和菓子街道 佐屋路 神守~佐屋 津島

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尾西随一の大邑・津島の町を散策する

 名鉄の線路を越えて、津島神社門前町の南部へと入ると、ほどなくして巡見街道と合流する。巡見街道とは、江戸時代に将軍が代替わりする度に幕府から派遣された視察役人・巡見使が通った道で、津島のみならず、各地にその名を残している。

 石高二千万石ほどの上級旗本が正使となって、35名ほどの検分役や接待役、地元藩の役人が随行するという大行列で、幕命が各地に行き届いているか、各地領主の治世、物価や治安、人情、風俗はどのような状況になっているかなどを視察して廻った。津島の視察団には、尾張藩の役人が同行している。

 この巡見街道は、津島の町の北方で、東からやってきた上街道(美濃路の西堀江村発)と合流。両道は重なり合って津島の門前町に入り、そのまま町を縦断して南下する。そして、前述したように、町の南側で参詣道と合流するわけだが、この参詣道は下街道ともいい、宮宿と津島門前町とをつなぐ古くからの往還だった。そして、この下街道が原型となって整備されたのが佐屋路であり、埋田の追分までは佐屋路と下街道とは重なって津島に向かっていることになる。

 このように、津島には3本もの主要な街道が走っていた。北を走る上街道、南を走る下街道、両者を繋いで町を縦断する巡見街道である。こういった事実からも、津島がいかに古くから栄えた町であったかを窺い知ることができる。津島神社の門前町として、また佐屋川の湊町であったことから、伊勢や美濃、三河、知多などと水上で結びつく伊勢湾交易の重要地として早い時期から尾西地方随一の町へと発展したのだった。

 津島の商業的発展の基盤となったのは、中世以降、津島神社の神官の一部が商工業に身を転じて座を組み、神社の保護を受けて商いをしたことに始まる。津島の商工業者は結束が固く、武力をもって自治を行っていたといわれている。現在もある米之座町といった町名は、その名残である。

 商工業者が築き上げた津島の富は、想像を絶するものだったと思われる。佐屋川と天王川という2大河川に囲まれた津島の湊は、博多と堺を合わせたような賑わいだったといわれている。戦国英傑・織田信長を輩出した織田家を支えたのが、この津島といわれていることからも、その繁栄ぶりが窺えるというものだ。

 織田家は元々、尾張守護の斯波氏の家臣であった尾張守護代織田大和守の家臣という微力な家柄で、津島にもほど近いところにあった勝幡城を居城としていた。下克上を狙っていた信長の祖父・信定は、津島の富に目をつけ、町を侵略した。ただし、商工業者を壊滅することは避け、侵略後は津島の町を篤く保護した。しかも、娘を津島の豪商に嫁がせるという身分違いの縁組をしたり、町衆を城に招いたり、津島の祭りに招かれたりして親睦を深め、人心を掌握していった。

 以来、織田家と津島は切っても切れぬ縁となった。信長が今川義元を討った桶狭間の戦いの折にも津島から多数の兵が参加し、義元に一番槍を突いたのもまた、津島の服部小平太であった。また、弘治4年(1558)には、信長が女房衆を引き連れて、豪勢なだんじり舟行事として知られる津島神社の例祭「天王まつり」を見物したといわれている。

 天正10年(1582)に信長が本能寺の変で倒れたとの報せを受けると、津島の町衆は既に準備の始まっていた祭りを中止することにしたが、追って逆臣・明智光秀が討たれたと知ると、豪華な飾りをつけず、闇夜の中、灯りもともさず厳かに船祭りを行って信長の死を悼む弔い祭りを行ったと伝えられている。

 ともあれ、津島の財力が織田家を支えたわけだが、時代が変わって近代になると、津島は毛織物工業の町として新たに出発。歴史を通して常に潤っていた町だったようだ。今でも、町の至るところに点在する豪壮な旧家や土蔵などから、栄華を極めた頃の津島の様子を偲ぶことができる。

 貞享2年(1685)築の町屋「三養荘」や、築250年ほどという商家で江戸末期から変わらず営業を続ける造り酒屋「長珍酒造」などを見ながら前述の巡見街道(上街道)を北上すると、しばらくして左手に大きな道標が見えてくる。「左 津島神社参宮道」と刻まれた道標で、明治29年(1896)の建立である。今は元あった場所から少し位置や向きが変えられているが、この道標のある場所は、通称「橋詰三差路」と呼ばれている。この呼称からも分かるように、ここにはかつて、天王橋という橋がかけられていた。

