撤饌や

                                                                                               LinkIconHOME 撤饌トップページ

撤饌 頁三十六

【や】

   yaegaki.jpg
   yaegaki-liquor.jpg

八重垣神社

御鎮座: 島根縣松江市佐草町227
御祭神: 素盞嗚尊、稲田姫命
社格: 式内小社(論社)、旧縣社、別表神社、特別神社
御神紋/社紋: 二重亀甲に劔花菱
御由緒:
神代の創建と伝わる。『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)の中で、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治する際、櫛名田比売(『日本書紀』では奇稲田姫。御祭神・稲田姫命が神格化する前の名)を匿ったとされる地に立つ。姫が隠れていた辺りは「佐草女の森」と呼ばれ、現在は八重垣神社の奥の院となっている。八岐大蛇退治の後、素盞嗚尊と櫛名田比売は結婚して、今は須我神社が鎮座している雲南市大東町須賀に新婚の宮を構えた。その後、姫を匿っていた佐草女の森に居を移したと伝えられる。素盞嗚尊が詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」で有名。日本で初めて結婚が執り行われた地として、縁結びのご利益があるといわれる。
神社の歴史的には、八重垣神社は当初は須賀に創建され、後に佐草女の森にあった佐久佐神社の境内に遷座されたといわれる。明治5年(1872)、佐久佐神社は八重垣神社を合祀。更に、明治11年(1878)には八重垣神社と改称。
ちなみに、佐久佐神社では『出雲国風土記』に見える青幡佐久佐日古命を祀っており、現在の八重垣神社宮司・佐草家もこの末裔とされる。佐久佐神社の名は『延喜式神名帳』に載せられているが、これは同じ市内の大草町にある六所神社であるとの説もある。このため、式内社としては八重垣神社(旧佐久佐神社)と六所神社が論社になっている。
奥の院には、稲田姫命が姿見をしたといわれる鏡池があり、今も参詣者によって占いが盛んに行われている。
撤饌:
・御神酒(日本酒)、小1本

   kamakura-yakumo.jpg
   kamakura-yakumo-salt.jpg
   kamakura-yakumo-tea.jpg
   kamakura-yakumo-kombu.jpg

八雲神社 (鎌倉)

御鎮座: 神奈川縣鎌倉市大町1-11-20
御祭神: 須佐之男命、稲田姫命、八王子命、佐竹氏の御霊
社格: 旧村社、旧神饌幣帛料供進神社
御神紋/社紋: 五瓜唐花(木瓜)
御由緒:
平安朝時代、白河天皇(在位:1073~1087)の御世の永保年間(1081~1083)に源新羅三郎義光(1045年~1127)が京の祇園社(八坂神社)から御神霊を勧請したことに始まると伝えられる。
後三年役(1083~1087)に於いて、睦奥國で苦戦を強いられていた兄・源八幡太郎義家のもとに援軍として向かう途上、鎌倉に立ち寄った義光は、当地で悪疫が流行していることを知る。苦しむ住民を救うため、「厄除神」として霊験あらたかな京の祇園社を勧請、篤く祈願すると、悪疫はたちどころに鎮まったという。以来、当地住民は当社を「祇園さま」として信仰した。鎌倉最古の厄除の社。
室町時代には関東官領の足利成氏(1438~1497から)、安土桃山時代には小田原の北条氏直(1562~1591)から、江戸時代には徳川家康(1543~1616)をはじめとする歴代将軍から、篤く保護された。
御祭神に連なる佐竹氏の御霊は、佐竹氏の祖が新羅三郎義光であることから。義光の孫に当たる源昌義(後に佐竹昌義、1081~1147)は、常陸國の久慈郡佐竹郷を本拠地としていたことから「佐竹冠者」と呼ばれ、後に佐竹氏を名乗るようになった。
社号は、元は「鎌倉祇園社」「祇園天王社」などと称され、また、江戸時代には「松堂祇園社」「松殿山祇園社」とも呼ばれていた。明治維新(1868)以降、「八雲神社」と改称。
撤饌:
・「清祓の塩」、1包
・昆布茶「厄除茶」、5g入り3包
   ※湯を注ぐと折り畳まれた昆布が開き、表面に「厄晴」の文字が表れる。

   edogawa-yakumo.jpg
   edogawa-yakumo-sasa.jpg
   edogawa-yakumo-dango.jpg

八雲神社 (江戸川区)

