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撤饌 頁六

【か】

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懐古神社

御鎮座: 長野縣小諸市丁311
御祭神: 小諸藩主牧野公歴代の御霊、菅原道眞公(天神様)、火之迦具土命(荒神様)
社格: 一般神社(無格社)
御神紋/社紋: 三つ柏
御由緒
明治13年(1880)、小諸城址を公園「懐古園」として整備した際、旧小諸藩の旧士族によって小諸城本丸跡に創建された。元々、長享元年(1487)の大井光忠による小諸城築城の時から本丸東北の紅葉ヶ丘に祀られていた火魂社(火之迦具土命)と、天正12~13年(1584~1585)頃から同じく紅葉ヶ丘に祀られていた天満宮(菅原道眞公)の鎮守2社と、歴代の旧小諸藩主牧野公の御魂を合祀した。
牧野家は、元禄15年に越後國与板藩より小諸に入府。以降、明治2年(1869)の廃藩に到るまで、十代に渡って当地を治めた。
『小諸温古雑記』によると、小諸城の天満宮は、天正12~13年頃、当時の城主松平康國が城内の空濠を改修した時、紅葉谷の土中から光を放つ天神様の木像が現れたため、紅葉ヶ丘に元々鎮座していた荒神社と並べて祀られたのが始まりという。
撤饌
・梅型の落雁、紅3個、白2個。

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鹿児島神宮

御鎮座: 鹿児島縣霧島市隼人町内2496-1

御祭神: 天津日高彦穗穗出見尊、豐玉比賣命
      〈相殿〉帯中比子尊、息長帯中比売尊、品陀和気尊、中比売尊
社格:】 式内名神大社、大隅國一宮、旧官幣大社、別表神社
御神紋/社紋: 十六八重菊
御由緒
創建は定かではないが、社伝によると、神代まで遡るという。曰く、神武天皇の御世に、天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮に神社を造営したことに始まる。鎮座地の北西13km地点に天津日高彦穗穗出見尊の御陵と目される高屋山陵もある。また、旧鎮座地は近くの石体神社のある辺りであったとの説もある(つまり、高千穂宮は現石体神社にあったということになる)。
より歴史学的には、元々、隼人族が祀っていた大隅の氏神と、平安時代になって石清水八幡宮から全國の國府に御分霊された八幡神が習合したとの説もある。
また、養老4年(720)に起きた大隅隼人の乱が、大伴旅人率いる大和朝廷の征討軍によって鎮圧されると、豊前國をはじめ九州各地から大勢の住民が当地に移されたという。豊前國の住民の多くは秦氏で、宇佐の八幡神を信仰していたため、隼人族が祀っていた大隅の氏神と習合した、との説も。つまり、八幡神と習合することは確かだが、御分霊されたのが石清水八幡宮からなのか、宇佐八幡宮からなのか、ということになる。もっとも、八幡神は宇佐より奈良へ飛来し(手向山八幡宮)、更に石清水に遷っているという経緯がある。
いずれにしても、平安時代に当社に八幡神が合祀された。そのため、当社は大隅正八幡宮、正八幡宮、國分八幡宮、五所別宮、正宮などとも称されるようになった。正八幡宮、正宮は、鎌倉時代になると当社の社家が力を持ち、宇佐八幡宮と本家争いをするようになったことから、当社こそ正当であるといった意味合いでこのような社号で呼ぶようになったものと思われる。
國分八幡宮は、鎮座地が大隅國の國府であったことから。
五所別宮は、石清水八幡宮の九州における五所別宮の一社であることを示す。当社の他は、肥前國千栗宮(千栗八幡宮)、肥後國藤崎宮(藤崎八旛宮)、筑前國大分宮(大分八幡宮)、薩摩國新田宮(新田神社)。
句呉(中國)の太伯を祀る唯一の神社でもある。
撤饌
・御神酒「本格焼酎」(霧島市隼人町・日當山醸造製)、150ml入り1瓶。

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鹿児島神宮

御鎮座: 茨城縣鹿嶋市宮中2306-1
御祭神: 武甕槌大神
社格: 式内名神大社、常陸國一宮、旧官幣大社、勅祭社、別表神社
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒:
全国約600社の鹿島神社の総本社。
社伝によると、創建は神武天皇1年(紀元前660)という。『常陸国風土記』には、祭祀が行なわれるようになったのは崇神天皇(在位:紀元前97~紀元前29)、倭建(72年~113)、天智天皇(在位:668~672)の頃とあるが、時代が開き過ぎているので定かではない。
御祭神は、『古事記』『日本書紀』に登場する天津神・武甕槌大神。香取神宮に祀られている経津主神と共に、國譲り神話で大國主命が統治していた豊葦原の瑞穂の國を平定したことから、古くから武芸の神として崇敬されてきた。また、『常陸國風土記』には、天地開闢より前に高天原より天下った「香島の天の大神」との記述がある。鹿島、香取(千葉縣香取市)、息栖神社(茨城縣神栖市)は東北三社とも称され、それぞれ大和朝廷の東北に睨みをきかせる前線基地にあたる場所に鎮座する。
平安時代の『延喜式神名帳』の中で「神宮」の号が使われているのは、伊勢の神宮、鹿島、香取のみであるから、いかに重要な拠点であったかがわかる。
昔は地震を起こすのは地中に棲む大鯰であると考えられており、その大鯰が暴れないよう押さえつける「要石」が境内にあり、鹿島の神は地震を鎮める神としても信仰されている。
鹿島の神の使いは鹿とされており、奈良の春日大社の創建の際にも、鹿島の神の御分霊が白鹿の背に載って顕現したと伝えられている。鹿島神宮の境内の鹿園には、約30頭の日本鹿が飼われている。
撤饌:
・御神酒(清酒 神の池」(潮来市辻・愛友酒造製)、720ml入り1瓶
・塩蔵わかめ
・「青のりとろろ」(東茨木郡大洗町・海野海藻店販売)、25g入り1袋
・七草粥(1月7日の白馬祭でのお接待)
・甘酒(1月7日の白馬祭でのお接待)
・福豆(節分祭の授与品)

