和菓子街道 姫街道 市野

himekaido-ichino-main-pic.jpg

道中奉行管轄外の市野宿と公道姫街道

 安間には、東海道と姫街道が共用する一里塚があった。江戸日本橋から64里目の一里塚だが、ここは同時に、姫街道の起点でもある。ここを通り越して東海道を少し行くと、広い通りと合流する三角地点に、一里塚跡を示す貧弱な標柱が立てられている。元々安間の一里塚に置かれていた道標は、この先の天竜公民館前に移されている。

 さて、安間の起点から、本格的に姫街道の旅を始めよう。起点から北に向かって伸びている姫街道は、思いのほか小さな路地だ。車一台がやっと通れるかどうか、といった道幅。もっとも、これが長く続くわけではなく、これより西で東海道と合流する広い車道にすぐにぶつかる。

 車道を横断し、歩道橋で国道一号線を越えると、右手に「了願公園」。安間という地名の由来にもなっている名主・安間七郎左衛門の屋敷跡だ。これより少し北の民家の庭先には、道標がぽつんと建てられており、これから目指す市野宿の方向も示されている。

 更に北上すると半僧坊道の里程石がある。半僧坊とは、これから目指す浜名湖北岸の深山に伽藍を結ぶ方廣寺の鎮守の神・半僧坊大権現のことで、一般には「奥山半僧坊」と呼び親しまれている。後醍醐天皇の皇子・無文元選禅師によって建徳2年(1371)に開山された方廣寺は、東海一の伽藍を誇る禅寺として知られている。広大な境内には本堂をはじめ、半僧坊真殿、三重塔など60余りの棟や五百羅漢を擁する。

 余談はこれまでにして、旅の続きを。街道左手に長泉庵本堂、右手に八幡宮の森を見ながらしばらく行くと、右からやってくる池田近道と合流する。天龍川西岸からはほぼ消滅している道だが、この辺りではかろうじて形を留めている。昔は歩き旅の人々が、民家への入口かと見紛うささやかな路地からひょっこり姿を現したのだろうか。

 道は徐々に左へとカーブしていき、そのまま姫街道中最初の宿場町・市野に至る。市野が宿場町となった経緯は定かではないが、近世の大名往来に併せて宿場へと発展したものと考えられている。ただ、明和元年(1764)に浜松宿から北上する姫街道(本坂道)が公道と定められると、道中奉行の管轄から外れた市野宿は一気に衰退した。

 斉藤本陣は丁度、道が大きくカーブする角にあったが、それを示すものは何もない。ここがかつて宿場だったことを思い起こさせるような遺物もほとんどない。宿場出口に枡形の名残や、東宿、中宿といった小字が、かろうじてこの地の歴史を伝えているくらいか。宿内の道の端に、「明治十年」の文字が刻まれた半僧坊道の道標が目立たぬように佇んでいるばかりだ。

 あっけなく最初の宿場町を通り過ぎる。この辺り、道幅はかなり狭いが車の往来は多く、歩道もないため危険だ。沿道の熊野神社には、馬頭観音と鞘堂に収められた常夜灯。熊野神社を出てからは、八丁とうも(畷)をひたすら行き、技能開発専門学校の校舎を右手に見ながら、道は大きく右にカーブする。

 道なりに進むと、左手に江戸からは65里目となる小池一里塚があり、さらにこの先を左にカーブすると、姫街道は県道と分かれて直進する狭い道へと入っていく。右手の大養院には常夜灯2基を収めた鞘堂がある。蝋燭の残りさしがあることから、常夜灯が現役であることがわかる。

 大養院から先、姫街道は500メートルほど消滅しているため、小川沿いに遠州鉄道自動車学校前駅の前に出るルートを取る。同駅からすぐ先で、姫街道は浜松宿から北進して“秋葉さん”へと通じる秋葉街道と交差する。秋葉街道はほぼ昔のままの道幅だ。交差点角にはまたしても半僧坊道の道標。状態はひどく悪く、傾いたまま放置されている。

