでは、427万人以上もの参詣者が伊勢を訪れており、おはらい町も空前絶後の賑わいを見せたことだろう。茶店で、次々と訪れる客に対応するには、手早い作業が要求され、赤福はその需要を満たすことができたのではないか。

 赤福以外でも、例えば伊勢うどんなども、注文して2、3分で出せるスピード食だ。予め長時間茹でておき、注文が入ったらさっと温めなおして、汁とネギをかけて出すのだ。赤福にしても伊勢うどんにしても、どっと押し寄せる参宮客の需要に応えるファストフードのようなものだったのだろう。さっと食べてすぐに旅の続きができ、腹持ちもよい。まさに旅人向けの食べ物だったのだ。

 今でこそ甘い餡餅の「赤福餅」だが、甘くなったのは江戸も中期以降と考えられている。

「創業当初はまだ砂糖が高価な時代でしたので、赤福餅も塩餡入りの餅菓子だったと思われます。それが、時代を経て黒砂糖で甘みをつけた餡になり、明治後期に白砂糖を用いた今の味になっていったのです」

と中頭さん。黒砂糖を使うようになったのは、恐らく、徳川八代将軍吉宗が享保12年(1727)に甘藷栽培を奨励し、砂糖の国内生産量が増えて以降のことだろう。

 餡に白砂糖を用いるようになるのには、きっかけがあった。明治44年(1911)、神宮に御参拝遊ばした昭憲皇后が「赤福餅」を御所望になった。「赤福餅」は当時既に、伊勢を代表する名物になっており、明治33年(1900)には俳人・正岡子規も「到来の赤福餅や伊勢の春」と句に詠んでいるほどだ。明治38年1905)には明治天皇にも「赤福餅」が献上されており、皇后も名物餅の評判を耳にしたのだろう。

 しかし、当時の当主・濱田種助(七代目)は悩んだ。今回は明治天皇の時のような天覧ではなく、実際に皇后がお召し上がりになる。それまでの「赤福餅」はいわば庶民の味。餡には黒砂糖を用いていたため、皇后には甘みやアクが強く、味も濃過ぎるのでは、との懸念があったのだ。そこで、高価な白砂糖を餡に用いて、より口当たりがよく、上品な味に仕上げた「赤福餅」を創製し、献上。皇后もこの特製「赤福餅」をお気に召し、赤福はお褒めの言葉を賜ったという。

 以来、昭憲皇后より御用を賜った5月19日を赤福では「ほまれ日」と定め、また、献上されたものと同じ白砂糖入りの「赤福餅」を「ほまれの赤福」と名付けて販売。一般客の間でもこの新しい「赤福餅」は好評を博した。これが、今日我々が口にする「赤福餅」の始まりである。

 もっとも、「ほまれの赤福」登場後も、しばらくの間は並行して従来の黒糖餡の「赤福餅」も販売されていたようだ。明治から大正にかけて赤福店内に掲げられていた品書きには、「ほまれの赤ふく 一ぼん十銭、赤ふく 一ぼん十銭」と記されており、客の好みで選ぶことができたことが分かる。値段は同じで、現在の貨幣価値に換算すると10銭は約100円ほどか。どちらも同じ値段であるため、1盆に乗る餅の個数が違ったのだろう。今でこそ1盆に3個の「赤福餅」が乗っているが、1盆に乗せた数は時代によって異なる。古い史料などには4個だったり、7個だったり、多いときには10個乗っていたこともあったという。

 黒砂糖餡の「赤福餅」はいつしか作られなくなり、今ではかつて「ほまれの赤福」と呼ばれていたものが通常の「赤福餅」になっている。ただ、黒砂糖餡の「赤福餅」に少しだけ似たものなら、今の赤福でも作っている。毎月1日限定で販売されている「朔日餅」のうち、8月1日限定の餅を「八朔粟餅」というが、これは餡に黒砂糖を使用しており、中の餅が粟餅である以外は、古い時代の「赤福餅」の伝統を踏襲しているという。

