JR四日市駅から徒歩5分ほどの国道164号線沿いに、「うすかわ饅頭」で有名な岩嶋屋がある。朝方店を訪れると、饅頭を蒸しあげてまだ間もない時間帯だったのか、酒素の甘い香りが、まだ暖かさを保ったままの湯気と一緒になって店内にうっすら流れていた。
「いい香りでしょう。2、3日経っても、まだ饅頭からはいい香りがするんですよ」
とは、現当主である柴田勇喜雄さんの談。お茶と一緒に出して頂いたのをひとつ、手にとってみた。透けるように薄い皮から、小豆餡がところどころ、顔を覗かせている。
まず、皮だけつまんで頂いてみた。皮だけで、充分おいしい。本物の酒素にしか出せない、独特の酸味が甘さの中に混じっている。柔らかく、風味がある。深みさえ、感じられるから不思議だ。餡もしっとりとしていてコクがあり、かつ後味はさっぱり。噂通り、実に美味だ。
「よく、蒸したての熱々が欲しいとおっしゃるお客様がいらっしゃいますが、私自身は半日くらい経ったものの方が、餡と皮が馴染んでおいしいと思います」
本物の酒素を使っていると、どうしても翌日には固くなってしまう。固くなったら、網でほんのちょっと焦げるくらいに焼くのがいいと、柴田さんが教えてくれた。そうすると、香ばしくなり、餡も凝縮されてねっとりとしてくるので、また違った味わいになるのだ。それでも、どうしても蒸したてが食べたいという人は、朝9時半に店を訪れてごらんなさい。熱々を分けてもらえるだろう。
岩嶋屋のこのうすかわ饅頭は、昔ながらの酒素饅頭だ。酒素とは、炊いたもち米に米麹を加えて発酵させたもの、つまり、日本酒だ。炊きあげたもち米に米麹を入れ、35度ほどに保って一晩寝かせることによって発酵させる。その上澄みである酒素に、小麦粉を何度かに分けて混ぜ、一次発酵、二次発酵と続けながら生地を仕上げていく。
こうして出来上がった生地で粒餡を包み、20段ほどあるラックに並べて、ホイロに入れて1時間少々かけて三次発酵させた後、数分の間で一気に蒸しあげる。
「昭和49年頃だったでしょうか。機械を入れたことによって、どうしても手で包餡するより、皮が厚くなってしまうんですね。それで、“皮が厚くなった”とクレームを言われたこともありました。味に変わりはないのですが。メーカーとも色々相談して、上は薄く、舌は厚めに包餡できるような機械を造ってもらいました」
もっとも、機械を導入していると言っても、季節によって気温や湿度などの条件が異なるため、最終的には自分の目で判断しなければならないという。
餡は北海道小豆に角ざらめと氷砂糖を加えて炊いたもので、ぽってりと柔らかい。品の良い甘さで、あっさりとしていて、なおかつ適度なコクを残している。ふんわりとした皮とひとつになって、えもいわれぬ味を作り出すのだ。
「この餡が食べたいけれど、酒素はどうしても苦手という人もいますので、何年か前から、酒素を使わず黒砂糖と山芋を皮に混ぜたうすかわ饅頭も作っています」
餡は和菓子の命とはよく言ったものだ。しかし、岩嶋屋にはもうひとつ、大事な命がある。酒素である。代々伝わる酒素に、少しずつ注ぎ足しながら使っているのだ。
ここで話は少々ずれるが、しばしお付き合いを。岩嶋屋という名の店が誕生したのは、明治中頃のこと。店名は、明治24年(1891)に東海地方を襲った濃尾地震に由来する。これを機に、「いかなる激震にも耐えうる頑強さであれ」という願いを込めて、「まつさん」というひとりの女性が名づけた。
実は、このまつさんこそ、岩嶋屋に酒饅頭を伝えた人物なのである。元々、酒饅頭は、菰野にあった川北屋という菓子屋が天保8年(1837)から作っていたものだった。まつさんは、わけあって子供の頃にこの川北屋の養女となった女性である。
ところが、明治時代になると川北屋は廃業してしまう。それでも、ひたすら秘伝酒素と製法を守り続けたのが、まつさんだったのだ。やがて柴田家に嫁いだまつさんは、連れ合いと共に同じく菰野で岩嶋屋を創業した。はっきりした年号は分からないが、濃尾地震の前後と思われる。
そして、何代か後になると、12人ほどもいた兄弟姉妹のうちの数人が分家して、岩嶋屋の屋号で四日市を中心にそれぞれの店を構えるようになった。その中の1軒が、柴田さんが現在経営している岩嶋屋である。柴田さん自身は、菰野の岩嶋屋初代から数えて五代目なのだという。
