【き】
菊池神社
御鎮座: 熊本縣菊池市隈府1257
御祭神: 菊池武時公 菊池武重公 菊池武光公(菊池武政公以下二十六柱を配祀)
社格: 旧別格官幣社、別表神社
御神紋/社紋: 並び鷹の羽
御由緒:
鎌倉末期~南北朝時代、後醍醐天皇に従い九州で南朝方として挙兵した菊池一族を祀る。建武中興十五社のうちの一社。菊池一族は、肥後國菊池郷を拠点とする豪族。
慶応4年(1868)に、後醍醐天皇に忠義を尽くした菊池一族を祀る神社の創建を明治新政府が熊本藩に命じ、明治3年(1870)年に菊池城本丸址に創建された。
撤饌:
・御神酒(熊本市川尻・瑞鷹製)、150ml入り1瓶
・御神茶、1包
・あま酒(芦北郡芦北町・千寿庵もろみ本舗製)、500ml入り1本
・いりこ(初詣の御神酒の肴として)
北野天満宮
御鎮座: 京都府京都市上京区馬喰町
御祭神: 菅原道真公
社格: 二十二社、旧官幣中社、別表神社
御神紋/社紋: 星梅鉢、荒枝付き左三階松
御由緒:
御祭神の菅原道真公は、平安時代に活躍した貴族であり学者だった。宇多天皇、醍醐天皇に重用されたが、延喜元年(901)に藤原時平の讒言により失脚、大宰府に左遷された。延喜3年(903)、大宰府で没した。
ところが、道真公の没後、都では異変が多発した。まず、道真公を失脚させた藤原時平が39歳の若さで突然没した。その後も天変地異が続いたため、都では道真公の祟りと考えられるようになった。
道真公の祟りを鎮めるため、延長元年(923)に道真公を左遷前の右大臣に復し、更に正二位を追贈。しかし、保明親王の子・慶頼王が5歳で亡くなり、旱魃、清涼殿への落雷などが相次ぎ、怨霊は鎮まる気配がなかった。
時は経ち、天慶5年(942)、右京に住む多治比文子に、道真公を北野の右近の馬場に祀れという御神託が下った。多治比文子については諸説があり、道真公の乳母とも、童女とも、巫女ともいわれている。右近馬場は、『万葉集』にも詠われた古代からの遊猟の地で、平安時代には貴族の遊宴や競馬などが催されていた場所だ。
多治比文子は神社を建立するだけの資金に恵まれなかったため、自宅の庭に小祠を設け、道真公を祀ることにした。
その5年後の天暦元年(947)には近江国の比良宮(大津市の現・天満神社)の禰宜・神良種の子・太郎丸にも同様の神託があった。そこで太郎丸と多治比文子は北野の朝日寺僧最珍の協力を得て北野の地に社殿を造営した。現在も境内の一角に右近馬場が残されている。
その後、道真公の更なる祟りを恐れた藤原氏が社殿の規模を拡張。永延元年(987)には一条天皇から勅使が遣わされて祈祷が行なわれ、「北野天満宮天神」の神号が認められた。以来、菅原道真公は、天神と称されるようになった。親しみをもって「天神さん」とも呼ばれる。
撤饌:
・大福梅
天暦5年(951)に疫病が流行し、村上天皇も病に伏された。その際、北野天満宮の梅の実をお茶に入れて服したところ、天皇の病気は平癒。以来、天皇はこれを吉例として、年の初めに梅の実入りのお茶を飲まれるようになったという。この習慣が民間にも広がり、元旦に北野天満宮の梅の実を入れた白湯を飲むと、その1年は病気邪気が除かれると伝えられるようになった。天皇(王)が服したことから、この梅の実は「王服(おおふく)梅」と称されるようになり、長寿幸福をもたらすことと相まって、転じて「大福(おおふく)梅」と記されるようになった。
北野天満宮では神職らが手づから境内の梅の木から実を取り、梅干しを作る。11月下旬から授与が始まる(12月25日の終い天神の頃まで)。京都ではこれを正月の祝い膳に供し、若水を沸かした白湯に入れて服す風習がある。1包6粒。
北野神社(牛天神)
御鎮座: 東京都文京区春日1-5-2
御祭神: 天神様(菅原道真公)
社格: 一般神社(無格社)
御神紋/社紋: 梅鉢
御由緒:
奥州征伐に向うに当たって、この地の入江に船を留めて凪を待っていた源頼朝(1147~1199)が、傍らの岩に腰をかけて休んでいた時のこと。転寝をした頼朝の夢の中に、牛の背に乗った天神様(菅原道真公)が現れ、「ふたつの喜びがあるだろう。武運満足の後は社を営むべし」と告げた。頼朝が夢から覚めると、天神様が乗っていたのとよく似た牛の形をした石があった。その後、お告げ通り嫡男・頼家の誕生と平家滅亡というふたつの吉事があったため、この岩を奉って当社を創立したという。
上記は寿永3年/元歴元年(1184)の出来事とも伝えられるが、文治元年(1185)の平家滅亡はともかく、頼家の誕生は寿永元年(1182)なので、計算が合わない。
境内には今も、牛の形をした岩「ねがい牛」が安置されており、これを撫でると願いが叶うといわれている。この縁起から、「牛天神」とも呼び親しまれている。
撤饌:
・梅酒「福紅梅」(境内の梅を使用)、小1カップ
・梅型の「葛湯」(台東区浅草・塩埜製)、紅白各1個
・生菓子「北野の紅梅」(梅入り)、1個
・甘酒、1杯
