【い】
生島足島神社
【御鎮座】 長野縣上田市下之郷中池西701
【御祭神】 生國魂大神、足國魂大神
【社格】 式内名神大社、旧國幣中社、別表神社
【御神紋/社紋】 梶の葉
【御由緒】
創建年は定かではないが、平安時代初期の大同元年(806)には、時の平城天皇より御神封戸の寄進があったとの記録があることから、当時は既に朝廷から崇敬される大社であったことが分かる。また、神代に建御名方富命が諏訪に向かう途上、当地に逗留し、当地に鎮まっていた二柱の御祭神に米粥を煮て献じたという伝承が残されている。現在も毎年11月3、4日に行なわれている御籠祭は、その様子を伝える神事。
御祭神の生島神(生國魂大神)は生みの神、足島神(足國魂大神)は満たす神とされる。宮中で祀られる二十二座にも同じ名の神があることから、中央から派遣された信濃国造の多氏らが國の御魂の神として勧請したとのと考えられている。
御本殿は池の中にある島に建てられており、「池心の宮園池」と呼ばれる出雲式園地に連なる日本最古の形式のひとつといわれる。御本殿の御扉の奥の御室(内殿)には床板がなく、大地そのものが御神体として祀られている。
日本列島の中央にあることから、国土を守る日本総鎮守とも。
【撤饌】
・御神酒「清酒」(上田市中野・若林醸造製)、720ml入り1本
・御神酒「清酒」(上田市中野・若林醸造製)、180ml入り1本
・五穀米(生島足島神社授与)、90g入り1袋
・「招福豆(きなこ豆、昆布豆、田舎五色豆、黒胡麻とうふ豆)」(生島足島神社販売)、80g入り4袋1箱
・「生姜せんべい」(生島足島神社販売)、10枚入り1袋
・「玉子せんべい」(生島足島神社販売)、10枚入り1箱
・「薬膳 ぐんばい 願文煎餅」(生島足島神社販売)、6枚入り1袋
生田神社
【御鎮座】 兵庫縣神戸市中央区下山手通1-2-1
【御祭神】 稚日女尊
【社格】 式内名神大社、旧官幣中社、別表神社
【御神紋/社紋】 八重桜、十六八重菊
【御由緒】
神功皇后摂政元年(201)の創建と伝わる古社。皇后が、新羅遠征を終えて難波へ凱旋しようとしたところ、海が渦巻いて船が進まなかった。務古の水門(現神戸港)に引き返して御神意を伺うと、稚日女尊から「吾、活田長峡國に居らまく欲す」との御神託を得た。そこで、海上五十狭茅(うながみのいさち)に稚日女尊を祀らせたのが当社の起こりという。海上五十狭茅は、神功皇后、応神天皇と戦った将軍・五十狭茅宿禰の子で、初代生田神社祭主であり、生田神社社家の先祖。敵に生田神社を祭祀させた理由は不明。御祭神の稚日女尊は、「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照皇大神の御幼名とも、御妹神とも、和魂ともいわれている。
貞観10年(868)までに当社は従一位を授けられており、祈雨、鎮疫などの祈請奉幣を受けること多く、早くから朝廷より篤く祀られていたことが伺える。 御神領は、御鎮座の際、朝廷より神戸(かんべ)を賜っており、現在の神戸市中央区一帯がその御神域であった。現在は御本殿背後に僅かに残る「生田の森」だが、かつては六甲山の麓まで広がり、現在の御神域の30倍はあったと伝えられる。中世になって、神戸(かんべ)は紺戸(こんべ)と転じ、更に後に、「こうべ」となったといわれている。つまり、神戸という地名の語源は「生田の森」にある。
古くは御社周囲には松の樹が植えられていたが、延暦18年(799)に起きた大洪水の際には松が防水の役を果たすことなく、御社殿は大変な被害を被った。そのため、今も御神域には今も松は植えられておらず、元旦にも門松の替わりに杉飾りを立てている。
地元では、「生田さん」と呼び親しまれている。
【撤饌】
・太白おぼろ昆布、とろろ昆布、各1袋入り1箱。
率川神社
【御鎮座】 奈良縣奈良市子守町18
【御祭神】 中殿=媛蹈鞴五十鈴姫命、向って左殿=玉櫛姫命、向かって右殿=狭井大神