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春日大社

御鎮座: 奈良縣奈良市春日野町160
御祭神: 武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神
社格: 式内名神大社、二十二社、旧官幣大社、勅祭社、別表神社
御神紋/社紋: 下がり藤
御由緒
元は春日の地では、春日地方の豪族・和邇氏一族の小野氏が地主神・春日明神を祀っていた。しかし、和銅3年(710)、平城京に都が遷されると、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神の武甕槌命を春日の御蓋山に勧請し、春日神として祀るようになった。その後、神護景雲2年(768)になると、藤原氏系の女帝・称徳天皇の勅命により神殿を造営し、武甕槌命に加えて香取神宮(千葉)の経津主命、枚岡(大阪)の天児屋根命と比売神の計四柱を祀った。この四柱を以って春日神と総称する。
武甕槌命と経津主命は藤原氏の守護神、天児屋根命と比売神は祖神である。平城京の守護として創建されたが、藤原氏の氏神信仰の色合いが濃厚である。元々、春日の地に祀られていた地主神は、現在は摂社・榎本社となり、猿田彦大神を祀っている。
歴史を通して、「春日大神社」「春日社」などと称されてきた。明治には「春日神社」、更に戦後の昭和21年になって「春日大社」と改称。全国の春日神社の総本社。御祭神の武甕槌命が白鹿に乗って現れたとされることから、鹿は神使(=神鹿)とされ、篤く保護されている。また、樹神信仰があり、杉は武甕槌命の象徴、松は天児屋根命の御子神を祀る若宮の象徴とされることから、本殿背後の御蓋山の樹を伐ることは禁忌とされる。
撤饌
・「鹿の子飴」、30g入り1袋。
・御神酒「春鹿 春日のしろみき にごり酒」(奈良市福智院町・今西清兵衛商店製)、約1合。
・古式神饌「愛敬祝儀膳」…練飯「茴香飯」、酢牛蒡、粟麩・湯葉浅炊、矢筈酢蓮根・鰤照焼、煮椎茸、昆布巻・山芋、高野豆腐、柚子巻き柿、胡桃・胡瓜・もろ味味噌、赤だし
・干菓子(奈良市・樫屋製)、紅白各1個
・「野弁当」(境内・荷茶屋製)…黒米ご飯、澄まし汁、生麩・大根・蒟蒻の田楽、胡麻豆腐、マゴ煮付、玉子焼き、射込み蒟蒻(山水母、牛蒡)、蕗、笹寿司(海老、鱒)、奈良漬、柴漬け、茄子漬物、水無月風寒天菓子

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春日神社(平塚)

御鎮座: 神奈川縣平塚市平塚4ー18ー1
御祭神: 天児屋根命、武甕槌神、経津主命、比売神
社格: 旧村社 (旧神饌幣帛料供進神社)
御神紋/社紋: 下がり藤
御由緒
創建年は不詳。承応3年 (1654)の『春日神社縁起一巻』には、当社は元は「平塚山黒部宮」と称した、などと記されている。
元は、現在よりも浜辺に近い位置に鎮座していたが、社地が高浪に洗われたり、社殿が強風で吹き飛ばされるようなことがしばしば起こったため、鎌倉時代(1185~1333)に現在地に遷座されたといわれる。
御紋は、奈良の春日大社と同じ下がり藤。
撤饌
・「越後 丸もち」(新潟縣新潟市・マルシン食品製)、360g入り1袋。

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加藤神社

御鎮座: 熊本縣熊本市本丸2-1
御祭神: 加藤清正公
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 桔梗紋と蛇の目
御由緒:
豊臣秀吉の忠臣・加藤清正公を祀る。慶長16年(1611)に没した清正の廟「浄地廟」が前身。明治元年より神式で祭祀を行なうこととなり、明治4年には熊本城内に社殿を造営、「錦山神社」という社号がつけられた。明治42年、加藤神社に改称。
創建以来、数度、遷座され、昭和37年に現在地に遷座され、現在に至る。
清正公に殉じた大木兼能公、韓人・金官公を配祀。
撤饌:
・御神酒「赤酒」(山鹿市山鹿・千代の園酒造製)、90ml入り1瓶

