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撤饌 頁十六

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大稲荷神社

御鎮座: 神奈川縣小田原市城山1-22-1
御祭神: 宇迦之御魂命、田中大神
社格: 一般神社
御神紋/社紋: 抱き稲に「大」の字
御由緒:
 天正年間(1573~1593)に佛門の修験者によって旧竹の花地区に建立された佛堂(修験堂)を起源とすると考えられている。これは、小田原城主大久保家の古文書や、佛堂の後進である田中稲荷の紋が、修験者の紋であったことによる推察による。その後、天正10年(1582)に武田家滅亡後に家臣・曲淵庄左衛門吉景が、随身した徳川家によって当地を采地として賜った際、かつて自身の屋敷内で祀っていた稲荷大明神を佛堂に合祀。更に、天正18年(1590)に小田原に入府した大久保七郎右衛門忠世が、大久保氏の祖である大久保宇津左衛門五郎忠茂が信崇していた京都伏見稲荷大社の最北座・田中大神を合祀したことにより、田中稲荷と称するようになる。
 一時、大久保氏の國替えによって祭祀するものがなくなり、衰退するも、貞享3年(1686)に大久保忠朝が許されて帰藩すると、次の大久保忠増の代の宝永2年(1705)、家臣の清水左衛門の妹や、側近の内芝氏に田中稲荷が神がかりして御神託を述べた。その御神託に従って小田原城の鬼門除稲荷として再興すると、忠増は若年寄から老中執政職に昇進。そこで、翌宝永3年(1706)に現鎮座地の谷津山に御社殿を造営、谷津村、竹の花町、須藤町、大工町の鎮守として篤く祀った。この際、大の字を冠して「大稲荷神社」と改称したといわれる。
 地元では、「だいなりさん」と呼び親しまれている。
撤饌:
・ 「乾燥わかめ」(小田原市栄町・久津間製)、15g入り1袋。

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武田神社

御鎮座: 山梨縣甲府市古府中町2611
御祭神: 武田信玄公
社格: 旧縣社、別表神社、甲斐國総鎮守
御神紋/社紋: 武田菱
御由緒:
 戦国武将・武田信玄を祀る。大正天皇の即位に際し、大正4年(1915)に信玄公に従三位が追贈されたことにより、信玄公の遺徳を忍ぶ山梨の人々の間で武田神社創建の気運が高まり、大正8年(1919)に社殿が造営された。 神社が建てられた場所は、信玄公の父・武田信虎公が永正16年(1519)に石和から移築した躑躅ヶ崎館の跡地。信玄公は、大永元年(1521)、神社の背後の石水寺要害城で誕生している。
撤饌:
・神紋の花菱(武田菱)を模った白雪糕、紅白各2枚。
・ 食塩「撤下塩」(塩事業センター製)、500g入り1袋。「敵に塩を送る」の故事に因む。

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建部大社

御鎮座: 滋賀縣大津市神領1-16-1
御祭神: 日本武尊
社格: 式内名神大社、旧官幣大社、別表神社、近江國一宮
御神紋/社紋: 三本杉、十六八重菊、丸に三つ葉葵
御由緒:
 創建年代は不詳。社伝によると、景行天皇の御代46年(116)に、景行天皇の皇子である日本武尊の業績を偲んで、日本武尊の子・稲依別王が神崎郡建部郷千草嶽(現・東近江市五個荘付近)に日本武尊を建部大神として祀ったことを起源とする。その後、奈良時代に近江國府のあった瀬田(勢田)郷内の大野山(所在不明)山頂を経て、白鳳4年(677)に現在地に遷座された。
 古代、建部大社(明治初期までは建部神社)の祭祀を司っていた建部氏は、日本武尊の子孫を名乗る一族。建部君の祖である息知(派遣随使・派遣唐使の役を担った犬上君御田鍬の弟)から4代孫の益人が、建部神社を勧請したともいわれる。
 神紋は、この地に遷座した日に一晩で生えたといわれる御神木を図案化したもの。
撤饌:
・花かつお節、乾燥わかめ、粉茶(愛知縣一宮市・石垣商店製)
・梅こぶ茶、とうがらししいたけ茶、根こんぶ茶、とうがらし梅茶、しいたけ茶、各1包
・御饌米、1包