【社格】 式内小社、
【御神紋/社紋】 三ツ杉
【御由緒】
推古天皇の御宇元年(593)、大神神社の麓に住んでいた大神氏(または三輪氏)の氏族である大神君(大三輪君)白堤が、勅命を受けて、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫命を祀るために創建したと伝えられる。
奈良市最古の神社。延長5年(927)完の『延喜式神名帳』には「率川坐大神御子神社(三座)」と記されている。この他、古くは「率川宮」「率河社」などとも称された。媛蹈鞴五十鈴姫命を中殿とし、左右の御殿に御母神、御父神が姫神を擁護するかのごとく鎮座することから、子守明神とも呼ばれる。鎮座地・本子守町の地名も、当社が由来となっている。
『古事記』(712)によると、初代神武天皇(在位:紀元前660~紀元前585)が、大神神社(桜井市)の近くの狭井川の畔に住んでいた媛蹈鞴五十鈴姫命を娶り、お二方の間に、日子八井の命、神八井耳命、神沼河耳命(綏靖天皇)のお三方がお生まれになったという。皇后を主祭神とする神社は全國的にも珍しい。狭井川(狭井河)の名は、その畔に佐韋(さい、山百合草)が群生していたことによるといわれ、これに因んで率川神社では毎年6月に三枝祭(さいくさのまつり)が行われている。この祭の歴史は古く、文武天皇の大宝元年(701)に制定された『大宝令』にも、國家の祭祀として規定されている。
大神氏による創始であることや、御父神は大神神社摂社の狭井神社の狭井大神であることなどから、大神神社との繋がりは深い。しかし、応永7~8年(1400~1401)の当社の遷宮日記には、当社が奈良市の春日若宮神宮の摂社であったことが記されている。明治12年(1879)には大神神社の摂社に再び移管され、現在に至る。
境内社の率川阿波神社も延喜式内社で、宝紀2年(771)に阿波國から勧請。恵比寿神(事代主神)を祀る神社としては、やはり奈良市最古。
【撤饌】
・「三輪素麺(手延べそうめん)」(桜井市箸中・三輪そうめん山本製)、150g入り1箱。
伊雑宮
【御鎮座】 三重縣志摩市磯部町上之郷
【御祭神】 天照坐皇大御神御魂
【社格】 式内名神大社、志摩國一宮、皇大神宮別宮
【御神紋/社紋】 花菱
【御由緒】
延暦23年(804)の『皇大神宮儀式帳』や延長5年(927)の『延喜大神宮式』に、天照大神(神宮)の「遙宮」と記されている当宮は、皇大神宮(内宮)の別宮14社の内、伊勢國外に鎮座するのは当社のみ。正式名は「いざわのみや」だが、「いぞうぐう」とも称される。創始は第十一代垂仁天皇(在位:紀元前29~紀元後70)の御代と伝えられる。皇大神宮を伊勢に奉祀した倭媛命が、神宮に奉献する御供物を採る場所である御贄地を定めるべく嶋國(志摩)を訪れた際、当地を治めていた伊佐波登美命が倭媛命を歓迎。倭媛命は当地を御贄地に相応しい地とし、伊佐波登美命は倭媛命の命を受けて当地に天照大神の御魂を祀ったという(神宮による見解)。
また、嶋國を巡幸中の倭媛命が、どこからともなく飛んできた真名鶴(真鶴)がよく茂った稲穂を「伊雑方(潟?)上」の千田と呼ばれた葦原に落としていった様子を見て(または、真鶴が千田において稲穂をくわえながら鳴く様子を見て)、伊佐波登美命にその稲穂を抜かさせて、神宮に奉献した。その後、伊佐波登美命が伊雑方(干潟?)上に当宮を造営した、とも。この他、土着の海洋信仰と結びついているとの説もある。
いずれにしても、志摩は風光明媚な上に海産物が多く採れ、稲作にも適した地であったことから、神宮や朝廷の御料を貢進する地として選ばれたと思われる。もっとも、中世には当宮の御祭神は、神職の磯部氏の祖神である伊佐波登美命と玉柱屋姫命(玉柱命)と考えられていた時期もあり、明治以降になって御祭神が天照大神の御魂と確定されるに到ったという経緯もある。