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香取神宮

御鎮座: 千葉縣香取市香取1697
御祭神: 経津主大神
社格: 式内名神大社、下総國一宮、旧官幣大社、勅祭社、別表神社
御神紋/社紋: 五七の桐
御由緒
紀元前643年の創建と伝えられる古社で、全国約400社の香取神社の総本社。平安時代に編纂された『延喜式神名帳』によると、当時「神宮」と称されたのは伊勢、鹿島と共に香取神宮の3宮のみであった。香取と鹿島は利根川を挟んで対峙しており、共に蝦夷に備えた大和朝廷の坂東の最前線基地として重視されていたことが窺える。
主祭神は『古事記』などに見られる出雲の「国譲り」神話に登場する経津主大神。現在、一般的に伝えられている同神話では、武甕槌大神が主となり、経津主大神を副えて国を平定したとされているが、もともとは天津神々が推奨したのは経津主大神であり、経津主大神を主体と決まっていたところへ、後になって武甕槌大神が派遣に加えられたとの説もある。経津主大神は物部氏に縁の深い神であったが、武甕槌大神は中臣氏(後の藤原氏)の祀る神であったため、政治的な関係から主体が入れ替わったとする説だ。
また、経津主大神は別名を伊波比主命と称す。伊波比主命とは斎主であり、すなわち神を祀る人を指す。『日本書紀』には、悪神の天津甕星を成敗する「斎の大人」として登場する。
鎮座地の香取の名は、古くは「楫取」と記した。利根川、鹿島灘近辺の要衝であることから、「舵取り」が転じたものともいわれる。『常陸國風土記』には、神代に肥後國造の一族だった多氏が上総に上陸し、次第に常陸國に勢力範囲を広げていった旨が記されている。また、出雲國の拓殖氏族が農耕神を祀ったのが起源とも。いずれにしても、海路、当地に渡ってきた一族があったとされており、その関連から「舵取り」説があるようだ。
古い時代の社家としては、経津主大神の兄(子との説も)である天苗加命の子孫が香取連を名乗り、首座として奉仕していた。後に、大中臣氏(藤原氏)が養子に入り、以降、相互に重職を世襲した。
元々、神宮同様、20年に一度、式年遷宮が行なわれていたが、戦国乱世に途絶え、替わって12年に一度の神幸祭が行なわれるようになった。神幸祭自体は毎年4月15日に行なわれるが、12年に一度の午の年には、15日、16日の両日に渡って斎行される。
例年11月30日に斎行される大饗祭は香取神宮独特の特殊神事。真薦を編んで作った巻行器(ご飯の入れ物)や、鴨の羽栄盛、鮭の鳥羽盛など、種々の特殊神饌が御神前に供えられる。この神事は、神無月に全國の神が身が出雲に集う(出雲では神有月)中、香取の神は東國の神々の留守居役として留まり、東國の33神が出雲から戻ってきた際、労をねぎらうために御馳走を用意して歓待する、という趣旨で行なわれるものといわれる。かつては巻行器なども33基が用意されたが、現在は13基だけ用意される(地元の特定の氏子衆が作る)。巻行器という運搬用の入れ物を使うことに特殊性が見られるが、これは乱世に御神体を疎開させた際の名残との説もある。疎開先は鎌倉の鶴岡八幡宮であったとも。
撤饌
・御神酒「香取」(香取市神崎町・寺田酒造製)、720ml入1瓶
・乾わかめ、1袋
・くさや(大饗祭での直会で)

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神奈川熊野神社

御鎮座: 神奈川縣横浜市神奈川区東神奈川1-1-3
御祭神: 國常立尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊
社格: 旧郷社 (神奈川郷総鎮守)
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒
寛治元年(1087)、醍醐三宝院宮勝覚僧正が紀伊國の熊野本宮大社より神霊を分祀し、神奈川権現山(現・幸ヶ谷山)に社を建てたことに始まる。正徳2年(1712)に同山が崩壊したため、現地に遷し、現在に至る(戦後の一時期、境内を駐留軍が接収したため、仮宮に遷座した時期もあった)。
撤饌
・三つ巴の紋を模った大ぶりの「くずゆ」と「おしるこ」(おきな堂製)、各1個。

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金崎宮

御鎮座: 福井縣敦賀市金ヶ崎町1-1
御祭神: 尊良親王、恒良親王
社格: 旧官幣中社
御神紋/社紋: 十六八重菊、五三桐
御由緒
南北朝の動乱期の延元元年(1336)9月、足利尊氏が京都に攻め入ると、後醍醐天皇は一旦は難を逃れて比叡山に入るが、尊氏の要請でまもなく京都に還御。その代わり、忠臣の新田義貞に命じて一の宮・尊良親王と皇太子・恒良親王を越前の氣比神宮大宮司・氣比氏治の居城である金ヶ崎城に逃れさせ、再興に備えさせた。しかし、翌年正月、高師泰率いる足利軍が金ヶ崎城を攻撃。尊良親王は金ヶ崎城で討ち死にされた。辛くも一命を取り留めた恒良親王も、後に捕らえられて京都に護送、幽閉されて、延元3年(1338)に毒殺された。尊良親王27歳、恒良親王は15歳であったという。
明治23年、当地で亡くなった尊良親王の御魂を鎮めるべく、金崎宮が創建された。更に明治25年には恒良親王も合祀。王権復古した明治期には後醍醐天皇が推し進めた建武の新政が評価され、建武の新政に尽力した親王や武将を祀る神社が相次いで創建された。それらの神社を建武中興十五社と称するが、当社もそのうちの一社。
創建当初は金崎山の金ヶ崎城址に鎮座したが、明治26年に山の中腹の現在地に遷座。境内の近くには、尊良親王御墓所の見込地(推定地)がある。
桜の名所。花見がてら参拝する男女が、桜の小枝を持って境内を歩き、思い人とすれ違う際に「花換えましょう」と呼びかけて小枝を交換して思いを伝えたといわれていることから、「恋愛成就」の神社にもなっている。「花換まつり」は明治末期には既に行われていたという。敦賀は豪商の旦那衆が多く、また、東洋紡の女工も多かったことから、桜の季節の余興で当社に花見に来ていた男女の間で始まったといわれている。
戦国時代に織田信長、徳川家康、羽柴(豊臣)秀吉が集結して越前攻めを行った際の激戦地となったことに因んで、「難関突破」の御利益もあるとか。
御神紋としては、親王を祀っていることから十六八重菊と五三の桐を使用。これとは別に、平成9年に行われた建武の新政650周年祭の際、建武中興十五社が揃って旗を作ることになり、それに伴い、金崎宮独自の紋として、木瓜様の円の中に桜を配した桜紋を新たに作った。正式な社紋ではなく、飾り紋のような扱い。
撤饌
・御神酒、1瓶