 今でこそ川など跡形もなくなっているが、昔はここに、天王川という大きな川が流れていた。天王橋は、津島神宮と町とを隔てていた天王川にかかっていたもので、3文払だった通行料は、祭礼時には15文にまで跳ね上がったという。

 しかし、かつての大河も江戸中期頃までには水量が著しく減り、水利を成さなくなっていた。そのため、水害対策もかねて、天王川は宝暦9年(1759)年に埋め立てられて新田地とされた。かくして、かつては分断されていた町方と、向島とも呼ばれた津島神社の神領とが陸繋がりになったのだ。

 町の中心である巡見街道(上街道)沿いの本町筋が緩やかにカーブしながら続いているのは、かつてここを蛇行して流れていた天王川の堤防沿いに町並みができたためである。

 天王川の名残は他にも見られる。本町筋の一角にある堤下神社は、その名の通り、かつて天王川の堤防にあって、対岸の津島神社を遥拝した社である。

 また、前述の米之座町にある市神社は、14世紀頃に市場の神様として創建された社だが、境内にはかつて天王川を上り下りした船乗りが目印とした巨木も残っている。津島神社の南に横たわる天王川公園の池もまた、天王川の名残りで、公園の北側を包み込んでいる堤も橋の跡である。

 話を元に戻して、巡見街道(上街道)沿いの本町界隈を中心に、少し町を歩いてみよう。先ほどの「津島神社参宮道」の道標の角にあるお休処「信長ゆめ倶楽部」は、元川魚屋「カネ長」の町屋を再利用したものだ。

 ここから少し北へ行くと、前述の堤下社の角で道は広い通りと交差する。これは津島駅と神社を結ぶように東西に結ぶ天王通りで、現在の津島神社の表参道となっているが、昭和3年(1928)に開かれた新しい道だ。

 この道を駅側に少し行くと、円空の手による「千体地蔵」が祀られている小さな地蔵堂がある。本尊である21センチほどの地蔵菩薩の周りを、2008体もある5~7センチほどの小仏が光背のように取り囲んでいるという。

 各地で5000体余りも発見されている円空仏の中でも、完全な千体仏として残っているのはこの地蔵堂のものだけというから、大変貴重なものである。鉈彫りで、円空らしい切れ味鋭い大胆な作風というが、年に数日のみの開帳で、普段は直に拝むことができない。

 巡見街道に戻って更に北へ。本町の中でも「トノ割」と呼ばれるこの辺りは、津島の中でも最も濃く歴史の残り香を湛える町並みといえる。トノ割とは変わった字(あざ)だが、昔は他にもイノ割、ロノ割、ハノ割などがあったと考えられており、ようするに、イロハニホヘトのトということらしい。近隣の蟹江などにも同様の地名が残っている。有志による『トノ割会』では、地域保存や観光客への地域案内などを積極的に行っている。

 天王通りから北の本町筋に入ってすぐ左手に建つ重厚な洋風建造物は「旧津島信金本店社屋」。正面の玄関脇に立つ双子柱や、中央2階部の窓のインド様式の装飾などは見事だ。調和を重んじた全体のシンメトリーな様式美から、国の文化財建造物に登録されている。

 更に北に進むと、古めかしい商家の前の路上に、「上切の井戸」。江戸時代から使われていたという町の井戸で、昔は洗濯水を汲みに来た町の女衆が、この井戸を囲んで「井戸端会議」をしたものだとか。井戸からは、今も滾々と水が湧き出ている。井戸は路上にあるため、市の管理となっているはずなのだが、実際に管理をしているのは、目の前の商家・糀屋の家人だ。「水をくみ上げないと井戸が枯れてしまうので、花に水をあげたりして、ちょくちょく使うようにしています」とは、糀屋九代目の加藤義隆さんの談。

 その「糀屋」(津島市本町1-57、電話0567-26-8338)は、幕末の安政2年(1855)創業。その名の通り、糀を売る店だ。味噌作りに欠かせない豆糀や金山寺味噌用の麦糀、甘酒に使う米糀などを仕込んでは売っていた。