神宮と伊雑宮との間で江戸時代に展開されたいわゆる「先代旧事本紀大成経事件」は、伊雑宮こそそもそも倭媛命が最初に天照大神を奉祀した元宮であるとの説が浮上し、物議をかもした事件。しかし、これは江戸時代に捏造された『先代旧事本紀大成経』と呼ばれる偽書を基にした説であり、学術的には否定されている。伊雑宮が志摩國一宮とされているが、志摩國一宮は鳥羽市安楽島町の伊射波神社であるとの異説もある。
【撤饌】
・御饌米、塩、干鯣烏賊、干昆布(1包)
・干鯣烏賊
出雲大社
【御鎮座】 島根縣出雲市大社町杵築東195
【御祭神】 大國主大神
【社格】 式内名神大社、旧官幣大社、出雲國一宮、勅祭社、別表神社
【御神紋/社紋】 二重亀甲に劔花菱
【御由緒】
創建は神代とされる。正式呼称は「いずもおおやしろ」。『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)に、創建の由来が明記されている。天孫降臨より以前、出雲を中心に日本を支配していた大國主神(大國主命とも)は、天照大神をはじめとする天津神々に國譲りをする。平和的談義によって行われ國譲りの際、その代償として、神々の住む宮殿と同じくらい大きく、立派な宮殿を地上に建てることを希望し、そこに隠れ住むことにすると述べる。こうして建てられた「天日隅宮」(「天之御舎」とも)が、出雲大社の前身とされる。
創建の際、天照大神の第二子・天穂日命が奉祀し、以来、天穂日命を祖とする出雲國造家(千家家)が代々、祭祀を担っている。現在の宮司は八十四代目。古くは杵築大社と称されていた。明治4年(1871)に出雲大社と改称。明治期から昭和の戦前までの旧社格制度においては、全国で唯一「大社」と名乗る神社だった。
寛文6年(1666)に長州藩主・毛利綱広が寄進した銅製鳥居の銘文には、御祭神として「素戔嗚尊」が記されていることから、一時期は大國主大神の親神である素戔嗚尊を祀っていたと考えられている。素戔嗚尊は現在、出雲大社本殿の背後に祀られている。平成20年から5年間かけて、國宝の本殿の遷宮が行われる。
【撤饌】
・御饌米、1包。
・御神紋の二重亀甲に劔花菱をあしらった白雪糕、紅白各ひとつ。
伊勢山皇大神宮
【御鎮座】 神奈川縣横浜市西区宮崎町64
【御祭神】 天照大御神
【社格】 旧縣社、別表神社
【御神紋/社紋】 桜
【御由緒】
明治3年(1870)の創建。元々、戸部村海岸伊勢の森の山上に鎮座したが、明治4年(1871)現在地(旧野毛山)に遷座。安政6年(1859)に開港されて以来、國家の主要貿易港となった横浜港を眼下に見下ろす野毛山の地に、國家の鎮護を祈る目的で創建された。外来文化の影響を強く受けやすい当地であったため、なおのこと日本の精神的拠り所が必要と考えられたための創建および遷座であったといわれる。同様に、長崎、神戸といった貿易港のある街にも同様の神宮遥拝所が設けられている。その際、皇祖・伊勢神宮を勧請したことにより、地名も野毛山から伊勢山に変えられた。
元宮司一族によるホテル経営の破綻の影響で、神社本庁に属する神社としては初めて破産をした神社としても知られる。現在は別表神社として運営されている。
御紋は、鎮座地の伊勢山が桜の名所であることに由来する。桜は鎮座以降、市民の憩いの場とすべく縣などによって植えられた。
【撤饌】
・御神酒「清酒 盛升」(厚木市七沢・黄金井酒造製)、180ml入1瓶
・干し若芽、20g入1袋
・「横濱金平糖」(横浜市中区・佐野屋本店販売)、180g入1袋
石上神宮
【御鎮座】 奈良縣天理市布留町384
【御祭神】 布都御魂大神
【社格】 式内名神大社、二十二社、旧官幣大社、別表神社
【御神紋/社紋】 上がり藤、十六八重菊
【御由緒】
