和菓子街道 東海道 関 深川屋

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380余年の歴史を誇る鈴鹿銘菓

 「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた大旅籠、玉屋の向かいに、格式高い庵看板を設えた古めかしい構えの店がある。漆喰を塗籠めた土塀に虫籠窓の平二階家で、八車に矢筈の家紋を施した細工瓦が広い間口の上を覆っている。軒下に置かれた木看板には、江戸側から見ると平仮名で『せきの戸』、京側から見ると漢字で『関能戸』の文字。荘厳な玉屋の向かいにあってなお、一際目を引くこの店こそ、関を代表する銘菓『関の戸』の深川屋(ふかわや)である。

 木枠にガラスをはめ込んだ引き戸を、がたがたと音を立てて開けて店内に入ると、タートルネックのセーターにジーンズ姿の“ロン毛”の男性が挨拶をしてくれた。深川屋十三代当主、服部吉右衛門泰彦氏だ。番台前に置かれた小さな座布団に腰を下ろし、火鉢に当たる。梅の花がもそろそろ終わりに近づき、春の足音が近づいてくるのを感じる2月の末だが、今日の関は、風花が舞っている。置き墨の柔らかいぬくもりが、冷たくなった指先をじんわりと温めてくれる。八車に矢筈の服部家の家紋を染め抜いた大きな紺暖簾の奥から、いつの間にか姿を消していたご主人がひょっこり現れた。手には盆を捧げている。

 「これね、失敗作を丸めたものなんですけど、よかったらご試食して下さい」

 そう薦められて見ると、盆の上に乗せられた菓子鉢の中には、ビー玉くらいの大きさの真ん丸い枯竹色の粒がうず高く盛られている。関の戸は本来、500円玉より一回り小さい大きさのおはじき状の菓子である。求肥の上からまぶした和三盆糖が、鈴鹿の嶺に積もる白雪をなぞらえたと伝えられている。

 「上限は1万個と決めていますが、1日5000、7000個と作っていると、どうしても失敗作も出てきちゃうんですよ。でも、味は同じですから、こうやって丸めてみたんです」

 そう言いながら、座布団の横に盆ごと置いてくれた。竹のトングでひとつとって、頂く。どうやらまだできて間もないらしく、掌に乗せた団子状の“失敗作”は、まだほんのりと温かい。口に運ぶと、外側にまぶした和三盆がふんわりと溶け、優しい甘みが舌に広がる。思いのほか柔らかく、もっちりとしている。以前、箱詰めのものを求めて家に持ち帰って頂いた時の食感とは、随分違う気がした。

 「関の戸は、漉し餡を求肥で包んで、和三盆をまぶしてあるんです。求肥だから、できたては柔らかいんですよ」(ご主人)

 関の戸作りは、毎朝3時から始まる。ご主人ともうひとりの職人さんのふたりで仕込みを始める。「うちの隣の新聞屋さんが2時半から仕事を始めて、うちも3時からでしょう。だから、近所の人たちは用心がいいって喜んでるみたいですよ」とご主人、笑いながら関の戸作りについて話してくれた。

 朝3時に釜に火を入れてから、最初の一粒ができるまでにかかる時間は、6時間。餡を練って、蒸した白玉粉に砂糖などと練り合わせて求肥を作り、薄く延ばした熱々の求肥で餡を包んでいく。一見素朴なこの餅菓子だが、実はひとつひとつが丁寧に作られているのだ。時間は朝9時を少し回ったばかり。先ほど頂いた関の戸は、ほんのついさっきできたばかりなのだ。なるほど、保存料の入っていない求肥であれば、時間を追って堅くなっていく。食べ頃はいつなのか、ご主人に聞いてみた。

 「人によって好みは分かれますよね。できたその日のうちがおいしいという方もいれば、2、3日経ってちょっと歯ごたえがつくくらいがいいっておっしゃる方もいます」

 そう語るご主人自身の好みはというと、1日おいたくらいの柔らかさが丁度いいのだとか。できたてほやほやは、さぞおいしいに違いないと思って聞いてみたが、案に反して「作りたては、柔らかすぎていけない(笑)」そう。日が経って少し堅くなってしまったものでも、電子レンジなどでほんの数秒加熱すると、できたてに近い柔らかさに戻すことができるというが、あまり温め過ぎると、「こんなになって、びよ~んって伸びちゃいます」と、体と二の腕を斜めに伸ばし、身振り手振りで説明してくれるご主人。茶目っ気たっぷりな人である。気さくなご主人と話をしていると、この深川屋が、かつては朝廷から官位を賜ったほどの由緒ある菓子匠であることをつい忘れてしまう。

 深川屋服部家の出自は甲賀深川郷(現・滋賀県甲賀市甲南町深川)、屋号もそこからとっている。元々、伊賀の土豪であった初代・服部伊予保重は、17~18歳の頃に織田信長に追われて甲賀に移り、刀を捨てて町人になったと言われている。その後、関に移り住み、関の戸を考案、寛永年間(1624~1629)に深川屋を創業。つまり、関の戸の歴史は約380年という計算になる。この小さな粒に、そんな長い歴史が詰まっているのかと、改めて思う。しかし、この菓子が庶民の口に入るようになったのは、明治以降になってからである。