 昔はどの家庭でも自家製味噌や甘酒を作ったものだが、いつしかそれも廃れ、スーパーなどで既製品が気軽に買えるような時代になった。糀屋も一時は糀作りよりもその他の食料品などの小売に重点を移していたが、近年、「屋号にもなっている糀をおろそかにするべからず」と先達から提言された義隆さんが一念発起して、再び本格的な糀屋業務を再開した。

 これが大当たりで、今ではめっきり少なくなった本物の糀を求めて、遠方からも注文が殺到しているという。試みに、甘酒用の米糀を買い求めてみた。ただし、慣れない者が作ると失敗も多いということで、あらかじめ糀屋さんが作ってパッケージングして売っている甘酒も買っておいた…。

 後日談だが、糀屋さんお手製の甘酒はすこぶる美味であった。酒粕から作る簡易甘酒とは違ってアルコール分はなく、発酵による自然の甘味が優しい。自分でも米糀を使って甘酒を作ってみようと思っていたのだが、最近になって急に味噌作りを始めた母に横取りされてしまった。「米糀が必要だったのよぉ」だそうである。

 糀屋の少し先の路地を右に入ると、「成信坊」がある。天正2年(1574)の長島の一向一揆の際、三河から京都へ戻る途中の本願寺の教如上人一行を包囲するが、成信坊の住職祐念が上人の身代わりとなり討ち死にし、上人は無事脱出することができた。

 この功績から、後に本願寺が東西に分立して東本願寺一世となった教如上人から成信坊に「津島御坊」の称号が与えられたという。境内には敷石として石臼が美しく敷き詰められおり、このことから成信坊は別名「ひき臼寺」とも呼ばれている。

 成信坊を出ると、通りを挟んですぐ向かいの細い路地の入口には「清正公遺跡碑」が立っている。下半分は地中に埋もれていて見えないが、昔と変わらない場所にあって、この路地の先の上河原町ある「清正公社」へ道案内をしている。案内に従って、路地を入ってみることにしよう。

 戦国武将・加藤清正が幼少の頃、津島の上河原の叔父の家に寄寓していた折のこと。夜中に叔父宅に賊が押し入るも、鬼の面をかぶった清正が現れると、賊は驚いて一目散に退散した。後に、叔父の家跡に「清正公社」が建てられ、この泥棒退治に因んだ鬼祭りは現在も上河原町の奇祭として伝えられている。

 「清正公社」からは路地を2、3通って西に進み、津島神社より少し手前で南に曲がると、「旧御旅所跡の大いちょう」が見えてくる。昔、天王川がまだ流れていた頃、川の西堤防にあった津島神社の御旅所のあったこの地に植えられたもので、樹齢400年あまりの巨木である。ここからは津島神社もすぐそこだ。

 赤い大鳥居前には、津島神社門前名物の「あかだ」「くつわ」を売る店が3軒並んで商いをしている。( 「あかだ」「くつわ」については、特集ページをご覧下さい)

 鳥居脇には先ほどの大いちょうよりも更に古い樹齢600年のいちょうの大樹。鳥居を潜ると、信長や秀吉といったお歴々の庇護を受けた津島神社の境内に入る。

 古くは牛頭天王社と称された津島神社は、欽明天皇元年(540)に創建された古社で、全国に約3000もの分霊社のある天王社の総本社である。

 牛頭天王は元々、インドの祇園精舎の守護神であり、薬師如来の化身ともいわれているため、古来、津島神社には難病治癒の祈願に訪れる参拝客が全国から参詣した。日本では牛頭天王は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)とされているため、津島神社の御祭神は建速須佐之男命と、その親神である大穴牟遅命(おおなむちのみこと=大国主命おおくにぬしのみこと)である。

 津島神社の文化財としては、天正19年(1591)に豊臣秀吉が寄付したと伝えられる楼門(東門)、徳川家康の4男で清洲城主だった松平忠吉の妻・政子が、夫の病弱を憂いて寄進した慶長10年(1605)の建立の本殿がそれぞれ国の重要文化財に指定されている。また、南門は慶長3年(1598)に豊臣秀頼が乳・秀吉の病気平癒を祈願して寄進したものである。

 全国に津島の天王信仰が広がった背景には、室町時代以来の津島御師の活躍があった。全国津々浦々を廻ってお礼の領布や祈祷などを行い、疫病退散の御神徳ある津島天王信仰を広めて檀那先を増やしていった。