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龍田大社

御鎮座: 奈良縣生駒郡三郷町立野南1-29-1
御祭神: 天御柱命、國御柱命
社格: 式内名神大社、二十二社、旧官幣大社、別表神社
御神紋/社紋: 八重の楓
御由緒:
 延長5年(927)に完成した『延喜式神名帳』の「龍田風神祭祝詞」によると、崇神天皇の御宇(紀元前97~紀元前29)に凶作が続き、疫病が流行した折、天皇の霊夢に現れた二柱の神が「吾が宮を朝日の日向う処、夕日の日隠れる処の龍田の立野の小野に定めまつりて…」と告げられた。御神託通りに社を造営すると、風雨の害がなくなり、疫病は退散、豊作になった、とされている。
 しかし、これとは別に、天武天皇4年(675)の記録には、小紫美濃王と小錦下佐伯連広足が勅を奉じて、風神を龍田の立野に祀ったと記されており、むしろこちらが本来の創建年と目されている。この年、当社の他にも、廣瀬神社(または大社)や、大和の水分神山口神26社が造営されており、風雨の恵みがもたらされることが切に祈られていたことが伺える。
 また、大和朝廷が、要所に鎮護の神々を祀ることによって(いわば砦)、防衛を堅固なものにするために当地の部族と和合し、大陸との対峙に備えたとする説もある。御祭神はそれぞれ「志那都比古神」「志那都比売神」という別名を持ち、大気・生気・風力を司る「風神」で、伊邪那岐命、伊邪那美命の御子神であるとされている。天武天皇の頃より始められた風鎮祭は、現在も毎年7月に斎行されている。
 御紋の八重の楓は、御祭神である風神に因むもの。楓は木偏に風と書くが、これは、陰陽五行では風神は木気に当たるとすることを示した文字であるという。また、八重は葉が複数重なっているという意味ではなく、葉が八つ又になっていることを表わす。八重は、四方八方、つまり東西南北とその間の四方向を意味し、風神の気が広く行き渡るように、との願いが込められているそう。
 鎮座地の立野の里を流れる大和川は、古くは龍田川と称され、多くの和歌などに詠まれた紅葉の名所として知られる。
撤饌:
・グラニュー糖「ペットシュガー」(和歌山県和歌山市・正直家製菓発売)、6g×7本入り1箱

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手向山八幡宮

御鎮座: 奈良縣奈良市雑司町434
御祭神: 応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 十六八重菊
御由緒:
 天平勝宝元年(749)、東大寺大仏殿建立に伴い、豊前國(現・大分縣)の宇佐八幡宮より御分霊を勧請。以来、東大寺の守護を担う。宇佐八幡宮からの分社としては、豊前・豊後(現・大分縣)以外では初の勧請であった。元は、平城宮の南にあった梨原宮(平城京左京三条二坊庭園跡付近か)に鎮座していたが、大仏殿が完成すると、大仏殿南方の鏡池の東側に遷座。その後、治承4年(1180)に平重衡(1157~1185)による南都焼討で社殿が焼失。建長2年(1250)になって北条時頼(1227~1263)が現在地に遷座、再建した。
 明治維新(1868)までは「東大寺八幡宮」「東大寺八幡別宮」(本宮=宇佐に対して)と称していたが、神仏判然令によって東大寺から独立。遷座地の地名(背面の手向山)に因んで手向山八幡宮と改称した。手向山神社とも。手向山は紅葉の名所として名高く、菅原道眞の歌「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」はあまりにも有名。古社ではあるが、『延喜式神名帳』(927)には記載がない。これは、社家によると、「正一位」とか「従二位」といった官位より更に上の「本位」を賜っていたため、格式が高すぎて『延喜式』には加えられなかったのだそう。式内社という枠から外れてしまったため、明治以降も縣社に留まる結果となったのだという。
 御紋は十六八重菊だが、この他、飾り紋として八幡社の「八」を表わす「向い鳩」と、「大和錦紋様」も用いている。大和錦の紋様は、当社祭礼の転害会で出される御神輿に使われている古い形式の模様のこと。ちなみに転害会は、宇佐から勧請した際、東大寺転害門から御分霊が入られたことに起源がある。
撤饌:
・落雁「千代見草」、15個(茶5個、緑・黄・桃・白・青各2個)。千代見草は菊の和名で、御紋に因む。

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談山神社

【御鎮座】奈良縣桜井市多武峰319
【御祭神】 藤原鎌足公
【社格】 旧別格官幣社、別表神社
【御神紋/社紋】 上り藤
【御由緒】
 中大兄皇子と共に蘇我入鹿を誅し(乙巳の変)、大化の改新(645年)を断行した藤原鎌足を祀る。
 大化の改新当時の名は中臣鎌子。後に鎌足と改める。更に、天智天皇の8年(669)、重い病に伏していたところ、天智天皇が自らその病床を見舞い、大織冠を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を授けた。ここに藤原姓が始まり、鎌足は藤原氏の始祖として仰がれている。
 談山神社は、鎌足の没後の天武天皇7年(678)、唐より帰国した長男で学問僧の定慧が、摂津安威から大和の多武峰に墓を移し、十三重塔を建立したことに始まる。談山神社から御破裂山へと続く山道の奥には、鎌足の墓所といわれる陵がある。
 その後、大宝元年(701)には神殿が造立されたが、基本的には寺院であり、多武峯寺、多武峯妙楽寺と称された。明治維新後に寺僧が還俗し、談山神社と改称され、現在に至る。
 談山の名は、中大兄皇子と鎌足が大化の改新の談合をこの地で行なったことから、この地が後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼ばれたため。
 また、中大兄皇子との出会いが、飛鳥の法興寺(現・飛鳥寺)での蹴鞠会の時とされていることから、蹴鞠の神社としても知られる。
【撤饌】
・御神酒「談山」(桜井市下・西内酒造製)、180ml入り1瓶
・葛きり「峯の翁」(談山神社販売)、70g入り1箱。談山神社では中世には能楽が盛んに行なわれ、延年長壽を願う翁舞「延年」発祥の地として知られる。神社所蔵の翁(マダラ神)の面は延年長壽信仰の対象として祀られてきたものであり、この葛きりもその信仰に因んだもの。