 少し脱線するが、赤福の「朔日餅」の話を少々。テレビなどでもよく紹介されているので、その盛況ぶりはご存知の向きも多いかとは思う。「朔日参り」「お1日参り」などといって、毎月1日には地元の氏神様などに参拝する風習は全国的にあるが、伊勢も例外ではなく、古くより神宮に朔日参りをする慣わしがあった。それで、朔日参りの帰りには赤福で一服、という参拝客も多く、毎月1日に赤福で顔を合わせる「お朔日仲間」のような人たちまでいる。1日に赤福で顔を合わせる内に親しくなり、いつもの顔ぶれにが揃わない月などは、「今月は○○さん、いらっしゃらないの?どうしたのかしら?」などといった会話もあるのだとか。

 そういったお朔日の常連さんたちに、季節感を味わってもらえたらと、昭和53年に発売開始になったのが「朔日餅」なのだ。実は「朔日餅」が登場するよりずっと前、戦前から8月の「八朔粟餅」は存在した。八朔には神前に粟を供える風習があったことから、赤福でも早い段階で粟餅を特製していたのだが、この「八朔粟餅」の存在も、「朔日餅」の考案の一助となったようだ。

 各月の「朔日餅」は、1月=赤福餅、2月=立春大吉餅、3月=よもぎ餅、4月=さくら餅、5月=かしわ餅、6月=麦て餅、7月=竹流し、8月=八朔粟餅、9月=萩の餅、10月=栗餅、11月= ゑびす餅、12月=雪餅。年の初めの1月が通常の「赤福餅」というのが、なんとも小憎い。毎月1日は早朝から「朔日餅」を求める人の行列ができるほどの人気だが、予約をすれば入手もしやすいので、予約することをお薦めする。

 時代は大幅に前後するが、赤福の歴史に話を戻そう。二代目・長兵衛の頃の明和8年(1771)にもおかげ参りが流行。三代目・長兵衛の頃にも寛政元年(1789)の式年遷宮が行われ、赤福はその都度、名を高めていったようだ。

 文政13年(1830)には最大規模のおかげ参りブームが巻き起こるが、この年、伊勢の町を大火が襲い、一面は焼け野原になったといわれている。赤福も類焼を免れなかった。店がようやく再建したのは3年後の天保4年(1833)。ところが、今度は天保の大飢饉が起こってしまう。過去帳によると、四代目の長治郎が没したのは天保7年(1836)。飢饉が最も悲惨だった頃だ。

 長治郎の後を継いだ五代目・長治郎は、どちらかというと職人気質。菓子作りは得意だが、経営は肌には合っていなかったようで、膨大な借財を残してこの世を去った。そして、時代は明治へと変わった。

 新橋脇にある現在の赤福本店の建物は、明治10年に建てられ、昭和60年に大改修したものだ。今も店の奥の縁側に座れば、五十鈴川のせせらぎを眺めながら一息つくことができる。しかし、普段や穏やかな五十鈴川も、昔は大雨のたびに川が増水し、店が浸水することもしばしばあったとか。特に明治10年(1877)の台風では、五十鈴川が氾濫、宇治一帯が水浸しになる被害があった。川の畔に店を構える赤福にも水が押し寄せ、住み込み女中共々、みなで屋根裏に避難したという。

 倒壊こそ免れたものの、店舗は客を迎えることもできない有様。結局、店を建て直すことになった。ここで大いに活躍したのが、六代目の妻であるちゑである。この際、空家になっていた隣りの餅屋を買い取って、店の規模も拡大させた。新しい店は伊勢の商家に多い切妻・妻入り造り。間口を広げるために屋根を高めにしてあるのが赤福本店の特徴だ。

 古い写真からも伺えるが、土産用商品を置くカウンター部分が昔は縁になっていた以外は、ほとんど明治のままの姿を留めている。番茶を淹れるための湯を沸かす朱塗りの竈も、昔のまま。仏・法・僧の三宝にかけて、参宮客を乗せた三人乗りの馬の鞍を「三宝荒神」と呼ぶが、この鞍に形が似ていることから、赤福の竈も三宝荒神と呼ばれる形のもの。民間信仰では、三宝荒神は火と竈の神として祀られていたため、赤福でもこの竈は守り神のような役割も果している。竈は今も、年に一度、年末になるとメインテナンスのための修理をして大事に使っている。

