撤饌と

                                                                                               LinkIconHOME 撤饌トップページ

撤饌 頁二十

【と】

   tokyo-daijingu.jpg
   tokyo-daijingu-monka.jpg
   tokyo-daijingu-mochi.jpg
   tokyo-daijingu-nori.jpg

東京大神宮

【御鎮座】 東京都千代田区富士見2-4-1
【御祭神】 天照皇大神、豊受大神
【社格】 旧府社、別表神社
【御神紋/社紋】 十六菊に花菱
【御由緒】
明治13年(1880)、有楽町の大隈重信邸跡に伊勢神宮遙拝殿を建立したことが起こり。明治15年(1882)になると、明治政府の方針で神社と宗教活動が分離されることになり、遥拝殿は神宮教院(伊勢神宮の教導機関)に属することになる。また、同年、神宮教院が神道神宮派に改称したことに伴い、遥拝殿も大神宮祠と改称した。当時は所在地から日比谷大神宮とも呼ばれていた。その後、明治32年に神道神宮派が解散、新たに神宮奉賛会が発足すると、大神宮祠(日比谷大神宮)は神宮奉賛会本院と改称。更に大正12年(1923)の関東大震災で社殿が焼失。昭和3年(1928)に現在地に遷座され、今度は飯田橋大神宮と称されるようになる。
第二次世界大戦後の昭和21年(1946)に東京大神宮の名が確立、現在に至る。伊勢神宮の遥拝殿としての本質は変わらず、「東京のお伊勢さん」として親しまれている。
【撤饌】
・社紋の十六菊に花菱を模った葛落雁(中央区明石町・塩瀬総本家製)、紅白各1個
・「発芽玄米餅」(新潟縣長岡市・鈴木農園もち工場製)、100g入1袋
・「焼のり」(東京都大田区・川島屋製)、5枚入1袋

   tochi.jpg
   tochi-monka.jpg

十市御縣坐神社

【御鎮座】 奈良縣橿原市十市町1
【御祭神】 豊受大神
【社格】 式内大社、旧村社
【御神紋/社紋】 十六菊、三つ巴
【御由緒】
創建年は定かではないが、天平2年(730)の『大倭國正税帳』に「十市御縣神戸」との記載があることから、当時既に祀られていたことが分かる。高市、葛木、志貴、山邊、曽布と共に大和國六御縣神社の一座。「御縣」とは、4~5世紀に大和朝廷がその王領、服属地として設定した行政上の単位を指す、いわば朝廷の御料地。各御縣からは、食物や酒、水、氷、薪などが朝廷に献上された。十市の御縣は、もとは春日縣と称され、縣主の娘は綏靖天皇にも嫁しており、古くから皇室と密接な関係があったことが窺える。醍醐天皇の御代には『延喜式」の「神名帳」の大社に列せられ、祈年祭、新嘗祭、月次祭においては朝廷より幣帛を賜った。
当社は朝廷の御料地の守護神として蓻菜(蔬菜、野菜)の生育を祈願せられたことからも、食物を司る豊受大神が御祭神として祀られたと考えられる。庶後年、俗に十三社明神、十三社大明神とも称された。
【撤饌】
・菊型落雁(京都市右京区・京銘菓販売)、赤、緑、白、紫、各2個

   toga.jpg
   toga-monka.jpg
   toga-salt.jpg

砥鹿神社

【御鎮座】 愛知縣豊川市一宮町西垣内2
【御祭神】 大己貴命
【社格】 式内小社、旧國幣小社、別表神社、三河國一宮 (東海総鎮守)
【御神紋/社紋】 亀甲に卜象
【御由緒】
創建の年代は不詳。古代には奥宮(本宮山)のみ存在したが、文武天皇の御代の大宝元年(701)、現在地に里宮を造営したと伝わる。文武天皇が病床に臥していた折、三河國樂郡煙巖山の勝岳仙人に救いを求めるべく都から派遣された勅使(社家・草鹿砥氏の祖=公宣卿)が、道に迷い、本茂山(現・本宮山)に分け入った。この時、老人に姿を変えた砥鹿神が現れ、勅使を煙巖山に導いた。勅使はその後、勅願により本茂山の麓に住むことになった。その際、清流に流した衣の流れ着いた処に社殿を建てたことが、砥鹿神社里宮の起こりという。
現在も本宮山の山頂に砥鹿神社奥宮が鎮座している。社名、神紋共に古代の鹿占・亀占を表わしているが、砥鹿神社では特に牡鹿の骨を使う鹿占(鹿卜)を行っていたと伝えられている。(卜象=ウラカタ、「トホカミエミタメ」すなわち「遠い遠い尊い神々様、いよいよ御神威を充実なされ、益々御発揮なさいまして、広大な恩頼をお授け下さい」の意)
【撤饌】
・亀甲に卜象の神紋を模った小粒の落雁(豊橋市・絹一製)、紅白各3つ
・食塩「清め神塩」、1包