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鎌倉宮

御鎮座: 神奈川縣鎌倉市二階堂154
御祭神: 大塔宮護良親王
社格: 旧官幣中社、単立神社
御神紋/社紋: 桜、十六八重菊
御由緒
鎌倉時代に南朝を立ち上げた第九十六代後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)を御祭神として、明治2年(1869)、明治天皇の勅命により創建された。建武中興十五社の一社。後醍醐天皇の討幕計画に尽力し、征夷大将軍、兵部卿に任じられた護良親王は、後に父帝と反目。征夷大将軍を解任させられた上、皇位簒奪を企てた嫌疑で捕えられ、足利尊氏(鎌倉宮では「高氏」と表記)によって、北条軍から奪取した鎌倉に送られ、二階堂ガ   谷の東光寺に幽閉される。その後、建武2年(1335)、北条軍が鎌倉を奪還すると、北条方が親王を奉じて官軍となることを恐れた尊氏の弟・直義によって殺害される。享年28歳。鎌倉宮は、親王終焉の地である東光寺跡に建てられた。親王が幽閉されていたと伝えられる土牢は、今も境内に残る。護良親王の宮号・大塔宮から、鎌倉宮も別名・大塔宮と称している。
撤饌
・御紋の桜を模った葛落雁(鎌倉市・旭屋製)、紅白各1個
・御神酒「上撰 純米清酒 白雪」(兵庫県伊丹市・小西酒造製)、180ml入り1瓶

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上御霊神社

御鎮座: 京都府京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
御祭神: 崇道天皇(早良親王)、他戸親王、井上皇后、藤原大夫人(藤原吉子)、文大夫(文屋宮田麿) 、橘大夫(橘逸勢)、火雷神(菅原道真)、吉備大臣(吉備真備)
社格: 旧府社
御神紋/社紋: 有職桐
御由緒
正式名称は「御霊神社」。御霊信仰が基となって、下御霊神社と併せて創建された。
延暦3年(784)に桓武天皇により平城京から長岡京への遷都が行なわれた。その直後、新しい都として長岡を推奨し、長岡京造営の責任者である造宮司に任命された藤原種継が暗殺されるという事件が起こった。事件の首謀者として淡路へ流罪となったのは、種継と敵対関係にあったとされる桓武帝の同母弟・早良親王だった。しかし、親王は無実を主張。自ら食を断ち、淡路への移送中に絶命した(遺体はそのまま淡路に運ばれ、埋葬された)。それ以降、桓武天皇の付近で度々、異変が起きた。延暦7年(788)には夫人・藤原旅子が、同8年(789)には実母の高野新笠が、また同9年(790)には皇后・藤原乙牟漏で没し、同11年(792)には皇太子の安殿親王が病床に伏した上、畿内に水害などの災害が起こった。そこで占いを行なったところ、一連の出来事は早良親王の祟りであるとの結果が出たため、朝廷は早速、使者を淡路へ遣わし、故親王の陵前に奉謝した。それでも災いが続いたため、桓武天皇は再び遷都を決意。延暦13年(794)に平安京に都を遷し、併せて都の守り神として早良親王の御神霊を現在地に祀った。これが、当社の起こりといわれる。その後、延暦19年(800)には早良親王に「崇道天皇」の尊号が贈られている。
その後、貞観5年(863)5月20日に平安京の神泉苑にて公式の御霊会が行なわれるが、その際に慰霊されたのは、崇道天皇(早良親王)に加え、やはり不遇の死を遂げた伊豫親王とその母・藤原夫人(藤原吉子)、観察使(藤原仲成)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)であり、上御霊神社及び下御霊神社は六所御霊とも称された。しかし、その後、火雷神と吉備大臣(吉備真備)が合祀され、八所御霊と呼ばれるようになる。もっとも、八柱の御祭神については、当初の伊豫親王・藤原夫人母子に代わって他戸親王・井上皇后母子が祀られていたり、藤原仲成に代わって藤原広嗣とされていたりと、定まらない。また、火雷神は一般に菅原道眞とされているが、雷精であるとも、当初の六柱の荒魂であるともいわれている。
上・下御霊神社ともに神仏習合の時代はやはりあり、それぞれ上出雲寺御霊堂、下出雲寺御霊堂とも称されていた(最初の御霊会自体も、「会」というだけに仏教的要素が強かったと思われる)。
応仁の乱(1467~1477)勃発の地として知られる。
撤饌
・御饌米、1包
・おかき(神饌の鏡餅を撤下して製したもの)、1袋
・御紋菓(落雁)、紅白各1個
・御紋菓(しるこ)、白茶各1個