 更にふたつ半僧坊道の道標を見て、馬乗り場跡を過ぎると、五枚橋に至る。昔は板5枚を並べただけの橋だったそう。橋の先は急で長い宇藤坂。登りきったところには、自然石風の無骨な道標があるが、これが天保3年(1832)に建立された現存する遠江側最古の姫街道の道標だ。

 道標から先は県道281号線と合流し、三方原追分まではこの道を行く。緩やかな坂道を上って行くと、江戸から66里目の追分一里塚に到着する。現在は左(南)の塚のみが残されていて、数本の松が植えられている。ここからほどなくして、三方原の追分だ。三叉路になっているこの地点は三辻とも呼ばれ、浜松市内の主要道が集まる大きな交差点だ。交差点の真ん中には、慶応4年(1868)建立の大きな道標が建っている。

 三方原といえば、元亀3年(1572)に徳川家康と武田信玄が激戦を繰り広げたことで知られる地だ。そして江戸時代には、この合戦にちなんだ「小豆餅」なる菓子が、この辺りの名物になっていた。

 家康がこの地の茶屋で休憩していたところ、武田軍が迫ってきたことを知らされ、勘定を忘れて茶屋を飛び出した。ところが、この茶屋のばあさまがなかなか凄い人だった。相手が武将といえども、合戦の最中といえどもお構いなし、食べただけの勘定はしてもらわねばと、逃げる家康を2キロも追いかけて、銭を要求したのだとか。

 後に天下人となる家康は、武田軍からは辛くも逃げ切ったが、茶屋のばあさんからは逃げられなかったようだ。そして、この時家康が食べていたのが小豆餅なる菓子だったようで、この逸話とともに小豆餅は江戸時代を通してこの地の名物になった。また、大正4年(1915)から昭和35年にかけて、この地には他に「銭取まんじゅう」なるものを売る店もあったという。

 馬で逃げる家康を追いかけたというのも眉唾だが、そもそも、戦の最中に家康が茶屋でくつろいでいたということ事態、おかしな話である。ただ、家康が餅を食べた場所が小豆餅、ばあさんが家康から銭を取った場所が銭取という地名になって今も残っているのが興味深い。

 その小豆餅の地は、三方原追分から浜松市中と結ぶ姫街道の公道の東側に位置する。そして、公道の姫街道沿いにある創業40年ほどの「あおい」という和菓子屋(浜松市中区葵東1-6-7、電話053-436-2365)では、「小豆餅」を再現して売っている。

 昔の小豆餅がどんな菓子だったのか不明なため、再現というより創作に近いかもしれない。現代版の小豆餅は、餡を練り込んだ求肥に黄な粉をまぶしたものだ(更に粒餡を包んだものもある)。

 小豆餅の話をはじめ、三方原の合戦に関しては家康の失敗談が数多く残されている。逃げた家康が農民に扮して隠れていただとか、馬上で失禁してしまっただとか…。天下人にしては珍しく失敗談を消し去ることをしなかったわけだが、この戦いで武田軍に負けたことを自らの戒めとして失敗談を残したのだろうといわれている。

 さて、三方原に戻って旅を続けよう。市野からやってきた姫街道と、浜松から北上してきた公道の姫街道とがこの三方原で集結し、一路、気賀宿を目指す。追分からほどなくして、姫街道の松並木が始まる。左側だけの松並木だが、やはり街道松はいいもので、心が和む。松並木はここから4キロほど、旅のお供をしてくれる。

 姫街道の道標が境内に安置されている三方原神社や、三方原を開拓した気賀の富豪・気賀林氏の別邸の門跡、続いて同氏が設立した三方原救貧院跡、近在の人々の社交場になっていた権七店跡などを通り過ぎると、やがて江戸から67里目の東大山一里塚前に出る。南塚は崩れたように見えるが、こちらが原形のままの塚で、小高い丘のよう。塚の前には馬頭観音の木札が置かれている。北塚は復元されたものだ。