   torigoe.jpg
   torigoe-candies.jpg

鳥越神社

【御鎮座】 東京都台東区鳥越2-4-1
【御祭神】 日本武尊
【社格】 旧郷社
【御神紋/社紋】 七曜
【御由緒】
元は、日本武尊を祀る白鳥神社として創建されたと伝えられる。白雉2年(651)、第十二代景行天皇の御世に、皇子の日本武尊が東征の折、当地に暫く滞在した。これを喜んだ土地の人々が、白鳥山の山頂(現在地)に日本武尊を白鳥明神として祀ったという。創建年を白雉2年とする説もあるが、白鳥という名から、日本武尊の死より後の創建と考える方が妥当か(ただし、日本武尊が実在したならば)。その後、前九年の役(1051~1062)を鎮圧するため、東國に向かった源頼義(988~1075)と義家(1039~1106)親子が、当地を通りかかった時のこと。大川(旧宮戸川、現隅田川)を渡ろうとするも、河口を越えるのに苦労していると、突如として現れた一羽の白鳥が親子の眼前で浅瀬に下り立って見せた。このため、軍団は白鳥の導きで浅瀬を知り、川を渡ることができたという。このため、白鳥に姿を変えた日本武尊の御加護と心得え、白鳥山山頂の白鳥明神に参拝し、鳥越大明神という社号を奉じて篤く祀ったとされる。地名も、平安時代後期までは白鳥村だったが、その後は鳥越の里と呼ばれるようになったとも。ただし、鳥越の地名の初見は、室町時代に記された『北國紀行』の、文明18年(1469~1486)12月23日の条である。
天児屋根命と東照宮公も合祀。天児屋根命は武蔵國司であった藤原氏の祖神として祀られた。東照宮公は、関東大震災(1923)で焼失した松平神社(御祭神=徳川家康、元は蔵前4丁目付近に鎮座)を合祀したことによる。また、元は白鳥山(鳥越山)には鳥越大明神の他、熱田神社と第六天神も鎮座していたが、後に熱田神社は今戸に、第六天神(現第六天榊神社)は蔵前にそれぞれ遷座された。
【撤饌】
・「有平糖詰合せ(ことぶき飴・かつぶし飴)」(中央区日本橋・榮太樓總本鋪製)、55g×2袋入り1箱。

   towada.jpg
   towada-salt.jpg
   towada-liquor.jpg

十和田神社

【御鎮座】 青森縣十和田市奥瀬字十和田14
【御祭神】 日本武尊
【社格】 旧村社
【御神紋/社紋】 丸に三巴
【御由緒】
十和田湖畔に鎮座する。創建の由来は主に2説。大同2年(807)に坂上田村磨が東征中に当地に差し掛かった時、湖面が荒れて十和田湖を渡ることができなかったため、祠を一宇建立し、武運長久を祈願し、筏を組んで渡ったところ、無事対岸に着くことができた。その際にに建てた祠が、当社の起源とする説がひとつ。もう一説は、南祖坊(南蔵坊、南草坊、難蔵坊、南祖丸とも)による創建説。糠部郡斗賀村(現南部町)の善正寺に生まれた南祖坊は、長じて諸国を巡回。紀州熊野に参詣すること33回目の時、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」との御神託を受け、鉄の草鞋と錫杖を神から授かった。全国の霊場を巡った末、十和田湖に着いた時に最後の鉄のわらじをが破れたため、南祖坊はここを終の棲家とすることにした。その時既に、齢76であった。しかし、当時、十和田湖の主は龍(八頭の大蛇とも)に化身した元マタギの八郎太郎であり、南祖坊はこれと闘わなければ当地に住まうことができなかった。そこで、南祖坊も龍に化身し、双方激しく戦った末、南祖坊が勝って十和田湖の新しい主となった。以来、南祖坊は青龍権現として崇められるようになったという。もっとも、南祖坊の存在はそもそも謎めいていて、政戦に敗れて流浪の身となった関白藤原是真が父とも、是真の祈念によって出現したのが南祖坊ともいわれている。境内奥の丘の上には「占場」と呼ばれる聖地は、南祖坊が入水した地と伝えられる。おそらく、南祖坊の入水が後に青龍伝説を生んだものと思われる。占場から、社務所で授与される「おより」と呼ばれる紙に願い事を書いて湖面に投げ、その浮き沈みで願いが叶うかどうか占う場所となっている。
古く、当社が熊野権現、青龍権現と称されたのは、南祖坊に因むため。現在も境内摂社に熊野神社がある。
いずれにしても、後に荒廃した当社を、建武元年(1334)に北畠顕家に従って当地に入部した甲州南部氏が、甲斐白鳥の宮(不詳)の祭神である日本武尊を遷して再興。やがて修験者の修行場として知られるようになり、「下北の恐山」「金木町の川倉地蔵」と併せて、北東北の三大霊場として信仰を集めた。北東北に分布する十和田信仰(水神信仰)の象徴ともいえる神社でもある。
【撤饌】
・「清祓の塩」、1包
・御神酒「清酒 十和田の美酒 鳩正宗(金箔入り)」(十和田市三本木・鳩正宗製)、180ml入り1瓶