【み】
三尾神社
御鎮座: 滋賀縣大津市園城寺町246
御祭神: 伊弉諾尊
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 真向きのうさぎ、十六八重菊
御由緒:
上古、伊弉諾尊が当地に降臨、長等山の地主神となられたことが当社の起こりと伝わる。神は常に、腰に赤・白・黒の3本の腰帯をつけており、その様子が3つの尾をひく様であったことから、やがて三尾明神と呼ばれるようになった。後に、3つの腰帯はそれぞれ神格化し、赤尾神、白尾神、黒尾神となられた。当初、3神はそれぞれ別の場所に出現したが、特に太古の昔に現・三井寺山中琴緒谷に現れた赤尾神が本神として崇められたとい う。その後、文武天皇在位中の大宝年間(701~704)に白尾神が現在地に、称徳天皇在位中の神護景雲3年(769)に黒尾神が鹿関にそれぞれ出現。赤尾神を本神としていた当社は、一時廃れていたものの、園城寺再興の祖・智証大師円珍が貞観年間(859~876)に復興させた。しかしその後再び廃れ、応永年間(1394~1427)に足利将軍(足利義持か?)が再興させたといわれる。
慶応4年(1868)、維新政府が神仏分離を布告。それまで園城寺が当社に奉仕していたが、早尾社や長等神社と共に当社も園城寺から分離させられた。明治9年(1876)には本社が現在地に遷され、それに伴い3神も合祀された。ただし、主祭神は大元の伊弉諾尊となっている。地元では「みおんさん」と呼び親しまれている。
赤尾神は卯年の卯月、卯日、卯の刻に、卯の方角から出現、白尾神・黒尾神も卯の日に出現したことから、瑞祥の神獣・兎(卯)が当社の使いとされた。卯年生まれの守護神として信仰を集めている。御神紋も「真向きのうさぎ」。
撤饌:
・ペットシュガー「グラニュ糖」(東京都中央区・大日本明治製糖製)、5g×20本入り1箱
三嶋大社
御鎮座: 静岡縣三島市大宮町2-1-5
御祭神: 大山祇命、積羽八重事代主神
社格: 式内名神大社、伊豆國総社、旧官幣大社、伊豆國一宮、別表神社
御神紋/社紋: 五七の桐、角切三
御由緒:
創建年は不詳だが、元は三宅島に鎮座する伊豆諸島の神を祀ったもので、火山によって島々を創造した神として「御島」と称されていたのが、「三嶋」に転じたと考えられている。
三嶋の神が鎮座していた三宅島の現在地には、富賀神社が鎮座している。その後、伊豆半島東岸の下田・白浜海岸に遷り、妃の伊古奈比咩と並んで鎮座した。彼の地には現在は伊古奈比咩命神社が建っている。平安時代初期の『延喜式神名帳』には「伊豆国賀茂郡 伊豆三島神社」と見えるが、これは白浜海岸時代の記録である。更にその後、三嶋の神は現在地に遷座するが、移動の途中の一時期、現・伊豆の国市大仁に鎮まっていた。現在この地には広瀬神社がある。現在地に遷座したのは、平安中期以降。田方郡の國府の近くに新宮として分祀されたともいわれる。國府に近いことからも、平安時代後期には総社の役割も果たした。
現在地には元々、若宮八幡が祀られていた。若宮八幡が三嶋明神に鎮座地を明け渡した経緯は、以下のような伝承が残されている。三嶋明神が若宮八幡に「藁一把分の土地を譲って欲しい」と頼むと、若宮八幡は「それくらいならいいでしょう」と快く承諾。ところが、三嶋明神は藁の束を解いて繋ぎ合わせて綱を作り、輪にして若宮八幡の広大な土地を囲んでしまったのだという。それで、若宮八幡は仕方なく三島市西若町に遷り、三嶋明神が広い神域を持つに到ったのだという。もっとも、源頼朝が崇敬したため大きな社となったというのが、歴史的背景であろう。東海道に面し、かつ伊豆半島に伸びる下田街道の起点でもあった当地が、軍事的要所であったため、頼朝が篤く保護したと考えられる。
三宅島からやって来た神という伝承の他に、伊予國一宮の大山祇神社から分祀されたという説もある。鎮座地の大三島と、三嶋大社の社号の類似と、同じ大山祇命を御祭神としている点から、大三島の大山祇神社から勧請されたと考える説だ。御祭神の三嶋大明神は、大山祇命と積羽八重事代主神の二柱の神の総称。元々は大山祇神が御祭神であったといわれているが、江戸時代の国学者・平田篤胤が事代主神こそ御祭神であると唱えたため、明治6年(1873)に事代主神が御祭神と定められた。しかし、いずれの御祭神説も確たる根拠がなく、二柱共に当地に深い関係があることから、昭和27年(1952)に現在の二柱を同座として祀ることとなった。
撤饌:
・御紋を打ち出した「塩竈」、紅白各1本
・御紋を打ち出した落雁、紅白各1個
水若酢神社
御鎮座: 島根縣隠岐郡隠岐の島町郡723
