【し】
鹽竈神社
【御鎮座】 宮城縣塩竃市一森山1-1
【御祭神】 塩土老翁神、武甕槌命、経津主神
【社格】 陸奥國一之宮、旧國幣中社、別表神社
【御神紋/社紋】 鹽竈桜
【御由緒】
創建年は不詳ながら、起源は奈良時代以前にまで遡るといわれる古社。正史上の初見は、平安時代初期の嵯峨天皇の御世の弘仁11年(820)に編纂された法規『弘仁式』の「主税帳」逸文。ここには、「鹽竈神を祭る料壱萬束」と記されており、地方税の60分の1に相当する高額の祭祀料を朝廷から賜っていたことが分かる。当社の他に國から祭祀料を賜っていたのは伊豆國三島社(弐千束)、出羽國月山大物忌社(弐千束)、淡路國大和大國魂社(八百束)の三社であったが、その額からも当社が群を抜いて厚遇されていたことが窺える。しかしながら、これらの三社がいずれも全國主要神社3132社を記載した法規『延喜式』「神名帳」に見えているのにも拘わらず、当社に限ってはその名が記載されていない。蝦夷地に接する当地に鎮座し、また陸奥の國府・多賀城の東北の「鬼門」に位置することからも、当地が蝦夷地平定の支柱であり東北鎮護として重要視されてきたことが、朝廷からの祭祀料から窺えるが、その一方で『延喜式』「神名帳」に記載がないことは、長年の議論の的になっている。
主祭神の塩土老翁神は、東北平定に向かう武甕槌命(鹿島神宮)と経津主神(香取神宮)を先導した神といわれる。東北が平定されると、塩土老翁神は当地に留まり、現地の人々に製塩技術を伝えたとされる。また、神話の中で神武天皇や山幸彦を導いた神でもある。海や塩の神格化とも。もっとも、当社が祀る塩土老翁神、武甕槌命、経津主神は、江戸時代の元禄6年(1633)に四代藩主・伊達綱村がまとめさせた『鹽竈神社縁起』によるもので、それ以前からこれらの祭神が祀られていたかどうかは定かではない。
境内には『延喜式』「神名帳」にも大社として記載のある志波彦神社が鎮座(明治期に当地に遷祀)。現在は両社を併せて、志波彦神社鹽竈神社を正式社号としている。
また、境外に鎮座する末社の御釜神社には「塩竈」の地名の由来となった「神竈」が安置されている。毎年7月の鹽竈神社の例祭では、御釜神社で特殊神事「藻塩焼神事」が斎行され、神饌の御塩が調整される。
御神紋の「鹽竈桜」は八重桜の中心に三枚の細い葉をあしらったもの。境内の別宮の南に実木が植えられている。
【撤饌】
・御神塩、1袋
品川神社
御鎮座: 東京都品川区北品川3-7-15
御祭神: 天比理乃命、素盞嗚尊、宇賀之売命
社格: 旧郷社、元准勅祭神社(東京十社)
御神紋/社紋: 三葉葵
御由緒:
文治3年(1187)、源頼朝(1147~1199)が海上の交通安全を祈願して、安房國に鎮座する洲崎明神の御祭神・天比理乃咩命を勧請したことが起源。その後、元応元年(1319)には武蔵國の守護職であった鎌倉時代後期の御家人・二階堂出羽守貞藤入道道蘊(1267~1335)により宇賀之売命が勧請され、次いで文明10年(1478)には時の武蔵國守護代・太田道灌(1432~1486)が素戔嗚尊を勧請。現在に至るまで、以上の三柱を御祭神とする。
当初は品川大明神と称した。かつて、この辺りは目黒川を挟んで南北品川に分かれていたため、荏原神社を「南の天王社」と呼ぶのに対し、品川神社は「北の天王社」と呼ばれている。ただし、過去に目黒川が付け替えられたため、現在は荏原神社は目黒川の北側に鎮座している。
東京十社のうちの一社。東京十社とは、明治天皇が明治元年(1868)に東京鎮護と万民の安泰を祈願して幣帛を捧げた東京近郊の10の准勅祭神社のこと。もっとも、准勅祭社制度は明治3年(1870)年には廃止された、ごく短命の制度であった。
境内の一画に「品川神社富士塚」がある。明治2年(1869)に造られた富士信仰の場で、現在も富士山山開きの神事が行われている。
撤饌:
・御紋を打ち出した白雪糕(品川区北品川・桝翁軒製)、紅白各1個。
芝大神宮
御鎮座: 東京都港区芝大門1-12-7
御祭神: 天照皇大御神、豊受大神
社格: 元准勅祭社、旧府社、東京十社
