和菓子街道 東海道 大津 藤屋内匠

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膳所藩御用菓子司と落雁の秘密

 多少なりとも菓子に通じた人に大津を代表する菓子屋はどこと問えば、即座に「藤屋内匠」という答えが返ってくるだろう。大津市内を南北に走る中央通りを北の琵琶湖方面に向かい、最初の角を東に折れると、旧東海道より一筋北の通りに出る。この通りの閑静な住宅地の中に、その店はある。20年ほど前、創業325周年を記念して改築したという店舗は、洗練された雰囲気をかもしている。

 藤屋内匠は、菓子屋としての創業が寛文元年(1661)という老舗中の老舗だ。先祖は、浅井長政の家臣である近江武将・遠藤喜右衛門直経。織田信長の暗殺を長政に進言したとも言われる智謀の人で、姉川の合戦(元亀元年/1570)では本陣で指揮。単身信長の本陣に向かい信長を討ち取ろうとするも、寸前で発覚し竹中半兵衛の実弟・久作に討ち取られてしまう。

 この遠藤喜右衛門の第四子(遠藤孫作、遠藤喜三郎らの弟)の子孫が藤屋の始祖・遠藤仁兵衛だ。遠藤家では代々、仁兵衛の名を襲名。現当主の遠藤仁兵衛さんで十三代目を数えるという。ここまで長く店が続く秘訣はと問うと、十三代目の遠藤さんはいくつもの理由を列挙した。

 「まず、借金をしないこと。莫大な利益が出なくてもいい。とにかく商いのできる規模を保ってさえいれば店は続くものです。小規模経営でいいのです。うちは私を含め職人は3人だけです。長男も最近は手伝ってくれていますがね。支店を構えようとも思っていません。夢は追いすぎるものではありません」

 遠藤さんが経営の手を広げないのは、先祖に「反面教師」がいたからだ。明治期に、藤屋では菓子屋と平行して着物の白生地屋を始めた。ところが不慣れな分野での事業に失敗。この辺り一帯に大きな屋敷を構えていたが、その大半を失うはめになったのだそう。だから、事業を広げることは決してしないのだという。遠藤さんは話を続ける。

 「それから、長寿をまっとうすることです。数えてみたところ、当家十三代のうち、50歳以上まで生きた人が8人、70歳以上まで生きた人が5人います。私も70歳以上まで生きる予定です(笑)。一代が亡くなって次の代というのではなく、2、3世代が同時に店に立つというやり方で、連綿と続いてきたわけです。私も18歳から菓子作りを始めてもう50年近くなります。父にも祖父にも菓子作りを教わりました」

 「地域に対する報酬も忘れてはいけません。地域に育てられたのだから、恩返しをしなければいけない。だから私も、頼まれれば公演で話しますし、現在も滋賀女子大で和菓子の講師をしています。加護してくれている神仏に対するお礼も大事ですし、自分はもちろん、雇う職人の人間性を育てることも大事です」

 こういった理念の下、創業以来340余年の暖簾を守る努力をしているのだという。

 藤屋は元々、創業当時には「鶴屋仁兵衛」の屋号を名乗っていた。しかし41年後の元禄15年(1702)、丁度赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをしたその年に、徳川五代将軍綱吉公に姫君が誕生。鶴姫と名づけられたことから、「鶴」とつく屋号を持つ店はことごとく、畏れ多いと店名を改めた。京都の駿河屋も、それ以前は鶴屋という屋号だったところ、現在の店名に改名したという例はよく知られている。

 鶴屋仁兵衛も例外ではなく、徳川家に縁のある伏見の宮家から「藤屋内匠」という屋号を賜って改名することになった。創業からわずか41年足らずだったが、この頃、鶴屋仁兵衛は既に格式の高い菓子屋として認められていたのだろう。その時の文書が現在も藤屋内匠に残されている。(右参照)

 つまり、「その方をこれから伏見様御用のお菓子所とする。内匠という名をつけて下さったので、その旨をしかと心得て、ありがたく仰せつかりなさい」ということである。この許し状のお礼として、何枚かの銀と鯉を献上しているとの記録も残されている。

「菓子屋の大福帳は侮れませんよ(笑)。土地の代官がいつ亡くなったかまで記録してあります。婚礼にも葬式にも菓子を出したのですから。お役所の記録より正確かもしれません」

