万場宿を出てから先、千音寺付近の佐屋路は、江戸時代には人家もほとんどない寂しい道だったようだ。人を化かす狐もこの辺りに棲んでいたと言われており、佐屋路もこの辺りでは「狐街道」の異名を持っていたという。ちなみに、狐街道は、今も地名となってこの地に残っている。この辺りの道は古代の条里制の名残を留めており、真っ直ぐな1本道が伸びている。
また、千音寺には佐屋路3つ目の一里塚もあった。文政9年(1826)にドイツ人医師のシーボルトが経度測定を行った場所としても知られる一里塚だ。この一里塚の先で佐屋路は大きくを弧描くように曲がって北進し、やがて西に向けて直角に折れることになる。この角でそのまま北に進む道は先に烏森辺りでも出会った柳街道だ。清州城とその出城であった松葉城を結ぶ道であり、更に北上すれば小牧宿を経て中山道にも通じる道であり、また甚目寺観音への参詣道としても使われた重要な道である。
さて、前述の通りここで西に曲がると、七宝焼で有名な七宝町(旧秋竹村・遠島村)に入る。大河ドラマファンにとっては、前田利家のお方様・おまつの生誕の地と言った方が通りがいいだろうか。かつて立場だった七宝には、7軒ほどの茶屋があったという。下の「立ち寄り情報」で紹介している大澤屋もそんな茶屋の1軒だったようだ。近くには「♪しっぽー しっぽー みーそ みーそ!」のテーマソングで愛知県民にはお馴染みの「七宝味噌」の佐藤醸造(明治7年/1874年創業)もある。
立場辺りには、黒い板塀を廻らせた旧家や、蔵のある家なども残っており、わずかながら往時の繁栄の残りがを感じとることができる。立場を少し過ぎたところにある十字路の角には、「Shippoyaki Toshima」とローマ字で彫られた珍しい道標がある。同じく道標に彫られた指型は、七宝焼の原産地である遠島村(七宝村の前身)の方向を指している。道標が建てられたのは明治28年(1895)。七宝焼の買い付けにくる外国人バイヤーのためにローマ字で彫ったのだとか。
ローマ字道標からほどなくして蟹江川を渡るが、国道の通っている下田橋ではなく、そのすぐ南の弓掛橋が佐屋路に架けられていた橋である。弓掛橋の名の由来は、源義経がここにあった松に弓をかけたという伝説に由来している。
この弓掛橋を渡ってしばらくすると、佐屋路で唯一、原型を留めている神守一里塚が見えてくる。江戸からは93里(約362キロ)を示す一里塚で、かつては北塚には椋が、南塚には榎がそれぞれ植えられていたが、現存するのは北塚のみである。南塚の方は大正7年(1918)に払い下げになり、民有地として土地の新たな所有者によって潰されてしまった。そしてここからが、神守宿の入口となる。
佐屋路4宿の中でも最も遅い正保4年(1647)に設置された神守宿は、これまでの2宿同様、本陣1軒、脇本陣なし、旅籠12軒ほどという、やはり小さな宿場町だった。
天明3年(1783)から享和3年(1803)の間には代官所も置かれていた神守宿だったが、宿場町としての活気は乏しかったようだ。すぐ先には津島という大きな門前町が、更にその先には桑名への渡し場のある佐屋宿があったため、ここにわざわざ宿をとる旅人や大名は少なく、旅客相手の商売の利益はあまり上がらなかったのだろう。
神守宿を後にして、真っ直ぐな道を進む。かつて6、7軒ほどの茶屋が建ち並ぶ立場だった日光橋付近を過ぎ去り、埋田の追分へと至る。この辺りの道筋は一部、消滅して途切れている。文字通り、道なき道を無理矢理進むと、往時は大変な賑わいの立場であったという埋田の追分に出る。