御神紋/社紋: 三つ巴、花菱
御由緒:
平安時代、一条天皇の御世の寛弘2年(1005)に、ご神託を得て、伊勢神宮の御祭神である天照皇大御神(内宮)と豊受大神(外宮)の二柱を勧請して創建された。源頼朝から篤く崇敬されたため、御紋は源氏の氏神・八幡神の三つ巴を用いているが、伊勢神宮の御紋である花菱も折に触れて採用している。古くは「芝神明宮」「飯倉神明宮」などと称され、庶民の間では「関東のお伊勢様」と呼び親しまれてきた。明治元年(1868)に明治天皇の勅命により准勅祭社(東京十二社)に指定されるが、明治3年(1870)の准勅祭社制度の廃止を受けて東京府社となる。現在は東京十社のうちの一社。
創建当時、周囲に生姜畑が広がっていたことから、御神前に生姜を供えていた。やがて、撤下した生姜を食すと風邪に罹りにくくなると評判になり、以来、毎年9月の例大祭期間中に生姜を授与するようになった。このため、当社例大祭を別名「生姜祭り」という。10日間にも及ぶ長期間の祭りであることから、「だらだら祭り」とも俗称される。
撤饌:
・御神酒「清酒 白陽」(福島縣白河市・大谷忠吉本店製)、180ml入り1本
・ヨーロッパ風クリームサンドせんべい「伊勢音頭」(三重縣伊勢市・紅谷製)、10枚入り1箱
・「しょうが湯」(広島縣広島市・日東食品工業製)、18g×6包入り1袋
・生姜(絵馬付)、2~3株1束
・生姜飴「しょうが飴」(東京都台東区・岡徳製菓製)、230g入り1袋
・麦芽生姜飴「しょうが飴」(東京都台東区・岡徳製菓製)、230g入り1袋
・生姜糖「厄除開運 生姜」(東京都台東区・岡徳製菓製)、135g入り1袋
・「開運厄除 あまざけ」(東京都千代田区・三河屋綾部商店製)、380g入り1袋
・「千木筥」の中の大豆。神社の千木が千着に通じることから、女性の着物が増えるという縁起物。昔は例祭日に門前で多くの露店が立ち、郷土玩具としての千木筥を売ったが、現在では当社の授与品となっている。大・中・小の筥が三段になっており、それぞれの中に3・2・1粒ずつ、豆が入っている。部屋に吊るせば雷除けにもなるとか。
正一位岩走神社
【御鎮座】 東京都あきる野市伊奈1575
【御祭神】 稚日女尊、手力男命、棚機姫命
【社格】 旧村社
【御神紋/社紋】 三つ巴
【御由緒】
社伝によると、仁平2年(1152)、信州伊那より12名の者が当地に移り住み。一村を開いた。この時、郷里の信州は戸隠の奥宮の手力男命を勧請したのが当社のはじまりという。その後、数年を経て稚日女尊と棚機姫命を合祀したというが、現在では稚日女尊が主祭神となっている。稚日女尊は天照大御神の御妹で、棚機姫命と共に高天原で忌機殿を主宰した神であるとも、若年の頃の天照大御神であるとも、棚機姫命と同一神であるともいわれている。いずれにしても、機織りに関連する神であり、開墾の12名が信州の養蚕や機織り技術を当地に伝えたのではないかとも考えられている。境内には、養蚕の神も祀られている。
光格天皇の御代の寛政6年 (1794)に第二十代宮司宮澤安通が上京し、吉田神祇官の仲介で正一位の神階を勅許される。その際、御礼の参内をしたことが安通の記した『上京日記』に詳しい。現在も正式の社号は正一位岩走神社。
社号は、神域の前を流れる秋川の流れを「走り」と呼んだこと、またその流れが川に点在する巨岩に当たって砕けた様を表すものといわれる。現在の境内地より五日市街道を挟んで川があるが、その岸上に巨岩があり、小さな祠が建てられている。ここが元宮とされており、大祭などもここでの祈祷から始められる。この岩の上に立って秋川の上流を望むと、信州の山々が見えるが、開拓者たちはその先の郷里を思って祈ったのではないか。岩走大明神、岩上大明神、岸三大明神などとも称された。
【撤饌】
・御神酒「清酒 多満自慢」(福生市熊川、石川酒造製)、300ml入り1瓶
・「不二の昆布茶」(大阪府大阪市、不二食品製)、2g入り3包
・飴「まめ玉」(福岡縣北九州市・あめ彦製)、100g入り1袋
白旗神社
御鎮座: 神奈川縣藤沢市藤沢2-4-7
