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撤饌 頁一

【あ】

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蒼柴神社

御鎮座: 新潟縣長岡市悠久町707
御祭神: 牧野忠辰命、八意事代主神
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 丸に三つ柏
御由緒:
 牧野家中興の祖と仰がれた長岡藩三代藩主・牧野忠辰公を祀る。人望篤く、学識、功績も高かった先代の志を継がんと欲した嗣子にして四代藩主・忠寿が、享保7年(1722)に長岡城本丸(現・長岡駅)で忠辰公の御神霊を祀ったことが当社の始まり。忠辰公が崇敬した八意事代主神(事代主命とも)にまつわる蒼柴垣神事(島根縣美保神社の神事。出雲神話に由来)に因み、京都の吉田神祇管領家より「蒼柴霊神」の神号が贈られた。
 その後、明和6年(1769)、九代藩主・忠精が、忠辰公ゆかりの植林地(現・悠久山公園)が神域として相応しいとし、日光東照宮に模した社殿を造営することを発願(天明元/1781年に竣成)。この時、吉田神祇管領家より改めて「蒼柴大明神」の神号が贈られた。
 御神紋は、牧野氏の家紋「丸に三つ柏」。
撤饌:
・御神紋の丸に三つ柏を模った白雪糕(長岡市・紅屋重正製)、紅白各1個。

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赤城神社(東京牛込神楽坂)

御鎮座: 東京都新宿区赤城元町1-10
御祭神: 岩筒雄命
社格: 旧郷社 (牛込総鎮守)
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒:
 創建は正安2年(1300)、後伏見天皇の御宇。現在の群馬県赤城山麓を拠点とした豪族・大胡彦太郎重治が牛込に移り住んだ際、故郷の鎮守・赤城神社の御分霊を祀ったことが始まりと伝えられる。当初、社は牛込早稲田の田島村(現・早稲田鶴巻町)に建てられたが、当時江戸を治めていた太田道潅の命で、寛正元年(1460)に牛込台(現・牛込見付附近)に遷され、更に弘治元年(1555)には大胡氏の後裔である牛込氏の大胡宮内少輔が現在地に遷した。
 江戸時代には、「日枝神社」「神田明神」と併せて「江戸の三社」と称され、牛込の総鎮守として崇められていた。
撤饌:
・社紋の三つ巴を模った白雪糕(紅白各1個)。

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秋葉神社

御鎮座: 静岡縣浜松市天竜区春野町領家84
御祭神: 火之迦具土大神
社格: 旧縣社、別表神社
御神紋/社紋: 七葉紅葉
御由緒:
正式社号は秋葉山本宮秋葉神社。「あきは」と発音する。創建年は詳らかになっていないが、大宝元年(701)に行基が寺として創建したとの伝承がある。社号に関しても、大同年間(806~810)に嵯峨天皇から賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったところから、秋葉寺と称されるようになったなど、複数の説があるが、定説はない。
平安時代初期に信濃國戸隠の修験者・三尺坊が訪れ、秋葉山を本山として以来、修験道の聖地となる。明治に至るまで、神・仏・修験混淆であり、総合的に「秋葉大権現」「秋葉山」などと呼ばれていた。また、霊雲院、岐陛保神ノ社などと称されていた時代もあった。
しかし、明治元年に神仏判然令が発布され、更には明治5年に修験宗の廃止が命ぜられると、秋葉山の三尺坊大権現は萬松山可睡斎に遷され、秋葉寺も廃寺となった(明治13年に地元民の要望により再建)。
この時、秋葉社も廃社とされたが、翌明治6年、地元民の強い要望により、祭神を火之迦具土大神とする秋葉神社として再出発することになった。
現在の秋葉神社は、山頂の上社と山麓下社からなる。
撤饌:
・御神紋型の紅白ビニールがけ砂糖
・甘酒