 やはり同家に伝わる享保年間(1716~1735)の大福帳『菓子納品覚書帳』には、得意先として膳所城や大津代官所、諸藩の蔵屋敷、社寺などが列記されており、実に70種類以上の菓子が納められていたことが記されている。これを見れば、当時大津で起こったできごとも大方分かってしまうのだ。

 文政13年(1830)の古文書『大津上菓子屋仲間条目帳』から、当時の大津には上菓子仲間が19株あったことが分かっている。厳しい税金の取立てへの対策として、菓子屋の中には素材などの質を落とす者も少なくなかった。

 そこで、株仲間を作って、互いに監視するようになったのだ。藤屋はその株仲間の中でも筆頭の「一番株」を表す木札を持っていたという。また、大津で禁裏への出入りを許されていたのは、藤屋と今はもうない翁屋という店の2軒だけだったようだ。

 貴人や諸侯が贈答用に好んで使った藤屋の菓子として、「汐見饅頭」や羊羹の「湖水月」、落雁の「大津画落雁」「近江八景糖」などが挙げられる。

膳所藩御用羊羹だった「湖水月」は、栗の甘露煮を潰して棒状に形作り、羊羹の中に寝かせて固めたもの。栗を夜の琵琶湖に浮かぶ月に見立ててあり、どこを切っても漆黒の湖に丸い月が現われるという趣向になっている。

 江戸時代に考案された「汐美饅頭」は、寒梅粉、砂糖など木型で打つ打ち物だ。中に砂糖や米飴を加えて練ったさらし餡が入っているため、饅頭と呼ぶようになった。

 「志ほの山 さしての磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千世にそ鳴く」という『古今和歌集』の賀歌から題材を得たものだという。半円型が美しいしっとりとした半生菓子で、いくつか並べると青海波模様になり、めでたく、かつ風雅な菓子だ。

 歴史ある藤屋の菓子の中でも、特に名高いのが落雁だ。現在藤屋で用いている「近江八景糖」の木型は、幕末の安政(1854~1859)末期に彫られたものの写し。木型から外された落雁の表面に浮かぶ景色の美しさは、息を呑むほどだ。例えば「比良の暮雪」。白地に山を描いただけの簡素な模様だが、うっすらと浮かぶ山の稜線が微かな陰影を作り、木々に積もった雪の柔らかさまでも見事に表現している。菓子の粋を越えた芸術品といっても過言ではない。

 これほどまでに洗練された美しい菓子「落雁」だが、そもそもこれは、どういった菓子なのだろうか。簡単に分類すると、落雁は干菓子の一種だ。干菓子とは水分30%以下の菓子を指す。その起源は古く、縄文時代に果物を干して食したことに始まると言われている。弥生時代には日本でも既にもち米が作られるようになっていたが、そのもち米を土器に入れて蒸したり、粉状にして天然の蜂蜜などを加えて食べていたと想像される。

 こういった原始的な菓子に、大陸から伝わった技法が加わり、平安時代に少しずつ日本式に発展していくことになる。その頃作られていた菓子に「粉熟(ふずく)」と呼ばれるものがある。紫式部の『源氏物語』にも登場する菓子で、蒸したもち米に甘葛煎(甘みのある植物を煎じたもの、あまづら)や蜂蜜、胡麻などを合わせて搗き込み、竹筒に入れて冷やした後、輪切りにして干したものだ。

 粉熟は室町時代になると、丸型ばかりでなく木枠にはめて成形した長方形のものも作られるようになる。長方形の白生地に黒い胡麻粒が点々とついている様子が、狩野探幽らが描いた水墨画「平沙落雁図」の情景と似ていることから、いつしか粉熟は「落雁」と呼ばれるようになった。これが、「落雁」という銘の由来の通説になっている。

 「平沙落雁」とは、中国湖南省にある洞庭湖の瀟湘八景のひとつに数えられる名勝のこと。「石山の秋月」「瀬田の夕照」「粟津の晴嵐」「矢橋の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「比良の暮雪」といういわゆる「近江八景」も、これに倣って名づけられたものだ。

 もっとも、落雁銘の由来には異聞もあり、名付け親と言われる人物も3人ほど挙げられる。ひとりは、室町幕府将軍の足利義満(在位1368~1394)の時代に本願寺の住職だった綽如上人。上人が北陸巡錫の際にこの菓子を出され、その姿が雪の上に雁が落ちる様子に似ていることから落雁と名づけた、という説だ。