 少し逸れて現在の話になるが、神宮の開門は朝5時であるため、赤福でも早朝参拝をする参詣者のために5時に開店。そのため、まだ明けやらぬ朝4時から三宝荒神の竈に薪をくべて、水は五十鈴川の伏流水を沸かし、客を迎える準備をしている。番茶は、度会町で無農薬栽培されている伊勢茶を本店で焙じて作る。庶民的な「赤福餅」によく合う茶だ。俳人・山口誓子は、朝早くから湯気を上げるこの竈を句に詠んでいる。「巣燕も覚めゐて四時に竈焚く」

 燕が巣を作る家は商売が繁盛すると昔からよくいわれるが、この句にもあるように、赤福も軒を潜ったところに毎年、燕が巣を作る。燕もまた、竈と一緒に赤福を守ってくれる存在として親しまれている。

 話を戻そう。昔は本店の隣に工場があり、「赤福餅」もそちらで作られていた。今は本店では「赤福餅」作りのパフォーマンス販売があるだけで、ほとんどは車で10分ほどのところに大きな工場で作っている。工場生産で一部機械化といっても、ほとんどは昔と変わらず、熟練の職人の手によって作られている。餅はきっちり37.5gにちぎられ、餡を手でかぶせて、五十鈴川を表す三本筋を餡につける。餡を餅に被せることを、「餅入れ」というそうだ。

 本店隣のかつては工場だった部分は、赤福が経営する甘味処・五十鈴茶屋になっており、屋根には工場時代にあった煙突が再現されている。明治20年(1887)には創業180周年を向かえ、店の表に大きな金字の看板を掲げた。文字は松阪市出身の書家・矢土錦山によるもの。今でも赤福のシンボルのひとつとして表玄関を飾っている。

 前述の『宇治山田市史』によると、明治28年(1895)頃の記録として「一年の砂糖五萬斤」を使用するほどで、赤福の人気を伺うことができる。(同書によると、大正から昭和初期頃には「砂糖二十萬斤、糯米三千二百俵、小豆三千五百俵、賣上高八百萬個」という大量の砂糖や米を必要とするほどの繁盛ぶりだったようだ)。

 明治38年(1905)、七代目の濱田種助の頃、明治天皇が神宮参拝をした折、「赤福餅」も伊勢名物のひとつとして天覧に供せられる。明治天皇の神宮参拝はこれで四度目であったが、「赤福餅」を伊勢名物として献上したのはこれが初めてのことだった。その後、上記のような経緯で「ほまれの赤福」が誕生。

 明治40年に関西線と参宮線が国鉄になってからは、赤福も亀山駅や山田駅(現在の宇治山田駅)に出張し、ホームで「赤福餅」を立ち売りしていた。当時、日持ちのしない餅菓子の立ち売りは珍しかったという。「赤福餅」は一折10銭。これによって、伊勢土産としての「赤福餅」の名が一層知られることとなった。

 伊勢名物としてすっかり定着した「赤福餅」だが、長い歴史の中には暗い時代もあった。昭和12年、日中戦争が勃発。戦況の激化に伴い、当時の当主で九代目の濱田裕康氏は徴兵にとられ、出征先の戦場で命を落とした。裕康氏の跡を継いだのは、生後9カ月の濱田益嗣(元の名は益種)氏。もっとも、赤子に店の経営ができるはずもなく、裕康氏の未亡人・ますさんが一切を仕切った。

 このますさんという人が、なかなか敏腕だったようだ。昭和16年に太平洋戦争が始まると、物資は不足し、参宮客も激減した。伊勢市街にも空襲があった。そんな中、赤福もやむを得ず昭和19年に休業に入る。しかし、終戦後の昭和24年には店の営業を再開。その5年後の昭和29年には株式会社を設立して企業化し、ますさんが初代赤福社長に就任した。

 その後、成人した益嗣氏も会社経営に参加し、ますさんとふたりで運営に当たった。ふたりの経営方針はとにかく強気で、簡単に妥協しないのが信条だった。強気の駆け引きができたのは、「神さんがついている」という信念があったから。

 高度経済成長も追い風になった。鉄道の発展や道路の整備で短時間での物流が可能になり、大阪や名古屋の百貨店などにもできたての商品を輸送できるようになった。もっとも、「伊勢名物」の冠があったため、東は名古屋まで、西は神戸までと、販売はそれぞれ伊勢志摩の玄関口までに留めた。これが功を奏して、東京など遠来の客の憧れを一層強めることに成功した。