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安久美神戸神明社

御鎮座: 愛知縣豊橋市八町通3-17
御祭神: 天照皇大神
社格: 旧縣社
御神紋/社紋: 三つ巴
御由緒:
 別名を豊橋神明社、俗に安久美神社とも称される。朱雀天皇の御代の天慶2年(939)、関東において平将門が乱を起こすと、朝廷は伊勢神宮に関東平定を祈願。すると、翌天慶3年(940)には乱は鎮圧されたため、御礼として朝廷は三河國渥美郡の安久美荘(飽海、現・豊橋市)を伊勢神宮に神領として寄進した。そのため、安久美の地は安久美神戸(神戸=神領)となり、その際に伊勢神宮祭主の大中臣頼基の庶流・大中臣基守がこの地に社を造営した。これが安久美神戸神明社の創建とされる。ただし、明治30年(1897)の記録には安久美神戸神明社とは記されておらず、村社の神明社で、神戸としての記述もどこにも見られないことから、伊勢神宮の荘園だったとする根拠は不明ともいわれる。
 平安時代から続く鬼祭(2月11日)は國指定重要無形民俗文化財に指定されている奇祭で、徳川家康も見物したと伝えられている。
撤饌:
・社紋の三つ巴を模った大振りな白雪糕(紅白各1個、豊橋市・絹一製)。

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愛宕神社(港区)

【御鎮座】 東京都港区愛宕1-5-3
【御祭神】 火産霊命
【社格】 旧村社
【御神紋/社紋】 三つ葉葵
【御由緒】
 慶長8年(1603)に江戸幕府初代将軍徳川家康の命により、江戸の防火の神として祀られたことに始まる。都会の中にありながら、天然の山である愛宕山頂に鎮座する。標高26メートルほどの小山ではあるが、江戸にあっては高い山で、江戸時代から見晴らしのいい場所として知られていた。
 当社に上がる急勾配の石段は「出世の石段」と呼び親しまれている。寛永11年(1634)、三代将軍家光が、将軍家菩提寺の増上寺に参詣した帰路、愛宕神社下を通りかかった。時節柄、愛宕山には美しい梅の花が咲いていたため、家光はその梅の花を所望。しかし、石段は非常に急勾配。家臣はみな気後れし、上がろうとする者がいなかった。家光の機嫌が徐々に悪くなっていき、そろそろ雷が落ちるという頃。にわかに石段を馬で上り始めた者がいた。家臣に尋ねたところ、その者は四國丸亀藩の家臣・曲垣平九郎であるという。平九郎は石段を登り詰めて梅の枝を折り、馬上のまま石段を降りて家光に献上した。家光が「泰平の世にあって馬術の稽古を怠らないその姿勢は誠にあっぱれである。日本一の馬術の名人」と賞賛したことから、平九郎の名は広く知れ渡った、と伝えられている。
 万延元年(1860)の「桜田門外の変」で、水戸藩士たちが当社境内に集合した後、大老・井伊直弼を襲ったことでも知られる。
【撤饌】
・御塩、1包
・「お茶づけ海苔」(港区西新橋・永谷園製)、6g×4袋入り2パック