「いそのかみじんぐう」と読む。御祭神の布都御魂大神は、御神体である「布都御魂剣」に宿る御神霊である。社伝によると、布都御魂剣(平国之剣とも)は、武甕槌神(鹿島神宮の御祭神。建布都神、豊布都神とも)と経津主神(香取神宮の御祭神。斎主神、伊波比主神とも。『出雲国風土記』では布都怒志命)の2柱による葦原中国(日本)平定の際に用いられ、『古事記』(712)、『日本書紀』(720)に記されている初代神武天皇の東征の際、熊野で天皇が危機に面した時に授かった天剣とされる。その後、物部氏の祖宇・摩志麻治命によって宮中で祀られていたが、第十代崇神天皇の御代7年(紀元前90)、天皇が物部伊香雄命に命じて十種神宝と併せて石上邑布留の高庭(現在地)に奉祀し、「石上大神」として祀った。これが、当社創建の由来といわれる。同市に鎮座する大和神社とほぼ同じ頃といえる。
『古事記』『日本書紀』には「石上神宮」「石上振神宮」と記されている。この他、「石上坐布都御魂神社」「石上布都大神社」「石上神社」「石上社」「布留社」「岩上大明神」「布留大明神」などとも称され、幕末~明治にかけては「いわがみさん」と親しみを込めて呼ばれていた。『日本書紀』に記述の見られる神宮は、伊勢神宮と石上神宮のみ。伊勢神宮の古名「磯宮」と石上(いそのかみ)に、音韻的共通点が注目される。ちなみに、経津主神(ふつぬしのかみ)の「フツ」は、刀剣で物がぷっつりと断ち切られる様を表わす擬音語で、刀剣の威力を神格化したものという。経津主神の御神霊の剣が布都御魂であるとする史料もある。
また、素盞嗚命が八岐大蛇退治に用いた天羽羽斬剣(天十握剣、草薙剣とも)もここに祀られたという(草薙剣は、日本武尊の東征後、各地を経て現在は熱田神宮の御神体となっている)。現在では、摂社の出雲建雄神社(延喜式内社。拝殿は国宝)が草薙剣の御神霊して奉斎している。
上記由来とは別に、当社は元々、布留川の水神を祀る神社であったともいわれている。当社の祭祀をしていた物部氏は古代軍事氏族であることなどから、当社が大和政権の武器庫でもあったといわれている。
大正2年(1913)まで、当社に本殿はなく、拝殿奥の禁足地に磐座があり、神籬を立てて祀っていた。本殿がなかったため、拝殿が神殿と同格の扱いをされてきた。この拝殿は鎌倉時代(1185~1333)に建てられたもので、国宝に指定されている。現在も禁足地には剣先状の石瑞垣で囲まれている。
明治7年(1874)の禁足地発掘、同11年(1878)の幣殿新築、大正2年の本殿築造の際、4世紀頃の玉や武具、藤原時代(894~1285)の鏡などが大量に出土。一括して、重要文化財に指定されている。秘宝の「七支刀」は国宝に指定されている。「六叉の鉾」として当社に伝えられてきた鉄剣で、祭祀的象徴として用いられたと考えられている。『日本書紀』に見られる、4世紀に百済から倭に贈られた「七枝刀」と同一のものか、論議を呼んでいる。
【撤饌】
・御饌米、1包。
・御神紋の「上がり藤」を打ち出した落雁、紅白各1個。
厳嶋神社(千葉市中央区)
【御鎮座】 千葉縣千葉市中央区弁天3-1-1
【御祭神】 市杵嶋姫命
【社格】 無格社(一般神社)
【御神紋/社紋】 向い波に三つ鱗
【御由緒】 江戸時代、この辺りにあった綿打池の地籍を巡って、寒川村と作草部村の間で諍いが起こったため、藩士による実地検分が行われることになった。そこで、寒川村の綿屋太郎兵衛は、検分の前夜、池の畔にあった弁天様の碑石を寒川寄りに密かに移し置き、この池が寒川村に属する証であると称した、という昔話が伝わっている。その後、明治以降、池の畔にあった弁天碑石に祠を作り、祭祀を行ったといわれる。現在の御祭神は市杵嶋姫命となっているが、これは、仏教の守護神とされた弁財天は宗像三女神と同一視されることがあるため、明治以降の神仏分離以降は、市杵嶋姫命を御祭神と定めたものと思われる。現在は区内の寒川神社の管理下にあり、留守居役が常駐している。
【撤饌】
・サラダ煎餅、海老サラダ煎餅
稲毛神社
【御鎮座】 神奈川縣川崎市川崎区宮本町7-7
