越えてきた本坂峠を振り返りつつ、林の中のを抜けると、嵩山(すせ)宿に到着する。宿場の入口には、「杉のむらだち下にみて 幾重のぼりぬすせの大ざか」と彫られた江戸後期の歌人・香川景樹の歌碑がある。
更にこの先には数年前まで、昭和46年に建立された当時の豊橋市長の筆による「姫街道」の道標があったが、近年、撤去されてしまった。車が激突するなどして、折れてしまったためらしい。
嵩山宿の規模は極小さく、天保年間(1830~1843)には家数130戸、本陣1軒があったのみで、脇本陣はおろか、旅籠さえないような宿場だったという。しかし、幕末にもなると通行者も増え、ようやく脇本陣や旅籠も設置されたようだ。
そんな幕末にできた旅籠の1軒、中島屋は、「木の芽和え料理」で有名だったという。残念ながら今は中島屋はなく、この名物料理が何を木の芽で和えたものなのかもよくわからない。
ちなみに、幕末の姫街道(本坂通)の三河側の三大名物料理は、嵩山の「木の芽和え」、この先の長楽の「まんじゅう」、欠間(御油宿手前の東海道との追分)の「玉寿司」であったというが、残念ながらいずれも現存しない。
街道の1本道に沿って続く嵩山の集落には、石垣や白壁の土蔵のある家々が所々に散見されるが、宿場町の面影はほとんど残っていない。あっけなく通り過ぎて、国道362号の歩道を行く。高札場跡の辺りで一旦国道から離れるも、またすぐに国道に出る。この辺りは柿の産地で、周囲は見渡す限り柿畑だ。
吉田(豊橋)に通じる別所街道または嵩山街道との分岐点に置かれた常夜灯と道標、長楽の一里塚跡を確認しながら国道を真っ直ぐ進むと、やがて和田辻に出る。ここに来て、気賀の先の岩根以来のコンビニに出会う(街道から700m右には行った所)。山歩きが終わったことを、改めて認識する瞬間だ。
更に坂道になっている国道を下って行くと、右手に馬の頭を浮き彫りにした巨大な馬頭観音が現れる。大正12年(1923)の建立だ。この先、牟呂用水に架かる小さな小倉橋と、豊川に架かる大きな当古橋を渡ると、豊橋市から豊川市へと入る。当古にはかつて渡し船があったが、ここでもやはり、天竜川の池田の渡しと類似の渡船権にまつわる由来譚が伝えられている。
姉川の合戦(1507)での功績が認められ、織田信長・徳川家康から感謝状を授けられた中山是非之助道半の血を引く中山吉次宗秋は、天正八年(1580)にこの地に移り住み、以来、中山家は当古の庄屋を務めていた。
その後、浜松城主だった家康が、浜松―岡崎を往復する途中で豊川の増水に立ち往生していたところ、中山家の者が船渡しをして助けたことから、慶長年中(1596~1614)に渡船の御用を任ぜられ、安政6年(1858)に権利が当古村に移されるまで、当古の渡しの運営に当たっていたという。
当古には昭和9年(1934)まで渡し船が運航していたが、旧当古橋の架橋に伴い廃止された。東海道に架かる吉田大橋から見る雄大な豊川と比べると、ここ当古橋から見る豊川の様子は随分と異なっている。草木の茂る両岸に囲まれた当古の豊川は、時が止まっているかと思わせるほど物静かで、時折立つ漣が川の生きていることを知らせてくれるばかりだ。
当古からはしばらく、家並みの間を申し訳なさそうに通っている狭い道を進むが、やがて再び、国道362号と合流する。この先、三谷原神社と寿命院の間に江戸から75里目の三橋一里塚があるはずだが、その所在は不明となっている。とある民家の庭にそれらしい榎があるが、真贋は定かではない。
三明寺の石仏群と重要文化財に指定されている三重塔を見物し、その名も「姫街道踏切」という踏切でJR飯田線・名鉄豊川線の線路を渡ると、豊川稲荷の門前町付近に出る。せっかくだから、寄り道をして行こう。

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