四日市の名物に、「永餅」または「なが餅」と呼ばれるものがある。しかし、これは何も、長い餅だからなが餅、転じて永餅、なのではない。確かに、長細い格好はしている。だがこれは、日永の里の笹井屋が売っていた餅だから、永餅なのだ。
ところが、ある著名な人物が、「ながもち」というこの餅の名を、「長い」という言葉にっ掛けた。そのため、長い餅だからこの名があるという勘違いがまかり通ってしまったのである。
その人物とは、戦国武将・藤堂高虎。浅井長政の家臣に始まり、浅井氏の旧臣・阿閉貞征や磯野員昌、信長の甥である津田信澄、秀吉の弟の羽柴秀長、その養子・秀保、秀吉自身、そして徳川家康と、次々に君を変えたことで知られる男だ。家康からは特に信頼され、外様大名となった。この高虎と永餅とを結ぶつける逸話が、今も講談として語り継がれている。
高虎がまだ与右衛門と名乗っていた頃のこと。しがない足軽だった与右衛門が、ある時、日永の里を通りかかった。日永では、笹井屋という店が「永餅」という名物を売っていた。銭はなかったが、どうにも腹が減ったため、与右衛門は出世払いという約束で永餅を食べさせてもらった。
空腹だったせいもあるだろうが、餅の旨さに与右衛門はつくづく感心した。しかも、この餅の名は「永餅」だという。餅の名と武運が長く続くこととをひっかけて、「吾れ武運のながき餅を食うは幸先よし」と言っていたく喜んだ。主人の気風はいいし、餅は旨い。おまけに餅の名まで縁起がいいとあって、笹井屋での思い出は与右衛門の胸に深く刻み込まれた。
後に出世を果たし、与右衛門は高虎と名乗るようになるが、齢50となった慶長11年(1606)に、津に転封された。そこで早速、笹井屋彦兵衛を召して、過日の礼を述べて厚く遇したという。以来、参勤交代の折には必ず笹井屋に立ち寄って永餅を賞味し、若かりし日のことを偲んだとさ…。
というのが、講談のあらましだ。そんなわけで、藤堂高虎が「永餅」の「永」を武運の長続きにかけたことが、後述するように、「永餅」を長い餅ゆえの名前と後世の人に勘違いされるきっかけになったのではないか、と勝手ながら推測している。もっとも、高虎が言い出さずとも、450年もの長い歴史の中で、誰かしらが「永」に「長」をひっかけるか、あるいは混同したとしても不思議はない。
ともあれ、江戸時代から既にこの地の名物だったという笹井屋の「永餅」だが、時代を通してこれまで、様々な呼び方をされてきた。今も各地の神社で供物として用いられている楕円状にのした餅「牛の舌餅」に似ていることから「牛の舌餅」と呼ばれたり、日永名物だから「日永餅」だとか、笹井屋が作る餅だから「笹餅」など、様々な呼ばれ方をしてきた。それこそ、「永」の字を「長」に変えて「長餅」と記されたこともあった。しかし、現在では「永餅」「なが餅」と言えば、登録商標もとっている笹井屋の「永餅」以外の何物でもない。
ところがこれを、長いから「永餅」であって、また、他の店で作るものと同じと、二重の勘違いしている人が驚くほど多いのが事実だ。確かに、笹井屋の「永餅」のように中に餡を入れて細長く伸ばして表面を焼いた餅は、三重県には割りと多く見られる。もしかしたら、この地ではそういった餅が昔からあったのかもしれない。例えば、いばら餅が各家庭で作られていたように。また、日本全国どこに行っても羊羹や饅頭があるように。それをたまたま、日永の地で売っていたのが、笹井屋だっただけなのかもしれない(日永で「永餅」を売っていたのは1軒だけであった)。