御祭神: 寒川比古命、源義経公
社格: 旧村社
御神紋/社紋: 笹竜胆
御由緒:
創建年は定かではないが、相模一宮の寒川神社から御神霊を勧請したことが起こりで、当初は寒川神社と称されていた。
文治5年(1189)のこと。源義経が奥州で自害すると、その首は鎌倉に運ばれた。伝説によると、首実検の後、義経の首は浜辺に内捨てられたが、川を逆流して藤沢の当地に流れ着いたため、里人が洗い清めて葬った。宝治3年(1249)には首塚近くの寒川神社に義経が合祀されたため、後に社名も源氏縁の白旗神社と改称された。
白旗とは、平氏の赤旗に対する源氏の旗のこと。社紋の笹竜胆も源氏の紋である。
撤饌:
・「御赤飯(ごま塩付)」(日本橋・榮太樓總本鋪製)、真空パック220g入り1包
・10月28日の湯立神楽で供される「御赤飯」(藤沢市・古美根製)
・10月28日の湯立神楽でまかれる「紅白餅」(藤沢市・古美根製)
・10月28日の湯立神楽で撤下される「新嘗祭御神酒」(滋賀縣愛知川郡愛荘・藤居本家製)、720ml入り1瓶
・10月28日の湯立神楽の直会弁当
白幡八幡大神
御鎮座: 神奈川縣川崎市宮前区平4-6-1
御祭神: 玉依姫命、神功皇后、応神天皇
社格: 旧郷社 (稲毛惣社)
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒:
社伝によると、平安時代の康平元年(1058)、征夷大将軍として奥羽へ遠征した源頼義が、出兵前に鎌倉八幡宮に戦勝を祈願した。その際、「この度の使命を果すことができましたら、鎌倉と奥州を結ぶ街道十里(約40キロ)ごとに八幡祠を一社ずつ造ります」と誓いを立てた。その後、無事に奥州を平定し、鎌倉に戻ることができたため、康平4年(1061)、鎌倉から丁度、最初の十里目に当たっていた当地に八幡社を造営したことが始まりという。
しかし、一般的には頼義の奥州平定は康平6年(1063)といわれており、源氏の氏神・石清水八幡宮を由比ヶ浜に勧請したのはその後ということになっている(これが後に遷され、鶴岡八幡宮となる)。白幡八幡神社の社伝とは年が数年分ずれているが、創建の概ねの由来は上記の通り、ということなのだろう。
その後、戦乱の世が続き、神社も一時荒廃したが、鎌倉幕府を開いた源頼朝が先祖の事暦を調べ、建久3年(1192)に当社を再建。この時には、源栄山八幡宮と称していたが、明治6年(1873)に現在の社号に改称された。
毎年、7月の夏祭りと9月の例大祭で舞われる「禰宜舞」は、川崎市文化財と同市重要習俗技芸に指定されている。
撤饌:
・かつお節「焙炒造り かつお削り」(愛知県名古屋市・マルアイ製)、5g入り3包
・団子(禰宜舞で撒かれる)。上新粉製
・清酒「清州城 信長 鬼ころし しぼりたて」(愛知県清洲市・清州桜醸造製)、180ml入り1パック(禰宜舞の幕間に撤下される)
・駄菓子類(禰宜舞の幕間に撤下される)
白峯神宮
【御鎮座】京都府京都市上京区今出川通り堀川東入飛鳥井町261
【御祭神】 崇徳天皇、淳仁天皇
【社格】 旧官幣大社、別表神社
【御神紋/社紋】 十六八重菊
【御由緒】
慶応4年(1868)の創建。崇徳天皇(上皇)、淳仁天皇を主祭神として祀る。
第75代崇徳天皇は、保元の乱(1156)に敗れて讃岐に流され、8年後の長寛2年(1164)に彼の地で崩御された。讃岐坂出の白峯山に埋葬されたため、死してなお、都に戻ることは叶わなかった。白峯陵には御影堂が建立され、崇徳天皇の御神像が祀られた。江戸時代末期の動乱の中、第121代孝明天皇は國難に際して崇徳天皇の御神霊を慰めることによって國家の加護を祈念するため、御神霊を讃岐より京へ遷することを願った。しかし、この計画が実現する前に崩御された。その後、明治天皇は父・孝明天皇の御意志を継がれ、飛鳥井邸跡を鎮座地として定め、社殿を造営して崇徳天皇の御神像と共に御神霊をここに奉迎、白峯宮とした。鎮座日は慶応4年9月6日。2日後の9月8日に慶応から明治に改元された。