 各地の農村で檀那が講を組んで、代表者が津島詣でをする際には、御師の家に宿泊した。御師の家では神楽や豪勢な酒宴で檀那方をもてなしていたという。今では布教活動をする御師は姿を消してしまったが、津島神社の社家のひとつで御師をしていた氷室家が、天王川公園の東側に保存されて残っている。

 津島神社の名を現在も全国的に知らしめているのは、なんといっても「尾張津島天王祭の車楽舟行事」として国重要無形民族文化財にも登録されている「天王まつり」だろう。天王まつりの由来は定かではないが、南北朝時代、津島に流れてきた南朝方の良王親王を守る津島武士が、北朝方の武士を舟遊びに誘って討ち取ったことに由来するとも言われている。

 元々は旧暦6月14日の宵祭りと翌15日の朝祭りを中心に、この15日前から始まって75日後まで約3カ月にも渡って続く長い祭りで、14・15日の両日には遠方からも多くの人が物見に訪れ、津島はたいそうな賑わいを見せたという。今日では、7月の第4土・日に斎行されている。

 祭りのハイライトは宵祭りだ。宵祭りでは、旧津島五か村といわれた米之座・堤下・筏場・今市場・下構の各町から、二艘の船を結び合わせてその上に車楽(だんじり)を乗せた巻藁船が出され、天王川公園の池に浮かべられる。車楽の中央には頭上高く如意の真柱が立てられ、1年の月数を表す12張の如意提灯が掲げられる。

 更に、その周りに1年の日数分の365張の白張提灯(信楽提灯)が半球型に整えられ、高欄の四周には1月の日数を表す30張の絹灯篭(なべずる提灯)が置かれる。夜の帳が下りる頃、提灯に火が灯され、笛の音と共に巻藁船が天王川を渡ってゆく姿は壮観で、無数の提灯の灯りが水面に映る様子は幻想的だ。

 翌朝、巻藁船は能人形を飾った屋台を乗せ、唐破風の屋根を設えた車楽船に様変わりする。宵祭りでは5艘だった巻藁船に、前日から佐屋町の星の宮で神事を行っていた旧市腋村の市江車が加わり、6艘の車楽船となって朝祭りが斎行される。

 布鉾を持った10人の若者や稚児が乗り込んだ船が御旅所に近づくと、天王川の途中からこの10人が布鉾を持ったまま水中に飛び込んで御旅所まで泳いだ後、神社の拝殿前に布鉾を奉納する。また、朝祭りの日の深夜には、前々日に海辺で刈って神殿内に奉納した葭(葦)を天王川に放流する神葭流の神事が行われる。葭が漂着した地では盛大に祭りが行われ、御社が建てられ神葭が祀られたという。

 津島ではこの天王まつりの他にも、山車が街中を巡行する秋まつり(10月上旬)や、藤まつり(4月下旬~5月上旬)なども行われている。

 藤まつりは、かつてこの地方が藤浪の里と呼ばれたことに因んで天王川公園に作られた見事な藤棚をメイン会場とした民衆の祭りだ。4月末から5月にかけて天王川公園を訪れると、数種類もの藤の芳しい香りが訪れる人を迎えてくれる。また、秋まつりの山車も、藤まつり期間中に特別に公開となり、祭りを盛り上げている。

 津島神社を後にして、町の散策を続けることにしよう。津島神社の南鳥居のすぐ近くに、荘厳な屋敷の屋根が見えているが、これは江戸時代中期の正徳年間(1711~1716)に建てられた商家・堀田家の住宅で、建物は重要文化財に指定されている。

 切妻造の重層桟瓦葺で、屋根には見事なうだつが上がっている。宿場町ではなく、本陣もない津島だが、堀田家の豪奢な内部はまるで本陣さながら。広い書院や坪庭、外部に刀掛けを設えた茶室もあり、津島商人の豊かな暮らしぶりを垣間見ることができる。(開館日:土日・祝日、10時~15時、一般300円)