しかし、羊羹、饅頭と一口に言っても、それぞれの店によって味も違えば、名前も違うことはご承知の通りだ。とらやの「夜の梅」は確かに羊羹だが、これは一般名称ではなく、とらやの商品名である。他の店の羊羹と混同したりはしない。つまり、菓子の分類は羊羹、商品名は「夜の梅」である。これと同様、笹井屋の「永餅」は分類上は焼餅で、商品名は「永餅」なのだ。
確かに似たような焼餅は多い。しかし、味も名前も店それぞれである。例えば、同じ四日市の金城軒のものは「太白永餅」、桑名の柏屋や安永餅老舗は「安永餅」、神戸町のあま新は「立石餅」なのである。前述のように、三重のこの辺りでは昔は一般的なものだったのかもしれないしが、それを最初に売り出したのは、おそらく笹井屋だろう(もしかしたらそれ以前にもどこか別の場所で別の店が売っていたかもしれないが、今はそれを知るよしもない)。
笹井屋の「永餅」がこの辺りの名物となったため、類似のものが出たのかもしれないし、最初から一般的にあったものを、それぞれのやり方で作ったのかもしれない。そんなことは分からないが、それぞれ違うものを作って、違う名前で売っていることだけは紛れもない事実だ。
どれも似ていて分からない、というのであれば、それぞれ食べて、自分の好みを探せばいいだけのことである。百貨店などで似たようなものが並んでいるのを見たら、笹井屋のものを購入したいのであれば「永餅」を、他の店のものが欲しいのであれば、その店の焼餅の名をはっきり伝えましょう。店の人も、うっかり四日市名物の一般名称として「うちのが永餅」と言ってしまうこともあるそうなので(厳しい言い方をすれば、それはその店の人材教育不足というものである)。
とまあ、こんな具合に「永餅」にまつわる誤解を解いておいてから、笹井屋と「永餅」の歴史を改めて紐解きたい。笹井屋の創業は、今を遡ること450年以上昔の天文19年(1550)。初代は、先に述べた講談にも登場する彦兵衛である。天文19年というと、藤堂高虎が生まれる6年も前のことだ。
日永の里で餡入りの餅を焼いて売り始めた彦兵衛は、土地の名にちなんでこの餅の名を「永餅」とした。店の場所は、日永の街道沿い。今の近鉄内部線赤堀駅と日永駅の間に鹿化川という川が流れているが、街道上でその川にかけられた鹿化橋の西側にあったという。この先には伊勢参宮道と東海道の分岐点である日永の追分があり、昔からこの辺りの往来はたいそう賑やかだったという。彦兵衛も、街道を行く旅人相手の商売をしていたのだろう。
その後、数百年に渡って代々、日永で「永餅」を売っていた笹井屋だったが、戦後に四日市が工業都市として発展してゆくのに併せ、旧東海道を遡って四日市の江戸口である三滝橋南詰の現在地に店を移転させた。蔵をイメージした現在の建物は、30年ほど前に改築してできたものだという。
「初代ははっきりしているのですが、それ以降の歴代当主の名や笹井屋の変革は、実はあまりはっきりとはしていないのです」
そう語るのは、笹井屋の現当主、笹井利浩さんだ。
「うちなんて饅頭屋がちょっと大きくなったようなようなものなので、文献だとか大したものは残っていないのです。永餅の作り方も、全て口伝でしたし。しかし、永餅も昔は今よりもっと長かったみたいですよ」
そう言って利浩さんは、1枚の古い写真を見せてくれた。利浩さんの祖父が、レンガ造りのおくどさん(かまど)に乗せた鉄板で、「永餅」を焼いている姿が写っている。笹井屋の歴史を語るものはほとんど戦災で焼失してしまったが、この写真は、亡くなるまで祖父が住んでいたという日永の旧店舗跡に残っていたのだそう。
祖父の手元の「永餅」は、確かに今より、ずっと長く見える。しかし、利浩さんが子供の頃には、既に今くらいの長さ(12~13センチ)になっていたという。確かに、あまり長いと途中でぐにゃっと曲がってしまって、食べにくそうだ。