 別の説では、蓮如上人が石山寺で瀬田辺りに雁が落ちていくのを見て、たまたまその翌日出された菓子を落雁と呼んだ、という話もある。また、金沢藩三代の小松中納言前田利常が、小堀遠州に意匠させたこの菓子を後水尾天皇に献上したところ、田の面に雁の落ちたところに似ているとして、天皇から「落雁」の御染筆を賜ったことに由来する、とも伝えられている。

 しかし、これらの説はいずれも、「落雁」が「雁が落ちる」という日本語から作られた言葉とするもので、落雁研究の権威である故・徳力彦之助は著書『落雁』の中でこれを否定している。高貴の人々の言葉で、鳥が死ぬことを「落ちる」と表現するが、まさか天皇や上人が鳥の死ぬ様子を菓子になぞらえるはずはない、というのだ。「平沙落雁」も「落雁」も、漢詩や水墨画と共に明(中国)から日本に伝えられた外来語だ、というのが徳力氏の結論である。つまり、誰かは分からないが風流な人が、黒胡麻入りの菓子を一幅の水墨画に見立てたのが、落雁ということらしい。

 さて、ともあれ落雁と名づけられた菓子のその後である。菓子どころではなかった戦国の乱世では、もち米は軍糧の糒(ほしいい)として使われた。しかし、江戸時代になって世の中が落ち着くと、岩おこしや栗おこしなどの干菓子が登場。落雁も再び頻度高く作られるようになった。

 徳川三代将軍家光(在位1623~1651)の頃までは長方形だった落雁は、江戸時代の中ごろまでには州浜型になり、更に明和年間(1764~1772)にはより多様な形ができていったようだ。実はこれには、明和4年(1767)から幕府の政権を握った田沼意次の政治が一枚噛んでいるらしい。落雁と田沼意次がどうしたら結びつくのか。不思議に思われる方も多かろうが、そこにはこんな背景がある。

 田沼政治を簡単に説明すると、商品経済の発展を促すなどして、積極的に営利を追求することによって経済を潤す、というものだ。今でこそ当たり前の経済論だが、江戸時代にはこの政策は少々画期的過ぎた。後に「金が物を言う社会」を作ってしまったと批判されるようになるが、実は田沼のこのやり方によって、江戸時代の商人・職人たちは次々と新しい商品の開発に取り組むようになったのだ。

 競争社会の中では金も廻るようになる。政治は取れるところから金を取るものだから、結果、税金攻勢も徐々に激しくなっていく。そんな中、落雁屋だけがぼうっとしているわけにはいくまい。ただでさえ白いだけの地味な菓子なのに、同じ型のものばかりでは売れるものも売れない。これでは税金がとられるばかりだと慌てたであろうことは、想像に難くない。

 そこで、木型に様々な模様を彫って個性的な落雁を押すことを考えついた。1組の木型に複数、同じ形の模様が彫ってあれば、同時に同じものを複数作ることもできる。形や模様が豊富になったばかりでなく、量産も可能になったというわけだ。

 つまり、悪政とまで言われた田沼政治の後押しがあって、落雁は飛躍的な発展を遂げたと言える。藤屋に残されている日本最古と言われる落雁の木型(大津市博物館寄託)も、この頃のものだ。

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mr&mrs.endo.JPG藤屋内匠十三代目当主の遠藤仁兵衛さんと夫人の早智子さん。
fujiya-old-pic.JPG改築前の藤屋内匠の古い店舗
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fujiya-sample-book2.JPG藤屋内匠に伝わる明治や大正時代の菓子の見本帳。これらは毎年十数冊も用意される「新年菓帖」のうちの2ページに描かれた図案だ。
fujiya-old-letter.JPG伏見宮家の御用を命じられたことが記された古文書。藤屋内匠蔵(ガラス越しの撮影のため反射して見づらくなっております。原文は下記の通り。なお、許可を得て撮影しております)
ishiyamadera-kashi1.JPG石山寺の供饌菓子「貼仏供(はりぶつく」も江戸時代から藤屋内匠が納めている。文政年間(1804~1830)の木型を使用。菊や牡丹、麒麟などの文様の干菓子が台に貼られている。バレーボールほどの大きさ。
fujiya-kosuigetsu.jpg『湖水月』

fujiya-shiomi.JPG『汐見饅頭』

fujiya-hakkei-rakugan.JPG『近江八景糖』

heisa-rakugan-zu.jpg室町時代に描かれた水墨画「平沙落雁図」。絵の中ほどに連なって飛ぶ雁が描かれている。
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最も初期のものと言われる明和時代の落雁木型。模様はまだない。高30cm、幅8cm。藤屋内匠蔵(大津市博物館に寄託)