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上神明天祖神社

御鎮座: 東京都品川区二葉4-4-12
御祭神: 天照大神、天児屋根命、応神天皇
社格: 旧村社
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒
大井町線下神明駅近くの下神明天祖神社と併せて、かつては蛇窪村の神明宮というひとつの神社だったが、正保年間(1644~1647)に村が立会川の上・下流域に分離した際、神社も上神明、下神明として分立。上流域で独立したのが、現在の上神明天祖神社だ。下神明天祖神社の縁起には書かれていないが、上神明天祖神社の由緒書きには、以下のような縁起が記されている。
文永8年(1272)、北條四郎左近太夫陸奥守重時の五男・時千代が当地を開拓。やがて、時千代は落飾して法圓上人と名乗り、大森(大田区)に厳正寺を開山。その後、法圓上人の甥である厳正寺第二世・法密上人の頃の元享2年(1322)、武蔵國一帯が大旱魃に襲われた。この時、法密上人が、厳正寺の戌亥(北西)にあった森林の中の古池のほとりの龍神社に雨乞いの断食祈願をしたところ、大雨が沛然と降り、大飢饉を逃れることができた。これに感激した村人たち(時千代以来の旧家臣たち)は、蛇窪に神社を勧請して、奉斎した。これが、上・下天祖神社の起こりといわれる。立会川は付け替えられ、一部は暗渠になっている。現在の当社は立会川の上流にはなく、東方に位置する。これとは別に、鎌倉時代(1185~1333)に、当地の豪農・森屋氏が建立したとの説もある。上神明天祖神社は荏原七福神の弁財天を祀る神社でもある。
撤饌
・飴「黄金糖」(大阪府大阪市・黄金糖製)、8粒入り1箱

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亀ヶ池八幡宮

御鎮座: 神奈川縣相模原市上溝1678
御祭神: 誉田別命(応神天皇)
社格: 旧村社 (北相模総守護)
御神紋/社紋: 三つ巴(御神紋)、鳩に亀と稲(社紋)
御由緒: 創建年は定かではないが、暦応2年(1339)には社殿を再建したという記録があることなどから、元弘元年(1331)頃の創建ではないかと推測されている。元々、神仏習合の時代には八幡大菩薩と称されていたが、明治2年(1869)に亀ヶ池八幡宮と改称。当時は境内の亀ヶ池に多くの亀が棲息しており、亀の長寿にあやかろうとお水取りが盛んに行われていたため、この名がつけられたという。
撤饌
・御饌米、一包

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賀茂神社(豊橋市)

御鎮座: 愛知縣豊橋市賀茂町神山2
御祭神: 賀茂別雷神、宇気母知命
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 双葉葵
御由緒
創建年は、孝徳天皇の御宇、白雉元年(650)とする説と、聖武天皇の御宇、天平元年(729)とする説とに別れている。三河國一宮の砥鹿神社とともに、穂の國(三河)鎮護の社として豊川の両岸に祀られたと考えられているが、『延喜式神名帳』には列せられていない(宮司の話によると、三河は他國に比べ極端に式内社が少なく、朝廷の影響以上に、独自の風土文化を保っていたのではないか、とのこと)。鎮座地付近には複数の古墳が存在したが、現在は参道横の神山古墳(円墳)のみ残る。
撤饌
・御神紋の双葉葵を模った白雪糕(豊川市・松本屋本店製)、紅白各1個

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賀茂別雷神社

御鎮座: 京都府京都市北区上賀茂本山339
御祭神: 賀茂別雷大神
社格: 式内名神大社、山城國一宮、二十二社、旧官幣大社、勅祭社、別表神社
御神紋/社紋: 双葉葵
御由緒:
一般に上賀茂神社と呼び親しまれている。
創建年は定かではないが、社伝によると、神武天皇の御代(紀元前660~ 紀元前585)に御祭神が本社の北北西に聳える神山から麓の御阿礼所に降臨したとされている。その後、社殿が造営されたのは天武天皇7年(678)という。國史での当社の初見は文武天皇2年(698)。
御祭神の賀茂別雷大神について、『山城國風土記』には、玉依日売が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いて寝たところ懐妊し、生まれてきたのが賀茂別雷命であると記されている。玉依日売の兄・玉依日古の子孫である賀茂縣主一族が賀茂別雷命を奉斎したのが本社の始まりと伝えられている。丹塗矢は、火雷神あるいは大山咋神の化身といわれる。
都が平安京に遷されると(794)、当社は王城鎮護の社として崇敬されるようになり、賀茂祭(葵祭)も勅祭となった。当時は一般庶民は境内に入ることを許されず、勅使も境内を流れるならの小川の橋の岩上で祝詞を奏上した(これに対し、宮司が川の向こうから返し祝詞を奏上)。今でも葵祭ではこの伝統が守られている。
弘仁元年(810)から約400年、伊勢神宮の斎宮に倣って、賀茂社でも斎院が置かれた。斎院には皇女が斎王となって奉仕した。
撤饌:
・御供米、1包
・鰹節削り節、1袋
・カットわかめ、1袋
・御神紋を打ち出した上白糖、紅白各1枚
・草餅(3月3日の桃花神事に御神前に供えられ、後に参拝者に撤下される)
・御銘茶

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唐崎神社

御鎮座: 滋賀縣大津市唐崎1-7
御祭神: 女別當命
社格: (日吉大社摂社)
御神紋/社紋: 三階松
御由緒
日吉大社の摂社。日吉大社の社伝によると、舒明天皇の御代6年(633)、この地に移り住んだ琴御館宇志丸宿禰が当地を唐崎と命名。創建は持統天皇の御代(690年~697年)と伝えられる。琴御館宇志丸宿禰はこの辺りの地に大己貴神を勧請した社司。御祭神の女別當命は琴御館宇志丸宿禰の妻。当社は古くは女別当社とも称され、女性の篤い信仰を集めている。唐崎は平安時代より、朝廷が琵琶湖から淀川までの間に定めた「七瀬祓」の祓霊場の一所だった(他の六所は難波、農太、河俣、太島、橘小島、佐久那谷)。また、日吉大社・西本宮の御祭神・大己貴神が琵琶湖を渡って近江に来られた際、最初に着いた地が唐崎であったという伝説もある。
古くから歌などにも詠まれた景勝の地で、現存する数少ない近江八景のひとつ「唐崎の夜雨」でもある。琴御館宇志丸宿禰が植えたといわれる松は「唐崎の松」と称されたが、天正9年(1581)に強風で倒れ、現在は三代目・樹齢200余年の大傘松が保存されている。
撤饌
・「みたらし団子守り」。小指の先ほどの小さな青・黄・赤・白の団子(米粉製)を刺した竹串、三本一組。日吉大社の巫女さんが手作りしている。通常、厄除けの五色には黒も含まれているが、ここでは「年中、苦労がない(黒がない)」とかけて、四色団子となっている。古来、唐崎は水辺で穢れを祓う禊の地であり、唐崎神社では昔からこれに因んだ「御手洗(みたらし)」団子を7月のみたらし祭りの際に授与してきた。このため、唐崎は「みたらし団子発祥の地」といわれており、当社の向かいには「みたらし茶屋 かぎや庄兵衛(寺田物産)」が五代に渡って商いを続けている。

