【な】
中山神社
御鎮座: 岡山縣津山市一宮695
御祭神: 鏡作神
社格: 式内名神大社、美作國一宮、旧國幣中社、別表神社
御神紋/社紋: 三つ巴、十六菊
御由緒: 『中山神社縁由』には、文武天皇(在位:697~707)の御宇の慶雲4年(707年)に創建され
たと記されている。しかし、『続日本紀』には、元明天皇(在位:707~715)の御宇の和銅6
年(713)に美作國が備前國から分立した旨が記されていることから、当社も美作國が建
てられた際に創建されたと思われる。美作國の他にも、同年には丹後國、大隅國が新た
に建てられている。
御祭神は鏡作神とされているが、金山彦命、大己貴命との説もある。他にも、旧吉備國か
ら分立した備前・備中・備後が吉備津彦命を奉斎していることから、美作國を建てた際に
も本来は吉備津彦命を勧請したのではないか、ともいわれている。事実、古い記録には、
「中山」の他に「中参」の字が当てられていることから、かつては「ちうさん」「ちゅうざん」
「ちゅうぜん」などと発音されていたと呼ばれていたことが分かっており、これは備前と備
中の境にある吉備の中山(備中・吉備津神社、備前・吉備津彦神社がある)から神を勧請
したため、中山の名があると考えるのが自然である。また、読みについては、当社は産鉄
・製鉄の神として崇敬されていたため、鉄の世界を描いた『中山経』という中国の古典の影
響もあり、音読みの「ちうさん」が採用されたともいわれている。現在は訓読みで「なかや
ま」と発音されている。古くは「中山太神宮」「中山大明神」と称されていた。
更に、平安時代末期に成立した『今昔物語集』や鎌倉時代の『宇治拾遺物語』には、当社
の祭神は猿神であると記されている。これは、当社の後方にある岩の上にある猿神社のこ
とで、「中山の猿神」として当時知られていた。昔、この猿神に娘の生贄が捧げられていた
が、猟師のひとりが犬をけしかけてこの猿を殺してしまった。その後、猿神が宮司の口を借
りて「今後、生贄は止める」との御神託を述べ、以来、生贄の風習はなくなったという。
撤饌: 御神酒「梅酒」(羽曳野市・河内ワイン製)、180ml入り1瓶。
長等神社
御鎮座: 滋賀縣大津市三井寺町4-1
御祭神: 建速須佐之男大神、大山咋大神、宇佐若宮下照姫大神、八幡大神、地主大神
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 十六菊、三つ巴、山桜
御由緒: 天智天皇(626~672/在位661~672)が近江大津に遷都(667)した際、大友皇
子が天皇の勅を賜り、都の鎮護の神として日吉社より山王明神(須佐乃男命)
を勧請し、志賀の長等山山頂の岩座谷に祀ったのが当社の起源といわれてい
る(ただし、現在の日吉大社では須佐乃男命は祀られていない。山王明神は須
佐乃男命のことだが、日吉大社の場合、比叡山の地主神であったため、天台
宗延暦寺の守護神としての崇敬も集め、中国の天台宗の本山・天台山国清寺
で祀られていた山王元弼真君に倣って日吉の神も山王権現と俗称されたので
あり、山王明神の須佐乃男命を祀っているわけではない)。
その後、貞観2年(860)に園城寺の再興の祖である智証大師円珍が園城寺の
守護神として祀り、更に天喜2年(1054)には庶民が参詣しやすいようにと、現在
地に遷座したといわれる。ちなみに、園城寺は山号を長等山と称す。
明治維新(1868)までは園城寺で奉祀し、「新日吉社」「新宮社」と称されていた
が、神仏分離を目的とした維新政府の神仏判然令(1868)により、早尾社、三尾
社などと共に当社も園城寺から分離、独立した。
御祭神の一柱である宇佐若宮下照姫大神は、『古事記』(712)では「高比売命」
または「下光比売命」、『日本書紀』(720)では「下照姫」または「高姫」「稚國玉」
と呼ばれている比売神。『古事記』では大國主神と多紀理毘売命の娘、『日本書
紀』では顕國玉の娘とされている(この他、史料によって名や出自は異なる)。宇
佐若宮は、大津市の宇佐山(宇佐八幡宮鎮座)に由来すると思われる。
御紋の「山桜」は、平忠度の詠んだ〈さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながら
の山桜かな〉の歌に因む。「昔ながら」と「長等山の桜」をかけた歌で、当社境内
に歌碑がある。
撤饌: ふりかけ「京都山田のへんこ ごまふりふり」(京都府京都市・山田製油製)、
わかめ味4g×10包・胡麻塩5g×8包・梅味4g×10包入り1袋。
波切神社
御鎮座: 三重縣志摩市大王町波切1