しかしそもそも、なぜ「永餅」は細長いのか。これが丸かったら、「長い餅」だから…という勘違いもなかったろうに。
「推測ですが、携帯性を高めるために、長くしたのではないでしょうか。長方形の木箱に収めて運んだとしても、細長い方がたくさん、整然と並べることができたのだと思います」
また、大福ではなく、わざわざ焼いて出したのも、香ばしさという点だけではなく、日持ちさせるためだからではないか、という。つまり、長い形も、焼いてあるということも、街道を行く旅人のために携帯性を考慮した結果だったのかもしれない。まさに、「街道の和菓子」である。
その街道の和菓子屋の伝統は450年に渡って引き継がれ、利浩さんで十五代目を数える。
「当主といっても、私は雑用係に近いんです(笑)。まだまだ会長には頭が上がらないですね。テレビ番組の取材でも、会長なら“これまでそうやってきた”と発言できますが、私ですと“そう思います”と言ってしまう。“そうやってきた”の方が、実際に重みがあります」
それまで家内業として細々と経営していた笹井屋の事業を拡大したのは、利浩さんの父親で現在は会長職にある先代の笹井晃さんだ。会社設立は昭和10年。それまで笹井屋の店でしか買えなかった「永餅」を、「四日市土産」として広めたのが先代なのだ。企業としての笹井屋の土台を築いた、いわば中興の祖である。その功績には、さすがに敵わない、そう利浩さんは言う。
45歳という壮齢(平成16年現在)、すらっとした痩身で容貌も端麗(つまりハンサム)な利浩さんは、温和なお坊ちゃまのように見える。しかし実際には、子供の頃はかなりのやんちゃ坊主だったし、先代もひとり息子の利浩さんにはとにかく厳しかったという。何か一言で反発するようなことを言えば、すぐにゲンコツが飛んできたのだとか。そんな時、いつも利浩さんをかばってくれたのが、前出の写真の中の祖父だったという。
現在、竹林のある庭園が広がっている店の裏には、かつては工場があった。工場とはいえ、当時の「永餅」は全て手作り。餡を入れた団子状の餅を、棒状に伸ばしていき、手で押して平べったくして鉄板に乗せる。その当時の様子は、利浩さんもよく覚えているという。
「餅は両面焼くのですが、片面が焼き終わった時に職人さんがそれをひっくり返す手技が、実に鮮やかなんです。細長い餅は、焼けてくると餡の入っていない両端がぷくっと膨れてきます。その膨れた部分の片方を、職人さんがヘラでカンカン、カンカンと叩いていくのですね。
すると、一列に並べた餅が次々と裏返っていく。餅の幅が3センチほどで、餅と餅との間隔は1センチ足らず。ほとんど隙間なく詰めて焼いていても、餅はぶつかり合うことなく、綺麗に元通りの場所に裏返った状態で並ぶのです。私には真似できませんね。裏返す分の場所を確保するために、餅を置く間隔も5センチくらいは余裕がないとできません(笑)。
焼きあがった餅を鉄板から取る時も、ヘラの長さをいっぱいに使って、数個ずつ移動させるのです。その手際のいいこと。私なんかは、1個ずつ、そろそろとヘラに乗せて移動させるのですが(笑)」
利浩さんが家業を手伝い始めたのは、まだ小学校に上がったばかりの頃からだった。
「子供の頃から、永餅作りは手伝っていました。遊ぶ暇があったら手伝え、と言われてましてね。みんなが外で野球をしてるのに、自分はせっせと永餅作り…。将来的に自分がこの店を継ぐのだという気ではいたのですが、遊べないのはイヤでイヤで仕方なかったですよ(笑)」
しかし手伝いをさせられたのも、老舗の跡取り修行の一貫だったのでは?