 堀田家前の道路を東に行けば、再び旧市街に戻る。津島には非常に寺が多く、由緒ある古刹も少なくない。また、屋根神様のある家も散見される。屋根神様は、屋根の上に小さな社を気付いて神様を祀ったもので、主に美濃路沿いの旧家に多く見られるものだ。屋根神様には防火鎮守の守護神である秋葉様が祀られており、火災から家屋や町を守るためのに置かれたものと考えられている。美濃路沿いの文化が津島にも導入されているのは、津島内を走る上街道が美濃路に通じているためだろうか。

 また、屋根神様は明治の頃には「天王さま」と呼ばれたこともあり、津島信仰の影響も多分に見られることから、津島神社の参詣で下される御札を奉祀する「御札迎えの祭り」用の仮社殿から発展したとの説もある。屋根神様のある家を巡りながらの津島散策もまた楽しい。ちなみに、屋根神様のお祭りは毎月1日と15日なので、その日には小さな社殿の扉が開いていることも(各家のすることなので、保障の限りではない)。

 この他、詩人・野口米次郎(ヨネ・ノグチ)の生家や、盗賊退治伝説のある六地蔵(加藤清正とは別)を祀った六角形の地蔵堂など、市内に見所は多い。1日掛けてじっくり散策したいところだ。

 ところで、『和菓子街道』的にはやはり、津島の食べ物が気になる。尾西地方は茶所で、津島市内にも茶舗は多い。津島の人は日常的に抹茶を飲むというから、菓子文化も相当発展しているだろう。老舗和菓子屋も多くあるに違いないと踏んでいたが、どうもそうではないらしい。

 明治創業の店は、立ち寄り情報で紹介する柿屋饅頭くらいか。とはいえ、市内には何店舗か菓子屋があり、天王通り沿いにある三木屋や、巡見街道(上街道)をずっと北に行った所にある大橋屋などが特に人気が高いようだ。

 津島にはかつて、「白雪粔(はくせつこ)」という名物菓子があったようだ。別名「津島おこし」とも呼ばれていたようだが、今は作る店がなく、実態はよく分からない。ただ、おこしといっても、浅草の雷おこしや大阪の粟おこし・岩おこしのように、米や粟などを炒って膨れさせ、蜜で固めたものとは別物ではなかったと思われる。「白雪粔」とはつまり、「白雪糕」のことではなかっただろうか。

 「白雪糕」は、米粉、もち米の粉、蓮の実の粉末などと砂糖を混ぜ合わせたものを押し固めて蒸した菓子のことで、雷おこしの類よりもずっと歴史が古く、奈良時代に既に作られていた「おこしごめ」がその原型といわれている。落雁に似ているといえば似ているが、作り方も材料も異なるものだ。

 元禄7年(1694)に刊行された『津島叢書 張州雜志抄』という書物には、津島名物として「粔籹(おこしごめ)」が見えている。いわく、津島郊外の善長坊あるいは善智坊という庵の僧侶が作り始めたもので、よってこれを善智おこしと呼ぶようになった、という。このおこしごめは「美味」で「上品」、「風味甚奇絶也」などと絶賛されている。作り方は「蜜をもって米に和し、煎り作る也」とある。

 また、明治時代の文献には「梅おこし」と見えているから、その頃には梅風味だったのだろうか。あるいは梅風味のものも登場したのかもしれない。いずれにしても、今は耐えてなくなってしまったことが惜しまれる。

 作る店がなくなってしまったかつての津島名物といえば、丸餅型をした丸麩もしくは「津島麩」がある。小麦の穀粉を材料にした素朴な風味の乾燥麩で、水に戻すとぎゅっぎゅっとした食感になる。市内にはもうこれを作る店はないが、池麩町という町名が残されていることは興味深い。津島麩は今は別地で作られており、スーパーなどで買い求めることができる。

 津島で現役の名物といっまず思い浮かぶのが川魚。今も数軒の川魚屋が営業しており、調理済みの川魚料理を買い求めることができる。代表的なものとして、「なまずの蒲焼」、もろこの甘露煮を押し寿司にした「もろこ寿司」、鮒と豆をこってり甘く味噌煮した「鮒味噌」などがある。もろこ寿司は昔は祭りなどの折に家庭で作っていたものだという。トノ割の末廣寿司(津島市本町1-66、電話0567-26-2790)をはじめ、市内の寿司屋でも予約すれば味わうことができる。