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唐松神社

御鎮座: 秋田縣大仙市協和境字下台84
御祭神: 軻具突命、息氣長足姫命、豐宇氣姫命、高皇靈命、神皇靈命
社格: 旧無格社
御神紋/社紋: 三つ柏
御由緒
当社に伝わる『秋田物部文書』によると、太古、物部氏の祖神・饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の“潮の処”に降臨し、船で雄物川を遡り支流の逆合川を上って、日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神、天御祖神、地御祖神の天祖三神を祀ったことが当社の起こりという。唐松山天日宮は現在、唐松神社の境内に配された池の中の石の築山上に鎮座し、饒速日命 玉鉾神 愛子神を祀っている。愛子神は軻具突命であるとも、火結神であるともいわれている。また、玉鉾神は邪悪を祓う祭具の神格化。饒速日命の居住地は御倉棚と呼ばれ、十種の神宝を納めていたと伝えられている。現在は三倉神社が鎮座している(協和船岡字合貝)。ここで饒速日命は祭祀、呪術、医術を人々に伝えた後に大和に遷っとされる。後裔の物部氏は蘇我氏との崇仏戦争に敗れ、当主であった守屋の子・那加世が東奥に逃れ、その数代後の物部氏が元宮である唐松岳に改めて当社を祀ったという。物部氏の末裔とされる物部家が、代々社家を務めている。
また、以下のような創建説もある。唐松とはすなわち韓服(からまつ)であり、神功皇后の三韓平定の際に着用した御腹帯を指すといわれる。戦に従軍した物部膽咋蓮が、皇后の御出産後に御腹帯を拝受し、当地に来て月出野に御神体として祀ったことが当社の起こりで、当社は元々、韓服宮、韓服神社と称されており、後に転じて唐松神社となったいう説である。この説に付随して、神宮皇后は三韓からの帰路、男鹿半島に上陸、石見川(岩見川
)を経て船岡に辿り着いた。唐松神社から船玉神社がその船岡であるともいわれている。
当社の特徴として、社殿が境内の一段低い所に鎮座していることが挙げられる。元々、社殿は唐松岳山頂にあった。しかし、江戸時代の延宝8年(1680)、出羽國久保田藩主は日殿山元宮に遥拝する習わしがあったにも関わらず、三代藩主の佐竹義処は、馬に乗ったまま社前を素通りしようとして落馬。そのため、義処の怒りに触れ、社殿は山頂から下ろされ、参道から見下ろすような現在地の窪地に遷されたという。今でも唐松岳山頂には元宮が鎮座している。
また、同じ義処にまつわる別の伝承もある。義処が娘・久姫の難産を見かねて当社に祈願したところ、久姫は無事、男の子を出産。喜んだ義処は当社を「女一代守神」と定め、以来、安産祈願の社として知られている。
撤饌
・御神酒「上撰 清酒 千代緑」(大仙市協和境・奥田酒造製)、180ml入り1瓶

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川合八幡神社

御鎮座: 奈良縣御所市古瀬川合
御祭神: 誉田別命(応神天皇)、気長足姫命(神功皇后)、足仲彦命(仲哀天皇)
社格: 旧村社
御神紋/社紋: 三つ巴(?)
【御由緒
創建年をはじめ、由緒は不明。先祖代々、当社の宮守(鍵元)をしている川村家の家長によると、およそ800年ほど前の創建ではないか、とのこと。この辺りの鎮守の社で、かつては高市八幡とも呼ばれていた。現存する史料としては、本殿の棟札に文明18年(1486)のものがある。通常は無人の社で、同市内の高鴨神社が祭事などを担っている。
つとに、毎年10月に行われる当社独特の「引き合い餅行事」で有名。秋祭りの宵宮で、奉納相撲(実際には戦わない、両者勝ちの相撲)の後で行われる特殊神事で、餅を入れた藁で作ったゴクツ(カマス、藁の筵で作る袋)を階段上の本殿前から境内に落としたり、引きずりまわしたり、引っ張り合ったりする。昔は、松明の火でゴクツに拳大ほどの穴を開け、氏子衆が中の餅を奪い合い、獲った餅を素早く頭上に掲げた者が勝ちとされた。更に、その餅を妊婦が食べると安産になるといわれた。しかし、現在では、中の餅は地域の子供達に均等に配られ、別にとっておいた餅で餅まきをする形式をとっている。
ゴクツの中の餅は、一般的な丸餅の2倍ほどの大きなもの。まかれる餅は通常の丸餅だが、一部、直径15センチほどもある扁平な円盤状の餅(笠餅、またはぼた餅とも)も含まれており、これを獲ることが一種の誇りとなる。拝殿には、歴代のゴクツが掲げられている。川村氏によると、この行事は江戸の頃から行われているのではないか、とのことだが、由来などは定かではない。恐らく、豊穣を感謝する気持ちを体現したものではないかと思われる。
撤饌
・御供餅 (引き合い餅の後の餅まきで投げられる丸餅と笠餅)