【御祭神】 武甕槌神
【社格】 旧郷社、別表神社
【御神紋/社紋】 日月玉剣
【御由緒】
大和朝廷の東国遠征が盛んだった頃、朝廷の戦勝祈願のための社として建てられたと伝えられる(創建年は不詳)。第十二代景行天皇が東国巡遊の際、当社に賊難を避けられたといわれ、第二十九代欽明天皇の御代以来、長く勅願所でもあったともいわれる。
当初は御祭神の御名から「武甕槌宮」と称していたが、平安末期にこの地を治めていた河崎冠者基家が山王権現を勧請してからは、「河崎山王社」などと称されるようになった。しかし、山王権現の称号が仏習合思想によるものであることから、明治維新に際し、神仏分離をはかって、鎮座地・武蔵国稲毛庄に因んで「川崎大神稲毛神社」と改称。明治中期に「稲毛神社」の社名が定まった。
【撤饌】
・瓦煎餅 「和勝煎餅」』(川崎市・東照製)、5枚入。御神徳の「和」と「勝」に因む。別名「勝ち虫」とも呼ばれる蜻蛉の模様の焼印が押してある。
・「銀杏飴」(川崎市・東照製)、7個入り。御神木の大銀杏の実を模した飴。銀杏の葉のエキスが入っているためか、ほろ苦い。
・雑穀米「十五穀の恵み」(販売元:川崎市・小林酒店)、押麦、黒米、もち麦、赤米、緑米、はと麦、もちきび、発芽玄米、黒ごま、たかきび、丸麦、もち白米、もち玄米、もちあわ、ひえの十五穀入り。
石清水八幡宮
【御鎮座】 京都府八幡市八幡高坊30
【御祭神】 応神天皇(誉田別尊)、比咩大神(多紀理毘賣命、市寸島姫命、多岐津比賣命)、神功皇后(息長帯比賣命)
【社格】 旧官幣大社、二十二社、勅祭社、別表神社
【御神紋/社紋】 橘、三つ巴
【御由緒】
木津川、宇治川、桂川が合流し、淀川となる三川合流の地、八幡。当社は、京都と大阪とを結ぶ古くからの交通の要衝であるこの地を見下ろす男山山頂に鎮座する。この地は、平安京(京都)の南西の表鬼門であるといわれる。
清和天皇の御代の貞観元年(859)、南都大安寺の僧・行教律師が、豊前國の宇佐宮(現・宇佐八幡宮)に参籠、祈祷していると、宇佐の八幡神が「吾れ都近き男山の峯に移座して國家を鎮護せん」という御神託を授かった。そこで、三川合流の北岸(現・京都府乙訓郡大山崎町)に八幡神を祀った。その後、朝廷より宣旨を受けた橘良基が、三川合流の南岸の男山山頂に六宇の社殿を建立し、翌貞観2年(860)に神璽を奉安して祀った。創建当時は、平安京が始まって60年ほどを経た頃で、都としての体裁がほぼ整うと同時に、世情が乱れ始めた時期であった。疫病の流行などもあり、神仏への祈願は必須であった。当社の創建には、そういった時代背景があったもとと思われる。
八幡神は元々、宇佐の地に顕現し、奈良の平城京に大仏が造られることになると、大仏建立を助けるために宇佐から飛来して平城京に鎮座(現・手向山八幡宮)。更に、平安京ができた後に、都鎮護のために京の西南の八幡に飛来したといわれる。
創建以前から、男山は清水の湧く聖地とされており、石清水山寺があった。男山信仰の始まった地として、現在も境内に清水の湧く井戸があり、摂社の石清水社が建てられている。
早くから皇室の崇敬が厚く、天皇や皇族の行幸、参拝は240回を越える。現在も、幣帛を賜る勅祭社の中でも、春日大社、上下賀茂社と並んで特に格式の高い三勅祭社のうちの一社である。
しかし、『延喜式』「神名帳」には記載がない。これには諸説があり、『石清水文書』には、魚味の神饌を供さない社は「神名帳」に掲載しないとされている。また、当社が伊勢の神宮に次いで格式が高く、皇室、國家にとっての“第二の宗廟”であるため、ともいわれる。
八幡神は源氏の氏神といわれ、平安末期から鎌倉時代にかけて源氏をはじめ武士によって篤く崇敬され、武家による勧請で各地に八幡信仰が広まっていった。そのきっかけとなったのが、八幡太郎義家の当社での元服といわれる。源氏は元々、清和天皇から出た皇族出身で、武士となってからは、皇室の宗廟である伊勢を氏神にすることができないため、第二の宗廟といわれた当社を氏神としていた。武士の頭領(征夷大将軍)になるには源氏でなければならず、源氏たるもの、八幡神を信仰した。