 また、津島で食事をというのであれば、紡織業で富を築いた商家の建物を再利用した『水鶏庵』(津島市橘町4-70、電話0567-26-9171)へ。3棟もの茶室を擁する庭園を眺めながら、塗りの箱の中にうどんを仕込んで具材を散らした津島名物の「重箱うどん」を頂くことができる。具材の中には、津島麩も含まれている。3色田楽とのセットがお薦めだ。

 『魚しま』(津島市本町1-22、電話0567-28-2633)では、津島に縁の深い信長の名を冠した「信長御膳」を。漆塗りの器にもろこ寿司などの郷土料理を盛り込んだ、見た目も華やかなお膳だ。三段重の中に潜む蓮根の揚げ物は、信長の先を見通す力を表わしているのだとか。

 この他、津島周辺が古くから蓮根の産地であったことから、蓮根を使った菓子も土産物店などで売られている。右写真は、白いものが「蓮根砂糖漬」、こげ茶の方がココアをまぶした「ハスココア」。

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tsushima-old-map.jpg津島惣図(江戸後期刊『小治田之真清水』)。図の右下に見えている道が佐屋路。左下は図の天王川跡部分の拡大。水色のラインがかつて天王川だった箇所で、緑に塗りつぶされている箇所が新田地だ。(絵図をクリックすると大きくなります)
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himuro-manor.JPG津島御師・氷室作太夫家

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(お菓子、料理、商品の写真はクリックすると大きくなります)

 ・あかだ屋清七・角屋政右衛門・松屋儀左衛門 
  「あかだ」「くつわ」

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その他のおいしい立ち寄り情報

柿屋饅頭
  菓子: 柿屋饅頭 (1個95円)他
  住所: 愛知県津島市橋詰町2-16
  電話: 0567-26-2885
  営業時間: 8:00~20:00
  定休日: 不定休

 天王川公園の北側に、古色蒼然とした店を構える柿屋饅頭。明治末期の創業で、現当主で5代目を数える老舗で、代表菓子は店名と同じく、「柿屋饅頭」という名の酒饅頭だ。

 ここで疑問が生じる。店名が先なのか、菓名が先なのか…。ご主人に窺ってみると、どうやら菓名が先のようだ。そしてその菓名の由来がまた、いかにも津島らしい話なのである。

 明治末期といえば、文明開化もようやく板についてきて、近代工業化が盛んになり始めた頃だ。特に津島は、近代毛織物発祥の地とまでいわれており、紡績業が盛んであった。江戸時代から続く豪商はもとより、明治に入ってから商売を始めた人々もこぞって紡績業に参入し、その多くが巨万の富を築いた。

 ところで、津島を中心とする尾西地方は全国的に知られた茶所で、現在でもこの地方のお宅を訪ねると、煎茶ではなく抹茶でもてなされるのが一般だ。明治の頃も、商家でも頻繁に茶会などが催されていたことは想像に難くない。お茶請けの菓子を作る菓子屋の需要も高かったことだろう。

 柿屋饅頭(当時は別の店名だったようだが、5代目には分からないそう)の初代も、紡績業で財を成したさる商家と旧知であったことから、その家にも頻繁に出入りし、菓子を届けていたという。そんな折、紹介されたのが、地元茶人の二七翁だった。さっそく、自慢の酒饅頭を差し出すと、翁はこれをたいそう気に入り、「柿屋饅頭としてはどうか」と、饅頭に名をつけたのだった。

 唐突に柿屋などという言葉が出てきてびっくりするが、柿屋というのは、当時流行していた着物の縞模様の柄の一種「柿屋縞」のこと。織物屋で賞味した饅頭にこの名をつけたのは、二七翁の機知だろう。その後、柿屋饅頭が評判となり、店も柿屋饅頭と呼ばれるようになったのだとか。

 ちなみに、柿屋饅頭に使う糀は、本町トノ割の糀屋の糀だ。糀屋では、柿屋饅頭から注文を受けると、他のものとは別に柿屋饅頭ようの糀を仕込んでいる。糀の力で膨らませた柿屋饅頭は、しっとりとしていて、かつ弾力がある。やたらとふわふわとした最近の糀を使っていない酒風味饅頭とは違って、重厚感のある食べ応えだ。甘さも控えめ。お茶処津島で生まれ、機織屋で命名された酒饅頭に、津島の近代史を垣間見た気がする。


(お菓子の写真をクリックすると大きくなります)

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