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熱田神宮

御鎮座: 愛知縣名古屋市熱田区神宮1-1-1
御祭神: 熱田大神(天叢雲剣)
社格: 式内名神大社、旧官幣大社、尾張國三宮、勅祭社、別表神社
御神紋/社紋: 桐竹
御由緒:
 皇室の三種の神器のひとつで、天皇の持つ武力の象徴である「天叢雲剣」(草薙剣、都牟刈の大刀、八重垣剣とも)を御神体とする。天叢雲剣は、天照大神の弟神・須佐之男命が出雲國で八岐大蛇を倒した際、大蛇の尾から出てきた太刀。須佐之男命は剣を天照大神に献じ、天照大神は天孫降臨において瓊瓊杵尊にこの剣を託した。剣は当初、伊勢神宮に祀られていたが、第十二代景行天皇の御代に、東征に向う天皇の御子・日本武尊に渡される。日本武尊は東征の帰路、尾張國で出会った宮簀媛と結ばれるが、その後、伊吹山の悪神成敗に失敗し、命を落とす。剣を手元に残された宮簀媛は、熱田に社を建て、剣を祀った。熱田の地はこの当時、既に土着の信仰の場であったと考えられている。
 三種の神器のひとつを祀ることから、伊勢神宮に次ぐ格の高い大社である。ただし、尾張の國府から離れた地に鎮座することから、尾張國一宮にはならず、三宮となっている。
 御祭神の熱田大神は御神体である天叢雲剣の神霊とされている。天叢雲剣が日本武尊と深い関わりを持つため、一説には熱田大神は即ち日本武尊であるともいわれているが、明治以降の公式見解では、熱田大神は天照大神と同一神であるとされている。
撤饌:
・御神紋の桐竹を打ち出した小粒の和三盆糖(熱田区・きよめ餅総本家製)紅白各3つ。

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粟田神社

御鎮座: 京都府京都市東山区粟田口鍛冶町1
御祭神: 建速素戔鳴尊(牛頭天皇)、大己貴命
社格: 旧村社
御神紋/社紋: 五葉木瓜、三つ巴、十六八重菊
御由緒:
 平安時代(794~1185)、清和天皇(在位:858~876)の御宇の貞観18年(876)に、祭祀を司る神祇官と、占いや天文、暦などを編纂する陰陽寮が、「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上したところ、天皇より勅命を賜り、全國諸神に國家と民の安全が祈願された。その一環として、勅使として感神院祇園社(現・八坂神社)にて七日七晩の祈祷をした従五位上出羽守藤原興世は、満願の夜、ひとりの老翁の夢を見た。老翁曰く、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず國家と民は安全なり」と。不思議に思った興世が、老翁にどなたであるか尋ねると、老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王に縁ある地である。其処に我を祀れ」と答えてかき消えたという。興世はこれを神意として天皇に奏上し、勅命を得て直ちに「大己貴神」が定めた地に社を建ててその御魂を祀った。これが当社の起源という。
 大己貴神の御神託からも、当社の創建以前に既にこの地には牛頭天王が祀られていたと考えられる。その後、承安2年(1172)には、時の高倉天皇(在位:1168~1180)が感神院祇園社に神輿3基を奉納した際、以前からあった神輿に素戔鳴尊と奇稲田比賣命の御神霊を安置し、当社に遷座した。これにより、御本殿は三座となった、と伝えられている。ただし、現在は神殿内の中央に主祭神である建速素戔鳴尊と大己貴命を祀り、左座には八大王子(八嶋士奴美神、五十猛神、大屋彦神、大屋媛神、抓津媛神、須勢理媛神、大歳神、宇迦之御魂神)を、右座には奇稲田比賣命、神大市比賣命、佐須良比賣命を祀っている。
 上記のような感神院祇園社との縁により、旧社号を感神院新宮とも称した。または、粟田八大王子社、粟田天王宮とも。明治(1868~1912)になり粟田神社と改称し、現在に至る。
 大己貴神の御神託説とは別に、第五代孝昭天皇(在位:紀元前475~ 紀元前393)の皇子・天足彦國押人命を祖とする粟田氏が、当地を治めていた頃、粟田氏の氏神として当社が創建されたともいわれている。古くは当地は山城國愛宕郡粟田郷と呼ばれていた。粟田氏は後に、熱田神宮(愛知縣名古屋市)が創建されると、社家として熱田に移転している。
 京都の七つの出入口である「京の七口」のひとつ「粟田口」に鎮座。東海道/中山道などから通じる京の東の重要な入口であった粟田口は、三条大橋が近いことから「三条口」、近江大津に通じることから「大津口」とも称された。街道を行き来する旅人の旅立ちの守護神として崇敬された。
撤饌:
・御紋を打ち出した餡入り白雪糕、紅白各ひとつ
・御紋を打ち出した白雪糕、紅白各ひとつ