御祭神: 國狭槌神
社格: 旧郷社、旧神饌幣帛料供進指定社
御神紋/社紋: 花菱
御由緒: 創建の由来などは不明。ただ、旧英虞郡波切村ができた頃、村の産砂神として祀られてき
たと伝わる。江戸中期の正徳3年(1713)に記された『志陽略誌』には、八皇子社・八幡宮・
熊野権現・荒見天神・翁明神・道祖神他が祀られているとの記述あり。また、春日四神(武
甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)が鎮座する4つの祠があったことから、四宮と
呼ばれた時期もあったが、明治5年(1872)に郷社に指定されると同時に、社号も当地の地
名をとって波切神社と改称された。
御祭神は主祭神の國狭槌神の他、18柱。そのほとんどが明治期に当社に合祀された。
御祭神の中で、葦夜神のみが当社独自の神である。伝説によると、この神はその昔、三河
國の伊良子(伊良湖)より海を渡って当地に上陸した神で、武勇に優れた豪傑であったた
め、当地を襲った外襲の悪魔を打ち破ったため、その偉功によって当地の産土神として祀
られるようになったといわれる。韋夜神という御神名は、当地の大王崎沖の岩礁・大王島
の古名「彌ガ島(いやがしま)」に由来するとされる。その他、諸説ある。
元々、この神の御社殿は故國三河の方向(北)に向いて建てられていたが、天保元年
(1830)に起きた波切騒動以降(社殿が壊されたためか?)、南向きに遷座せられたとい
う。明治40年(1907)に当社に合祀。
ちなみに、波切騒動とは、大王崎の沖で幕府の御用米を積んだ船が難破した際、漁に出
た村人が沈んだ船と積荷を発見して村に持ち帰ったが、難破状況を調査しに来た幕府役
人が夜更けに覆面姿で村に入ったため、これを盗賊と勘違いした村人が殺害してしまった
ため、庄屋はじめ数人の村人が処刑された、という騒動。
撤饌: 波切産手摘み乾燥ひじき、1袋。
梨木神社
御鎮座: 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル染殿町680
御祭神: 三條實萬公、三條實美公
社格: 旧別格官幣社、別表神社
御神紋/社紋: 唐菱花(三条花角)
御由緒: 幕末・明治時代に活躍した公家の三條實萬(1802~1859)、三條實美(1837~1891)の父
子を祀る。早くから王政復古の大儀を唱え、明治維新の原動力となった三條實萬は、菅
原道真公の生まれかわりとして「今天神様」と称されるほど才気に富んだ人物だった。
その功績が讃えられ、明治18年(1885)、京都御苑の東、旧梨木町の三條邸跡に隣接す
る現在地に当社が創建された。更に、大正4年(1915)には、大正天皇(在位:1912~192
6)の即位式に伴い、子息の三條實美も第二座の御祭神として合祀された。實美は、明治
2年(1869)の東京遷都の際、京都御所の廃止を阻止、國家の大礼は京都御所で行うよう
計らったことから、京都の恩人とも称されている。
境内には、京都三名水のひとつ「染井の井戸」がある(残りの名水は醒ヶ井、県井)。
撤饌: 「五穀蔵 五穀紅ごはん」(岡山縣岡山市・キミセ醤油製)、15g×2袋入り1箱。
波上宮
御鎮座: 沖縄縣那覇市若狭1-25-11
御祭神: 伊弉册尊、速玉男尊、事解男尊
社格: 旧官幣小社、琉球國一宮、琉球八社、沖縄総鎮守
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒: 創建年は定かではない。元は、ニライカナイ信仰(海の彼方より幸福を持ち来る神々への
沖縄独特の信仰)の聖地だった。言い伝えによると、昔、南風原村の「崎山の里主」なる
人物が毎日釣りをしていたところ、ある日、浜辺で光を放つ「もの言う石」を見つけた。里主
がこの石に祈ると豊漁となった。このことを知った諸神がこの石を奪おうとしたため、里主
が石を持って波上山(現鎮座地)に逃れたところ、「吾は熊野権現也。この地に社を建て祀
れ、然らば國家を鎮護すべし」との御神託を得た。里主はこの御神託を王府に奏上。王府
によって社殿が建てられ、熊野三神(伊弉册尊、速玉男尊、事解男尊)が祀られた。浜辺
で見つけた霊石=海から来る宝物は、ニライカナイ信仰の特徴のひとつである。
隣接する護國寺は波上宮の神宮寺であったが、慶応4年(1868)~明治元年(1868)に施
行された神仏判然令によって波上宮から分離された。
琉球八社の筆頭であり、琉球國一宮でもある。
撤饌: 本場泡盛「御神酒」(那覇市首里崎山町・瑞泉酒造製)、180ml入り1瓶。
HOME