御祭神: 水若酢命
社格: 式内名神大社、旧國幣中社、隠岐國一宮、別表神社
御神紋/社紋: 十六八重菊
御由緒:
初見は、869年編纂の『続日本後紀』。創建年については、諸説あるが、江戸時代の書物『一宮大明神濫觴之事』を根拠とする仁徳天皇の御世(313年~399年)の創建説が一般的。また、同じく江戸時代に綴られた『隠州記』には、崇神天皇の頃(紀元前97年~紀元前29年)に伊勢神宮から御神霊を勧請したと見えている。同書では、その際に伊勢命神社(隠岐の島町久見)を内宮、当社を外宮として創建したとも記されている。いずれにしても、近辺には古墳が点在しており、古くから当社付近は隠岐北部の中心地であったことが伺える。
御祭神に関する詳細は不明。宮司氏によると、隠岐が大陸にも近く、日本海上の要所であったことから、國防のために当地に派遣されたのが御祭神ではないか、とのこと。御祭神は、隠岐國の伊後の磯辺に海中から現れ上陸、大峯山を越えて旧五箇村に入られたとの伝承がある。また、隠岐國総社の玉若酢命神社との関係も詳らかになっていないが、両社の御祭神が兄弟神だったとする説もある。
社家の忌部氏は、当代で28代目。天文年間(1532~1554)に隠岐國造の隠岐宗清と対立したことで知られる。それ以前の当社司祭者は不明。
『延喜式神名帳』(927年)には、「水若酢命神社」の社号で列しているが、明治4年(1871)に「水若酢神社」に改称。
撤饌:
・御神酒「上撰 清酒 隠岐誉」(隠岐の島町・隠岐酒造製)、300ml入り1本。
三峯神社
御鎮座: 埼玉縣秩父市三峰298-1
御祭神: 伊弉諾尊、伊弉册尊
社格: 旧縣社、別表神社
御神紋/社紋: 菖蒲菱
御由緒:
景行天皇の御代(71~130)に皇子の日本武尊が東征に出た折、当地に立ち寄られたた。日本武尊は清らかな山々の様子を見て、この美しい国をお産みになった伊弉諾尊と伊弉册尊の御神恩に感謝し、当地に二柱を祀った。これが当社の起こりといわれる。
その後、東國を巡幸中、上総國(現・千葉縣)に立ち寄られた父帝が、武蔵國に峯高く連なる美しい三山の様子をお聞きし、三山を「三峯山」と、日本武尊が祀ったお社には「三峯宮」と命名された。
その後、聖武天皇の御代(724~749)に疫病が流行した際、天皇の勅命で諸国の神社で病気平癒の祈祷が行なわれた。三峯宮にも勅使が派遣され、「大明神」の神号が奉られてねんごろに祈念がなされるなど、当時から朝廷から篤く崇敬されていた。
文武天皇の御代(697~707)になると、役行者(小角)が当地で修業をしたといわれ、やがて当地で修験道が行なわれるようになったといわれる。天平17年(745)には月桂僧都が山主となって以来、仏教色が濃厚になった。鎌倉期に一度は三峯信仰が盛んになったが、その後一時衰退。文亀年間(1501~1504)に修験者の月観道満が再興させると、聖護院派天台修験の関東総本山となり、観音院高雲寺を本堂とする神仏修験混淆の聖地として、三峯大権現と称されるようになった。
明治に入り神仏判然令が下されると、寺院を配して三峯神社として再出発した。
三峯信仰の中核をなすものに「お犬様」信仰がある。「お犬様」とは、秩父の山の中に生息する霊狼のこと。狼は大神に通じることから、三峯の神の御眷属としてあがめられた。社伝によると、江戸時代に三峯の隆盛に貢献した日光法印が山上の庵に坐していると、どこからともなく狼の群れが現れて境内いっぱいに集まった。これに感を得た法印がお犬様のお札を庶民に下すと、農作物の害獣被害や火事、盗難除けに御利益があるとしてたちまち信仰が広まったという。
御神紋の菖蒲菱は、花山院宮家の紋。江戸時代に観音院第七世の山主が京都花山院宮家と養子縁組したことに由来する。
撤饌:
・御神酒「本醸造 狼山」(秩父市別所・矢尾本店)、720ml入り1本
・御神塩
・御紋菓子(秩父市秩父神社前・八幡屋本店)、1枚
・「ごもっとも様」の福豆、1袋
・「ごもっとも様」の直会
・山開きのお接待の赤飯(煮締めなども)
・山開きの餅まきの餅
水戸愛宕神社
御鎮座: 茨城県水戸市愛宕町10-5
御祭神: 火之迦具土神(又は火之夜藝速男神、火之灯毘古神、火産靈神)
社格: 旧村社
御神紋/社紋: 左三つ巴
御由緒:
朱雀天皇の御世、天慶元年(938)に、常陸大椽平國香なる人物が山城國愛宕郡(現・京都府右京区愛宕町)の愛宕神社より御神霊を常陸國府中(現・石岡市)に勧請したことに始まる。その後、長和3年(1019)に國香の子・大椽貞盛が水戸城内に当社を遷座。元亀年間(1570~1572)には時の領主・江戸但馬守道勝によって水戸城外三の丸に遷され、天正8年(1593)には、領主・佐竹義宜の命により、卜して適地と定められた現在地に遷され、現在に至る。社殿は東面しており、水戸城を守護していた。水戸七社の内の一社。