明治初年、神仏分離によってそれまで境内にあった寺の施設は取り払われ、当社は官弊大社に列せられた。その際、男山八幡宮と改称。しかし、大正7年には旧来の「石清水」の名を復活させ、「石清水八幡宮」と改称、現在に至る。
【撤饌】
・御供米、1袋
・御神酒(橘酒)「橘」(城陽市奈島久保野・城陽酒造製)、180ml入り1瓶
・御神水(熊本縣・丸富産業製)、300ml入り1本
・御神塩(京都市下京区・京都中央物産販売)、20g入り1袋
・厄除餅、2個入り1箱
・御紋菓(八幡市八幡・前川堂老舗製)、橘(緑)3枚、三つ巴(小豆)3枚入り1箱
・乾燥ゆば(滋賀縣大津市・比叡ゆば本舗ゆば八製)、8個入り1袋
・葛粉(兵庫縣西宮市・栃ぎ屋販売)、50g入り1袋
・「やましろ煮(筍煮)」(八幡市八幡・中利缶詰製)、70g入り1袋
・「御神酒の酒かす飴」(京都市伏見区・キンシ正宗製)、80g入り1袋
・供花神饌落雁(相楽郡精華町・丹波屋善章製)、1月:竹・山茶花、2月:梅・福寿草、3月:菊・秋海堂、4月:南天・寒菊、5月:椿・根笹、6月:水仙・藪こうじ、7月:松・藤、8月:牡丹・石竹、9月:橘・せうび(ばら)、10月:桜・山吹、11月:杜若・河骨、12月:紅葉・菊(毎月2種3個入り1箱)
石坐神社
【御鎮座】 滋賀縣大津市大津市西の庄15-16
【御祭神】 八大龍王宮…豊玉比古神(海津見神)、彦坐王命
正霊天王宮…天智天皇(天命開別尊)、大友皇子(弘文天皇)、伊賀宅子媛命
【社格】 式内社、旧村社
【御神紋/社紋】 左三つ巴、菊、立ち葵
【御由緒】
創建年は定かではないが、社伝によると、天智天皇の御世に、近江の初代國造であった治田連が、その四代前の彦坐王命を茶臼山に葬り、背後の御霊殿山(御竜燈山)を御神体山として祀ったことに始まると伝えられる。彦坐王命の墓は、茶臼山古墳と称されている。山頂には巨大な磐座がある。
また、天智天皇8年に旱魃があった時、夜毎に琵琶湖から御霊殿山に向かって竜燈が飛んでいくことが朝廷に伝わったため、朝廷より勅使が遣わされた。竜燈は勅使の前で小童に姿を変え、自分は海津見神の幸魂である、御霊殿山に祀れば旱魃を除こう、との御神託があったという。そこで、勅命により御霊殿山に海津見神が祀られた。この幸魂は彦坐王命の御魂であるとされているため、御祭神の八大竜王(豊玉比古神、海津見神)と彦坐王命は同一神ということになり、彦坐王命が荒魂ということか。いずれにしても、これが水を司る八大龍王宮とも称される所以。
後の持統天皇の御世に、壬申の乱で敗れた近江朝側の御神霊である天智天皇、大友皇子、皇子の母・伊賀宅子媛を弔う一乗院滋賀寺の僧・尊良法師が御霊殿山の麓の王林(後に石坐野、更に石神町)に祠を建てて、近江朝の三柱と八大竜王を合祀して密かに祀ったと伝えられる。この頃から、石坐神社と称した。石坐(イワイ)は、「イハイノ」「イハクラ」とも読まれ、茶臼山山頂の磐座とも相まって、磐座信仰の場であったことが窺える。茶臼山古墳の南方200メートルに築かれた小茶臼山古墳は大友皇子の陵墓と伝えられるが、考古学的には茶臼山古墳の陪塚との見解。
現在地には文永3年(1266)に遷座。
明治になって高木神社と改称。高い木の下にあったためというが、御神木の楠の巨木のことか。大正6年には旧号の石坐神社に復した。
平安時代から鎌倉時代にかけて造られた四柱の御神像が安置されている(重文)。
御紋は左三つ巴だが、天皇を祀ることから菊、膳所藩内であることから藩主本多家の立ち葵紋も瓦などに使用されている。
【撤饌】
・御供米、1包
HOME
















































