【こ】
高山神社
御鎮座: 三重縣津市丸之内27-16
御祭神: 藤堂高虎公
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 蔦
御由緒:
戦國武将・藤堂高虎公を祀る。社号の読みは「こうざんじんじゃ」。当初、津藩主・藤堂家内で祀っていたが、明治9年(1876)に政府の認可を得て、津市下部田に社殿を建立。その後、明治36年(1903)に現在地である津城址内に遷座する。
社号は、高虎公の贈り名「高山居士」に因る。御神紋は藤堂家の家紋「蔦」。
撤饌:
・御神紋を模った3色の白雪糕。緑=高山神社神紋の蔦、赤=境内社・城山稲荷神社の紋である一つ宝珠の抱き稲に「城山」の文字、白=三つ巴(その他の合祀される神々には無関係で、単に神社らしい紋ということで)。
護王神社
【御鎮座】 京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町
【御祭神】 和気清麻呂公命、和気広虫姫命
【社格】 旧別格官幣社、別表神社
【御神紋/社紋】 対い四つ藤
【御由緒】
奈良時代末期から平安時代初期の貴族・和気清麻呂(733年~799年)と、その妹の和気広虫姫を祀る。第四十六代称徳天皇の御世(在位:749~758)の神護景雲3年(769)、朝廷で権勢をふるっていた僧の弓削道鏡は、「道鏡を皇位につかせれば天下は太平となる」という宇佐八幡の御神託を太宰府と宇佐で神主を兼任していた習宜阿曽麻呂に奏上させた。真相を確かめるべく宇佐に派遣されたのが清麻呂で、宇佐の神は「我が國は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以て君と為すこと 未だあらざるなり。天つ日嗣ぎは必ず皇儲を立てよ。無道の人は 宜しく早く掃い除くべし」との御神託を下した。帰京した清麻呂がこの旨を天皇に奏上すると、天皇の寵愛を受けていた道鏡は怒り狂って、清麻呂と、清麻呂に加担したとして妹の広虫姫の死罪を求めた。しかし、天皇はふたりを不憫に思い、清麻呂を大隅國へ、広虫姫を備後國へ流罪とした。そして、配流地に向かう途上、清麻呂は道教の刺客に襲われる。幸い、一命は取り留めるが、清麻呂は足の筋を切ってしまった。不自由な足ながら、皇室の安泰が守られたことを感謝すべく豊前の宇佐八幡に向かった清麻呂だったが、豊前國に入ると、どこからともなく300頭もの猪が現れ、清麻呂の輿の周りを取り囲み、清麻呂を守りながら宇佐へと導いた。清麻呂が無事に宇佐に到達すると、猪たちはいずこともなく消え去り、清麻呂の足も治っていたという。その後、清麻呂は1年を大隅國で過ごしたが、その間に称徳天皇が崩御、道鏡は失脚し、清麻呂と広虫姫は許されて都に戻ることができた。
当社の創建年は不詳だが、当初は洛西の高雄山神護寺の境内に和気清麻呂を祀る霊社・護王善神堂として建てられた。
幕末の嘉永4年(1851)、清麻呂の功績を讃えた孝明天皇は護王善神(清麻呂)に正一位の神階と「護王大明神」の神号を贈った。明治7年(1874)、「護王神社」と改称、別格官幣社に列せられた。更に、明治19年(1886)には明治天皇の勅命によって神護寺境内から華族中院家邸宅跡地であった現在地に遷座。この時、広虫姫も合祀された。
御祭神が足萎えで苦しんでいた折、猪に助けられたことから、足腰の守護神としても信仰されている。境内には狛犬ならぬ狛猪も。また、毎年11月1日には平安時代の宮中行事を再現した亥の子餅を搗く儀式を再現した特殊神事「亥子祭」を行なっている。昭和35年頃に創始された儀式で、宮司が餅をつく所作をし、搗き上がった餅を神前に供える。また、この日は特別に夜間に京都御所の庭に立ち入り、御所にも亥子餅が献上される。
【撤饌】
・御饌米、1包