また、明治6年(1873)には第47代淳仁天皇の御神霊を淡路より奉迎し、併祀。先帝の孝謙上皇、弓削道鏡と対立関係にあった淳仁天皇は、天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱とも)の際に、藤原仲麻呂を後見人としていたことを理由に廃位され、淡路に配流された。そのため、「淡路廃帝」とも称された。一度は逃亡を図るが、捕えられ、淡路で病没(忙殺、あるいは逃亡の際に負わされた傷が原因によって歿したとも)。淡路の三原郡に御陵が造られた。
当初は白峯宮と称したが、昭和15年に官幣中社より官幣大社に昇格した際、白峯神宮に改称した。
境内攝社の精大明神は、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家が邸内に祀っていた氏神。現在では蹴鞠をはじめ、野球やサッカーなど、様々な球技の守護神として崇敬されている。
境内の手水舎「飛鳥井」は、清少納言『枕草子』の中で紹介されている都の九つの名水のひとつに数えられている。
【撤饌】
・節分用の豆、1袋(方除け・魔除けの赤札、厄除け・延命長寿の柊護符と共に。境内攝社に厄除け・延命長寿の御神徳のある柊大明神を祀る)
白山比咩神社
【御鎮座】 石川縣白山市三宮町ニ105-1
【御祭神】 白山比咩大神(菊理媛神)、伊弉諾神、伊弉冉神
【社格】 式内小社、加賀國一宮、旧國幣中社、別表神社
【御神紋/社紋】 三子持亀甲瓜花
【御由緒】
富士山、立山と並ぶ日本三名山のひとつとして知られる霊峰白山は御前峯、別山、大汝山の3山から成り、順に奥宮、大山祇命、大汝命をそれぞれ山頂に祀っている。現在は白山國立公園として整備されている。山上の奥宮に対し、山麓の白山本宮は、古くは「下白山」(しもしらやま)と称されていた。全國各地に鎮座する三千余社の白山神社の総根元社で、地元では「白山(しらやま)さん」と呼び親しまれている。
上古、第十代崇神天皇の御宇7年(紀元前91)に、手取川の扇状地帯にある舟岡山の頂に白山の斎場として祠が建てられたことに始まると伝えられる。その後、養老元年(717)に越前の僧・泰澄が舟岡山にある「妙法の岩屋」で修行し、「阿久濤の淵」で一心に念じると、白馬に乗った女性が現われ「私の真の姿は白山頂上にある。白山に登って訪ねてくるがいい」と告げた。そこで泰澄和尚は白山に登り、頂上にある「転法輪の岩屋」で更に修行を続けたところ、「みどりが池」の畔に白山比咩大神が十一面観世音菩薩の姿で現れたという。この話を聞こし召した時の第四十四代元正天皇(在位:715~724)の勅命で、養老二年(718)、白山最高峰の御前峰頂上に社を建立。以来、白山への信仰登拝が広まる。
文明12年(1480)の大火で社殿が炎上した際、御神体は現在地に遷された。当地には元々、末社の三宮が鎮座していたが、これによって白山本宮の神域にとなった。明治10年(1877)、下白山を本社、御前峯山頂の神祠を奥宮と定めた。
御祭神の白山比咩大神は別名を菊理媛神と称しているが、これは後世になって決められたもので、本来は霊峰を御神体とする神霊を祀ったものと考えられる。
御神紋は、亀甲で長寿を、亀甲を三条に巡らすことで親子三代(家運長久)、内に配した瓜の花で子孫繁栄(古代の珍菓で子孫繁栄を願うための神饌として用いられた)を表わしたものという。
【撤饌】
・本葛製の小粒の御紋菓(葛湯としても)、紅白各4個。
・御神酒「本醸造 加賀の菊酒 萬歳楽」(白山市鶴来本町・小堀酒造製)、300ml入り1瓶。
白山媛神社
【御鎮座】 新潟縣長岡市寺泊大町2768
【御祭神】 菊理媛命、伊弉冉尊
【社格】 旧村社 (寺泊総鎮守)
【御神紋/社紋】 十六菊菱
【御由緒】
創建年は不詳。承久の乱(1221年)で破れた順徳院が、佐渡へ配流となった際、当社に参詣し、宝器を奉納したと伝えられていることから、それ以前より当地に鎮座し、土地の崇敬を集めていたことが伺える。
修験者が加賀國の白山比咩神社から御神霊を分祀したといわれる。神仏習合期は「白山大権現」と称し、明治初年の神仏分離までは胎蔵院の修験者によって祭祀が行われていた。