ちなみに、やはり四日市市内に別の兄弟の店があったが、そちらは跡継ぎがないまま数年前に廃業してしまった。また、日永の追分で「追分饅頭」を売っている岩嶋屋(伊勢街道「日永追分」のページ参照)は、12人兄弟の時期よりずっと後、今から50年ほど前に更に菰野の岩嶋屋から分家した店である。今となっては、柴田さんの岩嶋屋が最も名を馳せているが、菰野の母店も健在である。
更にややこしい話をすると、実は柴田さん自身も、岩嶋屋に養子として迎えられた身である。四代目に当たる先代は結婚せず、子供もいなかったため、親戚の中から柴田さんが後継者として抜擢されたのだという。柴田さんが小学校6年生の時、母方の祖母が他界した。その祖母が、自分の息子とふたりで岩嶋屋を切り盛りしていたのだが、息子のあとに店を継ぐ者がいないことが唯一の心残りだったようだ。
「私たち孫が枕元に駆けつけたところ、祖母が私に向かって“岩嶋屋の養子となって跡を継いでくれ”と言ったのです。横では母が私を小突きながら、“おばあちゃんが死んじゃうから、はいって言いなさい。喜ばせてやりなさい”と言うわけですよ(笑)。それで私もつい、“はい”と言ってしまったわけです(笑)」
しかし、柴田さんはその後はすっかり亡祖母との約束を忘れて、普通に高校、大学へと進学した。ところが、大学4年の春、伯父に当たる岩嶋屋の四代目が癌で入院をして、1年間店を閉めるという事件が起こった。伯父が柴田さんを養子に欲しいと言ってきたのは、その時だった。
「今思えば、伯父は祖母と私が交わした約束を覚えて、私が店に来るのをずっと待っていたのかもしれません。なのに、私はすっかり忘れてましたでしょう(笑)。それで、癌になった伯父は、慌てて私の両親に相談したというわけです。祖母の遺言のこともあるし、せっかく長く続けてきた店が途絶えてしまうのも惜しいと思い、私も承諾しました」
京都の同志社大学を卒業してすぐ、店に入ったという。店に来て半年で、本籍も近藤姓から柴田姓に変えた。
「私が来たことがよほど嬉しかったのでしょう、伯父の方が張り切っていましたね(笑)。以来、伯父に、うすかわ饅頭作りを仕込まれたわけです。呆れた話ですが、私はそれまで、餡が小豆と砂糖でできていることさえ知らなかったんですよ(笑)。そんな私をいっぱしの饅頭職人に仕立て上げるのに、伯父も苦労したと思います」
伯父である先代に教わる傍ら、柴田さん自身も、和菓子作りのノウハウ本などを熱心に読んで勉強したという。1年の休業の後に店を再開してからも、伯父とのマンツーマン修行は続いた。伯父は職人気質で頑固だったが、あれこれ言う人ではなく、柴田さんの仕事ぶりについても、いいとも悪いとも言ってくれなかったという。
「男ふたりが、黙々と饅頭を作り続けていたわけです(笑)。結局、私が満足のいく饅頭職人になれたのは、10年経ってからです。伯父は癌で入院したはずなのに、すっかり病気も治って、元気いっぱいでしたね。すっかり騙されましたよ(笑)」
その10年の間に、伯父が初めて機械を導入した。それまでふたりきりで、全て手作りでやっていたが、だんだん忙しくなってきたためだ。「私も店に来て2、3年目くらいに結婚しましてね。家内が来てくれたお陰で、店の雰囲気も一気に明るくなって、そりゃ、助かりましたよ(笑)。家内も和菓子屋の娘でしたので、店のこともよく分かってくれたし。和菓子屋歴で言えば、私より家内の方が先輩なんです」
10年経って、柴田さんを立派な饅頭職人に育て上げることができたと実感したのか、伯父は引退した。その時、伯父は70歳になっていたという。引退してからは益々元気で、それまで忙しくてできなかった海外旅行に出かけたり、骨董集めをしたりして余生を満喫し、82歳という長寿をまっとうした。
そんな紆余曲折があったものの、柴田さんの岩嶋屋では、今でも菰野の母店から分けてもらった酒素を使っている。つまり、天保年間から生き続けている命の種である。
「何が大変かって、やはり酒素の管理ですね。麹菌は生き物ですからね、それを生かし続けるというのは大変な気苦労のいることです」
季節によって保管する温度も違う。寒い冬には菌が死んでしまうため、菰(こも)で包んで保温することもある。発酵後にどうも泡の立ち方が少ないなと感じると、やはり菌は死んでいるという。それをそのまま使ってしまうと、リキ(力)がないというか、うまく膨らまらず、ぐちゃっとした団子のようになるのだとか。