御鎮座: 東京都江戸川区江戸川3-2-4
御祭神: 素盞雄命
社格: 無格社(一般神社)
御神紋/社紋: 祇園守
御由緒: 創建年は不詳。主に、江戸川で働く舟人たちの守り神として信仰された。通常は無人の社だが、同じく江戸川区の新小岩厄除香取神社の宮司が兼任で祭事を行っている(香取神社は江戸川区の約半分の神社を受け持っている)。
古くは、旧暦の6月の満月の日に天王祭が行われていたが、現在では旧暦6月の満月に近い日曜に行われている(ただし、現実的には氏子衆の話し合いによって、満月からかなり離れた日に行う場合もある。7月後半に行うことが多い)。舟人たちの生活が、潮の満ち引き、すなわち月の満ち欠けに左右されたため、全國的に天王祭の行われる夏期の中でも、特に満月の日に執行されるようになったらしい。祭の宵宮(前日の土曜日)では、参詣者に「笹団子」が授与されるため、「御神符祭」「笹だんご行事」とも称され、江戸川区無形民俗文化財に指定されている。
撤饌:
・ 「笹団子」1本
笹の小枝に小指の先ほどの小さな団子(上新粉製)をつけたもので、御神符が挟まれている。鈴付。笹団子は、香取神社宮司氏が田植えから手作りしている。
宮司氏が管理している同じく江戸川区内の大杉神明社境内にある大杉神明幼稚園内に御神田があり、ここで収穫する米から上新粉を作り、丸めて、5~6個ほどを笹に刺して作る。宮司氏によると、御祭神の素盞雄命は、出雲に住まわれた頃、山に分け入って薬草をとり、村人達の病を治すなどしたという伝説があるのだという。笹は古来、民間薬として用いられてきたこともあり、疫病除の神としての素盞雄命の御神徳を笹で表わしているのだそう。(ちなみに、神仏習合では、素盞雄命=牛頭天王=薬師如来となっている)
笹団子は元は氏子が作って神社に奉納していたが、いつの頃からか逆転して、神社から授与されるようになった。団子と笹を煎じて飲むと、厄除けや熱封じに効くといわれており、昔は夏に授与されたものを風邪の流行する冬場まで取り置き、煎じて飲んだという。
近年になって、笹団子には食べられる団子も一緒に授与されるようになった。食用団子は白(7個)と蓬入り(6個)があり、餡が添えられている。新小岩の伊勢屋製。笹団子と食用団子併せて1000円で授与される。

   yahiko.jpg
   yahiko-rice.jpg
   yahiko-marudai.jpg

彌彦神社

御鎮座: 新潟縣西蒲原郡弥彦村弥彦2898
御祭神: 天香山命
社格: 式内名神大社、旧國幣中社、越後國一宮、別表神社
御神紋/社紋: 丸大(丸に「大」の字)、花菱に「大」の字
御由緒:
「おやひこさま」として親しまれている当社は、正式名は「いやひこじんじゃ」であるが、地名が「やひこ」となっていることから、一般には「やひこじんじゃ」と呼ばれている。越後平野の中央に聳える弥彦山の麓に鎮座し、弥彦山全体を神域とする。創建年は不詳だが、7世紀後半~8世紀後半編纂の『万葉集』にも当社を詠った歌が記されており、太古より当地に鎮座していたと考えられている。『万葉集』掲載の歌は、以下の2首。
〈伊夜比古おのれ神さび 青雲のたなびく日すら 小雨そぼ降る〉
〈伊夜比古 神の麓に今日らもか 鹿の伏すらむ皮衣きて 角つきながら〉
古来、越後國一宮として崇敬されてきた。
社伝によると、御祭神の天香山命は、初代神武天皇(在位:紀元前660~紀元前585)の御東征の際、紀伊國で韴霊の御神劔を奉って皇軍の士気を振起した功績があったとされる。その後、越後開拓の詔を受け、越後の野積の浜(現・長岡市)に上陸して当地を鎮撫。
人々に製塩や漁、稲作をはじめとする農耕、養蚕などの技術を伝えたといわれる。
和銅4年(711)には勅命によって神域が拡大され、社殿などの造営も行われていることから、当時から既に有力なお社であったことが伺える。延長5年(927)編纂の『延喜式神名帳』には、名神大社の「越後国蒲原郡 伊夜比古神社」として記載されている。
御祭神の天香山命は、和銅5年(712)刊の『古事記』には高倉下命の名で登場。またの名を、伊夜彦神、伊夜比古神、大屋彦命、大彦命などとも称す。しかし、天香山命は尾張國造家の祖神であって越後國に祀られる根拠を欠き、当社の本来の御祭神は北陸の國造高橋家の祖神・大彦命だったのではないかとする説も。
神武天皇即位の大典に於いて、天香山命は自ら神歌楽を奉奏したと伝えられており、天犬舞と共に当社秘伝の舞として現在も燈籠神事の時に奏されている。
越後一円を眺望することのできる弥彦山山頂には、奥宮の彌彦神社御神廟が鎮座。天香山命と妃神の熟穂屋姫命を祀る。
撤饌:
・御供米、かつお節、霜地昆布
・御紋の「丸大」を打ち出した白雪糕、紅白各1個