 この辺りからは新しく植えられたらしい細い松の並木に沿って進み、並木を抜けると下り坂となる。下りきると、大谷川。ここからは細江町(現浜松市)だ。川を渡ると今度は上り坂になり、道が平らになってすぐのところには「曲り松」が植えられている。昔はここで街道をゆく行列の送迎をしたという。現在の松は二代目だ。

 ほどなくして、姫街道は県道を離れて狭い狭い道に入る。この分岐店には六地蔵が祭られている。道を行くほどに、なんとも寂しいところと思っていたら、どうやら西の竹藪はかつて刑場があった場所で、六地蔵も受刑者の霊を慰めるために建てられたものらしい。ここから1キロばかり行ったところに秋葉常夜灯があり、ここが老ヶ谷の辻。

 三叉路になっている老ヶ谷の辻の右の道を行き、千日堂を過ぎてほどなくすると長坂改築記念碑がある。長坂はこの先、左手の道だが、これこそまさに民家の入口としか思えない未舗装の細い道で、足を踏み入れるのに多分の勇気を要する。

 老ヶ谷の一里塚はこのすぐ先。江戸から68里目だ。石碑が置かれ、小さな木々が植えられているだけで、ともするとすぐ横の民家の庭木のようにも見えてしまう。ここからすぐのところに、姫様が描かれた巨大な貯水タンクがあり、その右側の道が姫街道となる。

 しかし、先ほどの民家の入口かと思った道はまだいい方で、今度はそれより更に細く、暗く、落ち葉も散り積もった獣道だ。意を決して入って行く。それにしても、こんな坂にも名前(長坂)があり、しかもこれが“改築”されたものだというから、二重の驚きである。坂は急で、落ち葉で足が滑りやすい。鎌倉の切り通しとよく似ている。馬はおろか、姫様行列などとても往来できそうにない。

 暗く寂しい坂の途中には、「服部小平太最期の地」の碑がある。桶狭間の戦いで今川義元の首をとった津島の武士だが、その後、徳川家臣としてこの地の領主になっていた。ところが、今川色の強いこの地で土民の襲撃を受けたのだという。以前、佐屋路で津島を訪れた際、地元の方が小平太のことを津島の英雄として誇らしく語っていたことが思い出される。こんな暗い森の中で、小平太もさぞ無念だったろう。

 無事に坂を下って、一旦は舗装道に出たかと思うも、そのすぐ先は更に急な下り坂だ。ただ、ここからは一応コンクリート舗装になっている。もちかしたら“改築”はこちらのことかもしれない。

 下りきったところに鞘堂入りの常夜灯。この辺りからようやく集落の中の道となる。狭い旧道の坂を抜けきると、広い車道と合流する。県道右手の刑部城跡の丘をぐるっと取り巻くように回って再び県道に戻る道が姫街道。県道に出てからは、目の前の落合橋を渡ればようやく気賀宿だ。

himekaido-ichino-anma.jpg

himekaido-ichino-horaijidohyo.jpg

himekaido-ichino-ikedamichi.jpg

himekaido-ichino-honjin.jpg

himekaido-ichino-street.jpg

himekaido-ichino-mikatagahara.jpg

himekaido-ichino-azukimochi.JPG(お菓子の写真をクリックすると大きくなります)
himekaido-ichino-bus-station.jpg

oigaya-rokujizo.jpg

oigaya-nagasaka.jpg

anma-milestone.jpg

ichino-hanzobo.jpg
hacho-toumo.jpg

koike-milestone.jpg
broken-milestone.jpg

umanoriba.jpg
utozaka.jpg

himekaido-enshu-oldest-milestone.jpg
mikatagahara-milestone.jpg

mikatagahara-oiwake.jpg
mikatagahara-pines.jpg

gonshichi.jpg
higashi-oyama-milestone.jpg

magarimatsu.jpg
oigaya-branch.jpg

oigaya-milestone.jpg