「私が店を引き継いで間もない頃には、3回ほどこの失敗をしでかしましてね。そういう時は、商品にならないから店を開けられません。死んでしまった菌は生き返りません。さてどうしたものかと思案した結果、菰野の店に走って酒素を分けてもらいましたよ。今でも親戚付き合いがありますからね。こ何代にも渡っても縁が切れていなくて、本当に助かったと思いました(笑)」
そんな柴田さんが、うすかわ饅頭を作る傍らで、ある菓子を大ヒットさせたのは昭和61年(1986)のことだった。その菓子の名は「ゆめいちご」。中玉のイチゴを白餡でくるみ、更に羽二重餅で包んだものだ。今ではどこでも作っている「イチゴ大福」に一大ブームをもたらしたのは、実は岩嶋屋なのである。今日一般的なイチゴ大福は、小豆餡がほとんどだが、柴田さんが考案したのは、白餡の大福だった。
「あんなに評判になるとは予想しませんでした。それまでは洋菓子のものだったフルーツを、和菓子に取り入れたのがおもしろかったのでしょうね」
と、柴田さん。
「私は元々、和菓子職人ではありませんでしたから、考え方もまるで素人なんですね。よそで修行したわけでもなく、うすかわ饅頭しか知りませんでした。だから逆に、和菓子に対するこだわりがなかったんですね。それで、自由な発想で新しいものを作ることができたのだと思います」
考案したのは、柴田さんがうすかわ饅頭を作るようになって20年経った頃だったという。その頃は世の中も変わりつつある時代で、柴田さん自身、時代の流れに敏感になって色々な方面にアンテナをはっていた。そんなある時、大阪で開かれた同業者の経営研究会に参加し、そこで金沢にイチゴ入りの餅があることを初めて知ったのだそう。
「これだ、と思いました。ただし、実物を見たり食べたりして影響されたくはありませんでした。自分なりに考えて、とにかく作ってみたのです」
スーパーでイチゴを買ってきては試行錯誤を繰り返した。最初は小豆餡でも試してみたが、白餡の方が見た目も上品だったことから、白餡に決めたという。
そして、自分でも納得のいく試作品ができた時、3人の娘に食べさせたところ、「おいしい!」という言葉を聞くことができた。俄然、自信が出たという。イチゴ入りの白餡大福は、当時高校一年生だった長女が、友人らと共に考えてくれた「ゆめいちご」という名前に決まった。
はじめは試しに店に置き、界隈で働く若い女性たちに勧めてみた。すると、たちまちに口コミで広まり、爆発的に売れたのだという。早朝から夜遅くまで、毎日1000個以上、手作りで「ゆめいちご」を作った。それでも追いつかない売れ行きぶりで、それまで家内業で細々とやっていたところへ、従業員を急遽6人増やして対応した。
「あの頃は無我夢中でした。丁度、何か自分なりに残したいと思うものを作りたいと思うようになった時期だったのですね」
何か自分なりに残したい…その言葉通り、柴田さんの「ゆめいちご」はロングセラーとなり、今もうすかわ饅頭と共に岩嶋屋の看板をしょっている。
誕生以来、「ゆめいちご」は徐々に仲間を増やしていった。梅にあんず、パイン、キウイなどのフルーツを求肥と白餡で包んだ「どりー夢」シリーズだ。
巨峰が入った「紫水晶」(7~11月)やマスカット入りの「翡翠」(7~11月)などの季節限定品も加えると、常時7~8種類が揃う。季節を大事にしているため、今ではオリジナルの「ゆめいちご」も季節限定(11~6月)になった。フルーツの瑞々しさと酸味が、求肥や上品な白餡によく合う。
ひょんなことから老舗和菓子屋を継ぐことになった柴田さんが、自分で見つけて自分で植えた種が実を結んだ。
「老舗を意識するということは、あまりありません。ただ、せっかく昔からあるものなのだから、残していきたいなとは思います。そこに新しい時代に合うものを加えていけば、自然と伝統は守られていくはずだと思っています」
そう言い終えて、柴田さんははにかむような笑顔を見せた。今日も彼は、天保8年以来、血筋を越えて受け継がれてきたうすかわ饅頭と共に、自身で作り上げた新しい「夢」を売り続けている。
店舗情報
岩嶋屋
菓子: 酒素うすかわ饅頭(1個126円)、どり-夢(各種1個入210円)他
住所: 三重県四日市市新々町3-7
電話: 0593-52-3611
営業時間: 8:30~19:00
定休日: 不定休
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