   yamazaki-sugawara.jpg
   yamazaki-sugawara-sembei.jpg
   yamazaki-sugawara-amazake.jpg

山崎菅原神社

御鎮座: 熊本縣熊本市桜町1-18
御祭神: 菅原道眞公
社格:
御神紋/社紋:
御由緒:
創建年、由来には諸説があるが、およそ平安時代末期の創建とされている。当社のホームページで紹介されているのは、肥後の豪族・菊池氏の初代である菊池則隆の夢に御祭神が顕現し、筑前は大宰府の安楽寺天満宮(現・大宰府天満宮)より肥後に御祭神を勧請するよう託宣があったという説。
当初は託宣に従い、詫磨郡を流れる白川河畔の南領森本に祀られたが、幾度かの遷座を経て、大正4年(1915)に現在地に鎮座した。
社領として山崎村近辺に田畑が寄進され、その地に鎮座していた時期が長かったため、一般に山崎の天神さん、山崎天満宮などと称されている。ただ、当初は菅原山天満宮と称され、明治時代に入り菅原神社となって以来、今日に至るまで正式な社号は菅原神社だった。平成23年、晴れて由縁のある山崎の名を冠することが許可され、山崎菅原神社が改めて正式な社号となった。
撤饌:
・「雅び煎餅詰合」(販売:京都府京都市・京都祇園萩月)、16袋入り1箱

   nukata-yamanaka.jpg
   nukata-yamanaka-ricecake.jpg
   nukata-yamanaka-rice.jpg

山中八幡宮

御鎮座: 愛知縣岡崎市舞木町宮下8
御祭神: 八幡大神(誉田別尊)
社格: 一般神社(無格社)
御神紋/社紋: 抱き稲、葵
御由緒:
地元に残る伝承によると、文武天皇の御代3年(699)の創建といわれる。曰く、八幡大神を篤く信仰していたこの地の長・山中光重なる人物の夢枕に、大神が現れ「お前の里へ行って里を守ってやろう」と告げられた。その後、村人達が野良仕事をしていると、医王山(城山)に美しい雲がかかったため、村人が総出で見に行くと、風もないのに空からふわふわと榊の枝が落ちてきた。見ると、枝の間から小さな童子が現れ「吾は宇佐八幡の神である光重との約束通り、この地に参った」と申され、ぱっと消えた。そこで村人たちは、社を建てて八幡大神を祀った。
以上が伝承であるが、八幡神の流行は鎌倉時代以降であるので、恐らくこの伝承は後についてきたものと思われる。また、本殿後方にある奥宮の稲先神社が当社の根本であるとされ、社紋も抱き稲を採用している。
発掘調査は行われていないものの、当社の建つ山は古墳ではないかともいわれており、また昔は城山とも称されることから、古くは砦として使われていたのではないかとも考えられる。いずれにしても、聖地として見なされていたと思われる。
永禄6年(1563)の三河一向一揆の際、徳川家康が当社境内にある洞窟に身を隠した逸話で知られる。追手が洞窟を見つけると、中から2羽の鳩が飛び立ったため、追手は「人のいる処に鳩がいるはずがない」と判断して立ち去ったという。これにより、山を「御身隠山」、洞窟を「鳩ヶ窟」と呼ぶようになった。家康に因んだこの伝承があることから、徳川家の葵紋も併用している。
毎年1月3日には、室町時代(1336~1573)から伝わる「デンデンガッサリ」という御田植神事が行なわれる。
撤饌:
・神事後にまかれる鏡餅(割ったもの)(地元山中産のもち米を使用)
・「お弁当」と呼ばれる薪焚きのご飯(地元山中産のうるち米を使用)