愛宕山古墳に位置する。愛宕山古墳は、崇神天皇の御代(紀元前97年~紀元前29年)に東國平定のため遣わされた建借間命(神武天皇の兄神。建借馬命とも)の古墳と伝えられている。建借間命は、常陸國仲國造の祖といわれる。
撤饌:
・扁額型の白雪糕、白1枚。
水戸八幡宮
御鎮座: 茨城縣水戸市八幡町8-54
御祭神: 應神天皇(誉田別尊)、神功皇后(息長足日売尊)、姫大神
社格: 旧縣社 (常陸國水府総鎮守)
御神紋/社紋: 左三つ巴、十六葉菊
御由緒:
戦國時代の文禄元年(1592)、常陸國の時の領主・佐竹義宣が、常陸太田馬場(現・常陸太田市馬場町)の馬場八幡宮より大阪横宿(現・水戸市北見町)に八幡神を勧請。水府(水戸)総鎮守として創建される。
その後、元禄7年(1694)には江戸期の二代水戸藩主・徳川光圀の神社整理によって、那珂西村(現・常北町那珂西)へ遷される。光圀は、旧来の佐竹色の払拭と、神仏一体思想を持つ八幡神信仰の瓦解を目的として領内の多くの八幡社を取り潰したり、遠隔地に遷座させるなどした。これを、「八幡改め」「八幡潰し」などと称す。
しかし、宝永6年(1709)には、時の神主や氏子の三代藩主・綱條への誓願により、再遷座が実現。卜定により水戸城最外堀間際(堀内)の現在地に遷される。
朱塗りのご本殿の外梁などに、御神紋とは異なる紋が数種類、描かれているが、これらはかつて御神域にあった6つの寺の紋ではないかといわれているが、文献などがないため、定かではない。
撤饌:
・御饌米、1包。
三輪里稲荷神社
御鎮座: 東京都墨田区八広3-6-13
御祭神: 倉稲魂命
社格: 旧村社
御神紋/社紋: 抱き稲
御由緒:
慶長19年(1614)、出羽三山の奥の院・湯殿山の大日坊の僧が、羽黒山の出羽神社の倉稲魂命の御分霊を大畑村(現・墨田区八広)に勧請したことに始まる。当地の総鎮守。
通常、稲荷といえば油揚げだが、当社は別名「こんにゃく稲荷」と称されている。創建当初、江戸に流行り病があったため、当社を創建した大日坊の僧が湯殿山の秘法という「こんにゃく護符」を串に刺して村人に授けたところ、当165地からは病人がでなかった。以来、当社のこんにゃく護符は霊験あらかたと広まった。今日でも全国的にお稲荷さんの縁日である2月の初午の日には、当社ではこんにゃく護符を授与している。授与されたこんにゃく護符を煎じてその汁を服用すれば、喉や声の病に効くとされる。
当社の第五代宮司・松林桂子氏は、オペラ歌手としても活躍している。
撤饌:
・こんにゃく護符
・「黒糖かりん糖(太)」(板橋区中丸町・中野製菓製)、80g入り1袋
三輪坐恵比須神社
御鎮座: 奈良縣桜井市三輪375
御祭神: 八重事代主命、八尋熊鰐命、加夜奈流美命
社格: 旧村社
御神紋/社紋: 三つ蔓柏
御由緒:
当社の起源は、日本最初の市場といわれる「海石榴市(つばいち)」で祀られていた御神体を遷座したことに始まる。
海石榴市は、元は山人と里人との物々交換が発展した市場。『日本書紀』(720))には、推古天皇(在位:593~628)の御世の16年(608)に隋からの賓客をこの市でもてなした上で重要な交渉をしたと記されており、國家的にも重要視されていたことが分かる。
また、「市」という言葉の語源は「斎ち(いち)」「斎き祀る(いつきまつる)」にあるとの説があり、商取引に先立って必ず祭祀が行われていたといわれる。つまり、市場は神祭りの行われた場所でもあったことになる。海石榴市で祀っていた「市神」は、大神神社末社の大行事社から勧請したと『由緒略誌』は伝えている。
海石榴市のあった場所は、現在の大和川に面した桜井市金屋の地と比定されているが、平安時代に編纂された『日本紀略』によると、延長4年(926)の嵐によって初瀬川が決壊し、長谷山も崩れ、海石榴市にも被害があったため、市場の場所を三輪に移したという。以来、三輪市が発展することとなる。この際、海石榴市で祀っていた「市神」も当地に遷したのが、当社の創建由緒となっている。
中世には、毎年正月6日に「初市祭」が開かれ、各地から商人が集まって社頭で初相場を立てて神前に報告したという。これが今日一般にいう「初市相場」の起こりである。
撤饌:
・御紋菓「落雁」(天理市櫟本町・丹波屋善康製)、紅白各1個。
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