 また、テレビCMも赤福発展の一助となった。赤福のテレビCMは昭和38年から放送開始。「赤福餅がええじゃないか♪」のフレーズと、江戸時代の旅人・赤太郎は、東海地方ではお馴染みだ(ただし、テレビCMの放映は、偽装問題以来、自粛が続いている)。

 戦後の赤福の躍進劇は続いたが、問題も多々あった。例えば、類似品の問題。一時は20軒ほどが「赤福餅」そっくりの餅菓子を作っており、皆こぞって伊勢名物と銘打っていた。益嗣氏らは「これでは先祖に申し訳がない」と苦悩し、そういった後追いの店に1軒1軒交渉。交渉前に自然消滅していく店も中にはあったが、今では類似品はほとんどなくなった。

 平成5年には赤福が主体となって、おはらい町一帯に「おかげ横丁」を造り、オープンさせた。近年は車でやってきて、おはらい町を素通りで神宮に参拝して帰っていく参詣者が増えたため、おはらい町は閑古鳥が鳴いている状態だった。赤福のように知名度の高い店はまだしも、そうでない店にとっては苦難の時代だった(参宮が本来の目的なのはもちろんだが)。

 そこで、おはらい町に以前のような活気を、という赤福の肝いりで造られたのが、おかげ横丁なのである。それまでは、古い建物は赤福本店や、天保年間創業のすし久(建物は明治2年築)くらいのものだったが、伊勢一帯から古い家屋を移築したり、伊勢の伝統的建物を新築したりして町全体を造り直した。土地の買収も含めた総事業費は100億円ともいわれる大事業だ。現在は45店舗がおかげ横丁内にあるが(加盟店以外の店もある)、元々あるすし久や、テナントとして参加している豚捨や二軒茶屋餅などの老舗以外は、ほとんど赤福の直営店だ。回遊性があり、今では年間250万人以上がおかげ横丁を訪れ、神宮参拝の前後には必ず観光客が遊んでいく賑やかな町になった。

 平成17年には、益嗣氏は会長職に、十一代目の濱田典保氏が社長に就任。順風満帆に思われた赤福だが、再び暗黒の時代が訪れた。平成19年に日本中を驚かせた偽装問題だ。販路拡大や利潤追求が起こした結果と言われ、賛否は両論だが、愛されていたからこそ、裏切られたという思いが消費者の中では強かったようだ。自粛期間を経て再開した時、本店前に夜明け前からできた行列が、問題に対する世間の感心の高さを示している。今では経営陣も刷新し、見事な復活劇を見せた。

 現在の「赤福餅」に使用しているもち米は、北海道産が90%、熊本産が10%。小豆は100%北海道十勝産だ。江戸時代には近在産の原料を使っていたのだろうが、今は地域ブランド以上に、大勢の旅人をもてなすために安定的に入る原料を使用。控えめで上品な甘さの餡に仕上げるため、砂糖も赤福専用に製造されたものを用いている。

 また、水は神宮の森に源泉を持つ五十鈴川水系の伏流水を使用。この水こそ、「赤福餅」の命ともいっても過言ではない。

「赤福は神宮のお膝元にあって、そのご加護を頂いて永きに渡って商いをしてきました。水が変わっても、商品には目に見えるほどの変化はないのかもしれませんが、水も御神域から流れ出る水を使っているからこその赤福餅だと思っています。五十鈴の流れは、赤福の原点なのです」(中頭さん)

 神宮のおかげ、お客様のおかげ…そんなおかげ精神が老舗赤福の核なのかもしれない。

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isedayori9.jpg版画家・徳力富吉郎が四季折々の伊勢の風物詩の木版画をあしらった「伊勢だより」。日替わりで赤福店頭やお土産の折箱に入れられている。400種類以上あり、これを集めるのも赤福好きの楽しみのひとつだ。背面には店主からの時効のお便りが書かれている。

店舗情報

赤福
  菓子: 赤福餅(店内:3個280円、お抹茶付は2個440円~、夏季限定・赤福氷500円、冬季限定・赤福ぜんざい500円)
       (土産:折箱8個入り700円~、銘々箱2個入り220円~。朔日餅は1月以外の毎月1日発売。値段は月により異なる)
  住所: 三重県伊勢市宇治中之切町26
  電話: 0596-22-7000
  営業時間: 5:00~17:00(繁忙期には変更あり)
  定休日: 無休
  URL: http://www.akafuku.co.jp/