「店を継がせるためというより、忙しいから手伝え、といった感じでした。いや、少なくとも当時はそう思っていました。でも今思えば、後を継がせるために子供のうちから仕込まれたのかもしれないですね。子供の頃からやっていることなので、実際、今は楽ですからね。ぽっと帰ってきて急に店を継いだ息子というわけではありませんから」
小学生の頃は、家業を手伝のが大嫌いだったという利浩さんが、中学校・高校と、名古屋の私立に通ったのにもやはり、「永餅」作りが関係している。
「最初は友達と違う学校に行くのなんてイヤだと思いました。でも、親が、とにかく受験さえすれば、受からなくても、夏休みに手伝わなくてもいいと言ったのです。そうしたら、案に相違して受かってしまいました」
以来、毎日四日市から名古屋に通う生活が始まった。スポーツ少年だった利浩さんは、中学ではサッカー部に入部。毎日遅くまで練習して、張り切っていた。ところが、夏休みに、サッカー部の練習に行こうとする利浩さんを先代が引きとめた。「永餅」作りを手伝え、というのだ。
「約束が違う!と反発したら、すぐにぶん殴られました(笑)。私がうちを飛び出したのは、それが最初ですね。飛び出したというより、勘当された、という方が適切か。結局、中学の友達の家に間借りして住むようになったのです。以来、現在に至るまで名古屋が私の拠点になりました。怖い親から離れていられるというのも、嬉しかったです(笑)」
大人になって経営に参加するようになってからも、職人気質の先代と衝突することはしばしばあったそう。
「多い時で年に10回はクビになったことがありますからね」
…一瞬、耳を疑う。
「子供の頃は怒られて泣いたり、勘当されたりもしましたが、大人になって、“会社に来るな”と言われる方が辛いですよ。話し合いの余地もない。とにかく、たてつけばクビですからね。従業員でたてつくような人は誰もいませんが、私はたてつきましたので」
しかし、利浩さんには先代に負けない数々の実績がある。例えば、昭和64年(1989、平成元年)に名古屋で開催された「世界デザイン博覧会」で「永餅」を販売するようにこぎつけ、大成功を収めたのも利浩さんの手腕によるものだ。これも、名古屋で培った人脈と、営業マンとして笹井屋の事業に携わってきた経験を生かした結果だという。
「最初は、名古屋駅にあった当社経営の喫茶店から始めました。お客様に直接食べ物を出すということは勉強になるだろうというわけで、そこに回されたのです。実際に、いい経験になりましたよ。そんな風に私は営業から入った人間ですから、経営者になっても社員を仲間と思っているし、みんなも私とは楽しそうに仕事をしてくれます。会長がいると、みんなピリッとするのですけどね」
経営方針についても、当初は利浩さんと先代の意見は随分違ったという。
「東海地方、それも愛知の名古屋以西からこの辺りまでの区間では、笹井屋の永餅はそこそこ知られていますが、全国的にというと、やはりまだまだですね。ただ、今はそれほど手広くやろうとも思っていません。バブル期に、たくさん出荷することに専念して質を落としてしまったという苦い経験があるからです。今はその日のうちにその日作った分を出し切るようにしています。やはりお客様には、できたてを味わって頂きたいですから」
しかし、利浩さんが「売り切れてでも質を落とさない」ことに重きを置くのに対し、先代は「決して商品を切らさない」ことをモットーとした。両者とも、おいしいもの、質の高いものを出したい気持ちは同じだが、利浩さんは余分に作って少し古くなったものを出したくはないし、先代は客に「売り切れです」と言いたくない。確かに、難しい問題ではある。
「経営者としての手腕を問われるところですよね。できるだけ、季節や天気、イベントや団体の有無などを計算しながら作るようにはしています。今では、統計的データもとって、管理しています」
この統計も、先代から言わせれば「無駄なもの」だったそうだが、現在ではそれがとても重要なデータになっているという。
しかし、そんな頑固な先代も、2年前に現役を退いた。
「ある日突然、辞めると言い出したんです。そんなことを唐突に言われても、こっちも焦りますよね(笑)。印鑑はどうするの?役員は?自分は?と、もうパニック状態です。しかし会長はただ、“自分は辞めるから、お前、やれ”とだけ。とにかく言い出したらきかない人ですから、仕方ないです」