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川越八幡宮

御鎮座: 埼玉縣川越市南通町19-1
御祭神: 誉田別尊(応神天皇)
社格: 旧郷社
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒
後一条天皇の御宇、長元元年(1028)に下総國で前上総介平忠常が謀反を起こした。長元3年(1030)になって、この追討を命じられた冷泉院判官代の甲斐守源頼信が、当地で源氏の氏神である八幡神(誉田別尊)に必勝祈願を行ったところ、三日三夜の戦いの末、無事、成敗することができた。そこで、御神威に感謝した頼信が、九州の宇佐八幡宮より当地に八幡神を勧請して創祀したことが当社の起こりという。埼玉縣東松山市に鎮座する箭弓稲荷神社も、同じ由緒による同年の創建であるため、当社と箭弓稲荷神社は併せて兄弟社と呼ばれている。川越市内には200社以上の神社があるが、「川越」を冠しているのは当社ただ一社のみ。
撤饌
・「みすゞ飴」(長野縣上田市・飯島商店製)、「あんず」「うめ」「三宝柑」「ぶどう」「もも」「りんご」各4個(計24個)入り1箱
・「ニッキ飴」(川越市・玉力製菓製)、120g入り1袋

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川中島八幡社

御鎮座: 長野縣長野市小島田町869
御祭神: 誉田別尊、建御名方命
社格: 無格社
御神紋/社紋: 左三つ巴
御由緒
平安時代中期の寛治8年(1094)、白河上皇の蔵人として仕えていた源盛清(顕清)は、兄・唯清が上皇を呪詛したという咎から信濃國更級郡村上郷に配流された。その際、八幡神の御分霊を勧請したことに始まると伝えられる。
これとは別に、戦国時代に甲斐の武田信玄の軍師であった山本勘助が、海津城を築くと際に水除けの神として当地に八幡神を勧請したとの説もある。村上郷から現在地までは15キロ以上あるため、後者の説の方が有力にも思える。ただ、山本勘助を引き合いに出す辺りに作為を感じなくもない。元は村上郷にあった八幡社を、川中島の合戦の頃に当地に遷したとも考えられる。ただ、当地に八幡社があったことから、古くからこの辺りを八幡原と呼んでいたことも事実。
鎮座地は永祿4年(1561)に越後の上杉謙信勢と甲斐の武田信玄勢が対陣した第四次川中島の戦いの激戦地。上杉軍が妻女山に、武田軍が八幡原に陣を張った。この戦いで八幡社の社殿は破壊されたが、後に信玄は海津城代の高坂昌信(春日虎綱)に命じて社殿を再建させている。
鞘堂に納められた旧本殿の背後には欅の巨木があり、更にその奥に現社殿が建てられている。現社殿は、昭和15年に生島足島神社(上田市)の旧社殿を譲り受けて移築したもの。
境内には、信玄が築かせたといわれる土塁の遺構が残っている。
撤饌
・御塩、1包

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漢國神社

御鎮座: 奈良縣奈良市漢國町2
御祭神: 園神・大物主命、韓神・大己貴命、少彦名命
社格: 式内大社(論社)、旧縣社
御神紋/社紋: 松皮菱
御由緒
推古天皇(在位:593~628)の元年(593)、大神神社の麓を拠点としていた大神氏(または三輪氏)の氏族である大神君(大三輪君)白堤が、天皇から勅を賜り、「園神」の御神霊を祀ったことに始まる。これは、近隣の子守町に鎮座する率川神社とほぼ同じ創建由緒である。この時は、社壇一所宮柱が立てられたのみ。その後、元正天皇(在位:715~724)の御世の養老元年(716)に、当時右大臣だった藤原不比等(659~720)によって韓神二座が合祀され、漢國社として鎮壇した。
漢國(かんごう)という社号から、大陸渡来の神を祀っているかのような印象を受けるが、御祭神は大國主命の和御魂・大物主命と、荒御魂・大己貴命、大國主命の國造りを手伝った少彦名命の三柱である。社号の由来は定かではない。社家によると、韓神の「韓」が「漢」に、園神の「園」が「國」と転じて「漢國神社」になったとの説があるよう。また、「漢」には本来、「偉大なる」「大きな」といった意味があり(転じて、男の意味や古代中國の一國の名にもなった)、國を大いなる力で守る、といった意味が込められた社号ではないか、との説もあるという。古くは春日率川坂岡社とも称された。
また、清和天皇(在位:858~876)の御世の貞観元年(859)には、平安京内に勧請、朝廷の守護神とされた園韓神社(園神社と韓神社の総称)は、当社からの勧請とも伝えられる。ただし、平安京内に鎮座していた園韓神社は、平安遷都(794)以前の養老年間(717~723)に藤原氏によって彼の地に創建され、遷都後もそのまま平安京内で祀られ続けたという。よって、平安京の園韓神社と漢國神社は別であるともいわれる。宮中では園神社と韓神社の2社のみが延喜式内大社に列しており、園韓神社と漢國神社が違う神社であれば、漢國神社は式内論社となる。園韓神社のその後は不明。皇室の東京移転と共に遷座されたとも。延喜5年(927)編纂の『延喜式神名帳』で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。
境内には、日本で唯一の「饅頭の社」である林神社が鎮座する。日本に初めて饅頭を伝えたとされる林浄因を祀る。
撤饌
・すりごま「香りごま」(大阪府大阪市・和田萬商店製)、80g入り1袋