・生姜湯、1杯
・「五色塩」(大阪府豊中市・大きな和K発売)、炭、白、梅、ウコン、抹茶各1包入り1袋
・各種飴、7個
吉備津彦神社
御鎮座: 岡山縣岡山市一宮1043
御祭神:大吉備津彦命
社格: 旧國幣小社、別表神社、備前國一宮
御神紋/社紋: 二重丸に四葉木瓜、五七の桐と十六菊、九七の桐
御由緒: 社伝によると、推古朝(593~628)の創建。神体山と仰がれる吉備中山の麓にあった御祭神・大吉備津彦命の屋敷跡に社殿が造営されたことが起源とされる。備中國一宮の吉備津神社からの分祀。大化の改新(645)の後に、吉備國が備前・備中・備後に分割された際、備前國の一宮となる。
『延喜式神名帳』には備前國の名神大社は安仁神社とあるが、元は安仁神社にあった一宮の地位が、吉備津彦神社の創建の際に吉備津彦神社に移されたとされている。
夏至の日の出には太陽が当面鳥居の真正面から昇り、神殿内の鏡を照らすことから、「朝日の宮」とも称される。
撤饌:
・御神紋の「二重丸に四葉木瓜」「五七の桐と十六菊」と、「大社 吉備津宮」の文字の焼印を各々押した瓦煎餅(倉敷市・玉井堂製)、各2枚入り
・金太郎飴風の飴「昔ばなし飴きびの國 桃太郎の鬼たいじ」(岡山市・浦志満本舗製)、桃太郎、犬、猿、鳥、鬼の各1個
霧島神宮
【御鎮座】 鹿児島縣霧島市霧島田口2608-5
【御祭神】 天饒石國饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
【社格】 式内名神小社(論社)、旧官幣大社、別表神社
【御神紋/社紋】 十六八重菊、桜
【御由緒】
天孫・瓊瓊杵尊を祀る。社伝によると、欽明天皇の御世(540年)、僧・慶胤に命じて天孫降臨の地とされる高千穂峰と火常峰の間の脊門丘に社殿が造営されたのが始まりという。しかし、火山の側近くにあったため、噴火などにより幾度となく焼失。村上天皇天暦年間(947~957)に性空上人によって霧島西麓の高千穂河原に奉遷された。それでも麓であるゆえその後もたびたび炎上したため、文明16年(1484)に薩摩守護の島津忠昌の命を受けた僧・兼慶が現在地に再興。現社殿は更に江戸時代の正徳5年(1715)になって再建されたものである。
式内論社とされているのは、『延喜式』「神名帳」の「霧島神社」が、日向(現・宮崎縣)の式内四座のうちの一座で(他は都萬神社、都農神社、江田神社)、当時から場所が遷っているため。元々、霧島神社は高千穂山全域を境内としており、社殿は日向寄りにあったと考えられている。しかし、当初の社殿が炎上したため、霧島の東の長尾山に遷座し、東霧島神社とした。その後、前述の島津忠昌の命により東霧島神社は東西に分けられ、東の社を瀬戸尾に遷した。これが現在の霧島東神社(宮崎縣西諸県郡)。これに対して西の大隅國姶良郡(当時)に建てられたのが現在の霧島神宮である。高千穂山にあった元の霧島神社は、現在の霧島岑神社(宮崎縣小林市)に比定されている。このため、霧島神宮は式内論社というより、霧島神社の後継社のうちの一社というべき神社である。
明治時代に神仏分離令が出されるまでは、西御在所霧島権現と称する神仏習合の神社で、華林寺が別当であった。山岳信仰から始まった神社ともいわれ、修験者も多くいた。
御神木の杉は南九州一円の杉の祖ともいわれる。樹齢約800年。
【撤饌】
・御神酒「地酒 寶星」(南さつま市加世田・本坊酒造製)、180ml入り1瓶
・鰹節、1節
・御供米1包み、昆布1枚、鰹節1パック
金劔宮
御鎮座: 石川縣白山市鶴来日詰町巳118
御祭神: 瓊瓊杵尊
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 五七桐
御由緒:
社伝によると、創建年は崇神天皇の御代3年(在位:紀元前97~紀元前29)。鎮座地である劔(つるぎ)集落が発生した頃、土地の守護として鎮斎せられたと伝わる。
古来、白山七社(白山本宮、金剱宮、三宮、岩本宮、中宮、佐羅宮、別宮)のうちの一社で、特に白山本宮、三宮、岩本宮と併せて本宮四社と称された。鎮座地は元は「劔」「剣」と記していた。しかし、古来、風炎(フェーン現象)によって火災が多く起こる地であり、剣を作る鍛冶に火が不可欠なことから、劔・剣の地名が火を呼ぶとされ、江戸時代の元禄年間(1688~1703)以降、集落名は「鶴来」と記されるようになった。
社号は旧地名を保っている。古くは劔宮と称した。明治(1868~1912)以降は金劔神社、金劔神宮、劔明神などと呼ばれたが、現在は金劔宮(きんけんぐう)と称している。「金」の字の由来を社家に尋ねたが、定かではないとのこと(おそらく、ゴールドではなく、金物、鍛冶の意味としての金であろう、とのこと)。
撤饌:
・組紐を打ち出した花縁型の落雁、白緑各1個
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