・御神酒「かりん酒」(滋賀縣草津市・太田酒造製)、180ml入り1瓶。境内にある御神木のカリンの大木は、喘息封じの木として尊ばれている。
・「かりん水飴」(京都市中京区・豊松堂製)、600g入り1瓶
・「かりん煎餅」(京都市西京区・松楽製)、1枚入り1箱
・「かりん飴」(京都市中京区・豊松堂製)、50g入り1袋
・「のり巻あられ」(京都市上京区・鳴海屋)、8個入り1袋
・「サラダあられ」(京都市上京区・鳴海屋)、35g入り1袋
・亥子餅(亥子祭の際、境内で搗かれるもの。餅に小豆、大豆、落花生、胡麻、胡桃、黒糖、花梨の砂糖漬を細かく刻んだものを混ぜ込んで搗く)
・「亥子餅」(京都市上京区・鶴屋吉信製)、3個入り1箱~
五社稲荷
御鎮座: 愛知縣宝飯郡小坂井町大字小坂井字欠山2-2
御祭神: 宇賀能御魂神、宇賀能売神、稚産霊神、大宮能咩神、屋船神
社格: 無格社(一般神社)
御神紋/社紋: 焔宝珠
御由緒:
稲荷の建つ白狐ヶ丘は、5世紀末から6世紀初めに造られた前方後円墳で、近隣の菟足神社の御祭神である大和葛城の豪族・葛城襲津彦命の子孫にあたる菟上足尼命の古墳と推定される。菟上足尼命は、雄略天皇の頃(456~479)、「穂の國」(現在の東三河の一部)の國造としてこの地に派遣された人物である。
明暦年間(1655~1657)に、この古墳跡には五穀豊穣を司る「保食神」を祀ったが、その100年ほど後の延享4年(1747)には「稲荷五社大明神」とする資料があることから、この頃までに既に稲荷として信仰されていたことが分かる。ただし、伏見稲荷大社から正式に稲荷を勧請したのは、文政13年(1830)で、この年を創建年としている。
五柱の御祭神を総称して五社稲荷の大神、または稲荷五社大明神と称する。
撤饌:
・稲穂で宝珠を抱き込んだ紋型(赤)と、宝小槌の型(白)のビニールに入れた精白糖(豊橋市・ボンとらや製)。紋型については、五社稲荷の紋である宝珠とはやや異なり、伏見稲荷の抱き稲の中に、形状の異なる宝珠(焔宝珠ではなく、稲荷宝珠)を入れたものになっている。
事任八幡宮
御鎮座: 静岡縣掛川市八坂642
御祭神: 己等乃麻知比売命、息長帯比売命、誉田別命、玉依比売命
社格: 式内小社、旧縣社、遠江國一宮
御神紋/社紋: 亀甲に卜象、三つ巴
御由緒:
社伝では、成務天皇の御代(84~190)頃の創建と伝わるが、詳細は不明。大同2年(807)の坂上田村麻呂の東征の際、時の桓武帝の勅命により、それまで鎮座していた近くの本宮山から現在地に遷座したという。本宮山に今もある奥磐戸神社を奥宮、事任八幡宮を里宮としている。
康平5年(1062)には源頼義によって石清水八幡宮から八幡神が勧請され、以後、八幡宮となる。
清少納言の『枕草子』などでも「願い事が叶う神社」と紹介されており、平安の頃より広く知られていたことが伺える。
事任八幡宮によると、いつの頃か、御祭神の己等乃麻知比売命は、戦火を逃れるために小國神社に遷座していた時期があったという(そのため、小國神社も一宮を名乗るようになったと)。また、三河一宮の砥鹿神社にも疎開していたことがあったともいうが、詳細は定かではない。神紋は三つ巴の傍ら、砥鹿神社と同様、亀甲に卜象も併せ持つ。
撤饌:
・八幡の神紋・三つ巴を模った落雁(紅白各1個)
・御神酒(浜松市・花の舞酒造製)、300ml入り1本
・「ことのままおこし」(掛川市日坂・山英製)、黒胡麻入り黒糖味6枚、落花生入り緑茶味6枚の計12枚入。ラベルは、事任八幡宮の社家である誉田家所蔵の絵『羅陵王の舞』の複写。
御霊神社(奈良市)
御鎮座: 奈良縣奈良市薬師堂町24
御祭神: 井上皇后ら八所御霊神、事代主命(えびす様)
社格: 旧村社
御神紋/社紋: 十六八重菊、五七桐
御由緒:
本殿に井上皇后とその御子である他戸親王、事代主命、東神殿に早良親王と藤原大夫人、藤原廣嗣、西神殿に文屋宮田麿、伊豫親王、橘逸勢をそれぞれ祀る。事代主命を除いて、計八柱(八所御霊神)を祀っているため、八所御霊神社とも。
主祭神は、聖武天皇(在位:724~749)の皇女にして光仁天皇(在位:770~781)の皇后であった井上皇后。伊勢皇大神宮の斎宮を経て、白壁王の妃となった井上内親王は、神護景雲4年(770)の白壁王の即位(光仁天皇)に伴い、皇后に。翌年には天皇皇后の間に他戸親王が誕生し、立太子される。しかし、その翌年の宝亀3年(772)、皇后は巫女に天皇を呪う祈祷をさせた罪「巫ごの罪」で皇后の位から降ろされ、他戸親王も皇太子を廃された。更にそのまた翌年の宝亀4年(773)には、人を呪う呪いをした罪「厭魅の罪」に問われ、母子共々、流罪とされる。母子は大和國宇智郡(現・五条市)の没官宅の土舎に幽閉され、宝亀6年(775)にお二方とも幽閉地で逝去された。お二方がご一緒に不自然な死を遂げられたことから、暗殺説もある。
井上皇后、他戸親王の悲劇は、光仁天皇の妃であった高野和新笠の御子であった山部親王を擁立する藤原朝臣百川による陰謀によるものであると伝えられている。山部親王は、後に桓武天皇(在位:781~806)として即位する。
井上皇后と他戸親王が他界して間もなく、都に天変地異が相次ぎ、悪疫が流行したため、光仁天皇は母子の祟りとして畏れた。そのため、翌宝亀7年(776)に600人の僧によって供養をさせ、更に宝亀8年(777)には母子の墳墓を改装し、御墓と追従。その後、更に、延暦19年(800)には時の桓武天皇の勅命によって御墓は御陵と追従され、井上内親王は皇后の位に復された。また、宇智郡の霊安寺に御霊神社が建立され、御霊信仰が始まる。延暦19年内には宇智郡御霊神社から勧請、当社が建立された。平安京(現・京都)の上御霊社・下御霊社も井上皇后らの鎮魂のために同じ頃に造営された社である。
当社は元々、元興寺南大門前に鎮座しており、門前は今も井上町と呼ばれている。宝徳3年(1451)に元興寺が火災に遭い、当社も現在地に遷座された。延暦19年には早良親王の御霊を慰めるため西紀寺町の祟道天皇社も創建されており、当社と伴に南都二大御霊社とされた。疫病が流行すると、当時の人々は不幸な死を遂げた人々の怨霊の仕業であるとして畏れ、奈良を南北に走る中街道(中津道)には井上皇后、上街道(上津道)には早良親王、下街道(下津道)には他戸親王の御神輿を据えて練り、悪疫を祓おうとしたといわれる。
撤饌:
・紅葉型落雁、紅紫・黄・緑各1個
金王八幡宮
御鎮座: 東京都渋谷区渋谷3-5-12
御祭神: 應神天皇(品陀和氣命)
社格: 旧郷社
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒:
第七十三代堀河天皇の御世の寛治6年(1092)、渋谷一族の祖・河崎土佐守基家によって創建されたと伝えられる。
秩父別当武基の子・武綱は、後三年の役(1083~1087)で奥州金沢の柵を攻略した手柄により、河崎土佐守基家の名も賜る。この時、与えられた武蔵谷盛の庄に、父・武基が秩父妙見山に建てた八幡宮より御分霊を勧請する。河崎氏は重家の代で渋谷の姓を賜る。これが、渋谷の地名の起こりといわれる。
渋谷氏は代々、この八幡宮を中心に築城、氏族の鎮守として崇めていた。また、渋谷、青山一帯の総鎮守として崇敬を集めた。
社号は、元は渋谷八幡宮と称したが、重家の嫡男で、源義家に従い保元の乱(1156)などで活躍した金王丸の名声に因み、後に金王八幡宮と改称。
撤饌:
・御神酒「本醸造 秩父 樽酒 武甲正宗」(埼玉縣秩父市・武甲醸造製)、180ml入り1瓶
・御紋の三つ巴を模った白雪糕、紅白各1個
HOME





