追分の目印は、以前建っていた津島神社一の鳥居の根石と常夜灯だ。左の図会のように、かつてはこの追分は立場として大変な賑わいを見せていたようだ。図会をつぶさに見ていくと、ところてんや一膳飯を食べさせる茶屋が描かれていることがわかる。
そんな埋田の追分も、今では2基の常夜灯と途中からぽっきりと折れた鳥居の根石が、忘れ去られたように叢とも道ともつかぬ所にぽつねんと佇んでいるのみだ。常夜灯の手前で左折して南西に進めば佐屋への道となるはずだが、やはりそれらしい道は消滅している。そして、ここで左折せずそのまま直進すれば、津島神社へと至る。
その他のおいしい立ち寄り情報
大澤屋
料理: 料理長おまかせ料理 (8000円~)、季節膳(3150円~)
おまつ弁当(2000円~)、てっさ、ふぐから揚げ(各4000円)他
※料金にはサービス料10%と税が加算されます。
住所: 愛知県海部郡七宝町秋竹685
電話: 052-444-2013
営業時間: 11:30~14:00、17:00~21:00
定休日: 火曜日
URL: http://www.oosawaya.co.jp/
七宝町をゆく佐屋路沿いに、いかにも風格のある店を構える大澤屋は、この辺りでは随一の歴史を誇る老舗料亭だ。宮宿と佐屋宿の丁度中ほどの地点であるこの土地に、大和屋の名で茶屋を出したのは江戸末期のこと。
「昔はこの辺りも風情があって、松並木がずっと続いていたそうですよ。宮と津島や佐屋の間を沢山の旅人が歩いたそうです。うちは丁度、街道の中間にあったので、みんなうちに立ち寄って、休憩したと聞いています」
そう話してくれたのは。四代目の奥様である大女将だ。四代目は引退して大御所となっており、現在は五代目が中心になって板場を仕切っている。未来の六代目も目下、板前修業中だとか。
当初は茶屋として出発したが、明治20年(1887)に屋号を苗字からとって大澤屋と改め、料亭として新たな一歩を踏み出した。料亭としての創業年をこの年と定めて以来、既に120年を経ている。道路の拡張で店の場所を少々奥に引っ込めた以外は、場所もほとんど移動していない。現在の建物は近年になって新築したものだが、寄席棟造りの豪壮な屋敷だった頃の雰囲気をよく再現しているという。
地のものをできるだけ使い、風情ある空間の中でできるだけのもてなしをするという形は昔となんら変わらない。昼時であれば、この地で生まれた前田利家夫人・おまつに因んだ「おまつ弁当」などを、予約なしで手ごろな値段で頂くことができる。
昼時を少し過ぎた頃に大澤屋を訪れると、床の間と行燈のある個室に通された。部屋はそれぞれ違った趣向らしく、畳にテーブルを置いた部屋もあれば、茶室風の部屋、カウンター形式の部屋もあるようだ。この日は、季節を織り込んだ料理を手軽な値段で頂ける月替わりのミニ懐石「季節膳」を頂くことにした。
伊勢湾や三河湾で獲れる天然の魚介類や、肥沃な濃尾平野で育った旬の野菜をふんだんに使った料理、近くの津島名産である丸麩の田楽、華を散らしたような美しい蒸し寿司など、見た目・味共に満足のできる料理の数々が並ぶ。いずれも老舗料亭らしい品のある演出で、ため息が出るばかりだ。
また、当代になって以来、大澤屋ではふぐ料理に特に力を入れるようになったと聞いていたため、ふぐ料理も少し頂きたいところだ。迷った末に、から揚げとてっさ(ふぐの刺身)を追加でお願いすることにした。独特の香りと深い味わい、弾力のある食感は、近海で獲れる3年ものの天然とらふぐならではだ。
江戸時代の旅人よりもずっと贅沢をさせてもらったが、松並木が連なっていた頃ののんびりとした空気はまだ、この店の中にひっそりと漂っているようだった。
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