 そもそも関の戸は、江戸時代にはまだまだ高級とされていた食材を原材料としている。餡に練りこまれた砂糖はもちろん貴重だったが、関の戸に使用されていた「唐三盆」は、特に最上級とされていたものである。砂糖は、享保12年(1727)に八代将軍徳川吉宗が琉球から取り寄せた甘蔗を諸藩に分け与えて栽培を奨励して以来、国産のものが広く広まるようになった。中でも四国地方は製糖に大きな成功を収め、阿波の和三盆糖は現在もその繊細な風味と舌触りが親しまれている。しかし、国産の砂糖が出回るようになってからも、当時はまだ、舶来の砂糖、つまり「唐三盆」の方が質も価格も上であった。

 しかし、国産の砂糖が出回るようになってからも、当時はまだ、舶来の砂糖、つまり「唐三盆」の方が質も価格も上であった。深川屋の先代達は、その高価な「唐三盆」にこだわっていたようである。もちろん、時代と共に和三盆が唐三盆を抜く頃には、深川屋も最上の味を求めて和三盆に切り替えていくのであるが。

 深川屋に残されている最古の製法は天保以前(文政年間か?)に六代目が記したもので、関の戸は今もなおその文献に忠実に従って作られているのである。それ以前の資料は、残念ながら大火で焼失している。唯一火災から免れたのは、たまたたま注文のあった菓子を詰めて持ち出されていた貞享年間(1684~1688)の菓子箱(店内展示)であるという。

 江戸時代の深川屋では、関の戸だけでなく、饅頭などその他の菓子も売っていたが、饅頭などは四文、関の戸は十六文したという。高価な材料を使って作られた関の戸は、庶民の口においそれと入るものではなかった。そうなると、深川屋のお得意様は街道を行き来する諸大名が中心となってくる。関の土産にと、関の戸を求めて持ち帰ったことが、大名達の記録にも残されているという。

 大名達の間で人気を得た関の戸の噂はやがて京都の朝廷にも伝わり、天保元年(1829)には、当時、七代目服部吉右衛門が当主だった深川屋は、時の光格上皇から従二位陸奥大椽の官位を賜っている。これは、御室御所(仁和寺)の御用達菓子司を仰せつかったことを意味し、またその身分は、御用商人の中でも最上位であった。これと同時に、苗字も由緒ある藤原姓を賜ったが、平家の流れを汲む服部姓にこだわり、その後も出自である深川の名と服部の家紋を保ち続けたという。かつては土豪だったという服部家の血筋が、そうさせたのだろうか。

 深川屋店内には、御用達商人の証でもあった「関所御免」の前掛け付き裃や、「御室御所御用所 関の戸 服部陸奥大掾」と書かれた外箱の内に収められた総螺鈿の菓子箱などが展示されている。関の戸を御所へ運ぶ時には、お侍が迎えに上がったという。お侍に警護されながら、関所御免の前掛けを掛けた深川屋の奉公人が、ふたりがかりで総螺鈿の菓子箱を籠のように担いで鈴鹿峠を越えていったのだ。

 「関の戸は御所では好んでお茶の席などで使われたようです。もちろん、御代も頂戴していましたが、当時の公家は経済的に豊かとは言えませんでしたからね、こちらから出す寄付の方が高くついたそうですよ(笑)」

 そういうご主人の言葉に、御用商人と御所の微妙な関係が見え隠れする。

 「でもね、御所御用達であったことが深川屋の信頼をより高めてくれたわけですから」(ご主人)

 確かな味と信頼があってこそ、関の戸が庶民の手にも届くようになって以降も、関の名物として愛され続けているのである。

 展示されている深川屋の所蔵品は、いずれも御用菓子司であった服部家の歴史を物語る貴重な資料であるが、深川屋と皇室の関係は、今でも続いている。皇后美智子様は、以前は三重にお越しの際にはよくお忍びで深川屋を訪れ、関の戸を求められたという。また、先ごろ高円宮が亡くなられた際にも、宮家からのお礼返しとして関の戸が配られたという。これには、現代の「御用達菓子司」としての苦労話がついてきた。

 「あの時は大変でしたよ。皇室には色々な儀礼があって、関の戸の折りの包装も特殊なんです。藁のようなもので箱を一重に縛るのですが、宮内庁の指示で、神社庁に問い合わせてその藁を調達したんですよ」(ご主人)

 先代からの“命令”で深川屋を継いだというご主人だが、今はこの山里で小さな餅菓子を鬻ぐ老舗を守っていけることを誇りに思っているという。

 「駅やデパートにも関の戸を置いてもらっていますが、本当はこうやって、この店に来て買っていってもらいたいですね。こんな風に話をして、この菓子の歴史に思いを巡らせて食べて頂きたいです」(ご主人)

 泰彦氏の後継者である十四代目には、以前、深川屋を訪れた際にちらとお目にかかったことがあった。丁度その時は、町内に在住しているらしい外国人男性が、「○○屋に車で連れて行って欲しいんだけど」とお願いしているところだった。流暢な英語で、「ああ、本屋のこと?いいよ、ちょっと待ってて」と返事をすると、すぐに私の対応をしてくれたのを覚えている。

 山間の古めかしい和菓子屋の店先で、こんな光景を見るとは思っていなかったので、強く印象に残っている。「息子は5年ほど海外に行っていたものだから、この町じゃそこそこ重宝されているらしいですよ(笑)」と、目を細める泰彦氏。国際派の跡目が、この小さな枯竹色の餅菓子の歴史を語り継いでくれるのだろう。

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店舗情報

深川屋
  菓子: 関の戸(15個入り850円、20個入り1150円)
   住所: 三重県亀山市関町中町387
   電話: 0595-96-0008
   営業時間: 9:00~18:00
   定休日: 木曜日