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神田神社

御鎮座: 東京都千代田区外神田2-16-2
御祭神: 大己貴命(一之宮)、少彦名命(二之宮)、平將門命(三之宮)
社格: 旧府社
御神紋/社紋: 流三巴
御由緒
正式社号は神田神社だが、神田明神との呼び名がより一般的。天平2年(730)に武蔵國豊島郡芝崎の浜(現在の大手町)に大己貴命の子孫である出雲氏の真神田臣が創建したことに始まる。当初は大己貴命のみが祀られていたが、後に平將門命と少彦名命も合祀されるようになった。
平將門は承平(931~938)・天慶(938~947)年間に関東地方で乱を起こした武将。朝廷に対抗して自ら即位して「新皇」と称したが、藤原秀郷、平貞盛らによって討伐された。將門の首は京都に運ばれ東の市に曝されたが、郎党がこれを奪還し、現大手町付近に葬った。しかし、やがてその墓(将門塚)の周辺で天変地異が頻発。人々が將門の祟りと恐れたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く供養し、更に延慶2年(1309)に神田明神に合祀
された。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに先立ち、徳川家康が当社で戦勝祈願をすると、9月15日の神田祭の当日に見事に勝利し、天下統一を果たすに至った。以降、神田祭は徳川将軍家より縁起の良い祭礼として篤く保護され、絶やすことなく執行するよう命ぜられた。現在でも、神田祭は日本三大祭のひとつに数えられ、百余町の氏子地域で神輿や山車が練りまわされる。
元和2年(1616)に徳川二代将軍秀忠によって現在地に遷座された。京都の御霊神社の例に倣い、鎮座地には江戸城の表鬼門である現在地が選ばれ、社殿も幕府によって造営された。以後、江戸総鎮守として貴賎を問わず崇敬を集めてきた。
明治に入ると、社号は神田明神から神田神社に改められ、東京鎮護として准勅祭社および東京府社に定められた。明治2年(1869)には常陸國大洗磯前神社より少彦名命を勧請し三柱となる。明治7年(1874)、平將門命は摂社として境内の將門神社に遷座されたが、昭和59年に再び御本殿に三之宮として奉祀され、今日に至る。
現社殿は、大正12年(1923)の関東大震災にって社殿が焼失したことを受けて、昭和9年に再建された鉄筋コンクリート製の建物で、戦時中の東京大空襲でも焼け残ったものである。社殿の屋根などに配置された水鳥の置物は、將門の怨念を水に流すという意味があるというが、戦火から社殿を守ってくれたともいえなくもない。
撤饌
・「海苔茶漬」(中央区日本橋・山本海苔店)、5.5g入り5包み

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神部神社 浅間神社 大歳御祖神社

御鎮座: 静岡縣静岡市葵区宮ヶ崎町102-1
御祭神: 大己貴命(神部神社)、木之花咲耶姫命(浅間神社)、大歳御祖命(大歳御祖神社)
社格: 式内社(神部神社、大歳御祖神社)、駿河國総社(神部神社)、旧国幣小社、別表神社
御神紋/社紋: 輪宝(神部神社)、棕櫚葉(浅間神社)、丸に二重葵(大歳御祖神社)
御由緒
正式社号は「神部神社 浅間神社 大歳御祖神社」。浅間(あさま)・神部(かんべ)・大歳御祖(おおとしみおや)神社の三社を併せて、通称「静岡浅間(しずおかせんげん)神社」と称する。また、地元では、「せんげんさま」と呼び親しまれている。神戸神社は、第十代祟神天皇(在位:紀元前97~紀元前29)の御宇の鎮座とも伝えられる古社で、当地最古の社と考えられている。駿河國の國魂の大神として崇められてきた。駿河國総社。元は神領神門町に鎮座していたが、天正14年(1587)、駿府城築城の際、現在地に遷座された。御祭神は駿河國開拓の祖神・大己貴命。
浅間神社は、延喜元年(901)に時の醍醐天皇(在位:897~930)の勅願で、富士山本宮浅間大社(静岡縣富士宮市)より御分霊を勧請。「冨士新宮」と称し、富士山を御神体とする。大歳御祖神社は、和銅6年(713)に編纂された『日本総国風土記』によると、第十五代応神天皇(在位:270~310)の御代の4年(273)の鎮座と伝えられる。太古は「奈吾屋社」「奈吾屋大明神」と称されていたが、元は大歳御祖神社と奈吾屋社とは別の社だった。奈吾屋社は賤機山の山上に鎮座していた社で、倭文機部の祖を祀っていた。これに対し、大歳御祖神社は大寶年間(701~704)に安倍川河畔で創始された古代の市「安倍の市」の守護神だった。この両社はいつの頃かひとつになり、大歳御祖神社との呼ばれるようになった。
御祭神の大歳御祖命は倉稲魂神/大歳神の御母神で、別名を神大市比賣命と称す。『延喜式神名帳』(927)に記載のある「大歳御祖神社」と比定されているが、同じく葵区内に鎮座する別雷神社とは論社となっている。
上記3社は、鎮座以来、それぞれ独立した神社で、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕していた。現在は3社でひとつの神社となっている。境内には他に、麓山神社、少彦名神社、八千戈神社、玉鉾神社が鎮座する。少彦名神社の前進は薬師堂、八千戈神社の前進は摩利支天社だったが、明治元年(1868)の神仏判然令により神社に転身。
境内にある円墳「賤機山古墳」は1500年ほど前のもので、当地の豪族・安部の王を葬ったものと考えられている。往古より当地が聖地であったことを窺わせる。
撤饌
・浅間神社の御神紋の焼印を押した「瓦煎餅」(静岡市葵区・葵煎餅本家製)、5枚入り1箱