丁度その頃は、従業員もそろそろ世代交代か、という時期だった。先代はそれも、見越していたのかもしれない。現在は三ツ谷支店(やはり東海道沿い)の近くに機械設備の整った工場があり、社員も若手が中心となって笹井屋を支えていてくれるという。しかし、隠居とはいえ、先代の目は相変わらず爛々と光っており、利浩さんが何か新しいことをしたいと思っても、必ず先代にお伺いを立てなければならない。
「いつまで経っても、子供だと思われているんでしょうね(笑)。ただ、最近は会長もだいぶ私のやり方に納得してくれるようになりました。会長が抜き打ちで店を訪れて試食することがあるのですが、ようやく“いつ食べても旨いな”という言葉がでるようになりました。ほっとしています(笑)」
笹井屋では、基本を崩さず、かつ時代の変化に歩調を合わせて少しずつ改良を重ねてきた。例えば餅3分の2に対して餡が3分の1という配分は変わらない。餅菓子なのだから、餅を食べる感触を減らすわけにはいかない。もっとも、本来餅は「歯ごたえ」を感じるものなのだが、最近の人は餅は柔らかいものだと思っているため、従来よりも若干水分量を増やして柔らかめに搗いているという。もち米は、色々試した結果、現在は滋賀産のの上質な羽二重ミックスを使っているそう。
餡は、以前は北海道産の小豆を使用していたが、最近は少し小粒な大納言を使っている。
「実は私は、元々あまり餡が好きではなかったのです。口の中に、酸味が残るような気がして。それが、大納言を使ってみたら、酸味が減って、まろやかになったのですね。自分で鍋で炊いて試してみたのですが、“何これ!?”というほどおいしかった。値段は少々張りますが、少しでもお客様にいいものを出したいので、これに変えました。商品の値段はもちろん据え置きです(笑)」
大納言には、上白糖を加えて炊く。砂糖も、グラニュー糖など他のものも試してみたが、やはり上白糖が一番良かったという。シンプルな餅菓子には、上白糖が出すこってりした甘みがよく合うのだそう。
「永餅」は、実にシンプルな餅菓子だ。しかし、「単純なことこそ一番難しい」と利浩さんは言う。基本に忠実であり、いい材料を使い、食べた人に「おいしい」と言ってもらうこと、それが大事なのだと。
「もちろん、永餅というものはこれからもずっと残していきたいです。ただ、代々伝わってきたものを守っていくというより、今、良いものを、おいしいものを提供したいという気持ちの方が強いですね。それが結果的に、暖簾を守ることにつながっていくように思います」
細かい努力の積み重ねと、「中途半端にせず、永餅に徹すること」という十五代目の利浩さんなりのやり方で、四日市名物の笹井屋「永餅」は、これからも愛され続けていくのだろう。
◎おまけの話◎
笹井屋では、通常の白い「永餅」のほかに、祝い事用に「紅白永餅」や「黄白永餅」も注文に応じて用意している。また、これとは別に、「桜永餅」と「抹茶永餅」なるものもある。白餡に桜の塩漬けを混ぜた「桜永餅」は、春休み前から桜が終わる時期までの限定。当初は先代に反対されたのは言うまでもないが(笑)、実際に試食した先代も「うまいな」と言ってくれたという。「抹茶永餅」もしかり。餅を作る際、水ではなく抹茶を入れるため、餡を中に詰めると宇治金時のような味わいになるのだそう。こちらは新茶の時期のみ。両方とも大々的に宣伝するわけではなく、「裏メニュー」のような商品である。桜の香りの白餡入りや宇治金時のような「永餅」…なんとしてでも味わってみたい気がする。作る日や量が決まっているわけではないので、事前確認をしてから来店する方がよいだろう。
店舗情報
笹井屋
菓子: 永餅(1個90円)、竹包み(7個入630円)
箱入り(7個入730円~)他
住所: 三重県四日市市北町5-13
(三ツ谷支店: 四日市市三ツ谷町12-26)
電話: 0593-51-8800 (三ツ谷支店:0593-32-3318)
営業時間: 8:30~18:30
定休日: 元旦
URL: http://www.nagamochi.co.jp/
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