 藤屋では明和年間から明治時代までの木型だけでも実に400丁も保存しており、中には現在も使用しているものもある。店の壁にずらりと掛けられた木型もその一部だ。

ところがその後、落雁にとって暗い時代がやってくる。老中松平定信による寛政の改革(1787~1793)で質素倹約令が出され、その影響は菓子の世界にも及ぶことになる。落雁の木型は薄く貧弱なものになり、菓子ひとつひとつが小ぶりになる。

 もっとも、この改革もわずか6年足らずで終わり、それまで抑えられていた反動から、文化文政の頃(1804~1830)になると人々のの生活は派手になる。同じように、落雁も明和の頃よりも数段華やかなものへと転身を遂げるのである。

 十一代将軍の徳川家斉(在職1787~1837)もまた、文化文政年間の落雁の発展に大きく関係している。家斉は、自ら意匠した落雁を作らせ、大奥の女性や子息に配るほど大の落雁好きだった。将軍から落雁を頂いたか否かで、寵愛の対象が歴然としたという。

 将軍がそうであるならば、諸侯もこれに習うのが常。諸藩の大名はこぞってお抱えの菓子司に落雁作りを命じた。鶴や亀、松はもとより、景色などを表現して意匠を凝らした木型は、この頃に完成したと言える。紀州藩の大納言治宝も家斉に負けず劣らずの落雁好きで、「紀八景」を描いた大型の色彩落雁を作らせた。

 同じように、膳所藩でも「近江八景」の大型落雁が作られている。これが、今も藤屋に伝わる前述の「近江八景糖」というわけだ。同じ落雁で大津絵をモチーフにした「大津画落雁」も、やはり安政の木型の写しを使って作られている。

 色彩が豊かなことが大津絵の特徴だが、乳白色の落雁は、「藤娘」や「鬼の寒念仏」といった大津絵の登場人物の姿を模るのみ。実に簡潔、実に清らか。にもかかわらず、大津絵らしい生き生きとした描写は損なわれていない。匠の技の勝利といったところだ。

 落雁は日本各地で作られたが、良質なもち米と豊かな水のある近江で育まれたそれは格別である。藤屋では、きめ細かい和三盆糖と寒梅粉(餅から作る最中種を粉にしたもの)、葛粉を秘伝の水加減で固めて落雁を作っている。この水加減はもとより、型押しの技や乾燥の頃合などは簡単に真似のできるものではない。

 「ここで必要なのは、長年培ってきた経験と勘だけです。その日の気温や湿度によって、生地を練る加減も変わってきます。生地を練って型に入れるまでの作業を20分以内に終えないと、繊細な絵柄は出ません。失敗は許されません。うちでは、500個作ったら500個売る。そのつもりで作らなければ、良いものはできないと思っています」

 現在では、当主の遠藤さんと2名ほどの熟練職人だけが作ることができる菓子である。藤屋の落雁があまりに有名であるにも関わらず、デパートをはじめどこにでも売っているわけではないのは、このためだ。

 軽やかで、口に含めばさっと溶けてなくなる落雁。もち米のほのかな香りの後を追って、しっとりとした甘みが余韻となって静かに残る。ささやかで、かつこの上なく上品なこの1枚は、340年の歴史を持つ老舗が、150年前間変わらぬ意匠の木型で打ち出す干菓子だ。この1枚に、まさに日本の菓子文化の歴史が凝縮されていると言っても過言ではない。

(絵、木型、お菓子の写真はクリックすると大きくなります)

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安政末期の「近江八景糖」木型。今でも藤屋ではこの意匠を使っている。高35cm、幅10cm。藤屋内匠蔵(大津市博物館に寄託)
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rakugan-mold8.JPG安政末期の「大津画落雁」の木型と、この写しで現在実際に使われている木型(下)。安政木型は高35cm、幅8cm。形状は「近江八景糖」と同様。藤屋内匠蔵(安政木型は大津市博物館に寄託)
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店舗情報

藤屋内匠
  菓子: 近江八景糖(1箱8枚入1000円~)、大津画落雁(1箱18枚入1050円~)
       湖水月(1本1470円)、汐美饅頭(1箱120円)他
  住所: 滋賀県大津市中央3-2-28
  電話: 077-522-3173
  営業時間: 9:00~18:00
  定休日: 日曜日、お盆、正月、祝日は不定