地元では「はくさんひめ神社」「はくさんさま」「おおみやさま」などと呼び親しまれているが、正式には「しらやまひめ神社」。
【撤饌】
・栗落雁(長野県小布施町・小布施栗菓製造製)、5枚。(御紋菓は正月や例祭の時のみ)
神宮
【御鎮座】 内宮:三重縣伊勢市宇治館町1 外宮:三重縣伊勢市豊川町279
【御祭神】 内宮:天照大御神 外宮:豊受大御神
【社格】 (神階及び社各制度の対象外)
【御神紋/社紋】
【御由緒】
俗に「伊勢神宮」と称されるが、正式名称は「神宮」。現在は神宮を名乗る神社が各地にあるが、元は伊勢の神宮のみの号であった。太陽を神格化した天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)の2宮の正宮をはじめ、境内外の別宮、摂社、末社、所管社を含む計125社を神宮と総称する。皇室の祖神であり、全国神社の総本宮でもある。その起源は、『日本書紀』に記されている。曰く、第十一代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命は天照大御神の御杖代として大和國から伊賀、近江、美濃、尾張を経て、天照大御神の鎮座地を求めて旅をした。ようやく辿り着いた伊勢の地で、天照大御神の御信託を得て、皇大神宮を創建したと伝えられる。天照大御神の御信託は、「この神風の伊勢の國は常世の浪の重浪帰する國なり。傍國の可怜國なり。この國に居らむと欲ふ」というものであった。御鎮座の年は垂仁天皇26年(紀元前4)とされる。
豊受大神宮の豊受大御神は、天照大御神の御信託により、天照大御神の食を調整するために雄略天皇22年(478)に丹波國(後に丹後國として分離)の比沼真奈井原から伊勢山田原へ遷座したと伝えられる。
【撤饌】
・饗膳(御神酒、結び昆布、酢烏賊、辛味干海老)
・御神酒「御料酒 白鷹」(兵庫県西宮市・白鷹製)、150ml入り1瓶
・御饌米、1包
・御塩(円形)、1枚
・鰹節、1節
・干鯣烏賊、1枚
・昆布、1枚
・十六菊御紋型落雁(伊勢市宇治中之切町・藤屋窓月堂製)、紅1個、白2個
・十六菊に花菱御紋型落雁(伊勢市宇治中之切町・藤屋窓月堂製)、紅白各1個
新小岩厄除香取神社
【御鎮座】 東京都江戸川区中央4-5-23
【御祭神】 經津主命
【社格】 旧村社
【御神紋/社紋】 三つ巴
【御由緒】
創立年は不詳。元は、地元小松川の農民がお社を建てたことに始まるという。社伝では元和三年(1617)の再建となっていることから、それ以前の創建であると考えられる。
当社宮司によると、元は室町時代の頃の創建とのこと。間々井香取神社とも称される。小松菜発祥の地として知られる。江戸時代、この辺りでは鷹狩が盛んに行われていた。享保4年(1719)に八代将軍徳川吉宗が鷹狩の間の休息場として当社に立ち寄った際、餅と青菜のすまし汁を献上したところ、将軍はこれをいたく気に入り、この辺りの地名から名を取って「小松菜」と命名したと伝えられている。
境内には雄雌の神鹿が飼われている。
撤饌:
・御紋の三つ巴を模った白雪糕(江戸川区西小松川・風月堂製)、紅白各1個。
神明氷川神社(中野)
【御鎮座】 東京都中野区弥生町4-27-29
【御祭神】 素盞嗚命
【社格】 旧村社
【御神紋/社紋】 左三つ巴
【御由緒】
文明元年(1469)、太田資長(後の道灌)が江戸城鎮護のため、武蔵國一宮の氷川神社より勧請したと伝えられる。ちなみに、資長による江戸城築城は長禄元年(1457)。
旧社殿は昭和20年の空襲により焼失、現社殿は同33年に再建されたもの。樹々が生い茂る境内は、中野区の保護樹林に指定されている。
【撤饌】
・「かつおぶしパック(かつおかれぶし削りぶし砕片)」(愛媛縣伊予市・ヤマキ製)、3g×5パック入り1袋
・「旨みいりごま(白)」(埼玉縣戸田市・みたけ食品製)、45g入り1袋
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